唐突に、僕はあの土蔵が怪しいと思った。
唐突に、僕はあの土蔵が怪しいと思った。
綸は家の中のどこを覗いても言いといったが、土蔵の中だけは入ってはいけないと僕に約束させた。それは、そこに姉を隠しているからではないのかと僕は考えたのだ。昨日も、僕が柚子を土蔵の近くで見たと言ったとき「中に入らなかったか」と疑り深く聞いてきた。
怪しい。
怪しすぎる。
あの土蔵には何か秘密が、姉をあそこに匿っているのかもしれない。
そう考え至ると、僕は矢も楯もたまらず、部屋を飛び出し土蔵へと急いだ。
人気にない屋敷の中で、土蔵へ近づくことは容易かった。土蔵は黒板壁と漆喰の二層になっていて、扉は大きな観音開きだ。屋根近くに小さな窓が見えるが、格子が嵌っていた。扉に鍵は見あたらずそっと押せばあっさり後ろに下がった。僕は一度辺りを見回して、薄く開けた扉の隙間から中へ忍び込んだ。
中は僕が想像していたよりも明るかった。壁にオレンジの明かりを灯した吊り灯籠がぶら下がっている。ゆらゆらと揺らめく灯りの中で、僕は想像だにしていなかった光景を目にした。
ひゅっと吸い込んだ息が、喉を鳴らす。心臓が凍り付き鼓動を止め、僕はそこに立ちつくしていた。
土蔵は広く大きかった。両の壁沿いにいくつも仕切分けられた座敷牢が続いている。その牢一つ一つに、人が閉じこめられているのだ。
僕は体中に震えが走るのがわかった。
入口近くの牢には、幼い少女が入っていた。座敷はどれも広く小綺麗で、文机や燭台、鏡台、厨子などの細々した調度品が一緒に納められている。きちんと人が生活できる空間に仕上がってはいるが、それでも木格子の編み込まれた部屋は、冷酷で陰惨だ。
少女は部屋の中央に座り込んで人形遊びをしていた。僕が入ってきたことに気づきもしない。一心に人形の髪を研ぎながら、楽しそうに笑っている。
僕はどう対処して良いのかわからず、少女の牢の前で足が動かなくなっていた。
と、そのとき反対側の牢から歌声が聞こえてきた。見ると、二十歳をいくらか過ぎた若い女が、同じようなタイプの牢の中で寝そべって歌を歌っている。縮緬地に紅型小紋の着物を着ている。薄暗い闇の中で着物に染められた蝶や花の絵がまるで本物みたいに揺れて見えた。女は、膝まで裾が捲れ上がるのも気にせず足を折り曲げ、左右に振りながら、まるで歌の拍子を取るように動かしていた。小さな唇から、聞き慣れぬ古い歌が紡がれる。
「あの……」
僕は女へと声を掛けた。しかし、彼女は自分だけの世界へ沈んでいるのか、こちらを向くこともない。
牢は奥の方まで続いていた。空室の牢もあったが、大半は人が入っていた。そのほとんどが若い娘だったが、あどけない少年もいた。
僕の足は始終震えて、何度か何もない床に躓いて転びそうになった。慌て得て牢格子にしがみついたせいで、がたんと大きな音が土蔵中に響いたが、誰も見向きもしなかった。みんなとろんとした目で、自分の世界へ閉じこもってしまっている。誰もここから出してくれとはいわなかった。
もはや僕は急く思いで、ひとつひとつの牢を覗き込みながら奥へと進んだ。
彼女は、一番最奥の、一番広い牢の中にいた。こちらには背を向け、鏡を覗き込んでいる。鏡面に映り込んだ顔を見て、僕はすぐにそれが姉だとわかった。
近づいてくる足音で、彼女はすぐに振り向いた。どうやら、彼女はだけは外界と繋がっているらしい。立っている僕を見付け、驚いた顔をして「榛名」とその唇が動くのを見た。僕は確信した。やっぱり姉だ。この人は、僕の姉だ。何らかの理由で綸に閉じこめられていたのだ。そして、自殺したふりをしていた。そうに違いない。
「姉さん」
僕は縋るように格子に指をかけた。彼女は狼狽えて、何かを捜すかのように辺りを無意味に見渡した。しかし、闇の奥にあるのはとろりとした目で一人遊びを楽しんでいる囚人ばかりだ。彼女たちはちらともこちらを向いたりはしない。ついには諦めたようにぱたんと鏡の蓋を閉じ、姉は僕に向き直った。
「どうして、あんたがここにいるの?」
「それは僕のセリフだ。姉さんこそ、何をしてるんだよ?」
彼女が姉だと思ったとたん、僕は泣きたい気持ちにさせられた。だけど、それを必死で押し殺したせいで変に怒った声になってしまっていた。
彼女は僕が不機嫌だと思ったのか、上目遣いに窺うような顔をした。
「姉さんって誰よ? あたし知らないわ」
「嘘をつくなよ! 絶対に姉さんだよ。ねぇ、柚香姉さん! 僕だよ、榛名だよ。どうして姉さんがこんなところにいるんだよ。僕がどれだけ、どれだけ哀しんだと思ってるの? 姉さんが死んだって聞かされて、僕の哀しみがどれほど深かったか、あなたにはわからないんだ!」
僕は大声で叫んだ。声は土蔵の中で幾重にもこだました。姉は押し黙って、僕を見た。黒い瞳がおどおどと頼りなく揺れている。
「ねぇ、姉さん。姉さんだよね? 僕の大事な大事な大好きな姉さんだよね?」
格子に身を張り付け、僕は姉の顔を食い入るように見た。姉は僕を見つめ返した。
「ねぇ、僕の事嫌いになったの? だからこんなことをするの?」
必死で訴えた。
僕は誰よりも姉が好きだった。大切だった。姉のためなら何を失っても哀しくないし誰を傷付けても後悔しないし、僕自身の体をもがれても痛くはないだろう。その姉を失ったとき、しかもあんな衝撃的で醜い死に方で失ってしまったときから、僕は自分の中で何かが壊れ消えてゆくのを感じた。それは生きていく上で何よりも大切な拠り所だった。僕にとって、それが姉だったのだ。
美しく賢く、残酷な姉が誰よりも好きだったのだ。
「榛名……」
小さく掠れるような声で、ついに姉が僕の名を呼んだ。ハッとして顔を上げる。姉は弱々しい笑みを浮かべ、僕と同じように格子に指を絡めた。僕の手と姉の手が触れ合う。姉の手は水に浸したばかりのように冷たくひやりとしていた。
綸は僕が姉の幽霊に会ったのだと言ったが、触れた感触も耳に聞こえる声も目に見える表情もすべて本物だった。幽霊なんかじゃない。生きている。確かに、姉は生きている。
「姉さん!」
とうとう僕の声に嗚咽が混じった。姉は苦笑し「泣き虫ね」と言った。
こつんと姉の額が、僕の手に触れた。
「ごめんね。ごめんね、榛名」
「綸のせいなんだね? 綸が姉さんを閉じこめてるんだね? こんな、酷い。たくさんの人を閉じこめて、あいつ絶対に変質者だ!」
僕が憤慨して言ったが、姉は何も言わず僕を見つめた。黒い瞳が潤んで濡れている。僕は怒りが急速に治まり、ドギマギした。
「ね、姉さん?」
「会いたかったわ」
姉の顔が近づいてくるのを感じて、僕は反射的に瞳を閉じた。キスは一瞬だった。すぐにぱっと離れてしまった感触に、僕はとても残念に思った。格子が邪魔で抱きしめることも引き寄せることもできないのだ。