短編3 ユメ
『ひさしぶり』
『今度帰省するんだけど、飯食わない?』
彼からのメッセージはいつも唐突だ。常にやり取りをするような仲ではない。小中と同じ学校だった幼馴染。普通ならそこで終わってしまうような関係を、時たま届く彼からのメッセージが不意に思い出させる。まだ糸は切れていないのだと、引っ張られて初めて気づく。
“いいけど、あんまり空いてないよ?”
『俺が合わせるよ。年末年始は彼氏と?笑』
“ううん、家族でゆっくりしたいの^^”
数ヶ月から1年のブランクを経て送られてくるメッセージは毎回対応に困ってしまう。数年ぶりというほど近況を知らないわけでもなければ、突然親しく話し込めるほど顔を合わせてもいないのだ。微妙な距離感から始まる会話はいつも突き放すようになってしまう。それでも彼は歩み寄ってくれる。
『確かに笑。俺はいつでもいいから』
彼は数年前に事業を興して以来奮闘し、いまでは社員も抱える立派な社長だ。とはいえまだまだ偉そうにしていられるほど余裕はないらしく、彼自身いろんなところを走り回っているらしい。そんな話を聞いたのも去年の春頃、彼からのメッセージで会うことになった時だ。
お互いに日取りを出し合い、正月休みの終わり頃に決まった。本当はスケジュールに空きはもっとあったのだが、仕事があると嘘をついた。実質的に失業中であるのを彼に知られたくなかった。
その日は思ったより早くやって来た。実家暮らしなので帰省もなく、大晦日から三が日はあっという間に過ぎていった。家にいる罪悪感からバイトをいれたため、あまりゆっくりはできなかったが、それでも正月気分は満喫できた。休み明けも近くなり、休みが短い人たちはすでに出勤しているようだ。
普段より早く起き、いつもより長い日中は落ち着かなかった。夕方に支度を始めてから、さらに緊張は高まった。久々に彼に会う時はいつもこうだ。そうしてお互いぎこちなく会話するうちに、あの頃の距離感を取り戻すのだ。
『着いたよ。もういる?』
“いるよ、駅が見える方”
薄っすらと雪が積もった景色の中を探すと、ほどなくして黒いコートが見えた。駆け寄ってくる細身のシルエットは彼で間違いなかった。
「…ひさしぶり」
「ひさしぶり、行こうか」
東京の大学に入ってからそのまま一人暮らしを続けている彼は、帰ってくるたびに垢抜けていくような気がする。立ち居振る舞いが大人っぽくなり、地元の方言もなかなか会話に姿を見せなくなった。今日彼が選んだ店も、地元にありながら一度も行ったことのないような、小洒落た半地下のディナーカフェだ。互いに近況報告をして打ち解けた雰囲気に和んでも、どことなく距離感を感じるのは自分だけだろうか。
「仕事はどう?」
「軌道に乗ってきた。やっとうまくまわせるようになって、休みもできそうだよ。」
「すごいなぁ…夢を叶えちゃうなんて。」
彼は照れ臭そうに鼻の頭を掻いた。困った時や照れ隠しをする時の彼のクセだ。やっぱり変わらないところもあると気づいた安堵の間隙に不意打ちを喰らった。
「そっちのほうがすごいよ。保育士さんになるの、小学校の時から言ってたじゃないか。」
「あれは…ホントに『夢』だったから…」
「でも叶えた。俺なんか、大学の時の思いつきだから。仕事は順調?」
悪気のない笑顔を向けて彼は訊く。彼にはまだ言っていない。保育士は辞めてしまった。
