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瓜生と桜庭が付き合っているという情報は、瞬く間に学校中に広がっていった。そして校内一の、美男子と美女のカップルとして有名になった。あながち間違いではなさそうだ。実際、瓜生は転校してきてすぐに、その美貌と並外れた運動神経に加え、頭脳明晰な彼は、一躍女子生徒の注目の的となった。
桜庭にしてもそうだ。彼女はずば抜けて賢いというわけではないが、学力もそれなりに上位に位置する。それに俊のクラスでは断トツと言っていいほど男子から人気があるのだから。天は二物を与えずという言葉があるが、二人は特別だなと思ってしまう。
そんな二人を羨む一方で、嫉妬を抱く者も何人かいた。そういった人たちの無表情で二人に向けられる視線は冷たかった。当然、桜庭や瓜生はそれを快く思っていなかった。
「桜庭楽しそうだな」
俊は友達と楽しそうに談笑している桜庭を見ながら言った。彼女の会話から自然と耳に入ってくるのは、瓜生との関係についてのことだった。
「おいおい、そんな寂しそうな顔で言うなよな。俊が選んだことだろ」
春樹は半ば呆れた顔で、ため息混じりに言った。そう言われると、俊はなにも反論することができない。
「瓜生と付き合ってんだもんな。もともと桜庭自身人気があったし、瓜生と付き合っていれば当然か」
春樹はうんうんと肯定した。
「俺と千春なんかとは格が違うな」
「ちょっと、それどういう意味よ」
藤崎は、春樹の脇腹を小突いた。
「俺たちじゃ、あの二人のようにはなれないってこと」
「注目されるような人気者にはなれないってことかな?」
「まあ、そうだな。実際、桜庭たちみたいに注目されたことないだろ」
「確かに……」
藤崎は腕を組むと、首を縦に振った。
「でも、それはみんなが、私たちが付き合っているってことを知らないからじゃない」
春樹と藤崎が付き合っていることを知っているのは、春樹の親友である俊と、藤崎の親友である桜庭だけだ。俊は春樹から、誰にも言うなよ、と口止めされていたので公にはしていない。
「知ったところで変わらないさ。俺たちはどこにでもいるような、普通のカップルなんだし。桜庭や瓜生のように、飛び抜けてなにかを持っているってわけじゃないんだから」
「あの二人は特別だよね。麻由はクラスから人気もあって可愛いし、瓜生くんはかっこいいし」
「俺はかっこよくないのか」
すかさず春樹が言った。
「まあ、それなりに。でも瓜生くんには劣るわね」
むすっとした顔の春樹をよそに、俊と藤崎はくすくすと笑った。
「注目されなくても、藤崎は可愛いと思うよ。桜庭に負けず劣らずね」
俊が言うと、藤崎は照れたようで頬を少し赤く染めた。
「おいおい、今度は千春を狙うつもりか」
春樹は笑いながら、からかうような口調だった。
「そんなことはない。春樹が藤崎と別れない限りね」
「甲斐谷くんは、麻由の告白を断って後悔してないの?」
「それは……まあ……」
俊は引きつった笑顔を浮かべ、曖昧に答えた。触れられたくないことだった。もちろん、後悔しているが、天使の運命なのだから仕方ないことだ。
「もう後悔したって遅いことだ。桜庭と瓜生が上手くいってるのなら、それでいい。……それでいいんだ」
俊は自分に言い聞かせるように言った。だが心の中に、桜庭を諦めきれない気持ちがあるのもまた事実だ。俊が桜庭をふったことで、両想いから本当に片想いになってしまったようだ。
「そうだ、いいこと思いついた」
唐突に、藤崎は胸の前でぱんと手を叩いた。俊と春樹は同時に、藤崎のほうに顔を向けていた。藤崎の少しつりあがった目は細く、なにかを企んでいるような笑みを浮かべていた。
「いいことってなに?」
春樹が訊いた。
「さっき、私たちは注目されるような存在にはなれないって言ったよね。だったら、注目されるようなカップルになってやろうじゃない」
