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雨粒の様に

作者: Todoroki T.

ホラーですが、じんわり系で余り怖くないです(と思います)。

やや長いのでお時間あるときにどうぞ。



「これ…… 何?」

 

 早苗さなえの呟きに、奥の机で書類に目を通していた園長先生が顔を上げる。

「さなえ先生、どうしたの?」

「園長先生、これ…… たけるくんが描いたんですけど……」

 早苗が差し出したのは、年少組の男の子がクレヨンで描いた幼い絵。

 園長先生は老眼鏡の位置を合わせながら絵を覗き込み、うんうんと頷く。

「これ、雨よ」

「雨、ですか? これが?」

 早苗は手元へと視線を落とす。

 五人の子供が並んで手をつなぐ絵。子供たちの頭上には、円い小さなぶつぶつが、大量に、執拗に描かれている。

 鳥肌の立つ腕をさする早苗に、園長先生が別の絵を見るよう促してきた。

「さなえ先生、そっちの、ひなちゃんの絵、見てみて」

「あ、これは雨のかたち、してますね……」

 隅の方に「まえだひな 5さい」とある絵には、お庭の遊具に腰かけて画板を持つ子供たちが描かれ、空の部分には典型的な「水滴」の絵―― 上が尖った水色の紡錘形と、それが降ってきたことを表す縦線が並んでいる。

「これはね、よくあることなの」

 幼い子供は、雨粒が「ぶつぶつ」に見えるから「ぶつぶつ」を描く。やがて絵本やアニメの影響を受けて、イラスト風の水滴を描くようになる。経験豊富な園長先生のそんな説明に、この春から勤め始めたばかりの早苗はなるほどと頷く。

「たけるくんも、そのうち描き方が変わるんですか?」

「変わるわよ。みんなと同じ描き方になるの、そういうものなの」

 

 * * *

 

 園児が描いた絵をお遊戯室の壁に貼るのは、新米の早苗が任された仕事だ。

 年少組の絵を下から貼り、上に向かって年中組、年長組と並べる作業はすぐに終わる。園児がたった五人しか居ないせいだ。

 初めのころは、首都圏でこの園児の少なさは流石におかしいと早苗も思ったが、詮索はしなかった。親切で経験豊富な園長先生に、園児はいい子ばかりで、就活で苦労した早苗に不満はなかった。

 午後五時、園に残るのは早苗と園長先生の二人だけ。

 静かな雨音を聞きながら、早苗は壁の絵が曲がっていないか確かめようと数歩下がる。

(へえ、園長先生の言ったとおり……)

 年少組の絵にはぶつぶつが並び、年中組より上の絵にはイラスト風の水滴が描かれている。

 お庭でお絵かきをしていたら急に雨が降り出したので、早苗は子供たちのお絵かき道具を集め、お手々つないで中に入ろうと声をかけた。

 たけるくんが描いたのは、その時の様子だ。四つになったばかりのたけるくんの絵はまだまだ難解だけれど、手をつなぐ子供が五人並んでいるのは分かる。

(最初見たときはぞくってしたけど、こうやって見ると普通の子供の絵だよね)

 左から、年長組でしっかり者のお兄ちゃん、れんくん。年中組のお姉ちゃんたち、ひなちゃんとひまりちゃん。年少組の男の子がたけるくん、最後の女の子は――

「え? これ、ゆあちゃん? ちょっと可哀そう……」

 たけるくん本人と、たけるくんより大きな三人は、スモック姿の水色で塗られている。

 たけるくんは、右手をひまりお姉ちゃんとつないでいる。左手をつないでいる小さな子は、たけるくんと同じ年少組の女の子、ゆあちゃんのはずなのに、その姿は黒のクレヨンでぐりぐりと塗って表現されている。

「面倒くさくなっちゃったのかな?」

 ちょっとやんちゃで落ち着きのないたけるくんだから、描いている途中で飽きちゃったんだろう―― 早苗はそんな風に思った。

 

 * * *

 

