それから数日間はあっというまに過ぎた
それから数日間はあっというまに過ぎた。
僕は一度も家に帰らず、久々宮邸で世話になっている。毎日朝が来ると、今日こそは帰ろうと心に決めるのに、何故か姉の人形を見ているうちに時間が矢のように過ぎて、気が付けば夜が来ているのだ。そして千祇が迎えに来て「泊まっていきなさい」と唆す。とたん、僕はどうにも人形から離れがたくなって、頷いてしまうのだった。綸と千祇はたいそう優しくて、ずるずると居残る僕に嫌な顔ひとつせず、むしろ歓迎しているようでもあった。
まるで夢を見ているような感覚で時間が過ぎていった。家に帰らなくては、両親が心配している、学校だって始まっているのにと頭の片隅では絶えず気にしているのに、人形の前ではどうでもいいと思えてしまうのだった。まるで北風の一吹きでマントが弾け飛んでしまうみたいに。
その日、朝から綸は用があって家を出ていた。
僕は相変わらず人形を見るために部屋へ行こうとして、ふと途中の道で考えを変えた。初めの日に適当に家の中を散策した以外は、もうずっと人形の部屋へこもりきりだった。まるで麻薬中毒患者だと自分でも自覚がある。少しは気分を変えれば、気持ちも変わるかもしれないと、僕は今まで一度も踏み込んだことのない廊下の奥を見ながら思った。家主である綸がいないことで、はからずも開放的になっていた。
久々宮邸は、母屋を真ん中に四方を柱廊で結び広大な庭で仕切り分けた四つの棟で出来ていた。棟にはそれぞれ名前があり、光源氏の六条院を真似て北側の棟を冬、南を夏、東を春、西を秋の棟と呼んでいた。そのとき僕が始めて足を踏み込んだのは冬の棟だった。そこは綸が人形作りに使用している棟らしく、建物のすぐ側に土蔵がある。
庭にはたくさんの木が生えていて、蝉の鳴き声があちこちから聞こえる。
ぎしぎしと廊下を踏みならしながら歩き、手近な部屋を次々覗き込んで行った。
この家は大半が和室で出来ているのだが、この棟だけはどれも板敷きだった。どの部屋にも押し込まれたように人形が並んでいた。大きさも性別も種類もまちまちで、作りかけのものが放り出されたまま埃を被っているのもあった。部屋は奥に行くに連れ、乱雑になっていったが、それは放置された乱雑さではなく幾度も人が出入りするせいで整わないでいるような乱雑さだった。
一番奥の部屋が、作業場だった。部屋の真ん中に茣蓙が敷いてあり、僕には到底使い方のわからない工具が散らばっていた。隅の棚には人形の頭部だけがすらりと並び、奥の部屋の扉が薄く開いていたので覗き込めば溢れんばかりの布が敷き詰められている。たぶん、人形に着せるための服だろう。
高価な西陣織、京友禅、綸子などに混じって絹、ベルベッド、更紗まで転がっている。綸は日本人形やビスク・ドール、依頼さえあれば文楽、操り、絡繰り人形までなんでも作るのだそうだ。
しばらく僕は作業場を眺めながら、出来るだけそれらに触れることがないよう注意して過ごした。人形を作ると一言だけ聞けば、女の子の手芸の延長線上だと想像していたが、どちらかというと日曜大工のような匂いの方が強くて驚いた。
部屋を出たとき、ふと見ると庭に着物姿の女の子が屈み込んで地面を見下ろしていた。千祇ではない。千祇よりもずっと大人の女だ。古代紫の振り袖姿姿で、雲取りに四季の花が描かれている。文庫結びに締められた帯の端が、かたかたと揺れていた。
誰だろうと、僕は当然のように不思議に思った。この家には綸と千祇の二人暮らしだと聞いている。綸の客だろうか。庭で何をしているのだろう。
