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  文化祭は二日間設けられていた。一日目は生徒たちだけの文化祭だが、二日目は一般公開される。少し文化祭を見にこようと、近所の人や生徒たちの保護者、小学生や中学生たちが訪れるのだ。小学生や中学生は専ら、模擬店やイベントが目的なのだろう。それを狙って、ターゲットを彼らに絞ったイベントも少なくなかった。

 当日、俊たちの喫茶店は大いに盛り上がっていた。学習室の前に掲げられている立派な看板。教室内はBGМが流れ、それなりに雰囲気の漂った空間となっていた。表向きは喫茶店となっているが、その中では、モノマネ大会や一発芸大会といったイベントが行われている。無論、コーヒーや紅茶などを飲みながら寛げるスペースもある。

 一日目の文化祭を終えて、俊たちのクラスはまずまずの売り上げを出した。二日目でなんとか黒字にはなりそうだが、それでもまだ赤字だった。

 モノマネ大会と一発芸大会はそれなりに人気を博し、その観覧に喫茶店を利用する客が絶えなかった。

 もう一つ人気があった理由として、女子生徒たちのメイド姿が挙げられるだろう。そのためか、喫茶店内は男性客が大半を占めていた。客層がどうであろうと、客が入ればそれだけ稼ぎが出るので、そこのところは気にしない。それは女子生徒たちも心得ていることだ。

 中には喫茶店というスペースを利用して、なにもせず何時間も寛いでいく輩がいた。売り上げが延びなかった原因はそこにあるのかもしれない。喫茶店と平行してイベントを設けたため、席は限られてくるし、客の入る人数もたかがしれている。だからといって、無理矢理客を追い出すことはできない。そんなことをすれば、評判は悪くなり二日目の売り上げに影響が出てくることは必至だろう。

 そこで、二日目は時間制限を設けることにした。大会にエントリーしていない喫茶店利用者は一人二十分と設定した。そうすれば、一日目よりは客が増え、売り上げも延びるはずだ。

 俊たちの目論見通り、二日目は順調に売り上げが延びていった。例によって、モノマネ大会や一発芸大会は相変わらず人気だった。優勝者には商品があるのだから、それが更に拍車をかけているのかもしれない。俊たちは接客をしながら、それを見ることが可能なのだからまさに一石二鳥だ。

「大成功だね」

 メイド姿に扮した桜庭が、教室内を見渡し言った。教室は笑いに包まれ、相変わらず人で溢れている。

「そうだな。桜庭の奇抜なアイディアが功を奏した、と言ってもいいんじゃないかな」

 桜庭は照れたように笑った。そんな彼女の笑顔も可愛いなと俊は思った。思わず見とれてしまいそうになる。

「二人とも暇?」

 接客をしていたメイド姿の藤崎が、突っ立って教室を眺めていただけの俊たちに声をかけた。

「俺は特にやることないけど」

 俊が声を大にして答えた。そうしないと、笑い声にかき消されてしまうほどに、教室内は盛り上がっている。藤崎は一つ頷くと、両手に籠を持って二人のところへやってきた。二つの籠の中には、クッキーの入った袋が一杯に入っていた。ざっと三十袋ほどありそうだ。