「園長先生、みんなの絵、貼り終わりました。それと……」

 職員室の机で手元に目を落としていた園長先生は、ちょっと遅れて顔を上げた。

「……あら、さなえ先生。終わったの?」

「はい、貼り終わりました。それとお遊戯室の鍵なんですけど、内側のレバーが利かなくなっちゃって、開け閉めできないみたいです。あと廊下と、ここの蛍光灯も寿命ですね」

 蛍光灯がカチカチと音を立てる度に職員室は暗くなる。

「子供の目に悪いから、廊下の蛍光灯はすぐに交換しましょうか。他はもう少し我慢ね」

 はい、と答えた早苗の目が、園長先生の机の上に吸い寄せられる。

 園児がクレヨンで描いた絵。黄ばんで端の方がよれた画用紙には子供がたくさん描かれている。隅っこの方に「かがみけんた 4さい」と読める。

「昔の絵ですか?」

「ええ。さなえ先生がね、生まれるよりも前の、昔の絵。みんなの絵を見てたらね、ちょっと思い出しちゃって」

 園長先生は照れ笑いを浮かべると、手にした絵を伏せて脇の棚に置いた。

「そのころって、園児、多かったんですねえ」

「ええ、とっても賑やかだったのよ。先生が六人も居たんだから」

「ええええ!? ほんとですか……」

 昔は立派な園が人気だったこと。園長先生が新米だったころの苦労話や笑い話。四十年余り務める園長先生の話は尽きず、気が付けば外はすっかり暗くなっていた。

「あら、つい長話しちゃったわ。そろそろ帰りましょうか」

「はい。それじゃ電気、チェックしてきますね」

 職員室を出ようとする早苗の背中に、園長先生が声をかける。

「さなえ先生、お仕事、辛くない?」

 早苗は束の間固まるも、自然と笑顔になる。

「ええと、ちっちゃい子たちの相手って思ってたより大変ですけど、慣れてきたら楽しいってゆうか、やり甲斐ありますよね!」

「そう…… 嬉しいわ」

 微笑みを浮かべ、園長先生は重ねて尋ねてくる。

「こっちに引っ越してきて、生活で苦労してることは無い? ご実家には連絡してる?」

「いや、それはちょっと…… 親とケンカになっちゃいまして。電話とかし辛くって……」

 都会での就職を目指した早苗が面接にこぎつけたのは、今勤める園だけだった。

 面接をした園長先生にその場で合格を告げられた早苗は上京を決意したが、娘が地元に就職すると思っていた両親は早苗の勝手を責め口論になった。実家を飛び出した早苗は、連休も帰郷していない。

 早苗は細かい事情まで説明しなかったが、祖母ほど年の離れた園長先生は何か察したのか、席から身を乗り出す。

「ご両親とは、早めに仲直りした方がいいわよ。それと、何か困ってる時、相談するお友達とか、そうね、彼氏とか、いないのかしら?」

 早苗は努めて軽い口調で答える。

「いやあ、今は友達とか彼氏とか、作る余裕ないですから」

「それじゃあ何かあった時、頼れる人が居ないじゃない…… 困ったことがあったら、私に相談してくれていいのよ?」

 園長先生の親身な言葉に、早苗はこみ上げるものを感じる。

「園長先生…… あの…… ありがとうございます……」

「こんなおばあちゃんで、申し訳ないけど」

 涙腺が緩みかけた早苗は慌てて背を向ける。

「で、電気チェック、行ってきます」

 そそくさと職員室を離れ、早苗は薄暗い廊下の奥へと向かった。

 

 * * *

 

 翌日、未明に一旦止んだ雨は昼前にぶり返していた。

 お昼休みになっても庭に出られない子供たちは、お遊戯室で各々遊んでいる。

 たけるくんが、年長組のれんくんの後をきゃっきゃと追いかける。その傍ら、積み木遊びにご執心のひまりちゃんを無理やりパパに見立てて、ひなちゃんはおままごと。

 壁際の丸椅子に腰かけて子供たちの様子を見守る早苗が本棚の方へと目を向けると、そこにはいつも通り、一人で床に絵本を広げる年少組の女の子が見える。

(ゆあちゃん、相変わらずの一匹狼だなあ)

 左右に分けたおさげ髪のゆあちゃんは、一人で何かする方が好きな子だ。今も一人難しい顔で、二匹の野ねずみがカステラを作る物語に見入っている。

(ゆあちゃんって、絵とかねんどとか上手だよね)

 早苗は壁に貼られた子供たちの絵へと目を移す。

 形の整った子供たちが並ぶゆあちゃんの絵を遠巻きに見つめ、微笑みを浮かべる早苗。

(……あれ?)

 見つめる表情に困惑が浮かぶ。

 誘われるまま壁際まで進んだ早苗は、ゆあちゃんの絵をまじまじと見つめる。

 ぶつぶつの雨の下、お手々つないだ五人の子供たち。

 左から、れんくん、ひなちゃん、ひまりちゃん、たけるくん、そして――

 

 黒のクレヨンでぐりぐりと塗られた、小さなゆあちゃん。

 

 ゆあちゃんは絵が上手だ。入園したてのころに描いた自画像には、左右に分けたおさげにリボン、スモックのポケットやボタンの数まで細かく描かれていて、まだ四つの誕生日前とは思えない丁寧な絵に早苗は驚かされた。

 ぶつぶつの雨に気を取られて気付かなかったけれど、昨日ゆあちゃんが描いた本人の姿は何故かたけるくんと同じように、ただ黒く、ぐりぐりと塗っただけ。

 早苗の目が、自然と他の子らの絵へと移る。

 ひまりちゃんの絵、隣のひなちゃんの絵、一番上のれんくんの絵。どの絵にも水滴型をしたイラスト風の雨粒が並び、水色のスモックを着たお友だちが五人居て、その中には左右に分けたおさげの小さな女の子、ゆあちゃんが居る。

 早苗の視線が再び下がる。年少組の二人が描いた絵の中のゆあちゃんは、ぶつぶつの雨の下で、やっぱりぐりぐりと黒く塗られている。

(見たまま描くから、雨がぶつぶつになる…… それじゃあ……)

