5
頬杖をつき、ちらちらと降る雪を見ながら、一年が経つのは早いものだなと感じていた。俊にとって二度目の冬が訪れていた。今年は雪が降り始めるのが早かった。昨年は暖冬の影響もあってか、例年よりも雪が降るのが遅かった。しかし今年は、例年以上に一段と厳しい冬のようだ。十二月に入って、もう四回も雪が降っている。朝から降り出していた雪は、グラウンドを真っ白に染めていた。
「なにぼうっとしてんだ?」
「え……」
俊は頬杖を止め、前の席に座った春樹に視点を変えた。
「なにか考え事でもしてたのか?」
「いや、別に……」
瓜生がかつての親友だと知って、俊は彼について考え込むことが多くなっていた。
瓜生はなんの目的があって下界に来たのだろうか。同じ国に、楽園から天使を二人も派遣した、ということは考えにくい。過去にそういった事例がないのだ。それに彼が言った、『俺が掟を破ったところでどうこうじゃないしな』という言葉が頭に張り付いている。意味ありげで、なにか裏がありそうでならない。
「クリスマスはやっぱり、藤崎と一緒に過ごすんだよな」
俊は瓜生のことを頭から振り払うため、春樹に話題を振った。
「うん。イブは千春の誕生日だし、クリスマスを兼ねて、誕生日を祝ってあげようと思うんだ。誕生日プレゼントなにがいいだろ?」
「なんでもいいんじゃない。物より気持ちが大切だろ」
「そうだな。クリスマスパーティー、お前も来るか?」
俊は首を横に振った。
「俺がいても邪魔者になるだけだしな。それに……」
俊はにやりと微笑んで、
「初体験も計画してんだろ」
と声のトーンを落として言った。途端に春樹の顔は赤くなった。どうやら図星のようだ。
「ま、まあ、そのつもり……かな」
「頑張りたまえ、若者よ」
俊は春樹の肩をぽんぽんと叩いて笑った。春樹はなにか言い返したそうな顔をしたが、口を開くことはなかった。
俊が帰る頃には、雪は霙に変わっていた。どんよりとした雲を見ると、まだ晴れてきそうではなさそうだ。
教室に戻ろうかと、ふと考えた。傘を忘れたわけではないのだが、傘立てに挿しておいた俊の傘は誰かが持っていったようだ。間違えて持っていったのではなく、おそらく故意的なものだろう。
俊が引き返そうとしたとき、下駄箱でスニーカーに履き替えている桜庭と瓜生の姿が目に入った。俊は目を逸らし二人とは別のほうに歩き出したが、見つかったらしく瓜生に呼び止められた。そのまま去るわけにも行かず、仕方なく立ち止まった。
「ベリアル……」
思わず楽園での名前が口をついて出た。しまったと思ったが、瓜生は
「ベリアル?」
と首を傾げ、知らぬ振りをしてとぼけた。
「なんでもない。それより二人とも部活は?」
「あたしも瓜生くんも今日はないよ」
桜庭が答える。
俊はまじまじと瓜生の顔を見た。人間だからか、彼にあの頃の面影はすっかり感じられなかった。本当にベリアルなのだろうかと少し疑ってしまう。
「春樹と帰らないのか?」
瓜生は口許を意地悪そうに曲げて訊いてきた。事を知っているだけに、俊は少しむっとした。
「春樹は藤崎と帰るって……」
「あー、そう言えば二人付き合ってんだもんな」
わざとらしく言う瓜生を、殴ってやりたいという衝動に駆られた。挑発的な物言いだった。かつての親友が言う言葉だとはとても思いたくなかった。
「あれっ、甲斐谷くん傘は?」
「忘れた」
思わずぶっきらぼうな口調で、明らかにわかるようなうそをついた。
「じゃあ、あたしの傘貸してあげるよ。ちょっとぼろいけど、ごめんね」
「桜庭はどうするの?」
「瓜生くんの傘に入れてもらうから大丈夫」
桜庭は瓜生に笑いかけると、
「帰ろう」
と言って、彼の手を引っ張った。
瓜生の差す傘に、桜庭は彼と腕を組み歩調を合わせ歩く。二人は笑いながら、楽しそうに校門へと向かっていった。俊は二人の背中を見ているのが辛くなり、目を伏せた。
胸が苦しい。後悔が込み上げてくる。自分の気持ちに正直になれないのが辛い。いや、正直になるというより、天使の掟という呪縛に怖気づいているだけで、結局、逃げている。真正面から向き合わなければならないのは俊のほうだ。でも、まだ――やはり決心ができない。
理想のカップルだなと思ったが、納得はいかなかった。瓜生が天使でなければ、本当に理想のカップルなのだろう。それなら、運命の赤い糸も見えたかもしれない。その糸が見えれば俊としても、きっぱりと諦めざるを得ない。彼女の運命の人は誰なのだろうと、そんな疑問がふと頭を過ぎった。
俊は桜庭から借りた黄色い傘を差した。確かにぼろかった。ビニールは少し破れていて、僅かだが水が漏ってくる。柄のところに「桜庭祐里」と油性マジックで書かれていた。一瞬、誰だろうと考えたが、すぐにある人物が過ぎった。