「二人でこれを売りさばいて来てくれない」

 藤崎は俊に籠を差し出した。

「マジで……」

 ため息をつきながらも、俊は二つの籠を受け取っていた。同時に、一つ二つと目で袋の数を数えていった。それを数え終える前に藤崎が口を開いた。

「あ、籠には三十四個入ってるから。なんかクッキーの売れ行きが悪くて」

「そんなに残ってるの?」

「へへへ……調子に乗って作りすぎちゃったかな」

 藤崎はぺろりと赤い舌を覗かせた。

「じゃ、二人でよろしくね」

 藤崎は二人で、という言葉を強調して言った。その真意はわからないが、意味ありげに思えた。

「ちょっと待って。あたし、この格好で出歩くの恥ずかしいんだけど……着替えていいかな」

「だめ!」

 更衣室へ向かおうとした桜庭を、藤崎は腕を掴んで止めた。

「麻由はその格好じゃなきゃ意味がないんだから」

「どうして?」

 桜庭は藤崎の意図が掴めず、小首を傾げた。俊はなんとなく藤崎の思惑を察していた。桜庭のメイド姿を利用して客を集めようという企みだろう。

「その格好で売ってこそ売れるものじゃない」

「そうなの?」

「そうそう。それにクラスの宣伝にもなるしね」

 藤崎はにやりと笑みを浮かべた。そして俊のほうに向くと思い出したように付け加えて言った。

「あ、そうそう、甲斐谷くんはこれを着てね」

 藤崎は白いエプロンを俊に渡した。

「なんだ、これ?」

「宣伝よ」

 藤崎に言われるままそのエプロンを着て、宣伝という意味がわかった。胸の辺りに、「喫茶店『ユトリとワライの空間』2―6 学習室」と刺繍が施されていた。

「なるほど、宣伝ってこういうことか」

「じゃ、よろしくね。全部売りさばくまで戻って来ちゃだめだよ。こっちは大丈夫だから」

 そう言い残し、藤崎は春樹のところへ向かった。今度はモノマネ大会の司会を任されている春樹に、なにかを指示しているようだ。彼女はこういったイベント時のまとめ役に向いているのかもしれない。前期に学級委員長を務め、クラスをまとめてきただけのことはある。

 二日目に、喫茶店に時間制限を設けてはどうかという案を出したのは藤崎だった。一日目の文化祭を終え、売り上げが延びなかったことの対策について話し合っているとき、誰もがそれに悩んでいた。

 イベントを止め、喫茶店だけに徹するのはどうかという意見も出たが、それは即却下された。一日目の様子を見て、イベントを設けることによって、客が集まって来ているようなものだった。

 そして藤崎が提案したのだ。彼女の提案は、喫茶店利用者に時間を設けることだった。だがそうすると、利用者が減ってしまうだろうという反対意見も出たが、それについても彼女はちゃんと考えていたようだ。時間を設ける代わりに、飲料と食べ物を注文した人には割引をしようと提案したのだった。その案は、クラスの誰をも納得させるものだった。

 それにこの籠のクッキーは、実は宣伝のために、意図的に用意されたものではないかと俊は考えていた。その宣伝に人気のある桜庭を起用し、しかもメイド姿ともなれば、食いつかない男子はいないだろう。全て藤崎の思惑通りに事が運んでいるように思えてならない。

「仕方ないな。これを売りさばきに行くか」

 俊は長いため息をついた。桜庭はうつむき、もじもじしている。まだ躊躇っているようだ。

「桜庭が行きたくなかったらそれでもいいよ。俺一人で行ってくるから」

「ううん、あたしも行くよ」

 俊は籠を一つ桜庭に渡した。

 まず、俊と桜庭は体育館前へ足を運んだ。体育館では生徒たちによるライブが行われている。文化祭で人が集まる場所の一つだ。

 二人は、体育館の出入り口付近でクッキーを売ることにした。体育館内への飲食物の持ち込みは禁止されているため、館内で売ることはできない。

「美味しいクッキーはいかがですか。手作りクッキーはいかがですか。」

 俊は声を大にして言った。それでも体育館から漏れる音響にかき消され無意味だった。

 体育館を出入りする人は二人の姿に気づくと、二人の許へ集まってきた。心なしか、男子生徒が多いのはメイド姿の桜庭を一目拝むためなのかもしれない。桜庭の頬は赤かった。やはりメイド姿で出歩くのは恥ずかしいようだ。それに加え、注目を集める存在なのだから尚更だ。

 二人は営業スマイルを振りまき、クッキーを売りさばいていった。結果、体育館前では一篭分のクッキーを売りさばくことに成功した。そして二人は売り場を変えることにした。

 次に選んだ場所はホールだった。下駄箱を抜けると、すぐにホールになる。この場所は人が集まるというより、通りになる場所だ。このホールを中心に、様々なイベント会場に繋がっている。一番人目につきやすい場所というわけだ。そのため、俊たち以外にも催し物やイベントの宣伝をしている人たちが何人か目に付く。

