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「そんな暗い顔をしてどうしたんだい?」
居間でテレビを見ていた時子が、俊の顔色を読み取って訊いた。
「時子さん、俺どうしたらいいんだろう」
俊は自嘲した。つい先ほどのことを思い出すと、ぐっと胸の底から込み上げて来るものを感じた。
「なんか悩み事でもあるようだね。どれ、私に話してごらんよ」
俊は躊躇った。俊の悩み事は、天使の掟に反することだ。それを話せば、時子は怒るかもしれないと思った。
「心配せんでもええ。天使の掟に背くようなことでも、私はあんたの味方だよ」
「どうして掟に反することだとわかったんですか?」
「あんたの暗い顔を見りゃだいたいわかる。それに、天使が下界で悩むことと言ったら、掟に背くことしかないからね」
俊は苦笑した。すっかり見抜かれている。
小さくため息を一つつくと、桜庭に想いを寄せているということを時子に話した。時子は真剣な面持ちで、口を挟むことなく耳を傾けていた。
「なるほど。天使にとっては重大な問題だね。で、あんたはどうしたいわけだい?」
「どうしたいって?」
「麻由ちゃんのことが好きなんだろ? 麻由ちゃんと付き合いたいかどうかってことさ」
「そりゃ、できるならそうしたいですよ。でも掟があるし……」
はっきりとしない俊に、時子はため息を漏らし、やれやれといった顔をした。
「一端の若い天使が、掟なんて気にするものじゃないよ。やりたいことがあれば、迷わず突き進めばいい。それが若者というものではないのかい」
時子は仏壇に置かれている写真を手に取ると、懐かしむような顔で写真を見つめた。
「私の主人は二年前に亡くなった。けど、私は天使の掟を破って後悔したことは一度もないよ」
「掟を破ったって、本当なんですか?」
時子は頷いた。驚きだった。時子が、天使の掟を破って人間になったということを、俊は初めて聞いた。
「今でこそよぼよぼのババアになってしまったけど、私も若い頃はあんたみたいにいろいろ楽しんだものさ。主人に出会ったのも、ちょうどあんたくらいの年頃だったかね。その頃から、私は天使の掟なんて忘れて主人と楽しんだものさ。そして彼と結婚して、私は天使の力を失った。生憎、天使と人間の関係で、子供を授かることはなかったけどね」
時子は写真を俊に渡した。白黒写真の中で、特攻服に身を包みメガネをかけた男が歯を覗かせ笑っていた。男は坊主頭で三十代くらいに見える。戦時中に撮られた写真のようだ。
「どうだい? 私の主人かっこいいだろ」
「ええ、まあ……」
俊は曖昧に答えた。
「微妙、と言いたそうな顔だね」
心を読み取ったようにずばりと的確に突かれ、俊は苦笑した。今の時代から見ると、とてもかっこいいとは言えない。
「当時は今とファッションもヘアースタイルも流行が違ったからね。これでも彼は人気があったほうなんだよ。私が下界に来たときは、ちょうど戦時中でね。生活なんかは今よりだいぶ酷いものだった。食べ物はろくになくて、みんな飢えに苦しんでいた。空襲警報が鳴る度に、震え上がっていたわね。それでも私は主人に出会って幸せだったわ」
俊は写真を時子に返した。時子の目には、少し涙が含まれているように思えたが、気のせいかもしれないと俊は思い直した。時子は、写真を丁寧に仏壇の元の場所へと戻した。
「確かに掟は大事だけど、恋愛も大切なことさ。恋愛は自由なんだから、あんたの好きなようにすればいい。例えそれが掟に背くことでもね。掟を破って、不幸になるというわけじゃないんだよ。少なくとも私は違ったから」
「俺、バカだよ。天使の掟が頭を過ぎって、桜庭を傷つけてしまった。ほんと、サイテーなやつだ」
呟くように言った俊の目からは涙が溢れ出していた。
俊が下界に来て初めて流した涙だった。視界がぼやけ、時子の顔が歪んで見えてきた。温かくて、止めようにも、次から次へと自然に溢れ出してくる。息が荒く、鼻水も出てくる。おまけに胸は締め付けられるように苦しい。
だが溜め込んでいた想いを吐き出せて、少し荷が下りたような気がした。下界で、やはり一番頼りになるのは時子だ。彼女は、俊が包み隠さず全て話せる唯一無二の存在だ。
「あんたが悪いわけじゃないよ。全部掟が悪いのさ。天使の掟は恋愛を束縛しているからね」
俊はブレザーの袖で涙を拭った。
自分の部屋に行くと、明かりも点けずにベッドに寝転がった。窓から差し込む月の光だけが、俊の部屋を照らしている。ゆっくりと窓のほうに首を捻った。窓際に置かれている、サザンクロスの植木が目に飛び込んできた。
二年目のサザンクロスは、立派な淡いピンクの花弁をつけていた。俊が手入れを怠らなかった結果だ。サザンクロスは長雨、高温多湿、寒さを苦手とするため梅雨の時期や夏場、そして、冬は特に気をつけて育てた。また、花付きをよくするために、枝先の摘み取りも忘れずに行っていた。
更に、二年から三年に一度植え替えを行わなければならない。鉢の中が根でいっぱいになり、根詰まりを起こすと、生育に支障をきたしてしまう可能性があるからだ。植え替えの時期は三月ごろで、どうやらそれを行うのは来年になりそうだ。
「願いをかなえて……か」
俊はぽつりと花言葉を呟いた。
願いをかなえて――桜庭の願いは、自分と付き合うことだったのだろう。それを叶えてやることはできなかった。いや、できなかったのではなく、掟を盾に俊が逃げたのだ。楽園を捨てたくない、という気持ちがまだ強かった。そのせいで、自分の気持ちに素直になれずにいる。