第1章――1
五時限目の現代文の授業だった。はげ頭の、メガネをかけた国語の教師が『舞姫』を音読していた。クラスの連中は、一応教科書に目を落としているようだが、真面目に聞いている者は少ない。露骨に眠そうな顔をしている者が何人かいる。
甲斐谷俊は頬杖をつき、ぼうっとグラウンドを眺めていた。彼もまた真面目に授業を聞いていない一人だ。グラウンドでは体育の授業をやっているらしく、紺のジャージを着た男子生徒たちがサッカーをしている。女子生徒は隅のテニスコートで、テニスをしている。
俊にとって、下界の学問はつまらないものばかりだった。今まで授業でやってきたことは、全て既に身につけている知識だった。そのため中間テストや学期末テストは、百点満点でいつも学年トップだった。
天界で研究を重ねた自然界の摂理と下界の知識は、だいたい研究し尽くしていた。そのため学問において、新たな発見はまず望めないだろう。
問題なのが、人間の心理だった。これは、天界で研究を重ねてもわからないことがいくつもあった。いや、わからないというより、読めないと言ったほうが正しいのだろうか。
天界では人間の心理について、できる限り研究してきた。そして、俊なりにいくつもの心理的行動パターンを見出した。人間がその状況に陥ったときに、どういった行動パターンをとるかというものだ。
たいていの人間は研究結果の通りに行動していた。だが、例外というものが存在した。はっきりとした答えが存在する学問では有り得ないことである。天使たちは必死になって、その例外の行動を分析した。しかし、結局答えを見出すことはできなかった。
更にそれが天使たちを悩ませたのは、例外が一つだけでなく、どの行動パターンにも存在したという点だ。その行動一つ一つが、天使たちを驚かせたと同時に、頭を抱える材料でもあった。材料は増えるばかりで、解決したものは何一つなかった。
下界に来て、それも解決できるかもしれないと俊は思っていた。どうやら、人間の行動はその時々の感情に影響しているようだ。自らの感情のコントロールができなくなり、自分でも起こしえない行動を起こしてしまうときがある。
だが、感情、と一口に結論を出すことはできない。まだまだ人間の深層心理は深いものだと俊は考えていた。そして、この研究は楽園の永遠のテーマでもありそうだ。
「甲斐谷なに余所見している」
はげ頭の教師が注意した。俊ははっと我に返って、前に向き直り
「すみません」
と謝った。運が悪かったな、と小さくため息をついた。余所見をしていなくても、聞いていなかった者は何人かいるはずだ。その中で、不運にも俊が選ばれてしまった。
「続きから読んでみろ」
俊は教科書をぱらぱらと捲った。どこから読めばいいのか全くわからなかった。
「百二十ページの五行目から」
隣から押し殺した声が聞こえた。俊は隣の席にちらっと目を向けた。桜庭麻由は眠気の感じられない顔で教科書に目を落としていた。彼女は真面目に授業を聞いている、少数派の生徒らしい。
俊はそのページの五行目から読み始めた。国語の教師は驚いていた。俊が余所見していたものだから、どうせわからないとでも思っていたに違いない。
「サンキュー」
読み終えてから、俊は声を潜めて言った。桜庭は俊のほうに顔を向けると、なにも言わずに微笑んだ。彼女の微笑みに、思わず俊はどきりとした。少しの間、桜庭の横顔をぼんやりと見つめていた。
彼女は黒髪のショートヘアーで、ぱっちりとした大きな目をしている。美しい美貌と大人びた雰囲気を持ち合わせている彼女は、クラスの男子からも人気がある。成績優秀で運動神経がよく、非の打ち所がない。まさに才色兼備という言葉がぴったりだ。すらっとした長い足に加え、モデルのように身長が高いのは、バレー部員だからだろう。
俊の視線に気づいたのか、桜庭は俊のほうに顔を向けた。思わず俊は目を逸らした。
「どうかした?」
「ううん、なんでもない」
俊は教科書に視線を変えてから言った。
授業が終わると、俊は国語の教師に呼び出された。授業はちゃんと真面目に受けろと注意された。それだけを言うと、国語の教師は教科書とプリントを持って教室を出ていった。
「おーい、俊」
後ろのほうから声がした。俊は声の主を探すために、首を捻った。一番後ろの席で、織田春樹がにやにやとした顔つきで手招きしていた。