 年少組の二人がゆあちゃんを黒く塗ったのは、幼い目にそう見えたから―― 突拍子もない考えが早苗の中に浮かんだ、その時。

「さなえ先生」

「!」

 肩を叩かれ、早苗は声にならない悲鳴を上げる。

 振り返ると、お昼ご飯を終えて「見張り」の交代にきた園長先生が立っていた。

「どうしたの? 顔色悪いわよ?」

「い、いえ、何でも……」

 心配そうに早苗を見つめる園長先生は、老眼鏡をいじりながら壁に貼られた幼い絵の方へと視線を移す。

「何かあったのかしら?」

「いえ、何でもないです、午後のお勉強の準備、始めますね」

 逃げるように職員室へ向かう早苗は、胸の内に引っかかりを覚えていた。

 

 * * *

 

 その日、お迎えの時間が来る少し前、たけるくんが熱を出した。園長先生は慌てる早苗に落ち着くよう声をかけつつ、たけるくんのママに連絡を取った。

 結局たけるくんは、ママに連れられて病院へ向かった。

「……ええ、はい、そうですか。はい、今夜は…… 分かりました」

 病院からの電話を終えた園長先生は、すがる様な目の早苗に告げる。

「たけるくん、とりあえず今日は入院するそうよ」

「入院って…… まさか、何か病気なんですか!?」

「たぶん風邪だと思うけど。まだはっきり分からないんですって」

 俯く早苗の声が震える。

「私、全然気づかなかった…… たけるくん、元気に遊んでるってばっかり……」

「さなえ先生、そんな顔しないで。子供にはよくあることなの、急に熱が出たりね。私たちがどれだけ気をつけていても、なる時はなるの。そういうものなの」

 園長先生の気遣いの受けても、早苗の気持ちは晴れなかった。

 もっとしっかり見ていれば、たけるくんの具合に気付けたかもしれない。

 悔いる余り、早苗はその日の業務で些細なミスを繰り返した。簡単に済むはずの仕事が手間取り、いつの間にかお遊戯室は薄暗くなっている。

(あれ? 一つ足りない……)

 いつもお絵かき道具をまとめておく棚に、クレヨンと画板のセットが四つしかない。辺りを見回した早苗は、棚の端の方に一つだけ置かれたお絵かき道具を見つけた。

(ああもう、何やってんだろ。しっかりしなきゃ!)

 足早にお絵かき道具の元まで進んだ早苗は、不意に既視感に囚われた。

 お絵かき道具が一セット足りない、そんなことがつい最近あったような気がする。

 棚の隅に置かれていた画板とクレヨンを手に取る。

 昨日のお絵かきの時間。急に降り出した雨。

 早苗は焦った、子供たちが雨で濡れないよう急いでいたのに、五セットあるはずのお絵かき道具が四セットしか集まらなかったから。

 結局雨に濡れずに済んだけれど、お遊戯室に戻ってお絵かきの続きをしていた時、たけるくんはくしゃみをしていた。

 にわか雨で急に冷え込んだからかもしれない。その時もっと気をつけていれば、たけるくんは入院なんてせずに済んだかもしれない。

 たけるくんのぐったりとした様子を思い出し、早苗は口を押える。

 押しつぶされそうな気持のままその日の仕事を終え、早苗は帰路に就いた。

 

 * * *

 

 しとしとと降る雨の下、早苗は閉店間際のパン屋に寄った。

 レジのおばさんや他のお客が妙にそっけなくて、あまり来ていない店。

 夕食の準備をする気になれず、手っ取り早く済まそうと久々に店に入った早苗だったが、壁際の喫茶スペースで談笑していた近所のご老人たちが早苗を見るなり口を閉ざす様子に、他の店にすれば良かったと後悔した。

 皺の刻まれた顔の奥から睨むような視線を向けられた早苗は、一つだけ残っていたポテサラサンドと時間が経ってそうなソーセージパン、野菜ジュースをトレーに乗せていそいそとレジへ向かう。

「おい、姉ちゃん」

 背後から声をかけられ、早苗はびくりと立ち止まる。

 店内の女性は、自分を除けば母親より年上のレジのおばさんだけ―― 恐る恐る振り返ると、キャップを被った白い髭のおじいさんと目が合う。

 どう反応していいか分からず、とりあえず早苗が会釈をすると、おじいさんは遠慮なく尋ねてきた。

「あんたの園の、佐伯さんとこの子、熱出して、病院行ったんだってな」

 たけるくんのことだと理解した早苗は、反射的に返事をしていた。

「は、はい……」

「具合は、どうなんだ?」

 ぶっきら棒な口ぶりに、早苗の身が縮む。

「はい、えっと…… たぶん、風邪で…… 今日は病院で、様子を見るそうです」

 なんで見ず知らずの人に律義に答えてるんだろうと自問しつつ、早苗はつまりながらも返す。

「そうか、風邪か。なら、いいんだけどな」

 コーヒーをすするおじいさんの声にどこか心配そうな響きを感じた早苗は、ほっとしながら感謝を込めて頭を下げた。

「また、おかしなことにならなきゃ、いいけどなあ」

 別のおじいさんの呟きに、早苗は思わず顔を上げる。

 口が滑ったとでも言いたげに、目を逸らす眼鏡のおじいさん。

 早苗の顔に浮かぶ疑問符を察してくれたのか、更に別のおじいさんが口を開いた。

「なんだい、あんた知らないのか? 昔の、あの園のこと」

 やめとけと制する周りの老人たちに構うことなく、洒落た格好をキメたおじいさんが、ちょっと自慢気に話し始めた。

 