 二人は体育館前と同じように、クッキーを売りさばいていった。売れ行きは順調で、残すクッキーはあっという間に三袋だけとなった。

 俊は近くの椅子に座った。その隣に桜庭が座った。

「あっという間だったな」

 桜庭はうんと頷いた。

 俊は腕時計に視線を落とした。クッキーを売り始めてまだ四十分ほどしか経っていなかった。

 俊は籠の中のクッキーの袋を一つ手に取った。ハート型、星型、スペード型と様々な形のクッキーが入っている。茶色のチョコレート味や緑色の抹茶味といったクッキーも入っていた。

「このクッキーってさ、女子が作ったんだよな」

「そうだよ」

「桜庭が作ったのも入ってるの?」

「うん。形と味ごとに分担して作ったんだ。あたしが作ったのは、星型のチョコレート味」

「へえ……せっかくだし、一袋もらっちゃお」

 俊はクッキーの入った袋を開けると、星型のクッキーを取り出し口に運んだ。チョコレートの匂いと甘い味が口の中で溶け込むように広がった。

「けっこう美味しいじゃん」

「クッキー作りに携わった人たちは、みんな料理が好きな人だったからね」

 桜庭は俊の持つ袋から、クッキーを一つ取り出すと口に運んだ。

「上出来だね。こんなに美味しいのに、売れ行きが悪くて残念だったな」

「残りは二つか……俺たちで食べちゃう?」

「いいね」

 残りの二袋は二人で分け合うことにした。楽園へのお土産にしようかと一瞬考えたが、すぐに棄却した。後一年余りも、手作りクッキーが持つとは思えない。

 天使たちは下界の食べ物を口にすることが滅多にない。それゆえに、一度、下界の食べ物を食べてみたいと思う天使が、何人かいることを俊は知っている。

 売りさばくのにこれほど早く終わるとは思っていなかった俊は、いろいろ見て回ってから戻らないか、と桜庭に提案した。桜庭は少し逡巡した様子を見せたが、間もなく大きく頷いた。どうせ戻ったところで、こき使われ忙しさに追われることだろう。

 結局、二入が学習室に戻ったのは午後二時過ぎだった。クッキー売りを始めて、二時間後のことだ。二人でいろいろな催し物なり、イベントなりを見て回っていたら、つい時間を忘れてしまっていた。

 学習室の前までやってきて、長蛇の列が目に入り俊は目を丸めた。どうやら順番待ちの人たちのようだ。並んでいる大半は男性客だった。やはり、メイド姿がかなり効いているらしい。無論、宣伝の効果もあるだろう。

 学習室に入るなり、藤崎が営業のときとは似ても似つかわしくない形相で、二人のところにやってきた。

「遅い! いつまでかかってんのよ」

「ごめん。全然売れなくてさ」

 俊はうそをついた。そんな俊を見て、桜庭はくすりと笑った。

「なんで笑うのよ」

「ごめん」

「はあ、なるほどね……」

 藤崎は不適に笑みを浮かべてみせた。

「デートは楽しかった?」

「ちょっと、デートなんかじゃ……ただ、売れ行きが悪かっただけで……」

 慌てた様子で、桜庭は否定した。顔は真っ赤だった。ねえ、と確認をするように言われ、俊は無意識のうちに頷いていた。

「そう、そんなに売れ行き悪かったんだ。残念」

 藤崎はがっくりと肩を落とした。俊はうそをついたことで、少し申し訳ない気持ちになった。だが、売れ行きは絶好調だったと改めて言い直せば、うそをついたことがばれてしまう。

