第五話 赤の軍兵
はちじゅうなな、はちじゅうはち、はちじゅうきゅう。
「アルヴィーちゃんよォ」
日がやっと昇ってきた頃。やや冷たい空気の中で素振りをしていると、我らが隊長であるジオがひょいと建物の陰から現れた。まだらに伸びたヒゲを擦り、欠伸を大きくしながら。
「よう旦那、まだ酒残ってんのか?顔が死んでるぜ」
「年になると体は鍛えても中から弱ってきてだな……そうじゃねえ、お前、見てる方が寒いんだ。服を着ろ、服」
その男に腰に巻いた軍服を指摘された。いま身につけている、軍の配布品である黒いタンクトップが、冬に向かうこの時期に不似合いなのはわかってはいたが、自分にはどうにも寒いほうが楽な心地がした。寒いのは着込めば、もしくは動けばどうにかなるが、暑いのは動かなくたって熱い。着ればもっと暑い。アルヴィーはもう一度竹刀をブンと振ったが、これが九十回目か百回目であるかを忘れて首をかしげた。
こちらが言う事を聞くつもりがないことを知って、ジオは髪を掻く。彼は自分と対照的に、重い軍服に愛器であるサーベルを二本腰に差していた。朝からこの武装とは仕事って大変なんだな、と思うが、自分のよく知る上官、指揮官は常には武装しているわけではないな、と今更ながらに違いに気づいた。
「つーか、旦那は何してるんだ?こんな朝っぱらから」
「全く同じことをお前さんに聞き返してやろう」
「鍛錬だろ、見りゃわかる」
「なら俺も同じことを答えてやろう」
ローマス城内にある軍部の敷地には、いくつもの鍛錬場が点在している。中庭、地下など、確か四つほどあったはずだ。そのどこにも鍛錬用の簡素な武器庫がある。ジオは中庭の一角にある武器庫から竹刀を握ってくると、にんまりと口元に笑みを浮かべ、向かいにやってきた。
「……荷物外せよ、重そうだぜ」
「なあに、お嬢さんはハンデと思って喜ぶところだろうよ」
腕を伸ばし、竹刀を差し出すと、奥から向かってきたもう一本。かしゃん、と乾いた音を立ててぶつかった竹刀は、次の瞬間には同時に跳ね上がった。アルヴィーは大きく踏み出した。
「そうだな、旦那が降参したら喜んでやるよ!」
第五話 赤の軍兵
ローマス王国は軍隊を所有する国であるが、その実力が世界に名を轟かせるほどのものであることをアルヴィーが知ったのは、いざ軍隊のひとつ、朱雀隊に入隊してからのことであった。
そもそものローマスの基盤は交易、政治を担う政部・国の防衛を専門にする軍部・国王一族の護衛、教育を行う暗部の三つに分けられる。それぞれに初等、中等、高等の学校が附属し、期間内に指定の試験に合格すれば、晴れて国直属の軍人となることができるというわけだ。中でも軍部は、そこからさらに部隊が四つに分かれる――と言っても、軍部試験合格者が入隊できるのはふたつだけなのだが――。
進軍、防衛など、主に戦闘面に特化した朱雀隊。医学、魔石技術に特化した青龍隊。若い軍人はこのどちらかに入隊し、長年の功績を積み、精鋭と認められると玄武隊に入隊する資格が与えられる。そして最後の白虎隊なのだが、これは暗部お抱えの特殊部隊であるから、一端の軍人にすぎないアルヴィーにはよく分からなかった。
アルヴィーが所属する朱雀隊は、毎日鍛錬。鍛錬。ひたすらに鍛錬、たまに士気を上げるための大会なんぞがある。だがそのどれも所詮国内の話にすぎないのだから、アルヴィーはつまらなかった。
戦争とか起きねえかなあ。
その言葉は最後の一口と一緒に飲みこんだ。ジオとの個人鍛錬を終えたのち――結果は惜しくも引き分けだった――、すっかり減った腹の中に、大盛りにしたカレーライスはすっかりおさまった。いくらアルヴィーでも言葉に出せないことくらいはあった。実際に戦争が起きたとして、海外に駆り出されるのはどうせ玄武隊であるし。
「いいよなあ」
「アルヴィー、おはよう。隣良かったか?」
アルヴィーは自分に向かってくる声に鬱屈げに顔を上げたが、相手が知人であることがわかるとすぐに目を輝かせた。
「カイナ」
「随分と暗い顔してたよ。悩みごと?」
「うんにゃ、世知辛いもんだなってくらい」
金髪蒼眼の端整な顔立ちが眩しくて、アルヴィーは目を細めた。それがよくなかったんだろう。彼、カイナはきっといらぬ勘違いをして心配そうな顔をした。
