人形は、母が遺影の傍らに飾った。
人形は、母が遺影の傍らに飾った。
父と母は日に数度、人形と遺影の中で笑っている姉の顔を交互に見ては、涙ぐんだ。四十九日が過ぎれば、その人形は姉の部屋へと移されることだろう。そして両親に大事に大事に、まるで姉の身代わりのように愛されるのだろう。
人形は見れば見るほど、素晴らしい出来だった。よほど腕の良い職人なのだと窺わせるに十分だった。これほどの人形であっても、彼曰わく複製品なのだ。しかし、僕にはそれを残念だとか勿体ないなどと思うだけの気持ちの余裕はなかった。
瞼を縁取る睫の長さや密度、頬の色合いや丸み、唇の輪郭、どれをとっても人形は本当に姉にそっくりだった。しかし、どんなに似ていてもこれは姉ではない。人形は姉のように軽快な笑い声を上げたり、拗ねたように唇を尖らせたり、甘えたように僕へと手を伸ばしてはこない。抱きしめた皮膚の温もりも、柔らかさも、鼓動も感じることはないのだ。人形を見る事に、まるで止むことのない雪のようにしんしんと哀しみが胸の中を埋め尽くし、僕は原因不明の焦りに犯された。姉がいなくなったことよりも、姉そっくりの人形を目の前に突き付けられている方が、姉の不在をより大きく感じる。
僕が久々宮綸の元へ連絡を入れたのは、それから三日後のことだ。モデルの件を引き受ける旨を伝えるためだった。彼に近づけば、姉の死の真相を知ることができるに違いないと僕は考えていた。
本当はすぐにでも連絡を入れたかったのだが、彼に僕の焦りを悟らせたくなくてジリジリする思いで三日待った。電話口でも「人形を頂いたお礼に」というニュアンスを多量に含めた。しかし、受話器を置きぎわに、小さく聞こえた笑い声がとうにこちらの真意などお見通しだと言っているように聞こえた。
当日、僕は姉の指輪を左手に嵌めた。それは、僕が今年姉の二十歳の誕生日にプレゼントしたものだった。銀のリングというシンプルなデザインの指輪は、一見すれば結婚指輪に見える。内側に姉の誕生日と名前を彫り込んでもらった。お店の人には恋人にプレゼントですかと、からかわれたのを覚えている。姉はとても喜んで、いつも左手の薬指に嵌めていてくれていた。死んだときも、彼女の指にこの指輪は残されていた。
左手の薬指は心臓に繋がっているのだという。だから結婚指輪はその手に嵌める。そうすることでお互いの心臓に約束を結んでいるのかもしれない。良きときも悪しきときも貧しきときも病めるときも、共にいられるように。
電話口で教えて貰った住所を頼りに、僕はおぼつかない足取りで道を歩いた。住宅街を抜ける道は梅雨の合間の久しぶりの晴天のせいか、どの家のベランダからも洗濯物が干してあるのが見える。真っ白いシーツが風に大きく揺れている。日差しは強く、ほんの少し歩くだけでじとりと背中や額が汗ばんだ。アスファルトの向こう側に鈍い陽炎が見える。街路樹のアベリアの花の匂いも、かさかさに渇いているようだった。住宅街を抜ければ、幅の狭い川が流れていた。石橋が一本掛かっている。その向こうに土塀や木塀の並んだ家並みが見えた。ずいぶんと古臭い町並みだった。
少女が一人、橋の向こう側に立っていた。白い日傘のせいで顔は見えないが、驚くことに少女はこの暑い最中に着物を着ていた。
紅地に宝尽くしの鹿子総模様の振り袖だ。白地の染め帯でふくら雀に結われている。紫紺の帯締めの色がとても洒落て見えた。彼女はしばらく川の流れを見ているようだった。手持ち無沙汰そうにくるりくるりと日傘を回している。薄灰色の影が足元で踊っていた。
「あ」
僕は小さな叫び声をあげた。少女が傘を傾けた一瞬、横顔が見えたのだ。それは姉にそっくりだった。当然だが、目を疑った。そんなことがあるはずない。姉は死んだのだ。もう一度その顔をよく見ようと身を乗り出そうとしたとたん、彼女は僕に背を向けて歩き出してしまった。
僕は慌ててその後を追った。
(姉さんのはずがない。でも、どうして)
遠目だったが、弟の僕が見間違えてしまうほど姉にそっくりだった。他人のそら似? そんな馬鹿な。そんなことってあるだろうか。まるで双子のように似ているじゃないか。そんなことが本当に?
