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良きときも悪しきときも

良きときも悪しきときも

富めるときも貧しきときも

健やかなるときも病めるときも

つねに互いを愛し敬い慰め助け

命ある限り変わることのない愛を貫くことを誓いますか




 姉の柚香柚香(ゆずか)が死んだのは、紫陽花が咲き誇る六月の半ばだった。雨がシトシトと降っていた。病院の霊安室で、美しかった姉は体中を包帯でぐるぐる巻きにされて横たわっていた。何重にも巻かれた包帯が、まるでミイラのようで僕は一瞬、彼女が本当に姉のなのか疑ってしまった。先生に包帯の下の顔を見せて欲しいと頼んだが、遺体の損傷が酷く、断られた。遺族が見るべきものではないと。


 姉は、焼身自殺を計ったのだ。頭からガソリンを被り、オイルライターで火を放った。部屋で本を読んでいた僕は、空気を切り裂く大絶叫に驚いて庭を飛び出した。そこには三メートル近い火柱を吹き上げ苦痛に転がり回る姉の姿があった。姉の悲鳴を炎がごうごうと飲み込んでゆくのを、僕は呆然と眺めていることしかできなかった。


 火は後から駆けつけた両親や近所の住人たちの手によって消し止められたが、すでに姉の命がその肉体に残っていないのは誰の目にも明らかだった。ほぼ炭化した遺体は真っ黒で、所々皮膚がめくれ赤く熟れた肉が覗いていた。人間の体は大半が水分で出来ているため、皮膚が焼けても肉はそのまま残る。姿勢は苦痛から逃れようとしたためか、助を求めるように虚空への伸ばされたまま固まっていた。豊かで美しかった髪は消失し、黒ずんだ禿頭を晒している。唇は削ぎ落とされ、ぽっかりと空いた暗い穴から舌を突き出している。つぶらだった瞳は白く濁り、焼けきれなかった皮膚には褐色の水疱がぽつんぽつんと出来ていた。想像を絶する醜さだった。充満する異臭は、姉の肌を灼いた匂いだ。救急隊が一歩庭に踏み込むなり「うっ」と呻いたのを、僕は聞き逃さなかった。


 僕は呆けたようにもはや姉とは到底言えないだろう彼女の残骸を見下ろした。今朝確かに彼女は微笑んでいた。栗色の艶やかな髪を肩口で揺らし、黒目がちの大きな瞳で僕を見返し、梔子の花のように甘く白い頬は、僕がすり抜けざまにキスをしたせいで桃の花のように染まってしまっていた。姉の体からは石鹸の甘酸っぱい匂いがした。しかしどうだろう、今僕の目の前にいるのは、いったい誰だなのだろうか。

 果たしてこれは本当に姉なのか。病院側がいくらか体裁を整えてくれた遺体は、しかしかつて美しかった姉の面影は欠片も残っていない。落ちくぼんだ眼窩。風船が萎んだような体を取り巻く何重もの包帯の渦。肌は一片も見えず、樟脳めいた匂いが立ち上っている。

 僕はどうしようもない吐き気を覚えて、後ずさった。「姉さん」という呟きは、喉の奥でひしゃげた。これは姉ではない。姉であるはずがない。聡明で美しかった姉であるはずがないのだ。なんて醜いのだろう、この骸は。ああ、姉はどこはへ行ってしまったのだろう。


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