首と魔女
北の森には魔女が住んでいる。だから絶対に入ってはいけない。
村の子供たちは大人たちにそうきつく言いつけられている。16歳になるエリオットも耳にタコができるほど聞かされてきた。
実際、エリオットの知る限りでは村の人間が北の森に入ったことは一度もない。
その森の前に、今エリオットは立っていた。
魔女なんて信じてはいなかったが、自然のままに草木が生い茂った森は昼間でも薄暗く、なんとなく足を踏み入れるのが躊躇われた。
だが今は怖気づいている場合ではない。エリオットは意を決して一歩踏み出した。
幼馴染で親友のハロルドがいなくなってから3日経つ。一つ年下のハロルドは明るく真面目な性格で、今まで断りもなく一晩以上家に帰らないなどということはなかった。ハロルドの両親も村の人々も心配して村中探したが見つからなかった。何か事件や事故に巻き込まれたのかもしれない。
方々に聞き込みをして、やっとのことで野菜売りの子供からハロルドらしき人物が北の森の方向に歩いていったという情報を得た。真偽のほどは分からない。ハロルドだって北の森に入ることが禁じられているのを知っている。別人かもしれないし、他の場所へ向かった可能性もある。
大人たちは少年の口から北の森の名が出てきた途端口をつぐみ、誰も森へ行こうとは言わなかった。
しかし他に手がかりがない以上、北の森を探すしかないのだ。
エリオットは両親に悟られないよう、まだ夜が明けきらないうちに家を出た。
森に入ってみると、不思議なことに道のようなものがあった。村の人間はもちろん、外部の誰もこの森に入ることはないはずだ。かといって人工的に作られた風でもないし、偶然できたものなのだろうか。
道らしきものは右へ左へ曲がりくねり、次第に方角も分からなくなってくる。木々の間からは時折正体のわからない鳥の囀りが聞こえる。人間に狩られることがないため動物も多く棲んでいるのだろう、少し離れた所から風に揺られたのとは違う草木の擦れる音が聞こえてくる。音はするが姿が見えないのが、野生動物なのだから当たり前とは思うが、不気味だ。
どれくらい歩いただろうか、突然目の前が明るくなった。開けた空間に出たのだ。森の中を歩いている時には気づかなかったが、すでに日が昇り優しい朝の光が差し込んでいる。
光の中に、一軒の小さな家が建っていた。どこかで見たような、ありふれた、どこにでもある普通の家だ。家の横、おそらく南側の畑で、何種類もの野菜が朝日を受けて輝いている。ごく普通の穏やかな風景が、この森の中にあっては異様だった。
家の玄関の傍らに一人の少女が立っている。エリオットと同じくらいか少し年上だろうか。艶やかな長い黒髪と雪のように白い肌の、美しい少女だ。足元には何かが入った大きな袋が置いてある。質素な服のスカートの裾からは華奢な足首が覗いている。少女はエリオットの存在には気づいていないようだった。
エリオットの目はこの少女に釘付けになったが、その理由は少女の美しさだけではない。
この現実感のない光景の中で最も異様なもの。それは、少女が両手に持っているものだ。
見慣れているようで、それでいて初めて見るものだ。
身体を失った、人間の頭部だった。
血の気が失せて表情のない生首は妙に綺麗でどこか作り物めいていた。
しかし、あの髪の色、あの顔は、エリオットのよく知る人物ではないか。
エリオットは息をするのも忘れてそこに立ちすくんでいた。目を離せずにいると、少女は手に持った首を自分の顔の高さまで掲げ、生首に口づけた。
それを見た途端、体の芯が熱くなるのを感じた。エリオットの中に何かがこみ上げ、思わず大きく息を吸った。
少女が気配に気づき、エリオットを見た。
「ここにいてはいけない。早く立ち去りなさい――エリオット」
人形のような少女は透き通る声で言った。
エリオットは弾かれるように振り向いて来た道を走りだした。頭の中がひどく混乱している。少女が自分の名前を口にしたことに疑問を持つ余裕もなかった。どこをどう走ったか覚えていない。気がつくと森の入り口にたどり着いていた。
