僕らはいくらかうち解けて話すことにした
綸は――――僕らはいくらかうち解けて話すことにした――――屋敷の中も庭も好きに見て回っても良いと言った。
この家で暮らしているのは彼と幼い千祇――――僕はてっきり二人は兄妹だと思っていたが、違うのだそうだ――――の二人きりなので、僕が勝手に屋敷の中をうろついていても構わないという。
「だけど、一つだけ約束をして欲しい。北の棟の側に、土蔵がある。あそこにだけは近づかないで欲しいんだ。あの中には作りかけの人形や貴重な人形がいくつもしまってあるから。それ以外なら家のどこを見ようと、どの人形に触れようと構わないよ」
酷く気安い口調で言われ、僕はますます困惑する。どうしてそこまで他人の僕を信頼するのかがわからなかった。僕が酷く手癖の悪い子だったらどうするつもりだったのか。
てっきり彼は、後を着いて回りながら僕を観察でもするのかと思えば、そうではなく綸は僕を一人きりのさせることの方が多かった。それでどうやってモデルを努めるというのか、さっぱりわからない。屋敷の中はアンティーク家具が溢れていた。どれも高価そうで、ぴかぴかに磨き上げられていた。反対に人形師の家なのに室内に飾られている人形はほとんどなかった。その事を綸に問うと彼は肩を竦めて苦笑した。「仕事で見飽きているからね」と。
昼は千祇が用意してくれた昼食を取った。季節の野菜が溢れた和食料理はたいそう美味しかったので誰が作ったのかと尋ねたら、綸はこともなげに「千祇だ」と答えた。僕は彼流の冗談だと思った。午後になって、綸が僕にひとつの部屋へと案内してくれた。飾り気のない座敷の中央に椅子が置いてある。そこにほぼ人間と同じ大きさの人形が一体腰掛けていた。遠目では、まるきり人間に見えたことだろう。僕は近づいて行って、声を失った。
「あなたにあげた人形のオリジナルだよ」
姉だった。
まさに、姉だった。
美しいままの姉が、瞳を伏せて椅子に座っている。僕は手を伸ばし掛けて、慌てて綸を振り返った。彼はにっこり笑って「大丈夫」と言った。人差し指でなぞった人形の頬は、硬く冷たかった。
「この人形の傍らに、榛名くんの人形を並べたいんだ」
人形は生きているように見えた。僕が触れる直前まで、生きていたに違いない。しかし、僕が触れたとたん姉はこちこちに固まってしまった。そんな気がしてしまうほど、それは姉に似ていたのだ。声もなく立ちつくしている僕の傍らで、綸の密やかな笑い声が聞こえた。
「好きなだけここにいるといいよ」
彼は言い残して部屋を出ていった。僕はどこかボーとした心地で、人形を見つめ続けた。
姉は、外見でこそ淑やかで百合のように気高く見えたが、気性はごうごうと燃えさかる炎のように激しい人だった。僕たちは確かに仲の良い姉弟だったし喧嘩をしたこともほとんどなかったが、その大半の理由は僕が姉を恐れていたせいもあっただろう。
まだ僕らが小さかった頃、道ばたで小さな子猫を拾ったことがあった。痩せこけ腹の皮は透き通るほどで肋が浮いていた。呼吸をするたびに、喉がゼロゼロと動く。白と黒のブチ模様の小さな小さなか弱い子猫を姉は一目で気に入った。しかし両親は、家には老いて気むずかしくなったシーズー犬がいるからと猫を飼うことを許してはくれなかったのだ。姉は泣いて頼んだが、それでもダメだった。姉は僕に猫がどれほどか弱く、自分たちが面倒を見なければきっと死んでしまうに違いないと訴えた。
次の日、犬は家から少し離れた溜め池で溺死していた。
普段はきっちり閉められているはずの庭の門が何故か開いていて、散歩のために庭に出していた犬はそこから抜け出してしまったのだ。僕と姉が緑色の水の中をぷかぷかと浮かんでいる犬を見つけた。姉は哀しそうに顔を曇らせていた。僕は確かにその横顔を見た。姉は哀しんでいるように見えた。事実酷い落ち込みぶりで、そんな姉の様子を見かねて両親は子猫を飼うことを了承したのだ。家の門が開いていたのは、きっと訪問販売などの押し売りの誰かのせいだろうということになった。
だけど、僕は知っている。
