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「それじゃ、後期の役員を決めようか。委員長の佐郷と藤崎は前に来てくれ」
俊のクラスの担任教師である高根隆三が言った。後期が始まって、二週間ほどが経った頃だった。クラス役員は半期で変わることになっている。夏休みを跨いで半期が終わったため、後期の役員を決めようというのだ。
佐郷優と藤崎千春は教壇に立った。その後、二人は黒板に役員名を書き並べていった。高根は彼らが書き終えるのを、髭の生えた顎に手を当てながら待っていた。彼らが全て書き終えると、高根は再び口を開いた。
「よし、それじゃ決めていこうか。どういう風に決めていく?」
高根はクラスをざっと一瞥すると訊いた。
彼は、まず生徒たちの意見を優先する教師だ。決め事があるときは、いつも生徒たちにどういった風に決めていくのかと提案する。そこが他の教師たちと違う点でもあった。型に嵌った考えを嫌う人なのだ。決して若いとは言えないが、高根は若者の流行に敏感で、生徒たちともよくファッションやゲームについての話をしている。話の合う先生としてなかなか生徒たちの支持率も高い。教師を対象にした人気投票を行えば、まず間違いなく上位に食い込むだろう。
「くじ引きなんてどうですか? 時間もかからないし」
「立候補形式でいいんじゃないですか?」
ざわついた教室からは様々な意見が出た。高根は委員長の二人を見ながら、
「それじゃ、委員長に決めてもらおうか。現委員長の最後の審判だな」
と、冗談っぽく言うと高根は笑った。時折こんな風に冗談を言って、クラスを笑いにもって行こうとする一面もある。
「立候補形式で行きましょう。で、余ったところと人気のあるところは、くじ引きかじゃんけんでいいんじゃないでしょうか?」
佐郷が答えた。高根はどうだと言って、クラスの反応を窺った。誰も反論する者はいなかった。満場一致で、佐郷の案が採用されることになった。
「全員が何かしら役員に入らなければならないからな。楽そうな役員に立候補しておくと得だぞ」
確かにその通りだ、と俊は思った。
高根に拍車をかけられてか、図書委員、美化委員、書記は特に人気が高かった。これらの役員は全て楽なのだ。楽といっても全く仕事がないわけではない。が、役員に席を置くだけで滅多に仕事と言えるようなことはない。結局、それらの役員は立候補者が多くじ引きで決められることになった。
俊はどの役員にしようか、未だに決めかねていた。正直なところ、どの役員にも入りたくないのだが、高根の言ったようにどこかには必ず入らなければならない。
半分ほど決まったところで、順調に進んでいた役員決めが滞ってきた。進んで手を上げる者が減ってきたのだ。残りの役員は、楽と言えるものではなく、どちらかというと面倒なほうだ。まだ決まっていない者は、少しでも楽ができそうな役員はどれなのか、と真剣な顔で考えているようだ。
「あたし、文化祭実行委員やります」
手を上げて言ったのは、桜庭だった。それを見て、まだ決まっていない男子生徒の何人かが、こぞって文化祭実行委員に立候補した。立候補者の狙いは彼女なのだろう。俊も例外ではなかった。それらの男子生徒に混ざって、すかさず手を上げていた。
文化祭実行委員は後期役員の中で、特に大変な役員だと言われている。文化祭間近には、放課後の時間を潰してまで準備に追われる。更にクラスの催し物のときも、率先していかなければならない。最後まで残るはずの役員が、桜庭によって潰されることになった。
案の定、くじ引きで決められることとなった。俊が選ばれる確率は五分の一だ。藤崎が五つの棒を持って、それを一人ずつ引いていった。赤い丸の印がついた棒を引いた者が当選者となる。
じゃんけんで棒を引く順番を決め、俊は二番目に棒を引くことになった。棒を引こうとしたとき、一瞬、藤崎が眉間に皺を寄せた。俊はその棒を引くことを止め、隣の棒を引こうとした。すると今度は、藤崎はウインクを投げかけてきた。俊は迷わずそれを引いた。
瞬間、思わず笑みがこぼれた。棒の下のほうに小さな赤い丸があったのだ。俊は運よく、文化祭実行委員に選ばれた。選ばれなかった者は、心底残念そうな顔をしている。
「また一緒だね。よろしく」
俊が席に戻ると、桜庭が言った。またというのは、前期も桜庭と同じ役員だったからだ。そのときは、天使の掟に背いてしまい天使の力を使ってしまった。だが、俊はそれでよかったのだと今は思っていた。後悔はしていなかった。
「ああ、よろしく」
役員を決め数日が経った頃、文化祭実行委員の二人は、放課後に職員室へ来てくれ、と高根に呼び出された。
「おっ、来たか」
俊が職員室の扉を開けると、高根が言った。桜庭は既に来ていた。担任教師の前に立ち、手に持った紙に目を落としている。
「実は、文化祭の催し物について、二人で案を出しておいてもらいたいんだ」
俊は桜庭の持っている紙を覗き込んだ。桜庭は俊が見やすいように、紙を少し俊のほうにずらした。
クラスでの催し物を決める紙には、第一希望から第三希望まで記入欄があった。第三希望まであるのは、生徒会で適切か否かを決めるためだ。無茶苦茶な催し物や、他のクラスと重複してしまうような催し物があれば、生徒会によって棄却されてしまうことがある。
「俺たち二人で決めろということですか?」
俊は確認するように言った。高根は首を振って、口を開いた。
「いや、二人に案を出しておいてもらって、クラスで多数決なりを採って決めようと思っている。そうすれば、授業の時間や休み時間を割かなくても済むだろ」