村に戻ると大騒ぎになっていた。首のないハロルドの遺体が発見されたのだ。
遺体は隣村へ続く道の途中にあったらしい。身に着けているものなどからハロルドと分かったようだ。
ハロルドの両親は悲報に泣き崩れ、まだ4つの弟は何が起きたのか理解しないまま不思議そうに大人たちを眺めていた。エリオット自身もハロルドの死に実感がわかずにいたが、その光景に胸が痛んだ。
エリオットの姿を見つけた母がどこに行っていたのか尋ねたが、エリオットは答えなかった。
夜になりベッドに横になると、エリオットは森で自分が見たものを反芻していた。やはりあれはハロルドの首だったのだ。あの家は何なのだろう。あの少女が、魔女なのだろうか。ハロルドをあんな風にしたのは彼女なのか。
とても美しい少女だった。こちらを見る長い睫毛に縁どられた瞳は氷を思わせる薄い青。小さくかわいらしい唇は血を吸ったように紅かった。
くちびる。
少女がハロルドのもう何も語ることのなくなった唇に口づけていたのを思い出す。
親友のハロルドが死んでしまったというのに、それよりもあの恐ろしく美しい光景が頭から離れなかった。
その夜夢を見た。
夢の中でエリオットは北の森の家にいた。朝見た光景と同じく、少女が立っている。少女の周りにはたくさんの生首が転がっている。若者や老人、子供のものもある。首たちはみな少女の可憐な手に取られるのを待っている。
エリオットが眺めていると、少女は一つの首を拾い上げた。ハロルドの首だ。少女はハロルドの首を持ち、愛おしそうに頬を寄せ、恋人にするようにキスをした。
羨ましい。ハロルドが妬ましい。
なぜ少女が口づけているのは自分ではないのか。
もどかしいのに体は石のようで、指先一本ぴくりとも動かせない。
少女の細い指が生首の頬を撫でるのが見える。
気づくと目の前に少女の顔があった。影を落とす長い睫毛。淡いブルーの瞳。唇が微かに笑みを作った。
ああそうか。自分は今生首になっているのだ。周りに転がるものたちと同じように、四肢や胴体から切り離され、少女に愛されるに相応しい姿になったのだ。
間近で見る少女の顔は、この世のものとは思えないほど美しい。
少女の唇がエリオットの唇に触れた。優しく少しくすぐったい。唇の間から差し込まれる舌は柔らかく、甘いしびれが脳天を貫く。
エリオットは夢中で少女の口内を貪った。これまで生きてきた中で、感じたことのない歓びだった。
翌朝目を覚ますと、エリオットはいてもたってもいられず北の森へと向かった。
村ではハロルドの葬儀の準備が行われていたが、今のエリオットにはそれどころではない。
もう一度、あの少女に会いたかった。
昨日と変わらず日が出ても薄暗い森を小走りに進む。気が急いて、一度通った道なのに長く感じる。
と、視界が開けた。あの家にたどり着いたのだ。
少女の姿が見えない以外は昨日と同じく、森の中に似つかわしくないここだけ切り取られたような空間だ。村からここに着くまで気づかなかったが、屋根の上に煙が上っているのが見える。家の裏で何かを燃やしているようだ。
エリオットは緊張で震える手を抑えながら玄関のドアを叩いた。返事はない。思い切ってドアを開けてみると、家の中も外観と同じく何の変哲もない普通の家だ。小さなテーブルに椅子が2脚置いてある。少女以外にも誰か住んでいるのだろうか。窓からは微かに風が入り若草色のカーテンを揺らしている。
時間がゆっくり流れているような部屋を眺めると、先ほどまでの緊張は消えていた。
「何をしているの」
いつの間にか奥の部屋から現れたらしい少女が声をかけた。
不意を突かれエリオットが何も言えずにいると、続けて少女が口を開いた。
「あの首を取り返しに来たのね」
少女はエリオットがハロルドの首を取り返しに来たと思っているようだ。
「お前の村の者だったのでしょう。残念だけれど返すことはできないわ。帰りなさい」
少女はにべもなく、やや早口にそう言った。
昨日と変わらず少女は美しかった。少女の可愛らしい唇から自分に向けられた言葉が紡がれることに、エリオットの胸は高鳴った。
「どうして返せないんだ? 君がハロルドを殺したのか? ……君は、魔女なのか?」
