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 ミカエルが楽園を治める以前、熾天使の地位にあった、大天使ルシファーが楽園を治めていた。彼は、現楽園の長であるミカエルの双子の兄だった。天使の中でも特別な十二枚の翼を持っており、その翼はミカエル同様に、眩いほどの純白だった。神に最も近い存在の天使で、楽園の誰もが尊敬してやまない存在だった。

 そのころから、ファニエルは第六天国で下界について研究を行っていた。当時ファニエルが研究を行っていた国は「宋」と呼ばれる国だった。ほかに六人の優秀な天使たちが、第六天国の研究所で下界についての研究を行っていた。その研究者の一人に力天使のベリアルはいた。

 ベリアルは人間の心理について研究を行っていた。金色の長髪に、二枚の純白の翼。端正な顔立ちは美しく、研究熱心な天使だった。そんな彼に、ファニエルは憧れのようなものを抱いていた。

 ファニエルはもともと彼ほど研究熱心な天使ではなかった。研究が思うように進まなかったとき、何度か投げ出そうかと考えたことがあった。だがファニエルとは対照的に、ベリアルは事態に窮すればするほど、より熱を入れて研究する。そんな彼を見ていると、自分がとんでもなく情けなく思えてくるのだ。

 ベリアルが研究熱心なのにはある理由があった。それは下界への憧れだ。彼にはいつか下界に降り立ってみたいという願望があった。過去には、楽園から下界に降り立っている天使たちが何人かいる。

 研究熱心な彼は、人間の心理行動におけるパターンをいくつも見出していった。だが、彼の研究は完璧と言える答えは出てこなかった。彼の出した結論に反する行動を行う人間が何人かいたのだ。それは、彼を悩ませる材料となった。

 ベリアルはめげずに研究に没頭した。しかし、人間の心理的行動パターンを見出せば、必ずと言っていいほど例外が伴っていた。その度、彼は頭を抱えていた。彼は、人間の心理を研究していく最中で、いつの間にか下界の法律についても精通するようになっていた。

 ファニエルは自分の研究以外に、ベリアルの研究も手伝っていた。人間の心理を理解することによって、自分の研究がより密度の濃いものになると思っていたからだ。

 だが彼の研究を手伝い始めて間もなく、人間の例外的な行動に頭を悩ませる羽目になってしまった。人間は、ベリアルの出した理論的な結論をことごとく打ち破っていった。

 結局、二人でいくら考えても答えを得ることはできなかった。それはベリアルにとって屈辱的なものだったようだ。

「第一天国に行かないか?」

 ある日、自分の研究に没頭していると、ベリアルが唐突に言った。ベリアルが研究室を抜けて、他天国に行こうと提案してきたことに、ファニエルは驚いた。彼は研究室をほとんど出たことがないのだ。

「いきなりどうして?」

「第一天国って下界にかなり近い天国だろ。そこに行けば、人間の心理がちょっとはわかるかもしれないと思ってさ」

 なるほど、とファニエルは納得した。研究室に篭っているより、下界に近い世界に足を運べばヒントを得られるかもしれないと思ったのだろう。

「わかった。行ってみるか」

 ファニエルとベリアルは研究室を出ると、第一天国へと飛んだ。

 第一天国に足を踏み入れるのは初めてだった。緑の山々が連なり、小川が流れている。天使たちはいくつもの小さな集団や大きな集団を作り暮らしている。青々とした木々には木の実が熟れており、青く晴れ渡った空には雲ひとつない。研究室で見る下界そのものの世界がそこにはあった。

 しかし、下界に存在する季節の変化というものが楽園には存在しない。風を感じることもなければ、天候の変化もないのだ。第一天国は下界の姿を模していても、なに一つ変化のない国でもあった。

「ここが第一天国か」

 ベリアルは目を輝かせ、第一天国を見渡した。

「やっぱり、まだ下界に行ってみたいと思っているのか?」

 ファニエルは訊いてみた。

「ああ、もちろん。人間の食べ物を食べてみたい。雪をみたい。風を感じたい。人間と接してみた。やりたいことはいっぱいある」

 ベリアルは両手を大きく広げた。彼の目は夢見る子供のように、きらきらと輝いていた。

「お前は行ってみたくないのか?」

「特に行きたいとは思わないな」

 ベリアルは小高い丘まで飛ぶと、そこに立つ大きな樹木に近づき赤い木の実を二つむしり取った。ファニエルが後を追って丘に立つと、木の実の一つをファニエルに投げて寄越した。二人はその木の幹にもたれる姿勢で座った。

「お前もこの食べ物は知っているだろ。日本では、りんごと呼ばれている食べ物だ。国によって呼び名は違うが、この食べ物に変わりはない。本来、楽園にしか存在しない食べ物が、どうして下界に広まったか知ってるか?」

 ベリアルは木の実を一口かじって口に含んだ。

「天使が持ち込んだからだろ」

「そう、下界に下りた天使がこの木の実の種をまいたんだ。木の実は成長していき、赤い実を結んだ。そして人間の食べ物として広まっていった。だが、楽園と下界では決定的な違いがあった」

「決定的な違い?」

「変化だ。下界は変化があるから、同じ食べ物でも味に違いが出てくるし、木の実の育ちにも変化が生じる。ここでは一定の味しか味わえないが、下界だと様々な味を感じることができるんだ」

