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俊が桜庭と出合ったのは、下界に降り立ってすぐのことだった。このときは、まさか、自分が掟に背くようなことになるとは思っても見なかった。結論から言ってしまえば、俊の一目ぼれだった。
楽園を出て彼が降り立ったのは、小さな公園だった。幸い人に見られることはなかった。俊はベンチに座り考え込んだ。どうやって時子の家に辿り着けばいいのかが問題だった。
時子の家がどこにあるのか、ミカエルから聞いていなかった。ただ、下界では甲斐谷登時子という女性の家に居候させてもらえ、と命じられただけだ。
慣れない制服に身を包んでいたため、気持ち悪かった。ブレザーを脱いだとき、ポケットになにかが入っていることに気づいた。それを取り出してみる。四つ折りにされた、一枚の紙片だった。それを開いてみると、「○○県 △△市 □□□町 521―8 甲斐谷時子」と書かれていた。
公園を出ると、近くの電柱を見た。そこに記されていた住所は紙片とは違うところだった。きょろきょろと辺りを見回してみる。誰かに聞いてみようかと思ったのだが、誰も人は見当たらなかった。いちいちどこか家を訪ねてまで聞こうとは思わない。
この町は、どうやら都会と言えるほどの大きさではないようだ。むしろ、田舎に近い殺風景な町だ。近くには緑に染まった山が連なって見えるし、大きな道も少ない。また陽を遮るような大きなビルやマンションもあまり見当たらず、木造建築の建物が多い。それに、車通りもさほど多くない。俊は再度紙片に目を落とした。
「ねえ……なにか、困ったことでもあるの?」
突然声をかけられ、俊は驚いた。顔を上げると、目の前に紺の制服を着た女が立っていた。背が高く、清楚な感じの女だった。背中にまでかかる長い黒髪が、清楚な感じをより一層際立たせている。
「えっと、この住所のところに行きたいんだけど」
俊は女に紙片を渡した。
「ここ、甲斐谷さんのお家じゃない」
「知ってるの?」
「うん、うちの近くだから、案内してあげるよ」
「ありがとう。助かるよ」
女は歩き出した。俊は少し遅れて女の後をついて行く。
「それにしても変わった人ね。あなた、あたしと同じ学校の人でしょ。それなのに、学校の近くの住所がわからないなんて。もしかして転校生?」
「ああ、うん」
俊は誤魔化した。本当のことは決して言えない。
よく見れば、女と俊の制服は同じ色をして似ている。胸のポケットに刺繍されたマークは同じだった。
「そっか。転校生なら仕方ないね。あの、甲斐谷さんのお家にはなんの用なの?」
女は詮索するのが好きなようだと俊は思った。好奇心旺盛とでも言えるのだろうか。
「どうしてそんなこと聞くの?」
「あっ……ごめん。答えたくなかったらいいよ。別に答える必要ないものね」
女は少し慌てた様子で、目を伏せた。
「居候させてもらうんだ。そこから高校に通うつもりだから」
「そうなんだ。それじゃあなたは、甲斐谷さんの親戚の人?」
「俺の父の母に当たる人。転校することになって、おばあちゃんの家から通うことにしたんだ」
俊は適当なうそをついた。
「それなのに、あなたはおばあちゃんの家を知らなかったの?」
驚いたような顔で女は言った。
「小さい頃に一度来ただけだから、あまり覚えていないんだ」
しばらく歩いたところで、女は木造建築の古びた建物の前で足を止めた。色褪せた木造が、建築されてだいぶと経っているということを物語っている。木造の表札に「甲斐谷」と楷書の字体で書かれていた。それも色が薄くなっていた。
家を囲むように作られているブロック塀の所々にも、小さなひびが見受けられた。大地震が発生したら、まず間違いなく倒壊するだろう。また玄関前にはいくつもの植木があった。キンモクセイ、キク、オシロイバナ、オンシジュームと秋の花が色とりどりに咲いている。全て俊の知っている花だった。それもまた楽園で身につけた知識だ。
「ここが甲斐谷さんのお家よ」
「ありがとう」
俊はチャイムを鳴らそうとして、寸前で指を止めた。女のほうに振り返って、口を開いた。
「俺からも一つ聞いていいかな」
「なに?」
「君は、どうしてうちのおばあちゃんの家を知ってたんだ?」
「甲斐谷さんは、うちのお店の常連さんだから。うち、花屋さんやってるんだ」
女は指で髪を耳に掻き揚げると、目を細め微笑んだ。一瞬、女の仕草にどきりとした。
「今更だけど君の名前は?」
「サクラバマユ。あなたは?」
「甲斐谷俊。よろしく」
俊は女に向かって微笑み返した。
女と別れた後、俊は家のチャイムを鳴らした。家の中で動きを感じ、俊はもう一度チャイムを鳴らそうとした指を止めた。数秒後、鍵の外れる音が聞こえ、玄関の扉が開けられた。
中から老婆が顔を覗かせた。白髪頭の彼女の顔には、いくつもの皺が寄っていた。年は七十代後半くらいのように見える。
「どちら様ですか?」
老婆は怪訝な顔を俊に向け尋ねた。かすかに警戒の色が浮かんでいた。
「あの、あなたが甲斐谷時子さんですか」
「ええ、そうですけど……」
なにかを思い出したのか、ふと老婆の顔色が変わった。警戒の色はすっかり消えていた。
「もしかして、あんたは楽園から来た天使かな?」
「そうです」
時子は一つ頷くと、玄関の扉を大きく開いた。
「お入り。事情は聞いているから」