「なに?」
俊は春樹の前の席に座った。
「前々から思っていたんだけどさ……」
と言って、彼は一旦口を閉じた。が、顔つきは変わらない。
「前々からなんだよ」
もったいぶった春樹の態度に、俊は先を促した。
「俊てさ、桜庭のこと好きなんじゃない?」
「えっ!」
目が点になる俊。図星だった。
「やっぱり……」
俊の顔色を読み取って、春樹は納得した。
「なんで、わかった?」
「自分では意識してないかもしれないけど、俊ってわかりやすいんだよな。顔に出ているっていうか……さっきの授業中も桜庭のこと見てただろ」
かっと顔が熱くなる。彼女のことが気になるとは誰にも言った覚えがないし、それは俊の胸だけに秘めてきたことだった。
それに今まで意識したこともなかった。他人に言われ、顔に表情が出ていたということに初めて気づいた。人間は些細なことを見逃さない鋭い生物らしい。
「桜庭のこと好きなら、早く告白したほうがいいぞ」
「どうして?」
春樹は俊のほうに少し身体を乗り出した。
「桜庭って人気あるだろ。だから、早く告らないと他の男に取られちゃうってこと」
「ああ、そういうこと。誰か桜庭を狙っているやついるの?」
春樹は首を捻り唸った。
「俺が知っている限りでは、俊を除いて二人だな。一人はこのクラスの佐郷。で、もう一人は隣のクラスの千葉だな」
「そっか」
「告白するなら手伝ってやろうか」
俊は首を振り、しないときっぱり答えた。
「どうして?」
「俺は、このまま片想いでいいんだ」
俊は窓の外に目を向けた。
俊は複雑な事情を抱えていた。人間の恋愛事情に関わってはいけないこと。それは、片想いさえも禁じ手なことなのだろうが、仕方の無いことだと割り切ることにした。それでも、天使の掟を破っているという罪悪感はあった。片想いのまま、後一年と少しを乗り切れればいい。
「ふうん。まあ、俊の好きにすればいいさ」
次の授業の開始を告げるチャイムが鳴った。途端に教室は慌しくなった。俊は席を立った。
「想いを伝えないと後悔することになるかもしれないぞ」
俊はわかっている、と言い残し自分の席に戻った。
俊は下界にやって来るまでのことを思い出した。下界に来てもう一年近くが経つ。彼が下界に降り立ったきっかけとなったのは、楽園の長ミカエルから命を受けたからだ。彼の命は絶対的なもので、願い下げすることはできない。
地上より遥か空の彼方に存在する、天使たちの世界。下界では、天国と呼ばれている世界だ。天の国――楽園――では、さらに十の天国が存在する。天使たちは楽園で最も崇拝されている、四大天使の一人であるミカエルによって、その国々に配属されている。彼は楽園を束ねる天使たちの長でもある。そして楽園の天使たちは、九つある階級のどこか一つに必ず属している。
能天使のファニエルは、第六天国で下界についての研究を行っていた。彼は「日本」という国の研究と、人間の心理について任されていた。
第六天国の研究所は下界について研究を行っている国だ。それゆえに、この国いる天使たちは、どの国の天使たちよりも下界の事情に精通している。ファニエルのほかに数人の優秀な天使たちがこの研究施設にいた。
そんなファニエルの研究所に一羽の伝書鳩がやって来た。楽園ではミカエルの言伝を、全て伝書鳩で伝えることになっている。鳩の頭の上には、金色に輝く輪が浮かんでいる。
ファニエルは伝書鳩から伝書を外すとそれを読んだ。
『ファニエルへ
至急、宮殿まで来なさい。君に、大事な言伝がある。本来ならば、伝書に記すべきなのだが、大変重要なことだ。だから、私の口から直接話すとしよう。
ミカエルより』
ファニエルは伝書を握り締めると研究所を出た。透き通る青空に顔を向け、ファニエルは勢いよく飛び立った。そして宮殿に向かった。
宮殿は第四天国にあった。その宮殿にはミカエルたち四大天使が住んでいる。彼らは、常日頃この第四天国から天界を見守っている。天界で問題が発生すれば位の低い天使たちを遣いに出すのだ。
「ミカエル様が王の間でお待ちでございます」
宮殿の門をくぐり抜けようとしたとき、門番の天使が言った。ファニエルはわかっている、と顔を向けずに言い門を抜けた。宮殿の警備は、あの日以、来楽園の中でも最も厚いものとなった。