「まあ、それでも全部売れたわけだし。終わり良ければ全て良しでしょ。こっちのほうはどう?」

「見ての通り大繁盛。お客さんが入らなくて順番待ちをしてもらってるくらいだもん」

 俊は教室内を一瞥した。教室内も、やはり男性客が多かった。中には携帯電話で女子生徒のメイド姿を写真に撮っている者もいた。

「やっぱり、男性客が多いな」

「どうせメイド姿が目的でしょ。まあ、そのおかげで、こっちも稼げてるんだけどね。それに……」

 にやりと笑みを浮かべた藤崎は、桜庭のほうに顔を向けた。

「麻由を宣伝に使って正解だったわ。こんなにお客さんが来たのも、少なからず宣伝の効果が出ているって証拠だろうしね」

「どういうこと?」

 桜庭は首を傾げた。やはりな、と俊は自分の考えが正しかったことを確認した。

「麻由がメイド姿で宣伝をしてくれたおかげで、この喫茶店に来ればメイド姿が拝めるだろうと思った輩が来たってわけ。だから麻由はメイド姿じゃなきゃだめだったのよ」

 桜庭はあっと言って、手で口を覆った。自分が上手いように利用されていたことに、やっと気づいたようだ。

「ひどーい。あたしは上手いように利用されてたってわけ。千春のバカ!」

「ごめん、ごめん」

 藤崎は謝ったが、顔は笑っていた。

「でもね、麻由は格別に可愛いんだから、こういう役は麻由以外にいないと思うんだよね」

「うん、俺もそう思う」

 無意識のうちに、素直な肯定が口をついて出た。桜庭は照れながら、

「でも、この格好はやっぱりきつかったよ」

 と言った。

「ごめんね。今度なにか奢ってあげるから。さあ、二人も仕事に戻って」

 藤崎は俊と桜庭の腕を掴むと、強引に教室に引き込んだ。そして二人は各々与えられた仕事に戻った。

 その後も、喫茶店は客が絶えることがなかった。教室の中は常に人で溢れ返っており、引っ切り無しに注文が飛び交った。そのため、休む暇も無く調理や接客にあたらなければならなかった。『ユトリとワライの空間』らしく、喫茶店利用者は寛ぎつつもモノマネ大会を観戦し、終始ワライの絶えない空間だった。盛り上がりだけは、他のどのクラスにも負けていないだろう。



 文化祭は午後三時半に幕を閉じた。閉会式では、学年ごとに催し物売り上げランキングが発表された。俊たちのクラスは売り上げランキングで二位だった。一位には後一歩及ばなかったが、それでも僅差だった。

 その後、教室でホームルームを終え、文化祭実行委員の二人は、後片付けに追われることとなった。準備のときと同様に、クラスの何人かは二人を手伝った。

 壁の飾り付けを剥がし取ったり、移動した机や椅子を戻したりと後片付けも大変だった。だがそれも彼らの手伝いがあって、あっという間だった。一段落着いたところで、

「後は俺たちでやっとくから、みんなは帰っていいよ。ありがとな」

 と学習室全体に行き渡る声で俊が言った。それを合図に、何人かがぞろぞろと教室を出ていった。

 最後まで二人の手伝いに残ったのは、春樹と藤崎だけだった。後少しで片付けが終わるというところで、二人も教室を出て行った。教室を出る間際、藤崎は桜庭にウインクを投げかけていった。それがなにを意味しているのか俊にはわからなかったが、桜庭は微笑んだかと思うとすぐに目を伏せた。

 二人が出ていって、しばらく沈黙が続いた。桜庭は喫茶店で使用した机を拭いていた。俊は残された壁の飾り付けを剥がし取っていた。教室は片付け始めた頃の騒がしさはなく静まり返っていた。