俊は時子に促されるまま家の中に入った。
家の中も、外見と同じように古びていた。相変わらず木造は色褪せている。壁には薄っすらと黄ばんだ染みのようなものが所々にある。廊下を歩くとき、一歩一歩足を踏み出すたび、床が鈍く軋む音が響く。
廊下を挟んで四つの部屋があった。左側に和室と応接室、右側に寝室と空き部屋が一つという具合だ。空き部屋が俊の部屋になるらしい。部屋の仕切りは全て襖だった。
空き部屋は六畳ほどの部屋だった。綺麗に片付いた部屋には小さな机と、その隣にテレビが置いてあった。壁には折り畳み式のベッドがもたせ掛けられていて、その横には小さな茶箪笥が置いてあった。生活に最低限必要なものは揃っている。
「ここは、あなたの部屋にあてたものだから、好きなように使いなさい」
机の引き出しや、箪笥の引き出しを見たが、なにも入っていなかった。衣類や文具はこれから揃えなければならないようだ。
「どんな天使が来るかわからなかったから、衣服はまだ用意していないんだよ」
時子は少し申し訳なさそうな顔で言った。俊は時子のほうに顔を向け首を振った。
「いえ、居候させていただくだけでも厚かましいのに、部屋を用意してくださってありがとうございます」
俊は深く頭を下げた。
「いいのよ。これで、私の生活にもちょっと張りが出てくるわ」
時子は顔をくしゃくしゃにして笑った。
時子と少し話をした後、俊は時子の自転車を借り、家を出た。衣服を揃えるための買い物をするためだ。本来ならば空を飛んで移動したいところだが、ミカエルの命によって天使の力を使うことを禁じられている。それで仕方なく彼女の自転車を借りることにした。
店で数着の衣類を買い、俊は早速着替えてみた。ジーンズを穿き、ティーシャツという出で立ちだ。やはり制服同様に、慣れないものだった。ジーンズは硬く動き辛い。その一方で新鮮な感じもあった。
楽園では皆が、白い衣を身に纏っていた。それが天使の衣装だ。一部の天使や、守護天使たちは鎧のようなものを纏っていたが、それは彼らが特別な天使たちだからだ。天使の中には、下界の衣服に憧れを抱いているものも何人かいた。俊は楽園に戻る際に、下界の衣類を何着か持って帰ろうと考えた。研究材料にも天使たちへのプレゼントにもなりそうだ。
帰り道、周辺の道を覚えるために少し違う道を通った。その途中、「桜庭植物店」という看板の文字が目に入り、思わず自転車を止めた。
店の前では、先ほどの女が花に水をやっていた。女のかけているエプロンには店の名前のロゴが入っている。女は花を並べ終えると、額の汗を拭った。その直後、俊と目が合い女はにっこりと表情を緩ませた。
その瞬間、俊の胸はまたどきりと鳴った。気持ちが勝手に昂ぶっている。抑えようのない気持ちが、胸の底から込み上げてくる。
「お店の手伝い?」
俊は店の花に目を向けながら、声をかけた。コスモス、薔薇、マリーゴールドなど、秋の花が咲き誇っていた。
「そう。部活がない日は、家の手伝いをやっているの。あたしもお花好きだから。なかなか似合ってるね」
そう言って、女は俊をまじまじと見た。思わず俊は女から目を逸らした。なぜか女を直視することをはばかられた。
「あ、そうだ。ちょっと待ってて」
女は店の奥へと消えていった。それから少しして、植木を持って戻ってきた。淡いピンク色の、星型の五枚の花弁をつけた花が咲いていた。
「これ、あなたにあげるよ。転校生で同じ学校、きっとなにかの縁だろうし。綺麗なお花でしょ」
彼女は植木を差し出し、俊はそれを受け取った。
「クロウエアか。いや、サザンクロスと言ったほうが、日本では馴染があるのかな」
「よく知ってるね」
女は驚いた顔をした。俊が花のことに精通していると思わなかったのだろう。無論、俊は花に興味があるわけではない。ただ、研究で身につけただけのことだ。
「あなたもお花好きなの?」
俊は首を振った。
「ちょっとした知識として知ってるだけさ」
「サザンクロスの花言葉は――」
「願いをかなえて……だろ」
女はうんと頷いた。
「願いをかなえて……か。俺は恋を成就させるようなキューピットとは違うからな」
俊はかみ締めるようにぽつりと呟いた。女は聞き取れなかったらしく、なにとちょっと首を傾げて聞いてきた。俊はなんでもないと笑って誤魔化した。
下界の願い事は、恋愛事情に関しての願いがよく見受けられる。人の世の恋愛を成就させる役目は、天使でも、キューピットと呼ばれる子供の姿をした天使の役目だ。残念ながら、俊たちのような天使にそういった力はない。
家に帰ると、早速窓際に植木を置いた。明るいものが一つ部屋に加わった。質素な部屋には、なんだか似つかわしくないように思えた。
俊は人差し指で、サザンクロスの花弁に優しく触れた。そして、花屋でのことを思い出した。頭の中に女の顔が蘇ってくる。それと同時に、胸の鼓動が速くなり気持ちが昂ぶって来た。
俊は頭を振った。早く拭い去らなければならない想いだ。天使の掟として、人間に恋してはいけない。それが天使の運命。一目ぼれや片想いとは言え、それは変わらないだろう。早くも掟を破ってしまっている。この想いを捨て去らない限り、楽園へ帰ることはできない。
だが俊はその想いを簡単に捨てることはできなかった。女の笑顔を思い出す度、気持ちは昂ぶって来る。なんとももどかしい気持ちだ。そして気づけば片想いのまま、一年近くが過ぎていた。