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その教室は二階の一番奥にあった。学習室という、休み時間や放課後に生徒たちが自由に使える教室だ。本来、この教室は生徒たちの自由学習の空間として設けられているのだが、普段この教室を、勉強を目的として利用する生徒はほとんどいない。昼休みに昼食の場所として利用される程度か、世間話に花を咲かせるためのたまり場となるくらいだ。勉強を目的として利用されるのは、中間テストや学期末テスト間近のときに、休み時間や放課後の時間を使って勉強をしたりするときくらいである。
昼休みに桜庭と相談して、どの場所が最適かと考えた末、学習室が思い当たった。この場所だと、他の者に邪魔されることもないだろう。二人だけの時間を作るのにも最適な場所だ。
案の定、俊が教室に入ったとき、誰もいなかった。俊は窓側の一番後ろの席に座った。前の授業で化学を行っていたのか、黒板には熱化学方程式が書かれていた。一見、難しそうに見えるが、俊にとっては取るに足らないような問題だ。
かばんを開け、ノートと筆記用具を取り出した。そのノートに、出た案を書き留めていこうというわけだ。俊はくるくるとペンを回し、ぼうっと窓の外に目を向けた。
しばらくすると、廊下に足音が響く音が聞こえてきた。足音は徐々に大きく近づいてきた。そして学習室の扉が開けられた。
「ごめん! 遅れちゃって」
桜庭は顔の前で手を合わせ詫びた。
「別にいいよ」
「今日、部活の集まりがあるのをすっかり忘れてて……」
桜庭は俊の前の席に着いた。桜庭は椅子ごと後ろに向き、二人は向かい合う形となった。
「部活、大変なの?」
「もう少しで大会だから、みんな一生懸命だよ」
「そっか。今日も部活あるんだよね」
桜庭は頷いた。
「じゃ、さっさと決めちゃお」
「いいよ。今日は遅れて行くって言ってあるから」
桜庭は文化祭実行委員の仕事を疎かにする気はないようだ。部活が大変だというのに桜庭は文化祭実行委員の仕事もちゃんとこなそうとする。あのときの目を思い出すと、それもそうかと俊は納得した。
「文化祭での催し物なにかある?」
桜庭が訊いた。
「そうだな……」
俊は片方の手でペンを回しながら、もう片方の手で頬杖をつきながら考え込んだ。
「焼きそばとか、クレープとか、たこ焼きなどの飲食系か、お化け屋敷とかのアトラクション系でいくかのどっちかだよな」
俊は呟くように言った。そしてそれらの案を一応ノートに書き留めておくことにした。が、あまりにも普通すぎて、これらの催し物はないだろうなとも思った。
「そうだね。でも、もっと奇抜な面白いことしてみたくない」
「面白いことって、どんなこと?」
俊は小首を傾げて見せた。
「モノマネ大会とか、一発芸大会なんてどうかな? で、優勝した人には商品ありでさ」
「それ面白いかも」
「でしょ」
桜庭は少し誇らしげな顔だった。俊はノートに書き留めた。
「飲食系やアトラクション系もいいけど、参加型の催し物もいいかなって思ったのよ。ただ、参加型にすると儲けがないけどね」
その後、二人は会話を楽しみながらいくつも案を出した。ノートに書き留められた案は、十を超えていた。中には画期的で面白いものもいくつかあった。それらの大半は桜庭が出した案だった。
会話が途切れ、教室が静まり返ったときだった。桜庭に見つめられ、俊は思わず顔を赤らめ、桜庭から目を逸らした。
「ねえ、話変わるけど一つ訊いていいかな?」
桜庭が徐に口を開いた。
「なに?」
「甲斐谷くんてさ、好きな人いる?」
「えっ……」
桜庭の質問に俊は少し動揺した。意表を突かれた思いの質問だった。
「別にいないけど」
「そう……」
桜庭は意味ありげに、にやりと笑った。
「それなら、あたしと付き合っちゃう?」
「…………」
一瞬、耳を疑った。返答に窮し言葉を失った。
「冗談よ、冗談。残念ながら、あたしには好きな人がいるから」
桜庭は笑いながら言った。俊はほっとしたような、残念なような複雑な心境だった。
「そうなんだ」
「片想いなんだけどね。いつか想いを伝えなきゃって思ってる。言わなきゃ、想いは伝わらない。ずるずる想いを引きずっちゃうだけじゃ、苦しいもんね」
「好きな人って誰?」
「ひ・み・つ」
桜庭は目を細めくすりと笑った。
「あたし、そろそろ部活に行くね」
桜庭は席を立つと、扉に向かって歩き出した。扉を前にして、桜庭は俊のほうに振り返ると人差し指を立て、口を開いた。
「あたしの好きな人は秘密だけど、君に一つヒントを差し上げよう。あたしの好きな人はね、遠くはなくてすごく近い存在の人だよ」