「文化祭楽しかったね」

 桜庭が片付けの作業をしながら徐に口を開いた。

「うん。文化祭実行委員も大変だけど悪くないな」

「そうだね。甲斐谷くんと一緒でよかったよ」

「えっ、どういう意味?」

 俊は手を止め、桜庭のほうに顔を向けた。

「きっと甲斐谷くんとだったから、楽しくできたんだと思う。他の人だったらどうだっただろ」

「別に俺じゃなくても楽しくできたんじゃないかな。もし俺じゃなくて春樹だったら、春樹のほうが俺よりノリはいいだろうしさ」

 そうかも、と言って桜庭は笑った。桜庭は手を止め、俊のほうに顔を向けた。真剣な眼差しにはなにか決意が込められているように思えた。

「あたしたちが最初にこの教室に集まったとき、あたしが冗談で言ったこと覚えてる」

「なんて言ったかな?」

 忘れるはずがない。もちろん覚えていたが、俊はとぼけた。

「あたしと付き合っちゃうって言ったこと」

 桜庭はもごもごと、少しうつむき加減で言った。

「ああ、そういえばそんなこと言ってたな」

 うんうんと頷き、今思い出したという風に装った。

「甲斐谷くん……」

 桜庭は俊の顔を真っ直ぐ見つめた。

「あたし、甲斐谷くんともっと一緒にいたい。あたしと付き合ってくれない」

「え、じょう――」

「冗談じゃない! あたし本気だよ!」

 俊の言葉を遮り、桜庭は力強く言った。

 俊の胸は高鳴っていた。顔が妙に熱く感じ、桜庭のほうに顔を向けているのが耐えられなくなり、彼女から目を逸らした。頭の中はすっかり混乱していた。

「でも桜庭には好きな人が……」

 そこまで言って、俊ははたと口を塞いだ。

「もしかして、桜庭の好きな人って……」

 桜庭はこくりと頷いた。

 春樹の言っていたことは間違いではなかったようだ。桜庭も俊に対して想いを寄せていたということ。俊の恐れていた、お互いが両想いだったということだ。

「ずっと前から、甲斐谷くんのことが好きだったの。一目惚れ……っていうのかな。だけどずっと言えなくて、気持ちだけずるずる引きずってた」

「ごめん……」

 俊はうつむき、小さな声で言った。

「…………」

「ごめん。俺、桜庭とは付き合えない」

 俊の頭に天使の掟が過ぎった。天使は人間に恋してはいけない――その思いが、迷いの残っていた俊の背中を後押しした。

 一瞬、教室内は重い空気に包まれ、沈黙が支配した。俊にはとても長い時間のように思えた。

「そっか。いきなりでごめんね」

 桜庭は明るく言った。

 俊は顔を上げ、彼女の顔を見た。彼女は笑顔を浮かべていたが、どこかぎこちなさを感じた。無理に笑顔を装っているということが明かだった。

「あたし調子乗ってたみたいね。ほんと、バカみたいだよ。甲斐谷くんと一緒になることが多くて、楽しい時間も過ごせて、このまま告白すれば上手く行くかもって思ってたんだけど、あたしの勘違いだったみたいね」

 桜庭は自嘲気味に笑った。桜庭の台詞が春樹の台詞と被り、俊はふと思い当たることがあった。

 桜庭の目には涙が滲み出していた。桜庭はくるりと俊に背を向けると、

「ちょっと外の空気吸ってくる」

 と言って、教室を出て行こうとした。

「待って!」

 俊は桜庭を呼び止めた。

「その……ずっと前からって、いつからだったの?」

「甲斐谷くんと出合ったときから。あたしが、声をかけた日のこと覚えてる?」

 俊はその日のことを思い出した。時子の家を訪れようとしていたときのことだ。紙片に目を落とし、困惑を浮かべていた俊に声をかけてきたのが桜庭だった。

「あたしってさ、変なところで積極的になったりするんだよね。だから、初めて会った人でも興味を持てばいろいろと聞きたくなっちゃうし、そのくせ恋愛に関しては素直になれず、奥手になっちゃうの。告白まで後一歩が踏み出せなくて、ずっと想いを引きずっちゃうんだ。今まで片想いで終わった恋は何度かあったの。その度、今度こそはって、いつも自分に言い聞かせてた」

 桜庭の肩は小刻みに震えていた。

「でも、なんで俺だったの。ほら、俺は別にかっこいいわけでもなく、外見は至って普通だよ。そりゃ、頭はいいほうかもしれないけど、桜庭みたいにみんなから好かれるような要素は持ってないし」