 * * *

 

「さなえせんせー、きょう、おえかきどこー?」

「そうねえ…… お外は雨だから、ここで描こうね」

 はーい、とお返事をするれんくん、ひなちゃん、ひまりちゃんが、お遊戯室の隅の方に陣取る。

 脇を見下ろすと、画板とクレヨンを抱えたゆあちゃんが早苗をじーっと見上げていた。

「ゆあちゃんも、お絵かきしようね」

「さなえせんせー、たけるくんは?」

 朝方容態を知らされていた早苗は、微かに言葉を詰まらせる。

「……たけるくんは、お熱が下がらないから、今日はお休みなの」

 ちっちゃな拳を口元に当てて難しい顔をするゆあちゃんの様子に、早苗は切なくなる。

「心配しないで、たけるくん、きっとすぐ元気になるから」

 何とか笑顔を作る早苗は、直後固まっていた。

 年少組の女の子はふるふると顔を振ると、早苗に背を向け、考え込むような仕草のままとことこと窓際まで進み、座って絵を描き始めた。

 にべもない態度に不安を覚えつつ、丸椅子に腰を落とした早苗は昨夜聞かされた話を思い出していた。

 

『あの園な、昔は結構、子供が死んでるんだ』

『たまにな、熱出した子が病院行って、そのまま逝っちまう』

『ここんとこ暫くは、子供は死んでねえけどな、子供の親とか親戚とか、先生だって、何だかんだで死んでんだ。同じように熱出してさ』

『警察も保健所も調べたけど何も分からねえ。でもな、何かあんだよ、あの園には。この辺に昔から住んでる家は、あの園に子供は入れねえ。姉ちゃん、あんたは大丈夫か?』

 

(嫌な話聞いちゃったよ……)

 洒落た格好のおじいさんは、洒落にならない話を軽いノリで喋ってくれた。

 話が事実なら園の不人気も頷けるが、それをそのまま受け入れられるかは別の話だ。

 早苗は短大の講義で学んだことを思い出そうと努める。保育施設での幼児の死亡事例は日本中に有るけれど、いろいろ改善されて昔よりかなり減っている。お医者さんだって昔と今じゃ段違いだ。大きな病院にかかっているたけるくんは、きっと大丈夫。

「さなえせんせー、できたー」

 顔を上げた早苗の前に、画用紙を手にした子供たちが立っていた。

 いつの間にか時間が過ぎていたと知り、慌てて笑顔を作る。

「どれどれ? わあ、みんな、よく描けてるね!」

 集めた子供たちの絵を一枚ずつ見て行く。

 年長、年中組の三人の絵には、お遊戯室に座るスモック姿の子供が四人描かれている。れんくんの絵を女の子たちが真似たのか、構図はそっくりだ。固まって座る三人はれんくん、ひまりちゃん、ひなちゃん。離れたところに一人いる左右に分けたおさげの子は、ゆあちゃん。

 年少組の女の子の絵も似たような構図だった。一緒に絵を描く三人。そして――

 

 離れた場所に立つ、黒でぐりぐりと塗られた小さな姿。

 

「……ねえ、ゆあちゃん、これ……」

 絵を指す早苗の指は震え、尋ねる声は上ずる。

 じーっと早苗の目を見つめるゆあちゃんは、ふるふると頭を振ると、くるっと向きを変えて本棚の前へと駆けて行く。

 早苗はその場から動けず、一匹狼の女の子が絵本を床に広げる様子をただ眺めていた。

 

 * * *

 

 その日一日、ゆあちゃんは早苗を避け続けた。

 声をかけても逃げるように離れて行く小さな背中に、早苗は先生として失望されたんじゃないかと思い、動揺する。

 子供が好きで選んだ仕事で、両親とケンカまでして選んだ職場で、失敗もあったけれど今まで何とかそれなりにやってきて、何より子供たちと打ち解けていることが早苗の支えだった。

 いきなり全てが揺らいだ。

 子供たちが家に帰ってほっとする自分に、早苗は自己嫌悪を覚える。

(どうして、こんなことになっちゃったんだろう……)

 のろのろと手を動かす早苗は、お遊戯室の時計を見上げる。

 いつの間にか午後五時、雨空のせいか園内は随分薄暗い。

 園に残るのはいつもの二人、自分の他は園長先生しか居ない――

 

『困ったことがあったら、私に相談してくれていいのよ?』

 