「またそういうこと言うんだ。俺が鍛錬相手に当たれば思いっきり殴り合えるんだけどなあ」
はたから聞けば物騒なものだが、カイナはこれがアルヴィーにとって最良の選択であることをわかっていた。こちらが戦闘バカであることを、わかっているのだ、この優等生は。アルヴィーは余計歯噛みをした。
カイナとは朱雀隊に同期で入隊した仲であるが、その、扱いなどに何かと歯がゆいところがある。恐らくというか、こちらが『色』であるから。あれだ、いじめられっ子をかばう優等生。次期隊長候補だと名高い彼はその形容にぴったりだったが、じゃああたしがいじめられっ子かよ、とは考えたくもなかった。
隣に座ったカイナは、小さく手を合わせてサラダを口にし出した。
「別に、あたしは相手がカイナでもジオの旦那でもいいんだけどな」
「ん……あれはジオ隊長、ひどいよなあ。隊長も全力で参加するんだもん」
「いいことじゃねえの」
若いもん任せにしちゃあいけねえよなあ、と脳内でにやにや声がする。あの人もあの人で何かと自分に突っかかってくるが、カイナとは違った。カイナのは、なにか、義務みたいなものを感じる。しなければ、こうでなければと。うまくは言えないけど。
アルヴィーは大皿を持って立ち上がった。
「もう行くのか?」
「すぐに混むし、長居しちゃあな」
「君のファンも来るだろうに」
「お前にもいるファンのことを考えて動くんだよ」
その最後だけにっと笑ってやれば、カイナは眉を下げる。それは了承。椅子を片していたら、背後で小さな影がぴゃっと跳ねるのに気づいた。傍らにいたのは黒いおさげの黒縁眼鏡。青龍隊の白衣を着ている。それから顔を見て、アルヴィーはあ、と声をもらした。
「ミリア」
ひゃいっ、と変な返事があった。
「当たりだろ、前に訓練でペアになったよな!」
「へ、あ、は、はひ」
「わりいな、あたしもう行くけどさ、ここ使えよ。王子様の隣だし」
「へっ」
「青龍隊も頑張れよ、じゃーなー」
一度しまった椅子を引いたのが、今度こそ最後だ。アルヴィーはおさげ少女を置いてさっさと笑顔で歩き出してしまった。後ろでひとつに結われた赤い赤い髪が綺麗に揺れ、通路をたどっていった。
カイナの隣に少女が座ったのは、六秒ほど経ってからだった。少女はずっとアルヴィーを見ていたのである。本物だな、とカイナは少女を見た――名はなんだったか、ミリア?しかしいきなり女性の名を呼ぶのも失礼だろう。
「アルヴィーのファンですか?」
いや、これが初対面に相応しいというわけでもないか。カイナが笑みに苦いものを含ませたのに、きっと少女は気づかないままに頷いた。
「い、一緒に食べられるかと思ったんですけど……」
「どうにも人混みが苦手みたいですからね、彼女は」
カイナはそう言ってトーストをかじった。マーガリンがとろけて油が染みていく。言葉をパン生地と一緒くたに飲み込むのが、少し重く苦しく感じてカイナはもう一度口を開いた。
「『色』が怖くはないんですか?」
なに、ただの世間話だ。カイナはそんな調子で言ったのに、思いのほか周りの空気が固まったような気がして、少し視線を回した。大丈夫、誰もこちらを気にしてはいない。遠巻きに女の子が見えるくらいだ。気にしているのは自分だけ。誰も自分を非難しちゃあいない。ただ、黒髪の少女だけは言葉を受けてから切り取られてしまったかのように、ゆっくりと別の思考速度で動いていた。まぶたが閉じては開き、小さな唇が息を吸った。
「わたしは、『色』はアルヴィーさんの他は知りません。噂は、聞きますけど……でも」
病を運ぶ。災害を起こす。悪夢を見る。
おとぎ話のはずの『色』にはなぜか、どこでか、そんな噂が付随していた。しかし、『色』は体の構造から人間とは異なり、元来から優れた身体能力と異能力を持つ、それは科学的にも証明された事実だった。
人々は『色』を忌み嫌い、恐れた。この国では特に、非難とさえ呼べる扱いをされかねなかった。挙句の果て、十数年前にはローマスで『色』が自殺する事件が起こっていたはずだ。原因は無論、『そういった扱い』である。
アルヴィーも『色』の一人。
彼女は、彼女の『色』は、戦場も武器も人も燃やす、灼熱の赤。