 ファニエルは木の実を口に運んだ。木の実の甘酸っぱさが口の中でじわりと広がった。

「でも変化があるから、人間は争う。醜い生き物だ」

 ベリアルはため息をついた。若干、呆れた顔をしている。

「その争いが人を進化させているんだよ。下界はこれから、もっと発展していくだろう。争いは人の知恵を活性化させ、人間は様々なものを生み出していく。それは武器であったり、薬であったり様々だ。彼らは天使と違い、頭を使って地位を確立させていってるんだよ。恒久平和と謳われる楽園より、変化のある世界のほうが楽しいと思わないか」

 ファニエルは首を捻り唸った。そして答えを出す代わりに、ベリアルに質問をぶつけてみた。

「楽園が不満なのか?」

 ベリアルは躊躇いなく頷いた。

 楽園や地獄では、天使と悪魔の戦いはあるものの、下界のように、戦争といったような大きな戦いが起こったことがない。そんなことを企もうものなら、神の怒りを買ってしまいどうなってしまうかわからない。

「でも俺たちの階級じゃ、下界に派遣されるのは無理だろうな」

「そうなんだよな。下界に行くのは下位階級の役目だもんな」

 ベリアルはがっくりと肩を落とした。

「ルシファー様に言ってみたらどうだ。下界に降りる許可を与えてくれるかもしれないぜ」

「そうだな。もっと研究が進んだら話してみるよ」

「研究熱心だな」

 ファニエルは親友の顔を見て笑った。

「与えられた仕事をこなしているだけだ。当然のことをしているまでさ」

 ベリアルは立ち上がった。

「研究所に戻るか」

「もういいのか?」

「ああ、やっぱり下界に降り立たなければ答えは見つからなさそうだ。恐らく、人と接してこそ答えは見出せるものだと思う。ここは時間の止まった世界。下界に似てはいるが、やっぱり違う」

 ファニエルは頷いた。答えを見つけるには、人間の心理というものに直接触れる必要がありそうだ。天使と人間では根本的に違う。

 その後も、二人は下界について研究を重ねていった。下界はベリアルの言ったようにどんどん発展していった。争いが争いを引き起こし、人は知恵をつけていった。国と国の支配関係は目まぐるしく変化していった。人間たちは着実に進化していったのだ。

 ファニエルは下界の凄まじい発展に手を焼いていた。自分の研究のほうが追いつかず、ベリアルの研究を手伝うことはほとんどできなくなった。彼も彼で自分の研究に没頭し、ファニエルの手伝いをすることがなくなった。

 二人の研究は忙しくなる一方で、楽園にも不穏な空気が広がり始めていた。天使たちの間で、ルシファーがなにかを企んでいるという噂が広がっていた。ファニエルは研究に追われていて、根も葉もない噂は気にも留めていなかった。

 天使たちの噂は的中していた。熾天使ルシファーは、自分に従う天使たちを集めて神に反旗を翻したのだ。恒久平和な楽園に起きた過去最悪の事件だ。天使たちは混乱し、ファニエルやベリアルも研究どころではなくなった。

 ルシファーが神に反旗を翻したのは、神に対する傲慢だった。彼は、自分こそ神にふさわしいのではないかと思い、自分に従う天使たちを集め神に立ち向かおうと考えたのだ。それに自分たち天使より低い人間が、神から寵愛を受けているのに不満や怒りを持っていたという伝えもあった。

 楽園はルシファーに対抗すべく、ミカエル率いる天使たちがルシファーに立ち向かった。結果は、ミカエル率いる天使軍の勝利だった。ミカエルは天使の中でも特に戦いに優れていたようだ。事実、過去に彼はジャンヌ・ダルクという人間に戦いの助言をして、その軍を勝利に導いた。それは伝説となって下界でも語り継がれている。

 こうして、ルシファーと彼に従っていた天使たちは楽園を追放され、新たに楽園の頂点に立ったのがミカエルだった。彼は見事な功績を収め、大天使という階級ながら天使たちから崇められる存在となった。

 ミカエルが楽園を治めるようになって、天使たちの配属も変わった。全て彼の指示によるものだ。ファニエルは第六天国でそのまま研究を続けることになったが、ベリアルは第一天国の管理職に任命された。だが彼はそれを快く受け入れず、ミカエルに直談判しに行った。結果は変わらなかった。ベリアルは渋々第六天国の研究所を離れ、第一天国の管理職に当たったのだ。

 ファニエルの研究はベリアルの後を引き継ぎ、人間の心理と「日本」という国の研究を任されることになった。ベリアルの残した研究結果に加え、ファニエルはいくつもの心理的行動パターンを見出していったが、その度に壁にぶち当たってしまっていた。心理的行動においては結果を出せないままで、下界の急激な発展とともに、研究者は増員されることになった。

 特に高度経済成長期に突入した日本の発展は著しいものだった。ファニエルが研究を行っていて、一番大変な時期であった。目まぐるしい社会の変化と、人間の欲望が入り乱れた街は例を見ない賑やかさだった。だが、それも間もなくして終焉を迎えた。波に乗ったものは、いずれ廃れていくものだ。海に満潮と干潮があるように、人間社会においても、好景気と不景気という波があるのだ。

 ファニエルとベリアルは職が変わって以来会うことはなくなった。

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