そう言って、桜庭は教室を出ていった。一人取り残された教室で、俊は桜庭の言葉を反芻してみた。誰だろうと、考えてはみたが思い当たる人物は特にいなかった。人気なだけに、彼女の周辺はあまりにも人が多い。その中に俊もいるのだろう。
まさか――と、一瞬期待してしまったが、それはないだろうと即座に否定した。
その後も、俊たちは放課後や昼休みに集まり文化祭の催し物について様々な案を出していった。最終的に俊のノートには三十余りの案が書き留められた。焼きそばやたこ焼きやお化け屋敷など定番のものから、バルーンアート選手権やコスプレ一発芸など参加型の催し物などがある。中には、すぐさま生徒会に棄却されてしまいそうなくだらないものまであった。〈量より質〉ではなく、〈質より量〉だ。二人はできる限り思いつくだけの案を、それこそまさに無闇矢鱈と出していったのだった。
そして二週間ほどが経った頃だった。ホームルームが終わってから高根が言った。
「今から文化祭の催し物について決めよう」
ざわついていたクラスは途端に静まり返った。かばんに教科書を詰め込みながら、帰り支度をしていた者の手は止まり、露骨に嫌そうな顔に変わった。またもごもごと文句を垂らしている連中もいた。放課後がそんなことのために潰されるのは誰だって嫌だろう。
そんなクラスの雰囲気を察してか、高根はうんうんと頷いていた。
「あまり時間は使わない。そのために文化祭実行委員の二人には、前もって案を出しておいてもらったからな」
嫌そうな顔をしていた者は、ほっとしたような安堵の色に変わった。高根の目論見通りといったところか。無駄な時間を浪費しないために、文化祭実行委員に案を出させた。
「いくつかは文化祭実行委員が案を出してくれたから、それで多数決を採っていこう。まだ出ていない案があって、それがやりたいと思うなら、遠慮なく言ってくれ」
高根は俊と桜庭を呼んだ。二人は担任教師に促されるまま教壇に立った。俊はノートに書かれている案を黒板に書いていった。
「ここに書かれている案以外に、なにかやりたいことあるかな?」
俊が書き終えてから、桜庭が教室を一瞥して言った。首を傾げ考えている者や、唸っている者はいたが、はっきりとした反応は返ってこなかった。さすがに三十以上も案があると、それ以上案が出る期待は薄い。
「どうかな?」
桜庭は間を置いてから、もう一度訊いた。
しかし新たな案が出る気配はなかった。そこで多数決が採られることになった。
多数決によって大半を占めたのが、モノマネ大会と喫茶店だった。飲食系と参加型で見事に分裂した。そこで俊が提案した。
「喫茶店の中に、いろいろ設けてみてはどうかな。モノマネ大会とか占いとか。そのかわり俺たちの仕事が大変になるだろうけど」
「それいいね。喫茶店で儲けも出るし、参加型のイベントを設ければ、人を集められる」
桜庭が俊に賛成した。
文化祭で得た儲け分は、そのクラスに配分される。後の打ち上げなり、募金なり、その使い道は自由だ。黒字といっても、所詮は高校の文化祭だ。大した儲けが出るわけではなく、一万円以上出ればいいほうだ。
「どうかな?」
俊はクラスを一瞥し訊いた。その中の一人が手を叩き、また一人が手を叩き、クラスは瞬く間に拍手に包まれた。満場一致で、俊たちのクラスは喫茶店と平行して、モノマネ大会などのイベントを設けるという案で決定した。後は生徒会がそれを許可するかどうかだ。
「俺からも一つ提案があるんだけど」
春樹が手を上げて言った。にやにやとした顔つきだった。なにか企んでいる顔だ。
「喫茶店のことなんだけどさ、女子はメイド姿で接客するってどう?」
この案に、大半の男子が賛成した。一方で、女子は五分五分だった。結局、それも多数決が採られ、女子でやりたい人だけがメイド姿で喫茶店のウエイトレスをやるということになった。メイド服を着ない者は、調理やイベントのほうに徹することになった。
「メイド服はどうやって用意するの? みんなの予算を集めてもそんなに用意できないでしょ」
桜庭が春樹に訊いた。
「それなら問題ない。知り合いの人で、服を作っている人がいるから、頼んでみるよ。文化祭までまだ時間があるから、必要な数だけ用意できると思う」
放課後、俊は部活のなかった春樹と一緒に帰ることにした。こういったことは滅多にないのだが、春樹の部活がない日は彼から一緒に帰らないかと誘ってくれる。俊にとっては嬉しいことだった。
俊が木碕大学付属木碕高等学校に入って、最初に声をかけてくれたのが隣の席の春樹だった。春樹はメガネをかけていて明るい感じだった。背は高く、笑ったときに覗かせる白い歯が健康的だ。サッカー部に所属している春樹の黒く日焼けした肌は、今も変わらない。だが一つ変わったことがあった。この春から春樹はメガネを止め、コンタクトレンズに変えたのだ。