子供と触れ合うのは好きで、幼い頃から習ってきたピアノも活かせる最高の職場で、先輩や同期にも恵まれていた。子供との間にも信頼関係は築けており、親からの評判もよかった。ところが、評判がよかったが故に、彼女はある子供の父親から好意を寄せられてしまった。先月のクリスマス会で言い寄られているところが子供の母親に見つかり、その家庭は離婚調停という事態になってしまった。周囲からは同情されたが、責任感の強い彼女は居場所がなく感じ、楽しめなくなった。子供の前で笑顔になれない。1ヶ月踏ん張ったが、耐え切れず辞めてしまった。
「…うん、順調…かな。」
「そっか。お互いこれからだね。」
彼に全てを打ち明けるのと、彼に嘘を吐いたのと、どちらが正しかったのか彼女にはわからなかった。そのまま他愛も無い話をして彼とは別れた。いつも適度に距離がある彼に嘘を吐いたところで見栄を張ったことにもならないだろう。ましてや相手は自分より大きな夢を追いかけている人だ。小さな見栄を張ったところで敵わない。
『暑いね⤵︎ 夏休み空いてる?』
また唐突にメッセージ。エアコンの効いたオフィスで事務の合間にチェックした携帯には彼からの連絡がきていた。面倒な上司に見つかる前に手早く返信して、携帯をしまった。
「車買ったんだ?」
「結構外回るからね。こっちじゃ必須だし。」
昼間の暑さもひききらずジメジメした空気を引きずる夕暮れの駅のロータリーに、彼は車でやってきた。仕事でも使えるようなブランドの、プライベートでも息苦しくない車種の乗用車は彼の性格にピッタリだと思った。
「ちょっと遠出するけど、大丈夫?」
「うん。一人暮らし始めたの、だから門限は自由。」
「え、ちゃんと食べれてるの?」
「失礼な!」
前回から半年以上の空白を、彼は一瞬で埋めてくれる。引越しの話、一人暮らしの話、共通の知人の話。彼に引き出されるままに語っていると、あっという間に時間は過ぎる。海辺のレストランでの食事が済むと23時を回っていた。
「浜辺、歩いてみない?」
「東京にいるとロマンチストにでもなるの?」
「それはもとからさ。」
ふざけ合いながら砂浜まで降りると、サンダルに砂の感触が心地よい。海風も強くなく、ほのかに運ばれてくる潮の香りが鼻をくすぐる。
「2人で海にくるなんて、高校以来だな。」
「…うん。」
彼から突然のメッセージが届くようになったのは、進路が分かれた高校の時からだ。今と同じようなペースで、同じように彼女を遊びに誘っていた。彼女は旧来の友人と繋がっていられることを素直に喜び、予定が合えば誘いに応えていた。そして高校2年の冬に突然海に行こうと誘われた時も、彼女は二つ返事で承諾した。
そこで彼に告白された。
正直彼女にも彼のことを考えていた時期はあった。だが、何度会っても、何度互いの家に行っても態度の変わらない彼にその気はないのだと思い、彼女は自分の気持ちを飲み込んだ。むしろ彼女はそうすることで、女子校に行った自分のことを忘れてしまうであろう彼を失うことから逃げたのかもしれない。
いずれにせよ彼女はその時、彼を振った。友達でいてほしいという言葉に嘘はなかった。
彼も彼なりに折り合いをつけたのか、以降も友人としてあり続けてくれた。不自然にならない2人の居心地もよかった。
「…海にくると俺は素直になれる。」
「そうだね…自然の近くって感じ。」
「……なぁ…なにがあったんだよ。」
彼はいつも唐突だから、彼女は思わず彼を振り返ってしまった。明かりのない波打ち際でも、彼が真っ直ぐに彼女を見据えているのがわかる。強い決意で夢を見続ける眼の意思は固く、それでいて全てを受け止める優しい光を宿している。
「元気ないのくらい見て分かる。」
「…………私、いま派遣で仕事してて。いろいろあって、保育士辞めて、あなたに嘘ついて好きじゃない仕事してもう疲れたッ!」