「注目されなくたっていいじゃん」
春樹はやれやれといった顔でため息をついた。
「だって悔しいんだもん」
「注目されるようにって、どうやるの?」
俊が訊いた。
「まあ、見てなさいよ。私たちが飛び抜けたものを持ち合わせていないなら、ちょっと大胆になればいいのよ」
にやりと笑みを浮かべた藤崎は、黒板のほうに顔を向けた。大きく息を吸い込み深呼吸を一つすると、
「はーい、みんな注目」
と、透き通った声で教室全体に響き渡る声で言った。同時に教室内は静まり返り、ほぼ全員が藤崎のほうに振り返った。
「おい、なにするつもりだよ?」
さすがに気になったのか、春樹は少し焦った様子で訊いた。藤崎は笑みを浮かべたままでなにも答えなかった。
藤崎は春樹のほうに向き直った。そして春樹の頬を掌で挟むと、顔を近づけキスした。といっても、ほんの一瞬唇を重ねただけだった。
途端に教室内は騒がしくなった。ぽかんと口を開けて、呆気にとられている者がいれば、煽てるようにはしゃいでいる者がいる。当の春樹は目を伏せ身体を硬直させていた。更に頬と耳を真っ赤に染めていた。藤崎も同じように赤く染まっていた。
「どう? これでちょっとは注目される存在になれたんじゃない?」
藤崎は春樹に向かってにっこりと微笑みかけた。春樹は引きつった顔で笑った。
そのとき、俊は春樹の小指と藤崎の小指で結ばれている赤い糸を見た。それは、天使が見ることのできる運命の赤い糸だ。将来のパートナーに向かって伸びる運命の赤い糸。お互いが遠すぎると見えないが、二人の距離が近いと見えるのだ。
この糸は、下界でも「運命の赤い糸」として、広まっているようだ。無論、人間には見ることが出来ないのだが、どうやら伝説のようなものとして広まっている。
俊は楽園での研究によってその発祥地が宋という時代の、「中国」という国が元だということを突き止めていた。当時、東南アジアを中心に、各国の研究を行っていたとき、見つけた研究結果だ。
研究結果と同時に、なぜ下界で運命の赤い糸が広まったのかという、疑問が浮かび上がってきた。天使が介入しない限り、そのようなことが広がるなど考えにくい。俊は研究を重ねていき、それも間もなく解けた。
下界にその伝説が広がる数十年前、楽園から一人の天使が下界に降り立った。アリエルという女性の天使だ。彼女は、老婆の姿を模して下界へ降り立った。その国が宋と呼ばれる国だったのだ。
彼女は下界で、一人の男に想いを寄せる女と出会った。老婆は次第にその女と親しくなっていき、女が男に想いを寄せているということを知った。だが、その男と女は赤い運命の糸で結ばれていなかった。彼女の運命の人は、その男とは別の人だったのだ。
女が男に告白しようかどうか悩んでいたとき、老婆は運命の赤い糸で結ばれた人は別の人だ、と女に告げた。結局女は告白せず、いつの間にか、別の男と結婚していたのだった。
老婆は天使の掟を破ってしまい、堕天させられることになってしまった。そして人間となってその時代を過ごしたのだが、それも長く続かなかった。老婆の姿をしていたため、間もなく寿命で死んでしまったのだ。
それ以後、赤い運命の糸は、将来のパートナーに向かって伸びる糸として、伝説として広まっていった。「日本」でその糸が、小指と小指で結ばれるという理由にも由来があることを俊は突き止めていた。「日本」では約束を交わすとき、小指同士を絡ませることがある。約束の指という意味の小指が、将来のパートナーとの契りと由来しているのだ。
そして天使はこの運命の赤い糸を修復する力を備えている。一方で糸を断ち切ってしまう存在が、悪魔や堕天使といった存在なのだ。この二つの存在は天使と対立する関係にある。
「あれは、不意打ちだろ」
重そうにどっさりとノートを抱えた春樹が言った。彼の顔はまだかすかに赤く、火照っているようだ。俊と春樹はあの後、高根に職員室に呼び出されたのだ。
