綸と会話をするのに、多大な労力を要した
夕食の席で、僕は耐え難い不信感や憎しみを表に出さず綸と会話をするのに、多大な労力を要した。幾度も愛想笑いを返しているうちに、顔の筋肉が笑顔のまま固定されてしまうんじゃないかとさえ思った。いつもは美味しく感じる千祇の料理さえ、腐ったミカンを食べさせられているような気にしかならなかった。彼らは僕に嘘を付き、姉や他の人たちを土蔵に閉じこめているのだ。そう思うと、今にも喉の奥から罵り声が吹き出してきそうだった。
今ならわかる。綸は姉だけでなく、僕さえも牢に閉じこめてしまうつもりなのだ。
「あまり食が進んでいないみたいだね」
綸が箸を置いて、僕の皿を見ながら言った。僕は「そうかい?」と平然とした顔で答えながら、おみそ汁を啜った。綸は不思議そうに首を傾げたが、そこへ千祇がデザートを運んできた。つるりと無がれた葡萄と氷だった。
「そろそろ、あなたの人形が出来るよ」
「え?」
僕は聞き返すと「人形を作るっていたでしょ。あなたをモデルに」と言われ「ああ、そうか」と僕は思いだした。
そういえば、そのつもりでここへ来たのだ。
しかし、そんなことすっかり忘れてしまっていた。姉や姉の人形に振り回されてばかりだった。そういえば、当初モデルを引き受けた理由だって、姉の死を知るためだった。綸が何か知っていると思ったのだ。
予想はズバリ的中だ。
彼は姉が自殺した振りをして――――どうやったかはわからないが――――彼女を牢に閉じこめてしまったのだ。
「出来たら、さっそく柚香さんの人形と二つ並べてみようと思うんだ。きっとお似合いの夫婦人形になるだろうからね」
彼は楽しそうに笑ったが、実際の所人形でそうするつもりなのか本人を閉じこめてするつもりなのか、怪しいところだろう。押し黙って、黙々と料理を口に運んでいる僕を、綸はきょとりと瞬き、考え込むような仕草で口を開いた。
「榛名くんと柚香さんはまるで本当の恋人みたいだね」
僕はちらりと目線を上げて、綸を見た。
「人形を見ているときの君の顔は、まるでジュリエットを見ているときのロミオの顔と同じだったよ」
「……僕と姉さんはただの姉弟だよ」
「そう? 僕には家族がいないから、よくわからない感覚だけどね。仲がよいことはいいことだと思うよ。ただし、ほどほどにね」
何かを含んだ言い方だった。僕は反射的に「どうゆう意味?」と問い返していた。声が少し棘ついていたかもしれない。ときどき、綸はそんなもったいぶった言い方をするのだ。綸の方でも、僕の感情の起伏を読み取ったのか押さえるような宥めるような笑みを浮かべた。
「別に、深い意味はないよ」
「だったらよけいなこと言うな」と言いそうになるのを喉の奥に空気と一緒に飲み込む。おかげで、お腹が空いてもいないのにぐうと胃が鳴った。
「柚香さんが前に言ってたんだ。榛名くんはとてもとても大事で大好きな弟なんだって。もし血が繋がっていなかったら、ってね。小さな頃は本当に二人で結婚をするつもりだったんだそうだね」
「子どもの頃の戯言だよ」
「そう?」
「どうしてそんな話しをするんだよ? 姉さんの話なんか」
「いつもは榛名くんがしてるだろう?」
僕はむっつりと唇を閉じた。彼は苦笑するように肩を竦め、小さな息を落とした。僕の目を探るように見つめる。
僕は急に不安になった。もしかして、綸はすべて気付いているんじゃないだろうか。僕が土蔵に入ったことも、姉と再会し今夜逃げ出す約束をしていることも。
くすくすと可愛らしい笑い声が近くから響く。側に控えて座っていた千祇が口元を着物の袖で隠して笑っているのだ。何がおかしいのだろうと僕が問い掛けるよりも早く、幼女が言った。
「綸さまが、誰かに恋をなさったなら是非そのお話を窺いとうございますわ」
「僕に恋のなんたるかがわからないと思ってるんだろう?」
「そうじゃありませんことよ。ただ、恋というのは人を愚かにもするものですわ。例えばジュリエットやロミオのように。死のみが、二人を分かつのですわ。それ以外は何人も、二人を引き裂くことはできませんの」
「ふうん?」
「あらゆる障害さえ二人の心を引き裂くことはできませんわ」
「千祇、最近何かテレビドラマにはまっているだろう?」
綸が目を眇めて問うと、千祇はますますおかしそうに笑った。愛らしい仕草だった。
「恋や愛か、今のところ僕には無縁のものなのは確かだね。僕は人形を作っている方がよっぽど楽しい。だけどね、所詮は己の仲のみの感情で、果たして相手が自分のことを本当のところどう思っているかなんて、簡単にはかれるものではないと思うんだよね。結局は、騙しあいと同じさ。だから、重々注意することだよ、榛名くん。本当にそれは愛の言葉なのかってね。容易く頷くものじゃない」