姉はあまり犬を可愛がっていなかった。始終キャンキャンと吠え家中を歩き回るたびに茶色い毛をアチコチに落としていたのを、不快そうに睨んでいた。足腰の弱くなっていた犬が、一人で五百メートルも放れた溜め池に行くとは思えなかった。散歩さえも行けるような体ではなく、仕方ないので庭を歩き回らせていたのだ。家の回りを一周するだけで、犬は疲れてぜいぜいと赤い舌を出した。例え門が開いていたとしても、犬が一人で外へ出ていくとは僕にはとうてい思えない。もしかすれば両親は姉の可能性を考えなかったわけではないだろう。しかし、姉の哀しみぶりが深かったので、その考えを否定してしまった。それ以前に姉は思慮深く大人びて落ち着いた子どもだったから、子猫を飼いたいが為に犬を殺すような残酷なことをしそうには見えなかったのだろう。だけど、現実犬が死んだ数日後には猫がやってきた。
僕は姉が心底嬉しそうに猫を抱いていたのを覚えている。犬が死んで二日後だった。姉の哀しみは子猫が来たことで消し飛んでしまった。
いや、違う。
彼女は最初から哀しみなんて感じていなかったに違いない。細く華奢な腕で子猫を抱き上げながら、その腕で老いた犬を池へと投げ捨てた。今でも、僕は犬を殺したのを姉だと思っている。彼女は本当に欲しいもののためなら魔女にだってなれる人だ。
その子猫も、一ヶ月もしないうちに死んでしまった。悪戯を叱った姉の手に噛み付き、大きな引っ掻き傷を作ってしまったのだ。子猫は三日後に草殺しの毒を誤って食べて死んでいるのを、三件隣の空き地で見つけられた。姉はきっと近所に住む猫嫌いの老人の仕業だと泣いて責めたが、僕はそれが姉の仕業だということをはっきりと知っていた。子猫が飲んだのは草殺しの毒じゃなく、母が台所に蒔いていたネズミ退治用の毒団子だ。まだ家で犬を飼っていた頃に使っていた――――犬は台所へ入ることを禁じられていたから。だけど子猫は平気であちこち歩き回るので、母がそれを蒔くのを止め、流しの上の棚に隠して置いたはずだ。僕は夜中こっそりと姉がその団子を取りだしているのを覗き見てしまっていた。子猫の好物のバターを塗って、彼女はそれを小さな小さな猫に食べさせたのだろう。
彼女は最初はどんなに可愛がっていても、自分を裏切ったものには一切容赦をしなかった。
あの時姉は泣いて子猫に取りすがった。だけど、ふと僕と目が合うと、驚くほど綺麗な顔で彼女は笑ったのだ。
僕は人形を見る。ここにいる姉は、微かな綻びを口元に浮かべている。穏やかで優しい笑みだったが、覗き込んだ瞳の奥にはめらめらと燃える炎の明かりがちらちらと踊っているのが見えた。綸はほぼ正確に姉の性質を読み取っているのだと、僕は思った。僕以外の人の前で決して晒されることのない、完璧に隠し尽くされていた姉の本質を、彼は見抜いた。その事実は僕に少なからず衝撃を与え、嫉妬心を植え付けた。姉は綸の前で僕にしたのと同じ事をして見せたのだろうか。艶やかに笑い、媚びを含んだ眼差しで見つめたのだろうか。
ぼすんぼすんと、何かを叩く音がした。振り向くと、障子を小さな手で叩いている千祇の姿があった。
「お邪魔してごめんなさいませね」
「あ、いえ」
「お夕飯にお呼び致しましたの」
「夕飯?」
僕はすっとんきょうな声を上げて、辺りを見回した。部屋の中も外も紺色の闇に包まれていた。軒下や庭に燈篭が吊され、オレンジの炎がゆらゆらと揺れていた。腕時計を見ると、とうに午後八時を過ぎていた。いつの間にそんなにも時間が過ぎていたのか。この部屋へ入ったときは、正午をいくらか過ぎたばかりだったはずだ。僕は信じられない気持ちがして、もう一度辺りを見回した。自分の中ではそんなに長く時間が流れ去ったような感覚はなく、まるで狐に抓まれたような気がしてならない。千祇は言った。
「綸さまは、もしよろしければ今日は当家でお休みになられてはどうかと申しておりますの。もう夜も遅うございますし、月のない夜に道を歩くのはなにかと危のうございますわ」
彼女は微笑んだ。
「この通り古屋ではございますが部屋だけはたくさんありますの。どうか遠慮なさらないで。綸さまも、榛名さまがお泊まり下さるととても喜びますわ。いつもはわたしと二人きりのわび住まいですから」
そこまで言われると、僕の心は大きくぐらいついた。色々なことに気を取られて、綸に姉の死について探りを入れることをすっかり忘れていたし、なによりも……。僕は姉を振り返る。出来ることなら、まだ側にいたかった。