「一目ぼれに、理由って必要かな。それじゃ一目ぼれとは言えないんじゃないかな。それに、一目ぼれってそれぞれの人の観点によって違うものだと思うよ」

 俊は反論できず、口を閉ざした。彼女の言う通りだ。俊にしても、なにか理由があって桜庭に惚れたのではなかった。

 いきなりのことだった。そして気づけば、彼女に想いを寄せていた。一目ぼれは突然のことで、自ら告白しない限り片想いなのだ。

 桜庭は教室を出ていった。空しく廊下に響く彼女の足音は、すぐに遠ざかっていった。

 一人教室に取り残された俊は、崩れるようにして椅子に座り込んだ。頭の中は真っ白だった。片想いだと思っていたが、それは違った。天使と人間、複雑な関係だ。こんなことになるなら、下界に来るべきじゃなかったな、と俊は後悔した。

 しばらくぼうっと座っていると、突然、勢いよく扉が開けられた。教室に入ってきたのは春樹だった。

 春樹はずかずかと俊のもとへ歩み寄ると、俊の胸倉を取り、無理矢理立たせた。見るからに怒っている顔だ。どうし春樹が怒っているのかは察しがつく。

「なんで、桜庭をふったんだよ。桜庭のこと好きじゃなかったのか」

 俊はそっぽを向きなにも答えなかった。

「おい! なんとか言えよ!」

 春樹は苛立ちを含んだ声で叫んだ。

「春樹には関係ないだろ」

 俊はぶっきらぼうな口調で言った。瞬間、俊は後方に吹っ飛んでいた。春樹が俊の頬を殴ったのだ。俊はじんじんと痛む頬に手を当てた。唇が切れたようで、口の辺りがひりひりと痛んだ。

「なにすんだよ」

 俊は春樹を睨んだ。

「ズルイよ。自分は片想いでいいからって……だからって、桜庭に告白されて桜庭をふるなんて、どうして……」

「どうしてって、俺はずっと片想いでいいから」

「答えになってない。俊は片想いでもいいかもしれないけど、桜庭の気持ちは違うんだ」

 俊は言葉に詰まった。確かに春樹の言う通りだ。桜庭にとって、天使の掟など全く関係のないことなのだから。

「桜庭、泣いてたぞ」

「…………」

「俊が告白しないなら、俺はそれでもいいと思っていた。だけど今回は話が違う」

 春樹は拳を握ると、俊をきっと睨んだ。今にも飛び掛りそうな雰囲気だ。だが春樹はそうせずに、俊に背中を向けた。

「お前は自分の都合で桜庭を傷つけた。サイテーだな」

 春樹の言葉が、ずしりと俊の胸に圧し掛かった。親友から言われた、今までにない一番きつい言葉だった。

「知っていたんだな。桜庭が俺のこと好きだってことを……」

「ああ、知っていた。前に桜庭本人から聞いた。それで、俺と千春が協力してあげたわけさ」

「やっぱり……それで桜庭に告白しろってしつこく言ってきたわけだ」

「こんな結果になって、協力した俺がバカだったよ。両想いだった、と気づけば俊は桜庭に告白するか、桜庭の告白を受けるだろうと思ったんだけどな。だが結果的には、桜庭を傷つけることになっただけだ」

 春樹の作った握り拳はぷるぷると震えていた。きっと怒りからだろう。

「いつか話せよな。そこまで片想いに拘るには、なにか理由があるんだろう。俺たち親友なんだしさ」

 わかった、と俊は小さな声で春樹の背中に向かって言った。春樹は教室の扉を勢いよく開けると、学習室を出ていった。

 なるほどと、俊は自嘲した。片付けの途中二人が出ていったのは、俊と桜庭に気を遣ってのことだったのだ。そう考えると文化祭のとき、宣伝を兼ねたクッキー売りを俊と桜庭に任せたのも、藤崎の思惑だったのだろうか。

 その後、俊は一人で学習室の後片付けをしていたが、結局桜庭が戻ってくることはなかった。春樹や藤崎が来ることもなく、俊は一人で片付けを終わらせた。

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