彼が僕の前へ姿を現したのは、姉の葬式が終わって三日が過ぎた頃だった。
彼が僕の前へ姿を現したのは、姉の葬式が終わって三日が過ぎた頃だった。
ボーイフレンドの多かった姉は、葬式が終わった後も遅れて訃報を知った男達や遠方の友人達が、幾人と焼香にやってきた。真面目な校風の女子大に通う姉が、どうしたらこんなに広範囲に渡って色々な種類の男達と知り合うことができたのだろうかと驚くほど、様々な男達が家を訪ねてきた。若い男もいたし、父ほどに年老いた男もいた。真珠のネクタイピンに高価なスーツを身に纏った男や、いかにもホスト風な男、アニメキャラクターのTシャツと膝に破れ目の空いたジーンズを履いた太った男もいたが、彼らが姉の遺影の前で一様に神妙な顔で手を合わせる姿は、たちの悪いコメディー番組を見ているようで滑稽だった。黒縁の写真の奥から、姉は男達を嘲笑しているように見える。果たして彼らは本当に姉の友人だったのか。秘密主義者だった姉のことを、もはや知るすべはない。
彼はそんな友人達の中では、一番姉と釣り合いがとれていた。しかし、だからこそ僕は彼に奇妙な違和感を覚えたのも事実だった。
「久々宮綸と申します」
黒い蝙蝠傘から滴をぽたぽたと落とし、彼は雨で濡れそぼった玄関先に立っていた。慎み深い猫のように、軒の一歩外側で霧雨のような雨に髪や肩を濡らしていた。黒い喪服が水を吸って闇の色に沈み込み、灰色に霞む視界の中で影絵を見ているようだった。
「柚香さんが亡くなったとお聞きしました。生前彼女とは親しくさせてもらっていたんです。もしご迷惑でなければ、お焼香だけでもさせて頂けませんか?」
丁寧な言葉を紡ぐ声は、微かに高く耳の奥にくっきりと響いた。空気中に散らばる灰色の水滴に囲まれた彼は、モノクロ写真に映し込まれた古いシネマ俳優を見ているような美しさを思わせる。久々宮綸は、ずば抜けた美貌の持ち主だった。一目見れば記憶の奥に焼き付けられるような、人混みの中にあっても自然と人の視線を引き寄せてしまうような人間だ。しかし、ブラウン管の奥で軽薄な笑顔を振りまいているような人種とは違う。もっと静謐で透き通っている。
外見からは年齢を推し量ることは難しかった。小柄な体躯なので中学生のようにも見えるし、落ち着き払った仕草は老年の匂いを持っていた。僕と同性代の若者だろうと予想を付けた。綺麗もの好きな姉が連れている友人達の中で、彼の存在は群を抜いていたのは事実だろう。むしろ、彼の前では姉でさえ霞んだかもしれない。
彼は姉の遺影の前で深く手を合わせると、膝を動かして傍らにいた僕へ話しかけてきた。一言目は儀礼的なお悔やみの言葉だった。
「弟の、榛名さんですよね? 彼女からあなたの話しを何度も聞いたことがあります。とても仲の良いご姉弟だったそうですね」
「仲の良い姉弟」という言葉に、僕は苦笑を滲ませた。一見すれば確かに僕らはそう見えただろう。姉とは三つ違いだった。穏やかで人当たりが良く優しい、僕はそんな姉を誰よりも慕っていた。僕らは人前で喧嘩をしたことがほとんどなかった。
「姉とはどういった仲なんですか?」
「店で知り合いました」
「店?」
「ええ。人形の店です。花住屋という名の店なのですがご存知でしょうか?」
「いえ」
「そこで人形をお求めにいらした彼女と知り合ったんです。僕はそこで人形師の仕事をしています。花住屋は僕の店なんです」
僕は驚いた。目の前の、僕とさして歳の変わらぬように見える彼が、すでに一人前の仕事をしているという。僕はいまだに教室に机を並べ、親や教師達の庇護下の元にいる。
「実は、僕がお宅へ寄らせていただいた理由のひとつでもあるんです。これを」
彼はおもむろに、鞄から紫色の布で包んだ四角い箱を取りだした。箱は長方形で、ちょっとしたバースデーケーキを思わせた。彼が紫の布を解くと、中から桐箱が現れた。箱には達筆な筆文字で「柚香」と姉の名前が書かれていた。それを僕へと差し出す。
「どうぞ開けてください」
霧の箱の中には、ベルベットのクッションに寝かされた一体の人形が入っていた。ビスクドールとでもいうのだろうか。ミルク色の頬に彫りの深い瞳、小さな唇に上を向いた鼻、胸元まで伸びた栗色の髪の毛。僕は呆然と人形を見つめた。姉にそっくりだったのだ。
「これは?」
「僕の作った人形です。もっとも、完成品の複製ですけれど。彼女は僕の人形のモデルをしてくれていました」
そんな話しは全くの初耳だった。
