体が大きく揺れた。
体が大きく揺れた。まるで何かが僕の胸にぶつかったような衝撃だった。よろめいて倒れ込みそうになったのを、慌てて足を広げて踏ん張る。とたん、何かが喉元まで迫り上がり、僕は咳をした。ごほごほと三回咳き込んだ。そのとき口元に翳した手に、ぴちゃりと何かが跳ねた。
月明かりでは良く見えない。
なにやら、酷く息苦しい。僕は何が胸にぶつかったのだろうと、手を這わせた。
「え?」
ごつごつと硬い物が胸にくっついている。なんだろう?
「ごめんね?」
「姉さん?」
「ごめんね、榛名。でも、他にこうするしかないの。あたしが――――」
姉が笑った。とても綺麗に美しく。
「あたしがあなたを手に入れるためには」
そう言った姉の両手は真紅に染まっていた。赤い液体がずるずると姉の白く細い手を汚している。僕は再び、自分の胸を見た。良く目を凝らして、ようやっと気付いた。
僕の胸に、包丁が刺さっている。深々と。
僕は瞳を見開いた。何かを叫ぼうと思ったが、声の中割に溢れ出てきたのは血だった。ぐらりと視界が歪む。
どうして、どうして、どうして。
姉さん?
僕は姉を見た。姉は優しく微笑みながら、僕を見つめている。
とうとう立っていられなくなって、僕は畳の上へ倒れ込んだ。姉はすぐにその傍らに膝を付き、僕の顔を覗き込んだ。
「大丈夫よ、死なんてあっという間だわ。痛いのも苦しいのも最初だけ。すぐに終わる。あたしのときもそうだったもの。そうしたら、後は永遠の幸せが待ってるの。あたしたちは誰の邪魔もされずずうっと変わらぬ若さと美しさで一緒にいられるのよ」
うっとりと姉が呟いた。僕にはさっぱり意味がわからない。混乱が顔に出ていたのだろう、僕の顔を覗き込んでいた姉が、心配ないというように髪を撫でた。
「ねぇ、あたしを見て。あなたに釣り合う年齢になるようにって綸に頼んで若くしてもらったの。綸は本当に腕のたつ人形師よ。彼はね、人間を人形にしてしまうことが出来るの。本当の魔法使いなのよ。もっとも良い魔法使いか悪い魔法使いなのかは、あたしにはわからないけれど……。でも、綸はあたしの望みを叶えてくれるって約束してくれた」
(望み?)
姉の瞳が細くなる。
「ずうっと、榛名と一緒にいたい。誰にも榛名を渡したくない」
姉はゆっくりと噛み含めるように、言った。
「綸はね、あたしのことをとても気に入ってくれたの。是非あたしを人形にしたいって、そう言ったわ。ただあたしを真似た人形を作るのじゃなくて、本当に人間を人形のようにしてしまった方がずうっと美しいのですって。座敷にいた子たちは、みんな綸が人形に変えてしまった子たちなのよ。あの人、そうゆう趣味があるのよ。人形になれば、あたしの世界は小さく閉じてしまうけれど、年を取ることも死ぬこともない。そう聞いて、思ったの。だったら、あたしと榛名が二人で人形になってあの、牢に閉じこめてもらえば良いんだって。そうすれば、ずっと一緒にいられるでしょう?」
心底良い案なのだというように、姉が言った。僕はもはや、なにひとつ言葉が出てこなかった。ただ、姉を見つめるばかりだ。
もし姉の話が真実であるなら……。姉は真実死んでいたことにある。そして、僕は姉の手によって殺されようとしているのだ。
僕は何か言おうとして、口を開けた。だけど、言葉はで出て来なかった。がしゃがしゃとしゃがれた音が漏れるばかりだ。血が気管を塞いでいるせいだ。
唇の端を引き上げ、姉は僕に向かって笑う。嬉しそうに愛おしそうに。
「ごめんね、騙して。あそこにある人形、あれがあたしよ。綸はすぐに榛名の人形も作ってくれるわ。そうしたら、二人ずっと一緒にいましょうね。そう約束してくれたものね」
ああと、僕は呻いた。意識がくるりくるりと回り始めた。世界が、姉の顔が歪んでいる。
僕はいつから、騙されていたのだろう。綸の言葉が頭の中に次々浮かんでは消えた。綸は僕が姉の死の理由を知っているはずだと言った。知っていて、気付いていないだけだと。今ならわかる。姉は僕を手に入れるために自殺したのだ。綸の手によって、人形として生まれ変わるために。そして、僕を同じ人形にするために。
暗くなって行く意識の奥で、それもまたいいかもしれないという気持ちがあった。姉が笑っていてくっるなら。姉の側にいられるなら。
それで……。