王の間は宮殿の中央部にあった。ここに入ることができるのは、ミカエルから呼び出されるときくらいだ。ファニエルは過去に一度だけ入ったことがあった。
大変重要は話ということを思い出し、ファニエルは少し緊張していた。ミカエルから呼ばれるのは、第六天国で下界の研究に携われ、と命を受けたとき以来だ。それもずいぶん前のことだ。ファニエルは大きく息を吸い込み吐き出すと、王の間の扉を開いた。
ミカエルは真っ白な壁に囲まれた部屋の中央で、黄金の椅子にどっしりと構え座っていた。さすがに楽園の頂点に立つだけのことがあり、ただ座っているだけで威厳を感じる。まるで他の天使たちと段違いだ。その威厳に、ファニエルは圧倒されそうになった。
ファニエルはミカエルのところまで歩み寄って行くと、跪き頭を下げた。
「ミカエル様、どういったご用件でしょう」
「顔を上げなさい」
ミカエルに言われ、ファニエルは顔を上げた。まだ若い大天使のミカエルは穏やかな顔をしていた。彼の翼は眩しいほどの純白だった。楽園で最も綺麗な翼を持つ天使と言われている。
彼を含め、四大天使と呼ばれる大天使たちは、とりわけ熾天使や智天使など高位階級を支配するほどの力を備えているのだ。
「早速だが、君に今回の命を授けよう」
「はい」
ファニエルは身を引き締めた。
「君には、下界に降り立って向こうで過ごして来てもらいたい。期間は約二年半だ。引き受けてくれるか?」
「はい。ですが、その命をどうして私に……」
それほど重要でもない命に、ファニエルは少し気落ちした。本来、そういった命は位の低い天使たちが受けるものだ。能天使がそのような命を授かったということを聞いたことがなかった。
「君だからこそ、お願いしたいんだ」
「私だからこそ……ですか?」
「君は今、日本という国の研究をしているだろう」
はい、と言ってファニエルは頷いた。
「その日本に行ってもらいたいんだ。そして人の心理、行動、下界の知識などを吸収してきなさい。研究室に籠もっているだけではわからなかったことも、きっとわかってくるはずだ」
「一度下界に行って、自分の目で確かめてこいというわけですか。だから、私に命を授けたのですか?」
「そうだ。研究者として、下界に直に勉強しに行ってもらいたい」
「わかりました。では、早速行って参ります」
ファニエルは立ち上がると、ミカエルに背を向けた。歩き出そうとした瞬間、
「ちょっと待ちなさい」
とミカエルに呼び止められた。ファニエルはミカエルのほうに向き直った。
「忠告がある。わかっていると思うが、人間に恋するんじゃないぞ。これは天使の掟だ。掟を破ったらどうなるかわかるな」
「ええ、それは天使の裏切り行為。ここに戻ってくる資格はないということですね」
ミカエルは頷いた。その天使の掟は百も承知。
「それと、これを渡しておこう」
ミカエルは一枚の紙片を取り出すと、ファニエルに渡した。
「これはなんですか?」
ファニエルは紙片に目を落としながら、訊いた。そこには「甲斐谷俊」と書かれていた。
「日本で名刺と呼ばれているものだ。いわゆる、身分証明書だ。下界ではその名前を使いなさい。それと……」
ミカエルは急に真剣な顔に変わった。
「下界にいるときは、天使の力を控えなさい」
「はい」
ファニエルは彼の顔をしっかり見据え言った。
「日本には第一天国から降り立つといいだろう。門番のサニエルには、伝書鳩を送ってあるから、君を見れば通してくれるはずだ。最後に、下界では甲斐谷時子という女性の家に居候しなさい。彼女の許へ手紙を送っておいた」
「人間に手紙を送ったのですか?」
ファニエルは驚いた顔で訊いた。下界に言伝を送ったというのも過去に例を見ないことだった。
「問題はないだろう。彼女はもともと天使だったんだからな」
ミカエルは微苦笑を浮かべた。ファニエルにはどこか少し悲しさの宿った表情とも思えた。
王の間を出たファニエルは、男の天使によって、偽の間へ案内された。
偽の間には、カエル、ライオン、ネコ、イヌ、人間と下界のありとあらゆる生物のモデルがところ狭しと置いてあった。その中には下界を研究しているファニエルが初めて見るものもいくつかあった。天使たちが下界に降りるときは、ここでその生物に成りきって降り立つのだ。今回ファニエルは人間の姿を模すことになる。