時子が倒れて以来、俊は常に合鍵を手放さないように気をつけている。チャイムは鳴らさず、合鍵で鍵を開け家に入った。
居間はまるで別次元だった。俊の冷えた身体を、暖房の効いた部屋がさっと温めていった。時子は老眼鏡をかけながら、一心不乱に一枚の紙に、筆を走らせていた。いつにもなく真剣な表情だった。
「なに書いてるんですか?」
俊は尋ねてみた。火燵に足を突っ込むと、足許が瞬時に温まった。
「手紙」
「誰にですか?」
「そうね……」
と言って、時子は手を休め、わざとらしく考え込むような素振りを見せた。
「私の愛しい人かしら」
「愛しい人? 亡くなったご主人に宛てた手紙ですか?」
ふふふと、時子は意味ありげに微笑んだ。
「違うわ。亡くなった人に宛てた手紙なんて意味ないわよ」
「じゃあ、誰に……」
「秘密」
時子は再び筆を走らせ始めた。少し身体を乗り出せば、覗き見ることはできるが、そこまでして知りたいとは思わなかった。時子は黙々と筆を走らせ続けた。
手紙を書く彼女の姿を見ていて、俊の頭にふと疑問が過ぎった。
「そう言えば、前から気になっていたことがあるんですけど……」
「なんだい?」
時子は再び手を止め、俊のほうに顔を向けた。
「ミカエル様から俺が居候するって伝書が来たとき、どうして断らなかったんですか?」
俊がこの家に居候することになったときから気になっていたことを思い出したのだ。昔は天使でも、今は人間として暮らしているのだから、ミカエルの頼みを断っても問題ないはずだ。むしろ、楽園を捨てた天使にとって、今更、天使が干渉してくることは煩わしいものではないのだろうか。
「それが罪滅ぼしになればと思ってね。私は天使を、楽園を裏切った存在だから」
「罪滅ぼしですか?」
「掟を破り楽園を飛び出して、自分勝手に、のうのうと人間として暮らしているのよ。そりゃ、楽園とはできる限り関わりたくないけど、それはそれであまりにも都合よすぎるからね」
「それで今回の件を引き受けて下さったのですね」
「そうよ。ミカエル様はビックリなさっているでしょうね。まさか引き受けるとは思ってなかったんじゃないかしら」
時子はくすりと微笑んだ。
俊にはもう一つ気になっていることがあった。ミカエルはどうして時子に伝書を出したのかということだ。なにか理由があってのことなのだろう。聞こうかどうか迷ったが、結局聞かないでおくことにした。いずれ時子自身が話してくれるかもしれない。
翌日、クリスマスの日に、ポインセチアの花を時子に贈ろうと思った俊は桜庭植物店に向かった。昨日借りた傘も返すつもりだ。昨夜の雪が激しかったため、路面にはまだ薄っすらと雪が残っており所々凍結していた。
ポインセチアは時子の最も好きな花だ。昨年にも時子にポインセチアの花を贈った。そのとき、彼女は目を輝かせ子供のように喜んだのを覚えている。
桜庭植物店では、あのときの少女がせっせと働いていた。
「いらっしゃいませ。お久しぶりですね」
俊が店に近づくと、少女は笑顔で応対した。
「忙しそうだね、祐里ちゃん」
少女は目を見開き、うそを衝かれたような顔をした。
「どうしてあたしの名前を知ってるんですか? 前に言いました?」
「昨日、君のお姉さんからこの傘を借りたんだ。そこに名前が書いてあって、もしかしたら君の名前かなと思って」
俊は傘を持った手を、少し上げた。祐里は合点したようだ。
「うちのお姉ちゃんケチなところがあるんですよね。その傘、だいぶぼろくて漏ってきたでしょ」
俊はこくりと頷いた。
「昔、あたしが使ってたやつなんです。小学生くらいだったかな。もうぼろいから、新しいのを買うって言ったとき、勿体ないとか言っちゃって、お姉ちゃんが今までずっと使ってきたんですよ」
「君のお姉さんは、物を大切にする人なんだな」
「それでも限度がありますよ。その傘だって、かなりぼろぼろなのに、まだ使えるって言ってるんですよ。それにこんなにぼろい傘だと、盗られる心配がないとも言ってましたね。でも雨が漏ってきたら傘の意味がありませんよね」
祐里はくすくすと笑った。それに釣られ、俊も顔がほころぶ。
「確かに。でも盗られないってところはメリットと言えるんじゃないかな。俺は盗られちゃったから」
「少なからず、そういうやついますものね。盗られたやつは、誰かのを盗って帰る。結局、盗みの堂々巡りになるんですよね」
俊はうんうんと首を縦に振った。
桜庭から傘を借りなかったら、きっと俊も誰かの傘を盗っていたことだろう。現行犯として見つからない限り、犯人を見つけ出すのは難しい。高校生ともなれば、小学生のように傘に名前を入れる人も少ないはずだ。傘は学校で最も盗られやすい代物と言える。