レンズが割れて目を傷つけてしまう恐れがある、というのがコンタクトレンズに変えた理由だった。どうやら、メガネはスポーツ向きではないようだ。
サッカーにおいて、彼のポジションはミッドフィルダーである。その中でも、特にセンターミッドフィルダーを得意とするポジションらしい。彼曰く切れ味鋭いドリブルを武器としているらしい。レギュラーではないが、控え選手である。
「やっぱり桜庭に告白したら」
自転車を押していた春樹は立ち止まって口を開いた。
「いきなりなんだよ」
「まだ桜庭のこと好きなんだろ?」
俊は一瞬迷ったが、春樹にうそをつく必要もないだろうと思い頷いた。
「俊なら上手くいくと思うんだけどな」
「どうしてそう思う?」
「うーん、なんていうか……」
春樹は短い髪の頭をぼりぼりと掻き、返答に窮した。困惑した顔で、言葉を探しているようだった。
「第三者から見ての印象なんだけど、二人っていい感じだなと思ってさ。それにお前たちって、一緒になることが多いだろ」
「一緒になること?」
「役員だってそうだし、席も隣だろ」
「そうだけど。でもそれは偶然だよ。だからって上手くいくとは限らない」
そう言われると、春樹も反論の余地がないらしく、黙ってしまった。
「でも、俺はきっと上手くいくと思ってる。結局のところ、告白するかどうかは俊次第なんだけどな」
春樹はきっぱりと言い放った。勢いに任せた、根拠のない発言だ。
これきり春樹は桜庭のことについて触れることはなかった。もし、俊が桜庭に告白するというのなら、それは天使を捨てるということを意味する。今の俊には、そこまで踏み切れない。だから、告白なんて絶対できない。
だがその一方で、桜庭への気持ちを拭い去れずにいるというのも事実だ。それに、春樹はそう言うが、絶対という確信が俊になかった。
しばらく二人で歩いていると、前から同じ制服を着た男が歩いてきた。男は髪の毛がやや茶色く染まっていて、日焼けした肌をしていた。多分、屋外の運動部に所属しているのだろう。鼻が高く、小さな顔をしていた。
俊はその男からなにか嫌なものを感じた。不気味で黒い得体の知れないものが、彼を包んでいるかのような感じだ。胸騒ぎを覚えた。
春樹が足を止め、俊も反射的に立ち止まった。
「どうしたんだウリュウ?」
男とすれ違う前に、春樹が男に声をかけた。男も立ち止まった。
「学校に忘れ物をしちゃってさ」
ウリュウと呼ばれた男が答えた。
「ふうん、それで学校に向かう途中ってわけか」
「そう。じゃあ、俺急いでるから」
男は学校に向け歩き出した。春樹は振り返り、
「次の試合頑張れよ」
と彼の背中に向かって、声をかけた。
「ああ、三ゴールは決めてやるよ。期待しとけ」
男は振り返ることなく言った。その後手を上げると、ゆらゆらと振った。
「誰?」
「俺と同じサッカー部だ。俊も名前くらいは知ってるんじゃないかな」
俊は首を傾げた。ウリュウ、と聞いて思い出す人物はこれといっていなかった。
「今年転校してきた、ウリュウヒカルだ。俺たちの隣のクラスのやつ」
「あいつが……」
やっと思い出した。もう一度彼の姿を拝もうと振り返ったが、既に彼の姿はなかった。
今年の二月の寒い日に、一人の転校生がやってきた。それが瓜生光だった。瓜生は、日本人離れした美貌で、転校してくるなりクラスの注目の的となった。運動神経もクラスの誰よりもずば抜けていたようだ。その運動神経を買われ、彼のもとにはサッカー部や野球部といったスポーツクラブからの勧誘が殺到したようだった。そして彼は今、サッカー部に所属している。
「あいつサッカー上手くてさ。二年でレギュラーだぜ。レギュラー選考の紅白戦のときなんて、誰よりも注目を集めてたな」
「へえ……」
「監督の先生なんか、これからが楽しみだなんて期待してるくらいだからさ。相当すごい実力なんだろうな」
サッカーにおいて、春樹はかなりの実力者だ。だが、それでもレギュラーメンバーではなく控え選手である。その春樹が、必要以上に瓜生を讃美するのはその実力を認めている証拠だろう。
「でも、あいつって謎多き人物なんだよな」
春樹は途端に神妙な顔つきになり、ぽつりと言った。
「謎多き人物?」
「以前に、前の学校はどこだったかって聞いたことがあったんだけど、教えてくれなくて。他にも瓜生はプライベートなことはあまり話さないんだよ。なにか隠しているのかな」
「誰にも秘密にしたいことの一つや二つはあるさ。瓜生は、特別プライベートに関しては、あまり他人に踏み込まれたくないだけじゃない」
瓜生光――彼から感じた嫌なものはなんだったのかと俊は考えた。黒くて得体の知れないもの。瓜生は装っていると直感的に思った。いや、装いとは違うものなのかもしれないが、極めてそれに近いものだろう。しかし、現状では彼の正体はわからない。なにかもやもやとしたものが、俊の胸に残った。