ずーっと以前に書いた創作怪談シリーズとショートショートシリーズ
蒸し暑い夜
扉を開けると、男が一人立っていた。
蒸し暑い夜だというのに、薄汚れたコートを着ていた。
わたしには、そいつの正体がわかっていたが、そいつにはわたしが何者なのかがわからないようだった。
わたしは、男に言った。
「もう、ここはあなたの帰ってくる場所じゃないわ。」
男は黙ってわたしを見つめていたが、すぐに一歩前へ踏み出した。
「あなたを部屋に入れるわけにはいかないわ。」
男は、それでも無理に入ろうとしているようだった。
わたしは、男の胸を押して抵抗した。手応えは非常に軽かった。男は、わたしの一押しで玄関のタイルの上に仰向けに倒れ込んだ。男は苦痛に顔をゆがめていた。
わたしは、それ以上男の顔を見ているのが耐えられなかったので、ドアをバタンと閉めた。鍵を閉め、チェーンをかける。
「ねえ、祐一は帰った?」
テーブルに体をかたくして座っていた美香が尋ねた。
「いえ、玄関に倒れているわ。」
「ねえ友香。いつまでこんなことが続くのかしら。」
美香は、テーブルの上のランチョンマットに目を落とし、つぶやいた。
わたしに尋ねたわけでは無かった。けれど、答えずにはいられなかった。
「もう、こないわ。たぶん、今夜が最後よ。」
期待をこめた返答だった。
次の朝、わたしは会社に出かける用意をしていた。テーブルの上にはコーヒーとトーストが乗っていた。美香は、昨日と同じイスに座ったままコーヒーカップを見つめていた。
「じゃあ、行って来るわ、美香。」
わたしは、陰鬱な気分のまま玄関のドアを開いた。祐一の姿は無かった。しかし、きっと今晩もやってくるのだろう。わたしは、重い足を引きずりながら、マンションの階段を降りた。
地下鉄に乗り込んで、わたしはいくらか気分が軽くなった。あのマンションから離れることが出来たせいだ。それに、大勢の乗客達がわたしをぎゅうぎゅうと押している。まったく不快きわまりない満員電車だったが、幽霊につきまとわれるよりはましだった。
祐一に初めてあったのは8ヶ月前だった。妹の美香が連れてきたのだ。
私たちは、双子だった。小さい頃は仲が良かった。だが、中学生になったころから、わたしと美香とは比べられるようになり、そして、美香はわたしより成績が良く、男の子たちにも人気があった。
わたしだって、人並みには勉強も出来た。二目と見られない不細工な顔をしていたわけでもない。けれども、美香は成績優秀な上に、華やかな外見を産まれ持っていたのだ。
あのころ、美香はわたしに、よく、こういったものだった。
「友香ちゃん。私たち一卵性なのに、どうしてあんまり似てないの?」
そんなことは、わたしが知りたかった。けれども、美香は明るくて、スポーツを愛し、ソフトボール部のエースピッチャーだった。一方、わたしは手芸しか脳がない内気な女だった。
8ヶ月前、私たち姉妹はマンションに二人暮らしをしていた。両親は5年前に飛行機事故で死んでしまった。19だったわたし達は、高校を卒業していた。わたしは、就職をしていて、美香は大学へ通っていた。
両親の生命保険は、美香の学資に充てることになった。わたしには不満はなかった。美香は頭がいいし、わたしはそうじゃなかった。美香には明るい未来が約束されているべきだった。
生活は、苦しくはなかったが、貯金は出来なかった。収入はわたしの給料だけ。食費はすべて、それでまかなっていた。マンションは両親がローンで買ったものだったが、生命保険で残りを支払った。だから、美香の学資分くらいしか残らなかったのだ。でも、それでよかった。わたしは新しい服を買う余裕なんて無かったが、会社は制服だったから、買わなくてもなんとかなった。美香は、アルバイトをして時々服や靴を買っているようだったけれど、ずるいとは思わなかった。
そんな、ある日、美香は祐一を連れて現れた。
美香は、コンパで知り合ったのだ、と言った。
