第六話 金の百合
ブレートは焦って目を覚ました。動悸が激しい。視界が揺れる。揺れた視界の中に映ったのは、見慣れた白い男だった。
「……そうす、い」
ブレートの言葉が詰まったのは、彼があまりにも不貞腐れていたから、こんな顔は見たことがなかったからだ。無言で濡れたタオルを顔にかぶせられ、それを剥ごうとしたところでやっと澄んだ声が聞こえた。
「ローマスには気をつけろって、俺言わなかったっけ」
「あちらが、勝手に来たんですよ……いてて」
「固定してないから動いたら刺さるよ、骨が」
おこってる。冷えきった声にブレートは頬がひきつるのを感じて、タオルをそのままにしておいた。足の痛みがひどい。大きく息を吹き出してなんとか堪えたが、『青』を使って冷やす気力さえもなかった。冷やしたところで体力の消耗にしかなりそうにない重傷であった。
そうか、自分はローマスの指揮官とやらと闘ったのか。ほんの少しだけタオルをずらすと、見上げたのは古びた木の天井。自分が寝床にしている小屋だ。視線を横にやればニアロフは林檎をむいていて、その奥には鉄の残骸が見える。崩壊した銃と、自分の短剣だ。血が付着したそれに、ふと研究者の言葉がよぎった。
『その血液を採取してきてはいただけませんでしょうか』
ブレートの持つ短剣は、生半可な熱では融けず、冷気でも折れない海外算出の魔石でできた特殊な武器だ。傭兵を始める際にライブラリから購入したものだが、いかんせん高価。崩壊したとしても原材料にはなるだろうと、ニアロフが拾い集めてきたのか。なにせ血液が洗われていないのがありがたかったが、シリウスとの交渉が知れると厄介だな、と思い黙っておくことにした。
しゃり、と剥かれた林檎がベッドの傍らに置かれた。ニアロフは布で小刀を拭くと、懐から取り出した鞘にしまいこんだ。
「……ごめんね、痛いの、忘れさせてあげれたらいいんだけど」
「はあ、おまじないかなんかですか」
「そうかも」
ニアロフは曖昧に笑う。自分が小屋にいるということは、彼は戦闘の痕にまみれたあの場所を見たのだろう。血が飛散し、地面には氷柱の穴があり、鉄塊と傭兵の体があった場所。そこからブレートを助け出してくれたのだろう。また。まただ。
そりゃ怒るわな。
「お世話をかけました」
謝罪と感謝を込めてブレートが見上げると、灰色の瞳とかち合った。色は、感情は見えない。この人は『色』の化物なんて知らなくていい。ブレートはタオルを外して、重い筋肉を動かしてふっと笑ってみせた。我らが総帥は溜息を吐いた。
「ほんと、そうだよね。君もリリーも」
「リリー?」
しかし不意に別の名があらわれたのに、ブレートは目を丸くした。彼女にあったのはいつの話だったか、と記憶をたどるうちにニアロフは言葉を続ける。ブレートはくらりと視界が揺れるのを感じた。
「大怪我して帰ってきたんだよ、彼女も。お前が寝てる間だから……昨日か。昨日の夜に帰ってきたんだけどね……」
それからの会話を、ブレートはよく覚えていない。視界が暗転した。今、また、なぜか、どうしてか目を覚ました今は、ぼんやりとした倦怠感があるだけだった。
俺、意識飛んでたのか。
ぼんやりと視界があることに気づいた時には、ニアロフと彼が剥いてくれたリンゴはもうなくなっていた。あったのは鉄と魔石の残骸と、金色の女についての記憶だけ。
リリーが大怪我、ねえ。
足をかばいながら上体を起こすと、ブレートは垂れてきた青く長い髪を首元のバンダナごとぐいと持ち上げた。視界は不明瞭。『青』を多用した上に出血の量もある。こりゃ死ぬぞ、と一人口元を緩ませたその時、着替えもしていなかった上着の内ポケットの重みを思い出した。それは特別なことがなくても、傭兵として常に携帯しているものである。ブレートは懐から小さな布袋を取り出し、ころりと透明な石を三つ掌に転がした。
伝令石。形が違うそれらは、それぞれニアロフ、シリウス、そしてリリーと繋がる魔石だ。五回までの点滅をある一定の間隔で繰り返す下級魔石。綺麗な丸からなるリリーの魔石は、二回ずつ小さな光を発していた。
二回。来いってことか。
ブレートはしばらく考え込むように魔石を見つめると、球体をコン、と一度壁にぶつけた。一度の点滅は肯定の意。これでリリーの持つ伝令石は点滅を始めることだろう。
「つーか、サンガルタンまで行けるんですかね、これ……」
返事をしたはいいものの、上体を起こすだけでも精一杯であったことを今更に思い出した。結局腹はほとんど空のまま、手助けをしてくれそうな人物も見当たらないまま、ブレートはゆっくりとベッドから降り立った。外はまだ、深い黒だった。
第七話 金の百合