「ここで、少しお待ちください」
ファニエルを入り口に残し、男の天使は奥のほうに消えていった。彼は間もなくして、人間のモデルを持ってやって来た。短い髪の毛で、小柄な若者だった。外見では際立って目立つようなところはない、ごく一般的な人間だ。また紺の制服を身につけていて、かばんを持っている。下界に降り立って、学校に行かなければならないようだ。
「こちらのほうに身体を移してください。これが、日本人のモデルです」
ファニエルは、モデルの胸に手を当てると目を瞑り意識を集中させた。すると、なにかに吸収されるような感覚に陥った。
目を開けると、慣れない感覚だった。意識がモデルのほうに移ったようだ。ファニエルは身体を少し動かしてみた。首を回してみる。骨がぽきぽきと鳴った。胸に手を当ててみると、一定の間隔で心臓の鼓動が伝わってくる。
「これが人間か。動かしにくい身体だな」
「ミカエル様によると、高校生という設定らしいです。一番人間の心が不安定な時期らしいですよ」
「なるほど。人間の心理を学ぶにはもってこいだな」
その後、偽の間を出たファニエルは第一天国へと向かった。
第一天国は下界に最も近い天国だ。下界で死んだ人間の魂は、ここで浄化される。また神によって創られた最初の人間も、この第一天国で創られたらしい。
第一天国は極めて下界に近い風景をしている、天界では特別な国でもある。そして、最も天使の数が多い国だ。しかし、その天使たちは皆位が低く、中には翼をも持たない天使もいる。下界に派遣されるという命は、たいてい彼らが受けるのだが、今回は特別のようだ。
上位階級や中位階級の天使たちは、第一天国の管理を任されるために、配属されているくらいである。
東の門付近には大きな協会が見える。そこで魂の浄化と共に、天使によって人間の審判が下される。審判方法は至ってシンプルである。天使が人間の魂に向かって、「審判の十字架」をかざし、十字架が赤い光を発せば、悪行を行った人間と審判が下され、また眩い白い光を発せば、善人と審判が下される。
悪行を行った人間は地獄に落とされ、善人、または特に悪意ある行動をせずに死んだ者は、天使となるかもう一度人間として生まれ変わるか審判が下される。といっても、天使となれる人間は極僅かだ。たいていは、人間となって新たな命を宿す。だから、人間の命は輪廻転生と言われているのだろう。
ファニエルは東の門に向かった。協会を横切るとき、位の低い天使たちが物珍しそうにファニエルを眺めていた。第一天国に中位階級の天使が来ることは、彼らにとって珍しいことである。以前にも、こういった注目を集める経験をしたことを思い出した。
「よう、ファニエル。似合ってるじゃないか」
ファニエルの姿を見て、門番のサニエルは大口を開けて笑った。うるさい笑い声が第一天国に響いた。彼とファニエルは楽園で数少ない親友と呼べる仲だった。彼は、もともとは第六天国の守護門番を務めていた。そのとき、ファニエルとサニエルは出会った。だがしばらくして、ミカエルの命を受け第一天国の守護門番をすることになったのだ。大剣を武器にする、楽園の戦士である。
「うるさいな。俺も好きで下界に行くわけじゃないんだよ」
ファニエルは天を仰ぐように顔を上げた。サニエルはかなり背の高い守護天使だ。
「それにこういった役は、俺よりもあいつのほうが適していると思うんだけどな」
「あいつというと、ベリアルのことか」
「ああ」
サニエルは白い髭に手を当て、まじまじとファニエルを見下ろし、にやりと笑みを浮かべた。
「やっぱり、お似合いだな。天使より人間のほうが、かっこいいんじゃないか」
サニエルは再び大口を開け笑った。腹が立ったファニエルは、サニエルの足の指を蹴った。しかし彼は何事もなかったかのように笑い続けている。
「そのまま人間になっちまえばどうだ」
サニエルはからかうように言った。
「やだね」
ファニエルは、ふんと鼻を鳴らした。
「さっさと門を開けてくれよ」
「おう、悪い。今開くぜ」
サニエルは両手を門に当てると、踏ん張っておもいっきり門を押した。門は鈍く軋むような音を響かせゆっくり開いた。
「それじゃ、行ってくるわ。しばしのお別れだな」
「気をつけてな」
ファニエルは光り輝く門へと歩き出した。