「俺もビックリしたよ。まさか、藤崎があんな大胆なことするとはね」
「ほんと、有り得ねぇっつーの」
「でも、藤崎の言ったように、ちょっとは注目されそうだな」
俊が笑いながら言うと、春樹はまあな、といって頷いた。その顔はどこか誇らしく、満更嫌ではなさそうだ。
「俺のファーストキスが不意打ちになるとはね」
春樹はぽつりと呟くように言った。
突然、春樹が足を止め、俊も思わず立ち止まった。どうしたんだ、と声をかけようとしたが、俊はすぐにその理由を察知した。瓜生と桜庭が、並んで二人のほうに向かって歩いて来ていた。桜庭は俊たちに気づいていないようで、瓜生のほうに顔を向け楽しそうに笑っている。だがそのすぐ後には、二人の姿を認め笑顔を消した。俊は瓜生と初めて出合ったときに感じた、奇妙な感覚を再び覚えた。
瓜生と桜庭の間に運命の赤い糸を見ることができなかった。どうやら、瓜生と桜庭は将来を共にするというわけではなさそうだ。
「千春とのファーストキスはどうだった」
桜庭がにやにやとした顔つきで、からかうような口調で言った。春樹は答えず、ぷいっとそっぽを向いた。
「藤崎とキスしたんだ。二人は付き合っていたわけか」
瓜生はそれに興味を示した。
彼は俊たちの隣のクラスで、春樹と藤崎がキスをした状況を知らない。桜庭は瓜生に先ほどの状況を説明した。それを聞いた瓜生は、くすくすと笑い出した。
「わ、笑うなよ」
春樹は瓜生の顔を見て言った。瓜生は笑いを止めようとしない。
「二人のほうは上手くいってるのか?」
春樹が訊いた。俊には一瞬桜庭の顔が曇ったように映った。多分、気のせいだろう。
「上手くいってるよ。キスはまだだけど」
瓜生は桜庭の肩に手を回し、ぐっと彼女を引き寄せた。桜庭は驚いた顔で、瓜生の顔を見た。桜庭の身長は俊と同じくらいだが、瓜生はそれよりも高かった。
「それなら、二人もキスしたらどうだ? もっと注目を浴びるぞ」
不適に笑みを浮かべた春樹が、からかうように言った。
「からかわないでよ」
間髪を容れず、桜庭が言う。
「彼女がいいってんなら、俺は別にいいけど」
瓜生は微笑を浮かべ、桜庭の顔をまじまじと見つめた。桜庭は顔を赤らめ、目を伏せた。
「ごめんなさい。あたし……まだできない」
瓜生は小さく頷き、わかったと言った。
「君が、甲斐谷くんだよね?」
「えっ、そうだけど」
三人の話に耳を傾けていただけの俊は、瓜生に突然話しかけられ驚いた。このまま三人だけの話で終わっていくものばかりだと思っていたのだ。
瓜生は舐めるように、俊の身体を観察した。獲物を捕らえるかのような瓜生の鋭い視線に、俊は悪寒を覚えた。瞬間、俊は人間とは別のようなものを瓜生から感じ取った。そこには、どこか懐かしさのようなものも含まれていた。
「前に一度会ったこと覚えてる?」
俊は首を縦に振った。忘れもしない、奇妙な印象の残る出会いだった。
「嬉しいな。覚えていてくれたか。俺を見て、なにか感じることない?」
心を見透かしているかのような質問に、俊はどきりとした。
「いや、別にないけど……」
俊はうそをついた。瓜生に危険な香りを感じ、直感的に判断したのだ。
「そうか。じゃあ、また部活でな」
最後の言葉は、春樹に言ったようだ。瓜生と桜庭は二人の横を抜けていくと、教室へと入っていった。
俊が校舎を出る頃には、晴れ渡った空はすっかり茜色に染まっていた。十一月にもなれば、陽が落ちるのもだいぶと早い。下界に来てそういった変化を実際に楽しむのも、この地に降り立った特権だなと思った。
楽園には四季折々、日の出や、日の入りといった変化はない。時間の経過も気にすることなく、生活を送ってきたが、下界に降り立って、そういった変化に敏感になったのは確かだ。
俊が校門に向かっているときだった。壁にもたれた姿勢で立っている、ジャージ姿の瓜生が目に入った。校門を抜けていく女子生徒たちは、瓜生に一声かけていく。瓜生はそれに笑顔で応じていた。
