さくらの はなと ノスタルジア
「日光くらい浴びた方が良いよ。」
日の光を浴びるという行為が、
脳に良い事は知っている。
そう頭で分かっていても起き上がった時にはもう、
太陽は沈んでいる事がしばしばあった。
一日中カーテンは閉め切ったままだった。
今。
今は、午前中には目が覚めるし、
布団から出られない日も、
ブラインドの隙間から日の光が漏れてくる。
ベッドの近くに窓があるのは良い事だなぁと思う。
自動的に日が差し込み、日光を浴びる事が出来るのだから。
外にわざわざ出る事も無い。
だから、
浴びてるよ。毎日。
と返したのに、
「ずっと家の中にいるじゃない。」
と言われてしまい戸惑った。
日光を浴びる事と、
外に出る事は別じゃないか。
「そうそう。別別。全然違うんだから。
今日は外で日光浴びてきたら?」
「…無理に、とは言わないけど。」
わざわざ外に出なくても、と思っていたのがバレたのだろうか。
私は今日の自分の体の調子と気持ちをじっくり確認する。
呼吸は穏やかだ。外出 と言う言葉に
そこまで抵抗感も無かった。
今の時間なら外に出ても知り合いに会う確率は低い。
室内でバランスボールと軽い筋トレはしているものの、
しっかり体を動かしているかと言われたらそうではない..。
「そうそう、桜も咲き始めてるんだよ。」
さくら。
数年前、住んでいた所を思い出す。
立派なさくら並木がある場所だった。
霞か雲かというのはこういう事かと、
ずらっと続く白い花に見とれたものだった。
ここにはその場所のように立派なさくら並木は無い。
しかし、さくらの名所が無くても、所々に咲く花を
一本一本見てまわるだけで春はうきうきしたものだった。
良いぞ、と思う。
珍しく、前向きじゃないか。
少しでも前向きになっているタイミングを逃してはいけない。
分かった行ってくる。と、数分後にカメラと小さなバッグを持って、
私は久しぶりに外へ出かけた。
気温は17℃。風も少しあって最初は少し肌寒かったが、
歩いているとだんだん ぽかぽかとして、
散歩にはちょうど良い天気だった。
帰宅途中の小学生と、
ラケットバッグを背負った高校生とすれ違う。
ラジオ体操に通った公園の前を通り過ぎる。
何だか体の中心がむずむずしてきた。
知っている。と瞬間的に思う。
でも分からないと次の瞬間思う。
何だろうこれは。
高校を卒業してすぐに、地元を離れた。
けれど毎年夏と冬、年に2回は帰省していたし、
住んでいた合計年数は地元の方が長い。
それ故、地元に特別な感情を抱いた事は無かった。
「ああ、昔の事ね。」
それで終わりだった。
気温、匂い、景色。
そこから生み出される感情、イメージ。
6年ぶりの地元の春。
初めてのノスタルジー。
これが「懐かしい」なんだ。
面白い。懐かしいのに初めてだなんて。
私はちょっとにやけながら、
静かに「ノスタルジー」とつぶやいてみた。
近所の家の庭や、団地にあるさくらも
五分咲きだが綺麗に花を開いていた。
他にもクロッカスやスイセン、
チューリップのつぼみも顔を出している。
ひとつひとつに、
こんにちは、と挨拶をする。
本当に、自然は眺めているだけで優しい気分になれる。
時折立ち止まって写真を撮った。
住宅街を抜け、大きな通りに出る。
中学、高校と通った道だ。小学校は反対の方角だった。
中学までは徒歩で15分。
高校までは自転車で30分、徒歩で45分。
私の家は通学には適していたと思う。
中学校の前を通る時、少し緊張した。
中学の頃の記憶はほとんど無い。
..無いというか、多分本能的に消したといのが正解だろう。
たまに何かのきっかけで思い出される事はあったが、
最近はそれも減っていた。
でも。
今日の私は懐かしさにどっぷり浸っていると言っても良い。
しかも初めて懐かしいという感情を意識したくらいだ。
ここにある過去には、まだ向き合えそうにない。
出来るだけ学校から目線を逸らして歩く。
吹奏楽部の楽器の音、サッカー部と野球部のかけ声。
音まで遮断するのは無理だったが、
中学校では部活をしていなかった私にはその音を聞いていても、
何の懐かしさも無かった。
ほっとしながら無事に中学校を通り過ぎた。
懐かしさには危険も含まれるのだ。
もう少し歩けば、
まとまってさくらが咲いている場所がある。
猛犬注意の看板が立っている家を右に曲がる。
この家で、犬なんて一度も見た事が無い。
吠える声も聞いた事が無い。
きっと人が嫌いなんだろうなと
小さい頃から勝手に思っていた。
右折した後しばらく直進して、今度は左。
市営のテニスコートが見えてくる。
運動公園の入り口だった。
もっと行けば、ボール遊びが出来る広場や、
陸上競技場に体育館、ラグビー場やバスケットコートもある。
その運動公園のランニングコースに
まとまってさくらが咲いている所があるのだ。
しばらく歩いた後、
ベンチに座って簡単なお花見でもしようと考えながら、
ランニングコースへ向かった。
ランニングコースは、平日の午後だったので
ほとんど人がいなかった。
お年寄りの夫婦が何組か
仲良くウォーキングしているだけだった。
ゆっくりと、さくらの咲いている場所を目指しながら歩く。
そういえば、この時期におばあちゃんと運動公園に
ピクニックに来た事があった。
まだ幼稚園に入る前だから、2歳か3歳の頃だろうか。
その時初めてこの場所を知ったんじゃないか。
懐かしいな。また、懐かしいだ。
春という季節に、
こんなに思い出が散らばっているなんて。
大きく息を吐く。吸い込む。顔を上げる。
太陽の光とピンクの花が目に入ってきた。
こんにちは。
今度はさくらから声をかけてくれた。
久しぶり、懐かしいね。と
私は目を細めながら言った。