 ふと優しい声が耳の奥に蘇る。

 翌日の準備を終えた早苗は、足早に職員室へと向かう。何て切り出そうか、どう相談すればいいか。いろんな想いが渦巻くまま、職員室の中に向かって声をかけた。

「園長先生、明日の準備、終わりました……」

 室内に響いた自分の声は、やがて雨の音に取って代わられた。

 デスクスタンドが灯される机に園長先生の姿は無い。

 トイレかなと思う早苗は、ふと園長先生の机の上に敷かれているものに目を止める。

 黄ばんで端の方が少しよれた、古い画用紙。

(これって…… この前園長先生が見てた、昔の……)

 早苗は画用紙を手に取って裏返す。

(かがみけんたくん、4さい……)

 絵の中には、幼い線で描かれた十人ばかりの子供たち。

 今と変わらない水色のスモック姿で、子供たちのすぐ傍には、こうじくん、かっちゃん、あすみちゃん…… と名前が書かれ、その中の一つに「ぼく」とある。四つの男の子でこんなにひらがなを書けるのは珍しい。

(けんたくん、年少組なのかな? 頑張り屋さんだなあ)

 周りの子供たちより一回り小さな「ぼく」が、お友だちの名前を一生懸命描く様子を思い浮かべる早苗は束の間癒され、そして固まった。

 絵の中の「ぼく」が手をつなぐ相手は――

 

 黒のクレヨンでぐりぐり塗られた、小さな人。

 

 ゆあちゃん、と思うも即座に否定。早苗が生まれるよりも昔の絵に、今年入園したばかりの子が居るはずがない。別の誰かに決まっている。

(ゆあちゃんじゃない、別の、誰か……)

 唐突に、雨の日の出来事が鮮明に蘇る。

 五セットあるはずのお絵かき道具が四セットしか集まらなかった。

 足りなかったのは、一匹狼の女の子が使っていた分。

 ゆあちゃんはいつも通りみんなから離れ、一人で絵を描いていた。お庭の隅で半分埋まった古タイヤに腰掛けていた女の子の手を、早苗が慌てて引っ張ってきた。だからお絵かき道具が一つだけ別の場所に置かれていて――

 

 その時、ゆあちゃんがお手々つないだのは、早苗だった。

 

 年少組の二人の絵には、手をつないだ子供が五人描かれていた。園の子供は五人だけ、だから全員が描かれていると早苗は思い込んだ。

(違う…… そうじゃない……)

 幼い二人は見たままに描く。ぶつぶつの雨粒を描くように、分かり易さとか格好良さとか願望とかで、現実を捻じ曲げて描くことをまだ知らないから。

 手をつないでない人と、手をつないでいたかのように描いたりしない、つまり。

 年少組の二人は、ゆあちゃんを描いていなかった。

 たけるくんは、別の誰か――「何か」と手をつないでいて、二人ともその「何か」を見たままに描いた。

 それは、ずっと昔の絵の中で男の子と手をつないでいるのと同じ「何か」で――

 

(「何か」って…… 何なの!?)

 

『警察も保健所も調べたけど何も分からねえ。でもな、何かあんだよ、あの園には』

 

 園には「何か」が居る、そう考えれば辻褄が合ってしまう。

(そんなこと、あるわけない……)

 否定はあっさり覆る。ゆあちゃんは今日も「何か」を描いた。ぽつんと描かれていたのは、手をつなぐ相手、たけるくんが居ないからなのか。

 予想外過ぎる事態に早苗の動悸は高まり、いきなり室温が下がったかのような感覚に思わず自分を抱きしめる。

 何をどうすればいいのか思いつかず、今すぐ全部放り出してここから逃げ出したい、そこまで考えかけた早苗は、背後からの声で我に返った。

「さなえ先生?」

 半泣きで振り返る早苗は、いつの間にか職員室に戻っていた園長先生に駆け寄る。

「園長先生、あの、あのですね、大変なんです!」

 必死な早苗の言葉は、携帯電話を手にする園長先生に遮られる。

「さなえ先生、たけるくん、困ったことになったわ」

 いつになく真剣な声の園長先生に、早苗は口から出かけた言葉を飲み込む。

「何とかしたいの、力を貸してもらえるかしら?」

 

 * * *

 

 園長先生に連れられお遊戯室へと入った早苗は、堪え切れずに口を開く。

「あの…… たけるくん、どうしちゃったんですか?」

「たけるくんはね、このままじゃ助からないの」

 窓から雨のお庭を見つめる園長先生の言葉に、早苗の頭は真っ白になる。

「さなえ先生」

「は、はい」

「さっき何か、大変…… って言ってたわよね。何のことかしら?」

 いきなりの質問に困惑する早苗だったが、いつもとは何か違う園長先生の声色に、とにかく話さなきゃと思った。

「あ、あの、この園に、何か、居るみたいなんです」

 言い始めてから気付く。バカげた妄想じみた話。一旦話し始めたら止まらなくなる自分にもどかしさを感じる。

「たけるくんと、ゆあちゃんが、絵に、その、黒い、小さい、何か分からない人? みたいなのを描いてて、どう考えても、園の子じゃないんです、その『何か』は、たけるくんと手をつないでて、でも、園長先生の見てた、昔の、けんたくんの絵でも、その『何か』が手をつないでて……………………」