あれは本当に姉かもしれない。唐突に僕はそう思った。病院の霊安室で見た体は真っ黒に焦げていて、とても姉だと確認できるものではなかった。唯一指に嵌っていた銀の指輪が姉だと知らしめただけで、そんな小さな証拠だけであの醜い遺体を姉と認めてしまうのはあまりに軽率ではないだろうか。
むしろ、あれは姉になりすました別の誰かで、本物の姉は生きていると考えた方がずっとしっくりくる気がした。ときおり遺体確認を家族でさえ間違えてしまうことがあるとニュースで取り沙汰されていたことを、僕は思いだしていた。死んだと思っていた人物がひょこりと家に帰ってきて家族が驚くのだ。遺体の破損が激しければ激しいほどその確立は高くなる。
そのときの僕は、じゃあなぜ別人が姉の振りをして他人の家の庭で自殺を計ったりしたのかという、不可解な理由をまったく忘れ去ってしまっていた。ただただ目の前に突然現れた少女が、あまりに姉に似ていたことが僕の正常な思考回路を狂わせた。
あれはきっと姉だ。
姉に違いない。
僕は大急ぎで彼女に追いつこうとした。しかし、いくら足を速めても少女との距離は縮まるどころか離れるばかりだった。彼女は驚くほど足が速かった。気が付けば、僕は見知らぬ路地の合間を縫うように歩いているのだった。
道は古いデコボコとした石畳で構成されている。道の両側はどこかの家の塀だったり垣根だったり店の軒だったり、川だったりした。いくつもの辻が並び、いくら進んでも果てがないように思えた。辻の真ん中で四方を見渡せば、同じ道が遠くの方まで続いているのが見えるのだ。先は霞むように空気に溶けて消えている。
ここはどこだろう。僕は立ち止まって辺りを見回した。少女の後を追うことにばかりに集中していたせいで、自分がどの道を通ったのか記憶していない。まったく覚えのない道にいた。途方にくれている僕の十メートルほど先で、少女がさっと横に折れるのが見えた。反射的に僕は駆けだした。曲がった道は、先ほどまで歩いていた道より幾分か広くなっていた。北側に舗装された小さな川が流れ、川沿いに柳の木が植えられている。南側は道を挟んで茶色い築地塀が続き、ちょうど道の中間地点で塀は途切れ格子を張った家の表構えが現れた。古風な犬矢来の囲みも見える。店のようだった。少女はするりと戸を開け暖簾を潜り入ってしまう。
僕も店の前までは追いついたが、あまりに厳めしげな店の様子に、後を追うことが出来ずに尻込みしてしまった。格子の隙間越しに店の奥を覗こうとしたが、内側に磨りガラスが張られているのか、ぼやけた白い影しか見えない。僕は立ち往生をして、辺りを見回した。通りを歩く人影は皆無で、そういえば少女を追いかけていたときも誰にもすれ違わなかった。町中はしんと静まりかえり、ゴーストタウンのようだ。
僕は少し不安になる。そのとき、店の軒に吊されている看板が目に入った。黒漆塗りの看板に花住屋という文字。「あ!」と僕は叫び声を上げた。このときになって僕は、約束を思い出したのだ。
人形店というからには、てっきり古くさい商店街の中か、もしくは駅前通のような賑やかな道沿いに店があるものと思っていたが、実際は想像と違っていた。
そろりと戸を開けると、外の陽気が嘘のように店内は薄暗く空気は冷たく沈殿していた。店の半分が土間で黒と白の瓦製のタイルが千鳥模様に敷き詰められていた。もう半分は人の腰丈ほど高くなった板敷きの間で、接客や勘定や商品を陳列する場所だろう。奥に格子の帳場まである。まるっきり時代劇の中だ。
だが、異様なのはそんなものではない。店内を取り囲むようにぐるりと壁沿いに並んだ棚には、ぎっしりと人形が座っていたのだ。数えればいくつになるだろう。目眩を起こしそうな数だった。こんな数の人形を一度にたくさん見たことがない。まるで監視されているようだと思った。人形の瞳は闇を被り黒く光っている。よく見ればどの人形もひとつづつ表情が違うのだ。人形はその大半が古風な日本人形だったが、ぽつりぽつりと混じるように文楽やビスクドールを思わせるものも混じっている。白い肌。黒い髪。大きな瞳で、僕を見つめている。店内が暗いせいで人形の頬に落ちる陰影は深く、まるでそれが本物の肉の柔らかさを思わせた。