「この人形は複製品とは言っても、本物とほとんど完成度は変わりません。オリジナルの方がこれよりもいくらか大きいと言うだけで。僕が一から作ったものです。お姉さんには作品が完成したら、この人形をお譲りする約束でした。……変わりに、あなたが受け取ってください。彼女はとても素晴らしいモデルでした」
僕はどうしていいのかわからず、おずおずと人形を箱から取りだした。思ったよりもずしりとしていて、腕に響く重さだった。姉の瞳が僕を見つめている。見つめ返せば、硝子の虹彩の中に僕の戸惑った顔が写り込んでいた。心の奥底まで見透かすような目だと思った。
人形のくせに、それはどこまでも姉に似ていた。優しい微笑みも、可憐な容姿も、そしてどこか他人を小馬鹿にした瞳の暗さも。
彼は人形を渡すと、すぐに辞した。玄関先まで見送る。軒下で傘を開く彼の背中を見ていて、ふと僕は原因不明の強い衝動に駆られて口を開いていた。
「あなたはどうして姉が自殺をしたのか、ご存じないですか?」
自分でも奇妙な事を尋ねているという自覚はあった。まるで身内の恥を晒すような質問だった。だが、どうしてかこの少年が姉の深淵を知っているような気がしたのだ。初対面の相手であるにも関わらず、僕は久々宮綸から姉の気配を嗅ぎ取っていた。
彼は振り返って僕を見た。僕はその瞳を躊躇いがちに見つめ返した。
「誰も、どうして姉が死んだのかを知らないんです。僕も家族も」
葬式に来た友人達のほとんどは遺族の心中を慮ったからか、僕らに直接姉の死の理由を問うてくることはなかったが、多くの人々が姉の自殺理由を知りたがっていた。しかし、それでも中には露骨に「どうして?」と僕たち家族に尋ねてくるものもいた。両親は同じことを僕に尋ねた。だから僕は僕に「どうして?」と尋ねてきた奴らに同じことを問い返してやった。結局、誰も姉の死の原因を知らなかったのだ。友人たちも両親も、僕でさえも。
ある日突然、姉はふらりと買い物へ行くような気安さで自殺した。
死の直前まで姉は明るく笑っていたし、前日の夜僕らは夏休みに姉弟だけで旅行に行く約束をたていた。姉は始終楽しそうだったし、新しい水着を買おうかと話して言いた。ガイドブックを開き、泊まるホテルを一緒に選んだ。
遺書はなかった。
もちろん、姉にだって人には言えない悩みもあったに違いない。いつも笑っているからと言って、心の奥まで澄み渡っている奴なんていやしない。しかし、姉の死はあまりに突然で僕らの間に多くの謎を残したのだ。若く美しい娘が選ぶには、焼身自殺というのは衝撃的すぎた。
彼はしばし僕を見つめ、すうっと唇に笑みを掃いた。それはハッとさせられるほど綺麗な笑みではあったが、僕の心を不安にさせた。何か闇の奥で蠢いているような、そんな気がした。
「なぜ、あなた方家族が知らないことを、僕が知っていると思うんですか? 僕と彼女とは特別親しかったというわけではありません。少なくとも、弟のあなたほどにはね。あなたが理由をわからないのであれば、きっと誰にも理由を知ることは不可能でしょう」
彼の言うことはもっともだった。
「あなたは僕が理由を知っているというんですか?」
「お心当たりは?」
「ありません」
僕はきっぱりと言った。本当にそうだったのだ。
「なら、気付いていないだけなのでしょう。あなたが」
彼は冷静に切り返した。そのとき、言葉の奥に何かを揶揄るような匂いを、確かに僕は嗅いだ。口調は丁寧だったし、言い方も普通だった。なのに、僕は直感的に何かを掴んだように思った。それがいったい何であるかを具体的に表すことは出来ない。ただ漠然と、伸ばした手の先にぶよぶよとした水飴のようなものが絡み付いた気がしたのだ。
(この人は、やっぱり何かを知ってる)
「その言い方、まるで久々宮さんこそが何かを知っているように聞こえますけど?」
僕は挑戦的に睨み付ける。しかし彼はそれに乗ることはなく、肩を小さく竦めただけだった。空を見上げ、雨の降り足を確かめると傘を差した。一歩軒から踏み出せば、雨粒が傘を打つ音が響く。軒先に植わっている紫陽花の花が、ぽくぽくと頭を揺らして濡れていた。
くるりと彼が振り向いた。
「ああ、そうだ。忘れてしまうところでした。実はあなたにお願いしたいことがあったんです」
出し抜けに彼が言った。
「僕の人形のモデルになって頂けませんか? もちろんお礼は致します。出来ればあなたとお姉さんの人形とで一対人形にしたいんです。あなた方はとてもよく似ているし、さぞ美しく映えるでしょうから。よかったら考えてみてください」
その後彼は丁寧に辞去の言葉を述べて、家を出ていった。細い背中が雨の中に消えるまで、僕はずっとその後ろ姿を見送っていた。