 子供のころから班長とか何とか委員とかクラブの部長とかに縁のない早苗は、何一つ上手く伝えられない歯がゆさに悶える。

「さなえ先生」

 振り向いた園長先生の様子に、早苗はきょとんとする。

「気付いてくれたのね」

 園長先生は、うれし泣きしていた。

「よく、子供たちを見てくれたわ、あなた、ほんとにいい先生なのね」

「あ、あの…… 園長先生?」

 歩み寄った園長先生にいきなり両肩を掴まれる。

 突然の事に早苗は動けない。

「ありがとう…… 本当にありがとう、さなえ先生! 今度ばかりはダメかもって思ってた、でもぎりぎり間に合ったわ! たけるくん、きっと助かるわ!」

 滝のような涙というものが本当にあるんだと早苗は知る。そしてそれは近くで見ると意外にも怖く感じられるということも。

 気圧されて震えるも、早苗は尋ねる。

「……たけるくん、助かるんですよね?」

 園長先生は涙を流しながらにっこりとする。

「『あれ』はね、ずっと昔から、そうね、私がこの園に通ってたころから、ここに居るの。そういうものなの」

「……あ、あの、あの黒い小さいのと、たけるくんは、その、何か……」

 関係があるんですかと尋ねるより先に、園長先生は早苗の肩から手を離し、背を向けた。

 窓の外を見ながら、独り言のように話し出す。

「『あれ』はね、ちっちゃい子にしか見えなくて、大きくなったら見えなくなるの。そしてみんな忘れちゃう。私もそうだったわ、この園に勤めるようになって、子供たちの絵を見るまで、すっかり忘れてたから」

 園長先生のテンションが明らかにおかしい。

「でもね、『あれ』が居るって気付いたら、また見えるようになったわ。大人でも『あれ』が見えるのよ」

 そんなことよりたけるくんのことを―― そう言いかけた早苗が言葉を出せなかったのは、お遊戯室のまん中に奇妙なものを見つけたからだ。

 

 * * *

 

「……園長先生、そこに、何か、居るんですけど……」

 自分自身が洩らした言葉で、早苗は理解した。

 今自分が見ているそれこそが、年少組の絵の中に居た「何か」だと。

 年少組の子供たちよりも小さな、黒い、人の形をしたもの。

 黒のクレヨンでぐりぐり塗るわけだと、奇妙な冷静さで早苗は納得していた。人の形に見えるそれは、輪郭が定まったかと思えばぼやけ、すーっと薄れてはまた現れる。

 まるで、人の形をした小さな影。

 夢じゃないかと、早苗は自分を疑う。

 目の前にしても尚信じ難い、不思議で不気味な、非現実的な光景。

「あ、あの、園長先生…… 園長先生!?」

 ついさっきまで窓際に佇んでいたはずの園長先生は、早苗が「何か」に気を取られている内にお遊戯室から出て行こうとしていた。待ってと早苗が言うより先に、お遊戯室の引き戸はがらがらと閉じ、がちゃがちゃと金属的な音が廊下から聞こえてくる。

 早苗の足が勝手に動く。お遊戯室のまん中に立つ「何か」を避け、回り込んで引き戸へ駆け寄る。思いきり取っ手を引くもびくともしない。鍵がかかっている。レバーを動かすが、手ごたえが無い。絶望感と共に思い出す、お遊戯室の鍵は壊れている。

 反射的に背中を戸に押し付けた早苗は、お遊戯室を見据えたまま動けなくなる。

 そこに居たはずの「何か」が居ない。

 ピクリとも動けない早苗が目だけをきょろきょろと動かしていると、右手にいきなり何かが触れるのを感じた。

 ちっちゃな子供の手が、右手の指をにぎっている感覚。

 震えながら右手へと視線を移す。

 

 黒い小さな「何か」が、右手を握っている。

 

「い、や…… 離して、離してええええええ!」

 声と共に体を取り戻し、掴まれた右手を振りほどく。

 震える膝は体を支えきれなくなり、その場にへたり込む。

 立ち上がろうとして早苗は驚く。足に力が入らない。

 息を吸い込むと喉がひりつき、強烈な寒気に襲われる。

 お遊戯室の引き戸越しに、くぐもった声が聞こえてきた。

『さなえ先生、よかったわ。これでたけるくん、もう大丈夫よ』

 

 * * *

 

 熱が上る。体力が低下。意識が朦朧とする。風邪みたいだけど風邪じゃない。

 たけるくんの症状と同じだと早苗は悟る。

『「あれ」はね、「あれ」が見える人と手をつなぐの』

 体が思うように動かない早苗は、廊下から聞こえてくる声を聞くしかない。

『そして、手をつないだ人を、連れてくの』

 何処へ? という疑問が浮かび、その答えは早苗にも何となく分かった。

 分かりたくなかったが。

『昔はね、何年かに一回、子供が連れてかれたわ…… 可哀そうで、辛くて……』

 パン屋で聞いた話が思い浮かぶ。

『でもね、けんたくんが連れてかれそうになった時、分かったの! 連れてかれるのは、最後に手をつないだ一人だけ。おかげで、けんたくん助かったのよ! ……代わりにママが連れてかれちゃったけど』