「おかげで助かったよ。寒空の下、おまけに霙にうたれて帰っていたら、今頃家で寝込んでいたかもしれないし」
俊は苦笑した。
「ところで、お姉さんは?」
俊は店内を覗き見た。だが、桜庭の姿はなかった。
「さっき出かけましたよ。瓜生さんとどこかに出かけるらしいです。お姉ちゃんになにか用でもあるんですか?」
「ううん、特に用があったってわけじゃないから、大丈夫」
俊はぎゅっと胸が締め付けられるのを感じた。瓜生と、という言葉は聞きたくなかった。完全に嫉妬している。
嫉妬心は恋心と同様に、天使が持ってはいけない感情だ。天使失格だな、と俊は胸の中で自嘲した。だがその数秒後には、今更そのようなことを考える必要もないかと開き直った。天使失格なのは、今に始まったことではないのだ。
「これ、お姉さんに返しておいてもらえるかな」
俊は傘を祐里に渡した。はい、と言って祐里は傘を受け取った。
「来年はよろしくお願いしますね、甲斐谷先輩」
祐里は軽く頭を下げた。
「え、もしかして……」
「あたしも木碕高校に通うつもりなんです」
「そうなんだ。でも俺たちの高校って、受験人数も半端なく多くて難関校だろ。店の手伝いしてて大丈夫なの?」
木碕大学付属木碕高等学校は、県内でもかなりレベルの高い私立高校だ。私立高校では珍しく、滑り止めとしてではなく、木碕高校を第一志望として受験する受験生も少なくない。倍率は毎年高いようで、かなりの難関と言える。
「模擬テストの結果よかったから、大丈夫ですよ。それにスポーツ推薦で受験するつもりですし。余裕がなかったら、店の手伝いなんてしてませんよ」
木碕高校は昨年から、スポーツ推薦枠を設けている。学問においてはトップクラスなのだが、スポーツ面においては特に秀でているわけではない。文武両道に力を注いでいこうという考えなのだろう。
「なんのスポーツやってるの?」
「バレーです」
やはりなと俊は小さく頷いた。それなら彼女の背が高いのにも納得ができる。
「来年はエースアタッカーが加わるわけだ」
身長の高さからも、アタッカーがお似合いだろうと思った。
「そんな、エースだなんて……」
「祐里ちゃんが加われば、バレー部はもっと強くなるよ」
木碕高校バレー部は、ここ数年低迷しているらしい。三年生は引退し、現在のバレー部のキャプテンは藤崎だ。彼女はセッターでありながら桜庭とのコンビで、低空飛行なバレー部に勝利をもたらしてきた。その甲斐あって、最近のバレー部は右肩上がりと順調だ。
「一年生で試合に出させてもらえますかね」
「実力世界の世の中なんだし、スポーツ推薦で合格すれば、まず間違いなくスタメンなんじゃないかな」
「そうですかね。あ、そう言えば、今日はどういった御用件なんですか?」
思い出したように、祐里が尋ねた。えっ、と俊は一瞬なにを問われたのかわからない顔をした。
「傘を返しに来ていただいただけじゃないんでしょう?」
「ああ、そうだ」
祐里に言われて、思い出した。話に夢中になっていて、本来の目的を忘れていた。
「クリスマスに、おばあちゃんに花を贈ろうと思ってね」
「ポインセチアですか」
さすがは花屋の娘だ。クリスマスという言葉を聞いただけで、その花を察した。俊は頷いて答えた。
「ポインセチアは時子さんの一番好きなお花ですものね」
「どうして知ってるの?」
「前に時子さんから聞きました」
「それじゃあ、赤色のポインセチアをもらえるかな」
「かしこまりました。赤色も時子さんの好きなカラーですよね」
祐里は笑顔を浮かべ、店内へと消えていった。彼女は時子のことをよく知っているようだ。
昨年は、白色のポインセチアを贈ったので、今回は違う色のポインセチアを贈ろうと思ったのだ。以前、俊は時子に花のどこがいいのか、と尋ねたことがあった。時子は穏やかな表情で、
「花を見ているだけで幸せ。楽園は花が枯れることなく、いつも満開だったわ。小さな蕾を作り、花を咲かせ、花は彩り枯れてゆく。その表情が、楽園では感じ取れなかったのよ。下界に来て、その花の変化に私は惚れたの。命あるものは、言葉なくしても表情を見せるものよ」
と言った。その表情は純真で、心の底から花が好きなのだなと感じた。俊はその気持ちが、今ではよくわかるような気がした。
花も人間も同じだ。命あるものは全て、その時々の変化に顕著なものである。夏に咲く花は、冬の変化に耐えられず枯れる。また夏が訪れれば、蕾から新たな花を咲かす。そうやって巡り巡る変化が楽園にはなかった。だがここでは違う。
下界には楽園では触れることのできない大切なものがある。それは命であったり、季節の巡りであったり、人との接触であったり、楽園では得られないものばかりだ。
祐里が真っ赤なポインセチアを持って戻ってきた。
「お待たせしました」