看板娘の虚無
翌朝、ミゲルの町は深い朝靄に包まれていた。今年は春が来るのが遅かったため、この時期にしては朝が冷え込む。私はショールを体に巻き付け、朝食の準備を手伝っていた。
宿屋の朝は早い。冒険者が目を覚ますより早く、広間を暖め、明かりを灯し、食事の仕込を始める。つらいことがあるとすれば、朝は空気も冷えるが、水も冷たい。食事の準備も一苦労だ。
「ミア、厨房はこれくらいでいいから、広間の様子をみてきておくれ」
「はーい。いってきまーす」
母さんの一声をこれ幸いと、私は厨房を後にした。冷気にあてられ、窓が結露している。室内は暖かいのだが、窓を見ていると身震いがしてしまう。私は足早に広間に向かった。なんとなしに扉を開き、振り返った人物に心臓がはねた。
「やぁ。おはよう、ミアちゃん」
「お、おはようございます!」
ハルさんは、穏やかに微笑んだ。胸がきゅんと痛くなり、私はうつむいた。不意打ちに、この笑顔は反則だ。こちらはまだ、心の準備ができていないというのに。
「今日は、すごく早起きなんですね」
「なんだか目が覚めちゃってね。1年ぶりの冒険だから、気分が高まって止められないのかもしれないな。ここにいて、邪魔じゃない?」
「もちろんです。何か飲みますか?紅茶、用意しますよ」
「では、お言葉に甘えて。ありがとう」
ハルさんのお気に入りは、山に咲くリーベという花で淹れるハーブティーだ。紅茶に口をつけると、ハルさんは幸せそうに目を細めた。柔らかな髪が、はらりと揺れた。
「これを飲むと懐かしくなる。また、ここに来たんだと実感するよ」
「ハルさんは変わらないですね。いつも、それがお好きで」
「ミアちゃんは大人になったね。すごく綺麗になった」
私は驚きのあまり、片付けの手を止めた。ハルさんの瞳に映る私は、さぞや滑稽であることだろう。ずっと言って欲しかった言葉、聞きたかった言葉。頬が火照り、喜びが全身を駆け抜けた。
「ほ、本当に?!」
「うん。親父さんも、さぞや喜んでいることだろうね」
そういって、ハルさんは目を伏せた。
父さんが死んだのは、もう5年も前のことだ。動けなくなった冒険者を助けにギルドと共に山へ入り、運悪くモンスターに襲われてしまった。最期までけが人を庇い、必死に戦っていたそうだ。
「……父さんは、よく言っていました。ハルは、大した冒険者だ。誰よりも心が強くて、努力の価値を知っている男だって」
「今でこそ皆認めてくれているけれど、昔はそんなこと言ってくれるのは、アーサーと親父さんくらいだった。二人がいたから、俺は折れずにやってこれた。――親父さんにも、報告できればよかったのに」
「報告?」
なぜかそこで、私は胸がざわついた。本能が警笛を鳴らす。これ以上、聞くべきではない。それなのに、ハルさんの切れ長の瞳に囚われてしまったように、私は動けずにいた。
「婚約したんだ」
形の良い唇が、はっきりと紡ぐ。それでも、私は耳が聞いたものを信じられなかった。
「世話になった方のお嬢さんで、何かと気にかけてもらっていたんだ。時期をみて、正式に婚礼を執り行うつもりだよ」
☆ ☆ ☆
その後、私がなんて答えたのかは定かではない。気が付くと、私は一面に咲くリーベの白い花の中に、身を横たえていた。町からそう遠くない森の中の一角にあるこの丘は、私のお気に入りの場所だ。
山の冷気が、私の中身とそっくり入れ替わってしまったかのようだ。頭の先から足の指まで冷たいものが重く澱み、心がぽっかりと穴をあけている。
失ってしまった。届かなかった。何年も、大事に大事に、胸の中ではぐくんできた想いなのに。背中だけを見つめ、ようやく追いつけたと思った瞬間、永遠に辿りつけない場所へ行ってしまった。
「ひどいよ、ハルさん」
視界がじんわりと滲む。リーベの甘く優しい香りが、今はとてもつらい。全身がちぎれるように痛み、私は身を縮めた。
おーい、と誰かが呼ぶ声がした気がした。まだ微かに残る靄に包まれ、リーベの花たちがゆらゆらと揺れた。
「おーい、ミア!ミアってば!」
空耳などではなかった。朝靄から姿を現したのは、リゲルだった。泣きはらした顔を見られたくなくて私が顔を腕に埋めていると、すぐ傍らにしゃがんだ気配がした。
「俺たち、もう出発するんだ。俺、出る前に、お前と話しておきたくて……、何かあったのか?」
答えられずにいると、がさりと音がしてリゲルが隣に座った。
「ハルさんに聞いたんだな。結婚のこと」
「……っ!どうして、そのこと!」
驚きのあまり、私は跳ね起きてしまった。リゲルは呆れたように、唇を尖らせた。
「ミアがハルさんのこと好きだなんて、見てればバレバレだったじゃん」
「な、な、な……っ」
「ブレスレットつけられた瞬間なんか、こっちがこっぱずかしかったぜ。恋してます!ってオーラ全開でさ」
リゲルの一言に、私が完全にノックアウトした。初対面相手に、そこまでお見通しだったなんて恥ずかしすぎる。だけども。
「だけど、それももう、おしまいだから」
そう、おしまい。秘めていた想いの強さも、育んできた月日の長さも関係ないんだ。
リゲルはそっと、私の肩に手を置いた。
「戻ろう。おかみさんも心配している。ここを教えてくれたのも、おかみさんなんだ。それに、冒険が始まったら、しばらくハルさんと会えなくなっちまうぞ」
ハルさんの名前に、びくりと体が強張ってしまう。今は、あの優しい笑顔を前にすることなど、とても出来るわけがない。名前を聞くだけで、これほど苦しいというのに。
「行きたく、ない」
「来いよ。お前、冒険者を見送るのが好きだって、言ったろ?」
「そう、だけど」
「……なんだよ。冒険者は、ハルさんだけじゃねーぞ。みんな誇りを背負って、命賭けて、山登ってんだよ。俺だって、まだぺーぺーだけど、全部賭けんだぞ」
「わかっているよ!!」
震える声が、喉から迸った。リゲルが息を飲んだのがわかった。
「わかっているよ、この町の人間だもの……。――だけど、ずっと好きだったの。ずっとずっと、大切にしていた気持ちだったの」
どうして、うまくいかないのだろう。恋愛が早いもの勝ちなら、間違いなく私の勝ちだ。ハルさんの婚約者より、ずっと長く、ずっと深く、私の方が彼を想っているというのに。
今の私に、ミザル・ブルクの看板を背負う資格はない。だけど、ここで自分を鼓舞できるほど、私にとってハルさんの存在は小さくない。
リゲルは小さくため息をつくと、立ち上がった。
「すげぇ奴だと思ってたけど、勘違いだったのかもな」
ザザッと、草がこすれる音がして、リゲルは朝靄の向こうへ消えていった。残されたのは、真っ白な花と甘い香り、そして、どうしようもなく弱い私だけだった。