並べ立てるうちに声は叫びに変わっていた。俯いたまま、膝から砂に崩れ落ちた彼女は砂を握りしめて泣いた。1度は掴んだ自分の夢も、結局指から零れて行った。波がさらっていったあとにはなにを掴んでいたのかさえわからなくなる。ひどく惨めだ。塩の味が波の飛沫か己の涙かもわからない。
「やっぱり海来ると素直になれるだろ?」
彼の優しい声に見上げると、彼は目の前に屈んで柔和な笑みを浮かべていた。彼女の手を取り、立ち上がらせる。
「俺らの間で無理するな。辛かったら話してみろよ、きっと楽になる。」
その後彼はとことん付き合ってくれた。世の理不尽に怒るでも、不条理に嘆くでもなく、彼女を否定も肯定もせず、ただただ黙って話を聞いていた。夜通し彼女の話を聞いた彼は最後に一言だけ、彼女はなにをしたいのかと問うた。答えはずっと前から決まっていた。
「せんせぇ〜、せんせえはなにちくってるのぉ?」
園児の女の子が彼女にしがみついて訊く。お昼寝のあとの園児たちは元気いっぱいで、女の子たちはビーズや毛糸で小物作りに熱中していた。そのなかに混じって彼女もまた、子供たちを気遣いながらも熱心にビーズを紐に通していた。
「これはね〜…じゃん!貝殻のネックレス!」
「うわぁ〜!!」
女の子たちはシンプルだが貝の内側の虹色にきらめく波紋が気に入ったようで、大きな瞳を輝かせている。
『今度保育園を設立するんだけど、もう一回保育士やらない?』
あまりにも唐突なメッセージは初雪の日から間もなく届いた。最初は冗談かと疑ったが、あれだけ彼女が痛みを晒した後にこんな冗談を言うほど彼は無礼な人ではないと思い直し、詳しい話を聞いた。
「そもそも起業したのは、お金があれば世の中の問題が解決できると思ったからなんだ。これはその第1弾、待機児童問題の解消を目標にしてる。」
防音や園庭を確保した上で街中や住宅地にあえて点在させ、都心部での運営の布石にするそうだ。設備や報酬に不足はなかった。
「やってみる?」
「嬉しい…けど、これだと私があなたに甘えてるだけになりそう。たまたま人脈で夢を叶えるって…」
「まさか。俺は採用試験の案内、クリスマスプレゼント代わりに渡しに来ただけだから。」
彼はすこし意地悪な光を湛えた目で笑った。
「身内贔屓はしない。受かるも落ちるも俺が決めることじゃない。それにこれは俺だけの夢じゃなくて、子供とその親、未来の夢だ。」
「みんなの夢?」
「たまたまお前の夢もはいってるだけだ。俺のも。」
断る理由は見当たらなかった。
「あなたには感謝しきれないよ。」
「夢が叶ってよかったな、ってちゃんと言えるのはこれが初めてか?」
「やめてよ…あの時はあなたの夢が大きくて、圧倒されてたの。私は小さな夢も叶わないんだなって。」
クリスマス以来初めての食事の時、彼女は打ち明けた。あの時のモヤモヤは綺麗に洗い流されて、いまならいい思い出だと笑い飛ばせる。
「あなたの夢はまたひとつ叶ったんだね。あといくつあるの?」
「まだまだあるよ。叶いそうなのも、そうでないのも。」
やはり彼の視野は広い。彼は多分、いつまでもなにかを求め続けるんだろう。
それでも自分は、いま掴んだこの夢を離さないように。溢れていってもまた掴む。波にさらわれても大事なものは離さないように、あの日手の中に残ったこの貝のように。
「次はなにをするつもり?」
無意識に胸元の貝を触っていた彼女は何気なく問いかけた。
「…10年以上越しの夢がある。」
「どんな?」
「もう一回だけ告白すること。俺は、お前と付き合いたい。真剣に。」
思わず吹き出してしまった。
だって彼が、いつも通りに唐突だったから。