 園長先生の言わんとするところが早苗にも読めてきた。

 たけるくんが連れてかれる前に、他の人を身代わりにしようとしている。

『それからは、子供たちの代わりに、いろんな人を…… そうそう、若い先生を連れてってもらったこともあったっけ。子供思いのいい先生だったわ、さなえ先生みたいにね』

 園長先生は、そうやって子供を守ってきた。

 そして、今回は自分の番。

『たけるくんのためなの、分かってくれるわよね? 「あれ」は、誰かを連れてったら、暫く出てこなくなるの。そういうものなの。だから、安心してね』

 普段通りの、とっても優しい園長先生の声。

 考える力すら奪われたかのように、早苗の意識に靄がかかる。

 連れていかれる、多分、死ぬ、いやだ、いやだいやだいやだ、でもそうしなかったら、たけるくんが連れていかれて…… でもやっぱりいやだ…… いやだ……

 廊下を歩く音が離れていく。

 待って、行かないでと思うも声が出ない。どうしてこんなことになったんだろう。そんなことを考える早苗の体は、静かに床に伏した。

 

 * * *

 

 暗いお遊戯室の床の上。

 外からの静かな雨音に包まれる早苗は視界が歪むのを感じた。滲む涙のせいだと分かったのは、顔を流れるものが熱かったから。

(あ…… そうだ……)

 ぼんやりと、電話をしなきゃと思う。

 これから迷惑をかけるであろう両親に一言謝っておきたかった。

 スカートのポケットを探ろうとする。手が上手く動かずイライラする。

 都会の生活に憧れて勝手に就職を決めた早苗。そんな早苗に怒った両親。最後に見た二人の顔は、怒っていたようでいて、今思えば心配そうにもしていた。

 思いを巡らす内に、いつの間にかスマートフォンが手の中にあった。

 着信履歴の一番上を選ぶ。ほんの一週間前にかかってきた母からの着信。どうしてその時スルーしたのかと、後悔に苛まれる。

 コールが一回、二回、三回…… こんな時に限って出ない。

(お母さん…… スマホの使い方分かんなくて、苦労してたっけ……)

 コールの回数もよく分からなくなった、その時。

 

『もしもし、さなえ? さなえなの?』

 

 声を聞いた途端、頭の中は母の記憶で埋め尽くされ、尽きたはずの力とは別の何かが考えていたのとは違う言葉を早苗に絞り出させていた。

 

「お母さん…… 助けて……」

 

 早苗の意識は闇に沈んだ。

 

 * * *

 

 さなえ…… さなえ……

 

 どこかで聞いたことのある呼び声に目を開ける。

 眩しい―― 何かがぼんやりと見える―― 黒い影。

 連れてこられた、早苗はそう思った。

 

「さなえ…… さなえ!」

「……お母…… さん…… どうして……」

 目の前に母の顔がある。母の目から大粒の涙がぽろぽろと溢れてくる。母のすぐ横に割り込んできた父の目にも、涙が滲んでいる。

「さなえ……」

「お父さんも…… ここ、どこ?」

 早苗は、両親からゆっくりと、何がどうなったのかを知らされた。

 早苗が意識を失った後、途切れない通話が命綱と考えた母は、スマートフォンを切らずに家の電話から父へ連絡した。

 父はすぐさま通報、地元警察は携帯キャリアとの協力で早苗の発信位置を特定、近所の交番から警官が駆け付け、遊戯室に倒れている早苗を引き戸の覗き窓越しに見つけた。

 園長の携帯電話に連絡しつつ遊戯室の鍵を取りに職員室へ向かった警官は、そこで机に着いたまま動かなくなった園長を発見。机の上には着信中の携帯電話があった。

 二人は同じ救急車で同じ病院、奇しくもたけるくんの入院先に担ぎ込まれた。早苗は意識が戻らないまま救急病棟に回され、園長先生は蘇生措置も空しく死亡の診断が下された。死因は急性心不全とされている。

 そして今、早苗は病棟のベッドに居る。

「……そんな…… 園長先生が……」

「そうなの。それであなたの保育園、大変なことになってるわ」

 園児が原因不明の発熱で入院した翌日、職員が倒れ園長が急死。事件として全国的に報道され園は閉鎖、国の機関が調査中とのことだった。

「……それじゃあ、園のみんなは?」

「暫くお休みですって。でも多分、閉園になるって噂よ」

「そんな……」

 死にかけた時よりも青ざめる娘に、父が静かに語る。

「あんな、何が有るか分からん場所に、子供を行かせる親は居ない」

 自分にも向けられた言葉だと理解する早苗の中で、記憶が混乱する。あの黒い「何か」と手をつないで、たけるくんの身代わりで自分が連れていかれるはずだった。それなのに、何故か園長先生が亡くなって、自分は生きている。

「さなえ、大変だったね、さなえ」

 黙り込む早苗の頭を、母が幼子の様に抱きしめた。

 

 * * *

 