わたしは、生まれて初めて、本当に初めて、美香に嫉妬した。
地下鉄が、ホームに滑り込むと、わたしは他の乗客達と一緒に吐き出された。
会社のあるビルはすぐそこだった。わたしは、再び重くなった足を引きずって階段を上り始めた。
祐一が、わたしの勤める会社の取引先のエリートだと知ったのは、すぐ後のことだった。祐一は、わたしに会社で声を掛けてきたのだ。
「あれ?友香さんじゃないですか。」
12月の木枯らしがふく頃には、わたし達は時々ホテルに泊まるようになっていた。妹の恋人と寝ていることに、わたしは後ろめたさを感じていなかった。
それより、いままで美香が生きてきた世界をのぞいているようで、毎日が輝いて見えた。美香は、ずっと、こんな明るい世界で生きてきたんだ、と思った。それに比べてわたしは、どんなに色のない世界を生きてきたんだろう、とも。
けれども、そんな生活は長くは続かなかった。
ふとした、きっかけで、祐一の二股が美香にばれ、美香は家を出ていった。わたしは、祐一に電話をした。
「祐一さん。そちらに、美香が泊まっているんじゃないですか?」
「友香さん。もう、電話しないでください。わたしは、やっぱり美香と一緒に暮らしたいんです。友香さんとのことは、気の迷いだったんです。」
わたしは、受話器をもどした。とても、悲しかった。やっぱり、美香にはかなわないのだということを思い知らされただけだった。それなのに、わたしは、美香の代わりに一生懸命に働いていたのだ。美香の美しさのために、自分のエネルギーまで差し出していたのだ。その関係が終わったとき、美香はわたしを見捨てていったのだ。
夕方になって、また雨が降り出した。
わたしは、薄暗くなりはじめた道を、マンションへと歩いていた。傘にはしとしとと雨が降っていた。くつは濡れていて、もう足下は冷え切っていた。
マンションのドアを開けると、キッチンのテーブルに美香はいた。朝、わたしが出かけたときと同じように座っていた。
「ただいま。」
美香は、ゆっくりと目を上げて、わたしを見た。うつろな、目だった。
「おかえりなさい。友香ちゃん。」
わたしは、すっかり濡れてしまった靴に古新聞を詰め込みながら、美香に尋ねた。
「なにも無かった?」
「うん。」
「そう。じゃあ、夕食を作るわ。」
わたしは、包丁を手に取ると、人参を刻み始めた。
また、今夜も蒸し暑かった。
夜の11時になると、玄関のチャイムが鳴った。
ドアを開けなくとも、誰が立っているのか分かっていた。
けれども、わたしはドアを開けた。
祐一がコートを着て立っている。日増しにコートは薄汚れていく。あいかわらず、一言も口を聞かない。
「もう、ここはあなたの帰ってくる場所じゃないわ。」
祐一は黙ってわたしを見つめていたが、すぐに一歩前へ踏み出した。
「あなたを部屋に入れるわけにはいかないわ。」
それでも無理に入ろうとして、わたしに押し返されて玄関のタイルの上に仰向けに倒れ込んだ。男は苦痛に顔をゆがめた。
ドアをバタンと閉める。鍵を閉め、チェーンをかける。
「ねえ、祐一は帰った?」
美香が尋ねる。
「いえ、玄関に倒れているわ。」
わたしが答える。
「ねえ友香。いつまでこんなことが続くのかしら。」
美香は、テーブルの上のランチョンマットに目を落とし、つぶやく。
「もう、こないわ。たぶん、今夜が最後よ。」
わたしは、昨日と同じように答えた。
「友香。あなたが、祐一を殺さなかったら、こんな事にはならなかったのよ。」
美香は、今日もわたしを責め始めた。
「そんなこと言っても、美香はいつもいい役ばかりだったじゃない。わたしは、それが耐えられなかった。」
「だから、わたしも殺したの?」
わたしは、美香から目をそらす。
「ねえ、友香。あなたは、どうしてわたしを殺したの?」
わたしは、ベッドに潜り込んだ。
けれども、美香はキッチンのテーブルのイスに座ったまま、同じ問いかけを繰り返す。
・・・・永久に。