シェオル島はまもなく秋に包まれる。空気がだるく冷えた早朝に、一件の店から大爆笑が響いた。
「……近所迷惑ですよ」
片足を不自然に曲げたブレートは、車椅子の腕をばんばんと叩くリリーを呆れ気味に見下ろした。
「だって、ひい、ローマスのガキにやられたって、けっ、傑作じゃないの……!!」
このアマ、怪我人だろうが女だろうが殴ってやろうか。
青筋を立てたブレートと体を折って笑い続けるリリーを、仲裁するようなかたちでトリシアがなだめた。
「店長ってば、笑うことじゃないですよ。それに店長だってケガしてるじゃないですか……」
少女のガラス玉のような瞳が、包帯がきつく巻かれた女の足を見た。痛々しい。すぐに目を逸らす。直接にその下を見たことはまだないが、図は安易に想像できた。ブレートもトリシアに同調した。
「どっちかっていうと、あなたの方がひどい怪我ではないんですか?」
「うっさいわね、あんた、バルジリアの内政知らないの?あそこのピカロどもを何人も相手にしたのよ。見境なく火炎瓶だの爆薬だの仕掛けてくるから、ほんっと過激な戦争国はたまったもんじゃないわ」
「俺だってマシンガンとかぶっぱなされましたよ、もう」
ブレートは店内のテーブルセットに腰掛けたまま、購入したピザを頬張った。数日ぶりの食事である。
弾丸に貫かれた上、骨まで砕かれた右足はもちろん動かない。痛みにイライラしながらも、着替えに一時間、移動に三時間をかけてでもブレートがサンガルタンにやってきたのは、リリーが気になったからという理由ひとつで事足りた。その彼女はサンガルタンの病院で車椅子を借り、ひとりで立つことすらできないという状況にあった。話を聞くに、火傷の類か。なんにせよ子供にはいささか刺激が強いだろう。
「そのお仕事についてですけれど……」
「あ、ちょっとまって」
ブレートを遮って、リリーは傍らに立つトリシアに目はぜをした。仕事の話。それを察すれば目を泳がせ、多少のためらいこそ見られたものの、少女は小さく頷いて階段からニ階へと上がっていった。パン屋は二人だけを残しても決して広くは感じられなかった。
ここにはもうひとり、青年もいたはずだが。
「ソンユンさんは」
「調理場にいるわよ。大丈夫、今は味の研究中なの、新作のね」
リリーが子供らに絶対の信頼を置いているのも、また子供らがリリーを信頼しているのもよく理解はしていた。
レジ横の重々しい深緑の扉を目にしながら、ブレートは話を再開した。
「バルジリアは今内戦中でしょう。なぜそんな危ないところにあなたが」
海外にも赴く傭兵だ、そこまで無知ではない。リリーは子供らがいるために長期の傭兵業をすることはほとんどなく、こなす仕事も彼女が無事に近い状態で済む程度のものばかりを選択していた。総帥はそれを受け入れていたし、あのふわふわとした性格の彼が仕事を無理強いするとも思えなかった。
リリーは唇を尖らせる。決して分厚いわけではないがほどよく丸みを帯びている唇だった。
「……話聞いててイラついたから、あたしがぶん殴ってやりたかったのよ、自分で」
「何の話です?」
「子供を酷使して宝石掘ってた話」
リリーのため息が少し深くなる。ブレートも聞いたことのある話だった。
「たしかバルジリアといえばとくに、電気石――トルマリンで有名な」
「そう。最近はオートマチックなんてものが流行りだしたから需要が高まってきてるしね。でもそこで孤児や捕虜が働かされて死亡者も出てるって尻尾を、カンタヌマ王国政府が掴んだ。ほら、先月くらいにローマスに進軍されたところよ」
「カンタヌマは少なからず被害を受けたということですか?」
「お隣のバルジリアを沈めたいわけだけど、人手が足りなくなっちゃった。それで誰かを雇おうとしたってわけよ」
ローマスという名に右足が気味悪く疼くのをブレートは堪えた。海の向こう側の世界は、随分と広い。まだ三年では知識が追いつかなかった。
ローマスの進軍の目的は恐らく港か土地の確保。物騒なものだ、と思うのは常のこと。
対するカンタヌマが最善と考えたのは隣の国の鎮圧化。その裏事情は一般人の知るところではないが、雇ったのは奇しくもローマスと敵対する若くも秀でた傭兵部隊。
「なーんか嫌な話ですね、わざとなのかなんなのか分かりませんが」
「ライブラリが情報を止めてるから、ローマスはあたしがアセレートの所属とは知らないはずだし、あちらさんの矛先が変にこっちに来ることはないと思うんだけど」
たん、たん、と指が車椅子を叩く。その音がぴたりと止んだ。
「なんにせよ子供は多く助かったわ。それなら良かったの」
彼女は本心をもって笑った。
それが、どうも気に食わなかった。