 残業中、早苗は体調不良で倒れた。園長は気付かずに遊戯室の鍵を閉め、直後職員室で心不全を発症。園児の発熱は無関係、不幸が偶然重なった事故。

 それが公式のあらましとなった。

 幾日かが過ぎ、あらゆる検査をパスした早苗は明朝退院する運びとなった。

 両親は一旦ホテルへ戻り、残された早苗は一人病室のベッドで考える。

(あれって、本当のことだったのかな……)

 園で見たこと、体験したことが、徐々に早苗の中で現実味を失っていく。

 事情聴取でしどろもどろだった早苗を、警察の人がかなりフォローして何とかまとまったあらましは、当事者の早苗が見ても納得のいく内容だ。

 事実、その時早苗はまともとは言えなかった。

 たけるくんの発熱は自分のせいかもしれなかったし、それが元でゆあちゃんに避けられたのかもしれない。自信を失って園長先生に泣きつこうとして、そこで「何か」に気付いて――

(やっぱり、あんなの、居るわけないよね……)

 余りに現実離れしていて、朦朧として見た夢だと言われればそうかもと思える出来事。園長先生に会えない今、確かめようもない。

 園は老朽化が酷く取り壊されることになったと聞かされた。職場を失った早苗は、一旦両親と共に郷里に戻ることになる。

 気がかりなのは、子供たちだ。

 れんくん、ひなちゃん、ひまりちゃんは転園するだろう。一緒の園になれなかったら、女の子たちが泣いてしまいそうなのが心配だ。

 たけるくんの容態は持ち直したと聞いているが、その後は分からない。

 そして、ゆあちゃん。

 もう一度会いたいと思う反面、会う勇気が湧いてこない。

(私には、無理だったのかな……)

 憧れの仕事だったのに。

 子供に避けられて、園で倒れて、大騒ぎになって。

 先生失格としか思えず、早苗は沈む。

 街を覆う静かな雨音が三階の病室までしみ込んできて、ベッドの中で早苗はいつしかまどろむ。

 

 ふと目覚めたのは、病室の扉が開く微かな音を聞いたから。

 横たわる早苗が薄目を開ける。

 

 扉の隙間から、小さな黒い影が覗いていた。

 

 動けない早苗に構うことなく扉が開き、何かが病室に入ってくる。

 その姿に、早苗は思わず身を起こしていた。

「たけるくん…… ゆあちゃん!?」

 ベッドの脇までとことこと歩いてきた私服のたけるくんが、早苗を見上げる。

「さなえせんせー、ぼくげんきになったよ」

 束の間ぽかんとした早苗は、おずおずと尋ねる。

「たけるくん…… もう、大丈夫、なんだね……」

「うん!」

「よかっ……」

 言葉が途切れたのは、早苗の目から涙が溢れたから。

「さなえせんせー、どこかいたいの?」

 私服のゆあちゃんが、ベッド脇から心配そうに早苗を見上げている。

「ううん、痛くなんか、ないよ」

 手の甲で目をこすりながら笑いかけると、ゆあちゃんは背中の後ろに隠していたものを早苗に差し出した。

 渡されたのは、画用紙にクレヨンで描いた絵。

 雨粒の下、左右に分けたおさげのちっちゃな女の子と、手をつなぐ大人の女の人。あの、雨の日の絵と分かったのは、早苗が身に付けていたブラウスやエプロンまで、きちんと描かれていたから。

 絵の中で、手をつなぐ二人は笑っている。

「どうして……」

 避けられていると思っていた子からの思いがけないプレゼントに、早苗は嬉しさよりも驚きで揺れる。そんな早苗を、せんせー、せんせーと手招きする年少組の女の子。

 ひそひそ話をする仕草に、早苗は「なあに?」と耳を寄せる。

 

「さなえせんせー、『あれ』はね、しらんぷりしたらね、こわくないんだよ」

 

 強い鼓動と共に固まる早苗を残して、幼い二人は「ばいばーい」と手を振りながら笑顔で病室を去っていった。

 

 * * *

 

 早苗は窓の外へと目を向ける。

 窓越しに雨空を見つめるも、大人の目にぶつぶつは見えない。

 雨粒の様に、見たままの世界を映す幼い瞳にだけ、あの「何か」が見えるのだろうか。

 あの「何か」は、本当に居たのか。

 それなら、どうして自分は助かったのか。

 「何か」は、見える人と手をつなぎ、最後に触れた人を連れて行く。そういうものらしい。

 スマートフォンから母の声が聞こえた時、朦朧とする早苗の中から母の記憶以外全て消え去った。束の間「何か」のことを完全に忘れた。だから「何か」は、「何か」を知っていて、見ることができる園長先生に会いに行ったのかもしれない――

(分かるわけ、ないか……)

 手の中に残された絵へと視線を落とす。

 隅っこに「こみやゆあ 3さい」と書かれた絵の中で、手をつなぐ二人。頭上のぶつぶつの更に上に「さなえせんせい げんきになってね」と幼い文字で綴られている。さなえの「さ」が「ち」になっているのはご愛敬。

 暫く絵を見つめ、早苗はふと考える。

(この時期に保育園の採用って、履歴書何枚ぐらい要るかな……)

 避けられない苦労を思う早苗の口から、ため息が一つ漏れた。

 

 <了>


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