「でも、みんなで案を出さないと意味がないんじゃないですか? せっかくのクラスでの催し物だし」
桜庭が反論する。
「もちろん、みんなにも聞く。ゼロからじゃなく、できるだけ案を出しておいてから進めたほうが、無駄も少ないだろ」
「確かにそうですけど。面倒だな……」
俊はため息混じりに呟いた。
「進んで立候補した役員だろ。これも文化祭実行委員の仕事だ」
そう言われると、俊は弱るしかなかった。なにを言い返しても、結局、文化祭実行委員を選んだのは俊の意志なのだ。
「まさかお前も、桜庭お目当てにこの役員を選んだわけじゃないんだろ」
意地悪に笑みを浮かべた高根はずばりと言い当ててくる。
「そうなの?」
桜庭は驚いたように言った。
「ち、違いますよ」
俊は否定したが、高根の顔は笑っていた。きっと本心は見抜かれているのだろう。一方で桜庭は少し気落ちしたような表情に変わっていた。
「まあ、面倒かもしれんが、よろしく頼むよ」
俊は、はいとだるそうな声で返事を返した。一方で桜庭は俊と違って、目を輝かせていた。文化祭実行委員という、えらく大変な役員を楽しんでいるように思えた。さすがに立候補しただけのことはある。
「まあ、まだまだ時間はあるから、ゆっくり考えてくれ。二週間後くらいに、クラスで決定できるようにしたいから、それまでに考えておいてもらいたい」
二人は頷いた。そして職員室を後にした。
「どうしよっか? いつ決める?」
職員室を出てすぐに桜庭が訊いた。
「俺はいつでもいいけど……桜庭は?」
「今日は部活があるから、明日の放課後はどう? 早いうちに決めちゃおうよ」
「わかった」
「じゃ、また明日ね」
桜庭は俊に背を向けると、廊下を走り去っていった。部活動に入っていない俊は、校門を抜け居候の家に向かって歩き出した。遠くに見える山々は、夕焼けで赤く染まっていた。
高根の前では面倒だと言ったが、実際はそう思っていなかった。桜庭と二人の時間を過ごせるのなら、多少の面倒臭いことなど構わないと思っていた。
想いを伝えることは許されないが、一緒にいることなら許される。後一年とちょっとの時間を、桜庭と少しでも多く時間を共有したいと俊は思っている。それが、想いを伝えることのできない運命にある、天使の精一杯の行いだ。
家に着くと、合鍵で錠を外した。時子は一人暮らしで、家にいるときも常に鍵をかけている。合鍵は俊がこの家に来たときに、既に用意されていた。時子は用意周到な人なのだなと、感心したことを覚えている。
居間のほうからテレビの音量が漏れていた。時子は耳が悪いらしく、テレビなどを見るときは常に音量が大きい。だが俊がいるときは気を遣ってくれてか、音量を下げてくれる。俊が居間に入って来たのを確認すると、いつものように時子はテレビの音量を下げた。
「あんた宛に手紙が来てたわよ」
時子はテレビに目を向けたまま言った。
テレビではサスペンスをやっていた。テロップが流れ、ちょうどコマーシャルに入ったところだった。天使としての面影はすっかりなく、人間として馴染んでいるなと俊は思った。
俊は時子のことを詳しく知らない。この家に来て、時子が楽園でどういった天使だったのか、ということを聞いたことがなかった。家に来てすぐのときは、時子は本当に天使だったのだろうかと疑っていたが、生活を共にしていくうちにその疑問は消えていった。時折、時子は楽園でのことを俊に話してくれたのだった。だから、俊のほからはあまり詮索しないようにしている。
「誰から?」
「ミカエル様から」
時子は湯飲みを持ち、お茶を啜った。
「手紙は?」
「あんたの部屋の机に置いてあるよ」
時子は俊のほうに顔を向けると、しわくちゃの顔で意味ありげに笑った。どういった意味が含まれた笑みなのか、俊にはわからなかった。
「それにしても、あんたも大変ね」
「どういう意味ですか?」
俊は首を傾げた。
「手紙を見ればわかるさ」
俊は自分の部屋の部屋に通じる襖を開けた。机に目をやると、一枚の封筒が置いてあった。封筒は一度開けられた形跡があった。どうやら時子が既に読んだらしい。
『ファニエルへ
私はファニエルの全てを楽園から見ている。君は天使の力を下界で使ったようだな。天使の力は、人間の運命をも変えてしまう恐れがある。我々天使は人間の運命に干渉してはいけないのだ。下界で天使の力を使うことはルールに反することでもある。
それに、人間にも恋をしているようだが、考え直しなさい。楽園から一年間見てきたが、君は恋心を捨てきれずにいるだろう。天使の掟というものを忘れてはならん。今の君には、楽園に戻る資格はない。その気持ちを捨て去るよう努力しなさい。これは、私からの最初の忠告です。再度言うが、掟を破ることは厳禁だ。
ミカエルより』
手紙を読み終えると、俊はため息を漏らした。ミカエルには全てお見通しのようだ。やはり、天使には人を想うことさえ許されないらしい。人間と天使――それは、互いに干渉してはならない、決して交わってはならない領域なのだ。故に、天使は掟に背き続けていたら、いつか堕天させられてしまい、人間か悪魔となる運命なのだ。
「天使にもいろいろ事情があるんだね」
俊が居間に戻ると、時子がしんみりとした口調で言った。
「まあ、そうですね」
俊は苦笑した。
「悩み事があるなら、いつでも私が相談に乗ってあげるよ」
時子は俊のほうに顔を向けた。目は真剣だった。
「ええ、そのときはお願いします」
「これでも、大先輩の天使なんだから」
時子はにっと笑った。そして付け加えて言った。
「今は人間だけどね」