彼女が顔を上げた。
僕はぽかんと口を開けた。
「姉さん……?」
「なんですって?」
いや、違う。姉に似ているが、姉よりもいくらか若い。姉は僕より三つ年上で今年二十歳だったが、今目の前にいる少女は姉に良く似ていても、僕と同じ歳ぐらいに見えた。すぐに彼女が、この間僕が追いかけた子だと気付いた。
だけど、どうして彼女はここまで姉に似ているのだろう。僕はまじまじと少女を見た。目の形、唇の膨らみ、頬の輪郭まですべてが姉と同じなのだ。まるで本物の姉を魔法で若返らせたように見えた。少女は自分の顔を食い入るように見つめる僕へ、不快そうに眉を寄せて顔を逸らした。地面に這い蹲るようにして、再び何かを捜し始めた。
「な、なにをしてるの?」
僕はつっかえながら、尋ねた。彼女は顔も上げず言った。
「捜し物をしているのよ。とても大切なものをどこかに失くしてしまったの。ああ、でもちっともみつからない。どこで失くしたのか覚えていないのよ」
悔しそうに赤い唇を噛み締める。僕も庭をきょろと見回したが、何せ緑の多い庭なので捜し物を見付けるのは容易ではなさそうだった。それに、僕はもっと他のことに気を取られていた。
「ねぇ、君は何ものなの?」
どうしてそんなに姉さんに似ているのと続けようとして、
「どうしてそんな質問をするの? とてもおかしな質問だわ。見てわからない? あたしが動くたわしにでも見える?」
不機嫌そうな声が帰ってきたので、僕は慌てた。確かに失礼な質問だった。
「えっと、君の名前は?」
「……柚子よ」
「柚子……」
姉の名前と一字違いだ。これは何かの運命なのだろうか。それとも彼女は、本当に姉なのか……。だが姉は死んだ。僕はそれを見た。じゃあ、目の前にいるのは誰だ。姉じゃないか。でも姉なら僕に向かってそうだと教えてくれるはずだ。なのに彼女はまるで見知らぬ誰かに会ったかのような仕草をする。それはどうしてだろう? 僕は自分の頭が混乱しかけているのがわかった。ぐるぐるともつれた毛糸の玉のようになっている。
僕は、彼女をまじまじと見つめる。
「君は、この家に住んでいるの?」
「そうよ。あそこの土蔵でね」
彼女は石壁の土蔵を指差した。入口の扉が薄く開いているのが見えた。
「ねぇ、あなたも一緒に捜し物を見付けるの手伝って。お願いよ」
柚子は媚びる口調で僕を見上げた。僕は頷いて、すぐに庭に降りた。
「何を捜しているの?」
「指輪よ」
「え?」
「銀色の、リングなの。内側にわたしの名前が彫ってあるわ。いつも左手の薬指に嵌めていたのよ。とても大切な人からもらったのに、なくしてしまったの」
僕は立ちつくしたまま、彼女の言葉を聞いていた。そろりと、自分の左手を見る。僕は指輪を外して、彼女に差し出した。自分の手がかたかたと震えている。声だって震えていただろう。
「もしかしてその指輪は、これかい?」
柚子はきゃっと悲鳴を上げ、飛びかからんばかりの勢いで僕の指輪を掴み取った。拍子に冷たい爪先が、僕の手の皮膚を薄く引っ掻いた。大切そうに手の中に握りしめ「そう、この指輪よ!」と大きな声で言った。日の光に指輪を翳し、内側の文字を確認している。僕はそこに「柚香」とローマ字で彫られていることを知っている。しかし、彼女は躊躇いもなく指輪を左手薬指にはめて、にっこりと笑った。
「ありがとう。本当にありがとう。もう見つからないかもしれないってあきらめていたの。ああ、本当に感謝するわ」
僕はどう答えて良いのかわからなくて、頷いただけだった。それは、確かに僕が姉へとプレゼントした指輪のはずだった。