エリオットにとってハロルドの首のことはもうどうでもよいことだったが、少女との会話を続けるために否定はしなかった。
「殺したのは私じゃないわ。あの首はもうないから返せない」
「ないってどういうことだ? 僕はハロルドの首を彼の家族に持って帰らなくてはいけない。手ぶらでは帰れない。ないと言うのならその理由を教えてくれ」
本当かどうか分からないが、少女が殺したのではないという言葉にエリオットは安堵した。そして会話を断ち切られないよう、精いっぱい真剣に切迫した様子を装って少女に詰め寄った。
「家の裏で燃やしたから」
少女は短く言う。話したのだからさっさと帰れとでもいうようだ。
「じゃあせめて骨だけでも……」
「それも無理よ」
「どうして……」
引き下がるそぶりを見せないエリオットに、少女は諦めたように小さくため息をついた。
「納得するまで帰らないつもりなのね。それならついてきなさい」
妙な胸騒ぎを感じながら、エリオットは少女の後ろ姿を追った。
着いた先は家の裏庭だった。
地面に両手を広げたくらいの丸い穴が掘られ、その中で何かが燃やされている。少女はその前で立ち止まった。
「ここで首を燃やしているの」
少女は灰色の煙を吐き続けている赤い炎を指さした。
少女の白く細い指の指す先を見る。炎の中にいくつもの大小さまざまな黒い塊があった。
首だった。
どうやら人間だけではない。十個以上あるほとんどは動物の頭部のようだった。
頭の中に何かがちらつく。
「私は悪魔に魅入られているのよ」
少女は疲れた様子で語り始めた。
少女の話はこうだった。
少女は昔父親と二人でここに暮らしていた。当時は村人たちとも交流があり、静かに慎ましく過ごしていた。ところがある日突然少女は悪魔に魅入られた。それから毎日朝になると家の周囲に首が落ちているのだ。ウサギ、シカ、ネズミ、ヘビ、トカゲ、カエル、小鳥などの動物や人間、さらには虫の小さな頭部まで、ありとあらゆる生き物の首が落ちていた。少ない時は数個、多い時は数十個、毎日毎日続いているのだという。村人たちは恐れ、森に入ることはなくなった。
少女は毎朝家の周りの首を拾い集め、家の裏のこの場所で燃やすのが日課なのだそうだ。昨日エリオットが見たのは、首を拾い集めているところだったのだ。
燃やした灰は砕いて畑に撒いたり、近くに埋めてしまうらしい。ハロルドの遺骨はもう粉々になって他の動物たちと一緒に埋められてしまった。
少女の美しさは、悪魔に魅入られたからだったのか。それとも、美しいからこそ悪魔に魅入られたのか。昨日よりも近くで見る少女の肌は陶器のようになめらかで、ほっそりとした儚げな首は、思わず手を伸ばしたくなるほど誘惑的だった。
「あれほどもうここへ来てはいけないと言ったのに」
少女に言葉の意味を問い質そうとした瞬間、エリオットの身体に衝撃が走った。
エリオットは一瞬何が起きたのか理解できなかった。
地面が近くに見える。身体が動かない。
首が。
傍に立つ少女が憐れむような目でエリオットを見下ろしている。
エリオットは思い出した。
小さい頃にも少女に会っている。
ハロルドと一緒に森に入ってはぐれてしまい、歩き回って小さな家にたどり着いたのだ。
そこには、無数の首が転がっていた。
首たちの中心に少女がいた。今と変わらない姿の少女が。
「お前、名は?」
「……エリオット」
「いい? エリオット。今すぐ帰りなさい。もう二度とここへは来てはいけない。ここで見たものは全部忘れなさい。いいわね」
少女はそう言うとエリオットの額にキスをした。
なぜ忘れていたのだろう。覚えていたならすぐにここを訪れていたのに。少女が悪魔から遠ざけてくれていたのか。
しかし今の状況こそ、エリオットが望んだものだ。
少女がエリオットに近づく。
さあ、抱き上げて、昨夜の夢のように、口づけを――。
少女は一瞬憐憫の情を浮かべた表情をすぐに消し、腐ったリンゴを拾うのと同じしぐさでエリオットの首を拾い上げると、まだ燃えている火の中へぽいっと放り投げた。
誰もいなくなった裏庭で、ただ静かに灰色の煙が空へ上っていた。