「クラブはどうしたんだ?」
俊のほうから話しかけた。
「すぐ行く。君と話がしたくてね、ここで待っていたのさ」
「話? 昼休みに言わなかったってことは、二人だけでということか」
「ああ。桜庭から聞いたけど、君は彼女をふったらしいね」
「それがどうした?」
俊の語気は思わず強くなってしまった。瓜生に言われると、なぜか腹立たしかった。
「それは、君が天使だから桜庭をふったのか?」
「え……な、なに言ってんだ」
明らかに狼狽しているのが自分でもわかった。人間に慣れてきたとはいえ、ずばり言い当てられるとうそを隠すのがまだ苦手だ。
「隠しても無駄だ。俺は全て知っている」
俊は眉間に皺を寄せ考え込んだ。天使の力を使ってしまったことも、自分が天使だということもまだ誰にも話していない。それなのに、どうして瓜生は知っているのか? 考えられる答えは一つしかなかった。
俊が口を開く前に、表情を読み取ってか瓜生が言った。
「どうしてだ、と言いたそうな顔をしているな。一年半前に下界に降り立った天使って、ファニエルだろ。いや、今は甲斐谷俊と呼んだほうがいいのかな」
「お前も、天使なのか……」
「そうだ。下界には、二月に来た」
その月は、瓜生が木碕高校に転校してきたときだ。不意に春樹の言葉を思い出した。
瓜生は謎多き人物――それは、彼が天使だからだろう。過去の経歴を隠したのは、恐らく俊と同じ理由なのだろう。
「それじゃ、お前は天使だというのに桜庭に告白したのか?」
「そうだ」
悪びれた様子もなく瓜生は答えた。
「天使の掟を知っていながら、それを破ったってことか」
「君はそんなものに拘っているのか。君だって、こっちに来て掟の一つや二つは破っているだろう」
俊は言い返すことができなかった。事実、彼の言ったように、掟を破っている。
「なにも言い返さないということは、図星のようだな」
「だけど……」
俊は閉口した。言おうかどうか躊躇った。
「だけど人間に恋することは、いけないことだと言いたいのか?」
俊は頷いた。自分の心を読み取っているかのような瓜生の発言に、俊は毎回驚かされていた。天使とはいえ、彼は俊以上に人の心理を読み解くことに長けているようだ。いや、俊があまりにも劣っているのか、表情が顔に出過ぎているだけなのかもしれない。
「自惚れるなよ。掟を破るということは、どんな掟でも変わらないんだ。君は桜庭が好きだったんだろ。しかし、掟を破ってしまうことを恐れたんじゃないのか。だから好きな人をふってまで、天使であり続けようとした。だが、この世界で天使の力を使ってしまえば、それだけで掟破りなんだ」
瓜生の言葉一つ一つが、俊の胸にナイフとなって突き刺さった。またもや的確なことを突かれ俊の胸は痛んだ。確かに彼の言うように、掟を破ることに大小は関係ない。それに自分は桜庭から、逃げ出してしまった身分なのだ。時子が言っていたように、瓜生も恋愛は自由だという考えなのだろうか。だから、掟を破ってまで桜庭に告白したというのか?
「それに、俺が掟を破ったところでどうこうってわけじゃないしな」
「どういうことだ?」
瓜生の意味深長な言葉に、俊は訊いた。
「それは秘密だ」
「おい、早くこいよ。練習始まるぞ」
ジャージ姿の春樹が、遠くから瓜生を呼んだ。瓜生は春樹のほうに首を捻ると頷いた。
「安心しろ。君が天使だということは誰にも言わない。まあ、言ったところで誰も信じないだろうけど」
瓜生は春樹のほうに歩み出した。しかし数歩進んだところで、俊のほうに振り返った。
「一つ言い忘れていたよ。楽園での俺の名前はベリアルだ。じゃあな、かつての親友ファニエル」
瓜生は春樹のほうへと駆け出した。二人は並んで部室のほうへと歩いていった。
瓜生の楽園での名前を聞き、俊は呆気に取られていた。忘れもしない、懐かしい名前だった。