空には月が高く昇っていた。
空には月が高く昇っていた。
楓の葉越しに金色に輝く下弦の月が見える。僕はそろりと足音を落として庭を歩いた。屋敷の中はしんと静まりかえっている。もっとも、この屋敷は昼だろうと夜だろうと、変わらず静かだ。虫の鳴き声がるるりりるるりりと下葉の影から響いてくる。
庭の燈篭の明かりを頼りに、僕は土蔵を目指した。蝋燭の明かりが風に揺れて蠢くたび、僕の影がまったく別の生き物のように動いた。
土蔵の扉の両側には燭台が掲げられており、煌々と炎が輝いていた。扉には鍵が掛かっていなかった。綸は、今までこの土蔵が他人の手によって踏み荒らされるような心配をしたことがないだろう。
土蔵の中はまるきり昼間と同じだった。手前の牢には少女がいて、今度は絵を描いて遊んでいる。反対の牢の女性は、座敷に幾枚も布を並べて品定めをしていた。
ぽつんぽつんと灯された明かりが、夜の闇の濃い土蔵の中で頼りなげに震えていた。僕の足も震えている。姉を助け出そうとしているはずなのに、途方もないことをしているような気がしてならなかった。
なんとか奥の座敷牢までたどり着くと、姉は昼間と同じ着物姿で格子の前で待っていた。僕を見付けると、口元を綻ばせて笑ったが、顔はやはり強ばっているようだった。
「逃げる準備は出来た?」
僕がわざと明るい口調で尋ねると、姉は頷いた。しかし、はたと僕は気付く。
「牢の鍵は……」
「大丈夫。開いてるから」
「え?」
僕が目を丸くしている目の前で、姉は牢の扉をあっさりと開けて、外に出てきた。
「姉さん?」
「榛名、本当にわたしの側にいてくれるのね? 後悔しないのね?」
彼女は僕の言葉を遮るようにして、昼間と同じ事を聞いてきた。姉はまるで何かを恐れているように見えた。僕が少しでも「否」と答えれば、終末の予言が本当になってしまって世界が足元から壊れてしまうんだとでも思っているように見えた。もちろんそれは僕の勝手な想像で、姉が一番恐れているのは綸だろう。
「大丈夫。誰にも気付かれずにここまで来たから」
部屋を抜け出すのは本当に簡単だった。千祇は母屋で寝起きをしているし、綸の居住区は春の棟の一番奥だった。僕が泊まっているのは反対に春の棟の一番入口付近だったから、多少物音を立てても綸の部屋まで聞こえたとは思えない。後は広大な庭を突っ切っていくだけだ。
「違うわ。そうゆうことを言ってるんじゃないの。あたしは、榛名の約束の堅さを確かめたいの。不安だから」
「不安? 何が不安なの? 僕が姉さんを裏切るとでも思っているの?」
僕は急いで言った。小柄な体を抱きしめた。姉の体は硬く強ばっていた。
「いいえ。いいえ、違うの。ごめんなさい。ただあたし……あたしこそいい加減覚悟を決めなくちゃね」
僕の肩口に額を寄せて、姉は小さく呟くと、僕の顔を見上げた。
「よく顔を見せて、榛名」
僕は姉の顔を覗き着込んだ。頬にキスをした。
「何もかも終わったら、僕にすべてを話してくれる?」
「ええ、なにもかも終わったら……」
僕らは互いの手を取って座敷牢の出口に向かって歩きだした。