店には誰もいなかった。ひっそりと静まりかえっている。自分より一足先に店に入ったはずの少女もいない。奥へと入ってしまったのだろうか。たくさんの目に見つめられて、僕は落ち着かない気持ちになった。店の人を呼ぶべきかどうかわからなくて困っていると、不意に帳場の後ろの衝立から、着物姿の幼女が現れた。両手で抱きかかえるようにして、大きな人形を持っている。人形は薄手の黒絽を巻き付けられていて、端っこから茶色い髪の毛の端が零れ出ていた。
幼女は僕をみて「あら」と驚いた顔をした。
「まあまあ、お客さまがいらしていたなんて気付きませんでしたわ。失礼いたしました」
彼女は人形を抱いたままぺこりと頭を下げると、板の間の端で膝を付いた。立っていても身長は僕に遠く及ばなかったのが、座るとますます開きが出来て、幼女は顎を仰け反らすように僕を見上げた。綺麗な子だった。年の頃は十歳前後だろうか。眉の上できっちりと切り揃えた艶やかな黒髪と、雪のように白い肌。小さな顔に赤い唇は南天の実のようだ。鮮やかな赤色の振り袖を来ていて、上前と左袖が赤地縮緬に鞠と桜の友禅。下前と右袖は赤と白の江戸小紋の細縞だ。友禅の鞠と桜の下前の胸と、肩と右袖に布絵刺繍がしてある。
「あの」と僕はまごついた。こんな小さな女の子に僕は圧倒されていた。彼女は素直そうな仕草で僕を見ている。
「僕は、小崎と言います。小崎榛名です」
「ああ、綸さまからお話しは窺っておりますわ」
彼女は大人びた口調で言った。僕はほっと胸を撫で下ろした。そして、この店に入ってからずっと尋ねたかったことを彼女に聞いた。
「凄い人形の数ですね。しかも全部顔が違う」
「もちろんですわ。ひとつづつ、綸さまが手ずから作り上げたものでございますから。少しとして同じものはございませんのよ」
僕は再び人形を見渡した。
「このお店をお出になって右側に細い道がございます。そこを折れて奥へ進みますと門がございますから、中へとお入り下さいませ。路地を進めばお玄関ですわ」
僕は頷いて店を出ようとして、ふと振り返った。彼女はきょとりと首を傾げた。
「あの、僕より先にここへ女の人が入って来ませんでしたか。赤い着物を着た」
「いいえ」
彼女は笑って首を振った。拍子に、人形に巻き付けている布がめくれた。鹿子模様の着物の袖が見えた気がした。
幼女に教えられたとおりの道を進むと、道の先には確かに門があった。大きな棟門で、塀の向こう側から枝垂れ桜の葉が屋根を越えて垂れ下がっている。門の内側は驚くほど緑に溢れていた。楓が長く枝を伸ばし緑色の傘を広げている。躑躅や紫陽花の茂みも見えた。小石の敷き詰まった路地をかなり進んでようやっと玄関が現れた。どうやらこの家は、表が店で裏側を住居にしているようなのだが、それが驚くほど広大なのである。玄関の手前であの女の子が待っていてくれていた。
彼女は僕を家の中に招き入れると「綸さまがお待ちしております」と言った。
くねくねとした座敷廊下を進み、さらに柱廊を抜けた先にある棟へと案内された。僕は今までこんなに広い家を見たことがなかった。庭を見ても、緑が深く端の壁が見えないのだ。家の中はしんと静まりかえっていて、誰の気配もしなかった。久々宮綸は、縁側に座り込んでぼんやりと藤棚を眺めていた。
「綸さま。お客さまをお連れいたしました」
「ああ、うん。ありがとう、千祇。なにか冷たいものをお願い」
そこで始めて僕はこの幼い女の子の名前が「千祇」と言うのだと知った。
彼は僕をすぐ側の座敷へと招き入れた。
「外は暑かったでしょう? 家はわかりましたか? ここらへんはどれも似たような辻や家ばかりが並んでいるので、道に迷う人が多くいるんです」
「はあ、なんとか」と僕は言い淀む。にっこりと彼は笑った。
「今日はわざわざ僕の我が儘を聞いて下さって、ありがとうございました。とても嬉しいです」
「あの僕は何をしたら良いんですか? こうゆうことは始めてで」
「なにも」
彼は微笑みながら言った。
「絵のモデルのようにずうっと同じポーズで固まっている必要はありません。むしろ、あなたの好きなように動いたりおしゃべりをしてくださって結構です。僕は動き生きている姿からイメージをもらって、人形を作るんです。人間の皮膚や筋肉、表情の美しさは動いてこそ素晴らしい。僕はそれを人形の中に閉じこめてしまいたいのです。だから、あなたはここで自由に過ごして頂いて構いません」
「はぁ」と僕は曖昧に頷いた。