「子供の話になると、ほんとうに傭兵には見えませんね」
ブレートはかねてからの不服をため息に変えた。もちろん彼女ほどの人物が黙っちゃいない。それだけで人を殺しそうな鋭い眼光を放つ。
「……どういう意味よ」
「あんたは俺より大人だし年上です。経験もあるし、何よりその『金』の色は誰よりも強い。でも子供が絡むと途端に脆くなります」
「……」
「なにかしらの起因が子供であることが多くはないですか。カンタヌマにしろ、この店にしろ」
「……あんたには、初めから言ってるじゃないの」
いつの間にか子供のようにしおれた――どこか怯えたような――リリーは桃色のスカートの裾を強く握った。包帯の巻かれた足がより覗いた。
ブレートとリリーが出会ったのも三年前。ブレートがニアロフに助けられたその直後のことだ。
海外の町のある一角で、彼女は『あの時の男』と同じ顔をして、なにもかもに絶望して、身も心もぐちゃぐちゃになって、されていた。
「あんたには感謝してる、あたしを助けてくれたのはあんただったから。でもね、あたしも分かってんのよ。でも、こればっかりはあんたの言うこと、聞けない」
ごめん。彼女が謝罪を口にすると、空気はしんと静まった。別にあやまって欲しかったわけではないのだが。
ブレートは重い右足を引きずって、リリーのまるい頭に近づくと、それをぱしんと叩いた。
「だっ、何すんのよ!」
「あのなあ、言っときますけどねえ」
悲鳴を上げる神経を無視。ブレートはかがみこんで視線を合わせた。
「俺も総帥もあのガキどもも、ちゃんとあんたを信用してる。もっとしゃんとしろ。もうあんたは痛い重いもつらい思いも一人でしなくていい、ただ死なないでここにいりゃあな。今回はそんだけ大怪我したから怒ってんですよ」
話しきると目が合った。すると妙に恥ずかしくなってきた。視線を次第にそらして、ああ、だのんー、だの言葉にならない音を言っていたら、リリーがぷっと吹き出した。
「あんた、励ますのへたくそねえ」
「誠意くらい認めてくださいよ、うじうじしてたのはあんただ」
「はいはい、あんたのおかげで立ち直りましたありがとう」
嘘つけ。吐き捨てようかと思ったが、やめた。目尻を下げたリリーは表情とは裏腹に高らかに手を叩いて仕切った。
「で、あんたはもう帰るつもりなの?」
「いちおう様子を見に来ただけなので」
「じゃあしばらくうちに泊まっていきなさい」
「は?」
噛み合わない会話に思わず声が上がった。ブレートの目前から車椅子はカラカラと音を回して離れていく。少し先で器用にくるりと方向転換すると、リリーは完全に、卑しくにやりと笑った。
「あんたの怪我、治すの手伝ったげる。歩くのもしゃがむのもつらいんじゃ、アセレートの森は守れないわよ」
ブレートは提案に、ゆっくりと立ち上がりながら首をかしげた。寒くなってきたこの時期、ほぼ野外と言ってもいいボロ小屋に住んでいるブレートにとってはありがたい提案ではあったのだが。
「治る薬でもあるんですか?」
混じりけのない質問であったのに、リリーは肩をすくめるだけで答えてはくれなかった。荒い口調はしまったものの、小さく舌打ちだけはしておいた。
総帥といいリリーといい、アセレートの成員はわからない奴ばかりだ。まあそれを言ってしまえば自分もになるのだろうけれど。
答えは得られなかったが、とりあえず彼女の言葉に甘えておくことにした。まだまだローマスを警戒する必要がある。休めるならばそれに越したことはないだろう。
まずブレートは、この重い足を叩き上げて、客室にある二階へと向かうことにした。
リズムの違うあ足音がふたつ上がっていく。あまりに弱々しい一方は、まともに立てもしないはずの店長だろう。それがまさか、動けるようになったのか?やっぱり『色』は良く分からない。
ソンユンは調理場の扉に背を貼り付けたまま、今まで耳にしていた会話を整理した。
ブレートさんと店長は同じアセレートだ。それはもう知っている。でもそれだけじゃない、あの二人には昔何があったんだろう。そう思わずにいられないほど、もっと別のところでつながっているような気がして。
例えるなら、
「『色』かな……」
ある女性からあまりにも信頼された自分は、普通知るはずのない、ブレート=カンパニッシュという傭兵が『青』という力を持っていることを知っていた。ただに人間である自分が知っている事実は、あまりにも高価で重かった。知っていたからと言って、なにもできはしないけれど。
なにも。奪うことも、守ることさえも。
「強くなりたいなあ」
せめて少しでも何かを守れるくらいに。
そうしたら、ちょっとでもあの人に並べるだろうから。