その時ぞわりとカイナの背に走った痺れ――恐怖、畏怖、嫌悪のどれか知れない――を、やはり少女は知らないのだろう。
「わたしはアルヴィーさんが好きだからいいんです。あんな素敵な笑顔、見たことがないんですもん」
ミリアが笑ったのを、羨ましいと思った。否、訂正しよう。笑えたのが羨ましかった。トーストも、普段以上に美味しく感じられない。
今の時代になってまだ火が灯りになる薄暗い廊下。レンガの壁。鈍い色のカーペット。ノワールはこの場所が嫌いだった。山積みになった仕事の第一が、暗部指揮官であるシアン=タンゼに報告をしに行くことである。内容は他でもない、ブレート=カンパニッシュとの交戦についてだ。これは彼女にしか話せない事案であったし、黙っているにしては一人で処理しきれないものであった。
だが、仕事とあっても暗部は本当に苦手だった。
ノワールは半歩後ろを歩くフードの兵士を見やった。暗部の制服だ。顔は見えないが、声と小柄な身から察するに、まだ若い娘。暗部内では部外者が自由に行動することが禁止されており、こうして一人は監視がついてくる。間、必要以外は一切の無言。この制度はいただけん。ノワールは息を吐いた。
カーペットを踏みしめるうち、目的の部屋に到着した。
「では、また帰還されるときに」
指揮官室の扉、その傍らにたった少女はそのまま直立不動。何も初めての経験ではないため、違和感を覚えこそしつつもノワールは扉を拳で叩いた。
「どなた?」
「軍部指揮官のノワールだ」
「あらいらっしゃい、紅茶はもう少しで頃合よ」
帰ってきた弾む声に機嫌が良いな、となんとなく感じた。部屋の主は自ら迎え出たりなどしないことはわかっていたので、ノワールはドアノブを回し、足を踏み入れた。
真っ先に目に入ったのは様々な色。部屋一面には世界各国の魔石――宝石、ともいう――が敷き詰めてあった。
魔石もいわば『おとぎ話』の産物。光を灯す、電気信号を発する、熱を発するなどといった能力を持つ輝かしい石たち。魔石は全世界に埋まっているものであるが、それらを人工的に作成する『おとぎ話』の英雄もいるそうだ。どんな人間でも扱える下級の石――オレンジ色の灯火石や透明な伝令石――から、扱うのに特殊な技量を必要とする上級の石――深緑の治効石、紅の暴火石――まで、ありとあらゆる石が世界に散らばっていた。
シアン=タンゼが魔石愛好家ないし収集家であることは三年の付き合いで知った。
「どうぞおすわりになって」
ソファにゆったりと座り込んだ麗人の顔は、残念ながら薄暗いベールに口元まで覆われておりはっきりとは見えない。うっすらと笑みを描く唇だけを透かして見ながら、ノワールは正面に腰をおろした。
シアンのそれは海外の服装なのだろうか、頭部からふりそそぐベールも体をゆったりと包む長い布もあまり見ない生地で出来ており、ランプの灯を深い紫に反射していた。
「今日の要件は……どのお仕事についてだったかしら」
布を翻し彼女が腕を振るうと、部屋の空間が変化した。歪み、捻り、曲げられ、無理矢理にぶちりと引きずり出された影は『狼の形を成してシアンの膝上に乗った』。部屋全体がにわかに明るくなる。ほんのわずかに。狼はあくびを漏らした。
影を操る『紫』。自分の能力すべてを否定するような、その『色』がノワールは嫌いだった。
「その前に国王のことだが」
「彼ならご自分で戻られてよ。お怪我もなく」
「それならいい。それで、仕事か。単なる報告と相談だけだが」
「ああ、アセレートの……」
「傭兵のブレート=カンパニッシュについてのな」
仕事と私事は別。速攻で切り替える。だがある男の名を口にすると肩口の傷が疼いた。
状況の整理をするのは再三。『黒』の影の瞬間に差し込んだ、青い刃。鉄を溶かす熱。肉を打つ氷。爆ぜる雷。ノワールは眉間の皺を無意識に濃くしていた。そのさまにシアンはゆったりと狼の毛並みを撫でながら笑った。
「そんなに怒って、何かあって?」
「あいつ、ブレート=カンパニッシュは『色』だったのか」
「あら」
その声音は驚きではなかったような気がした。ノワールは引っかかるものを感じながらも話を続けた。この女をいちいち気にしていてはきりが無い。
「あの能力からすると、おそらく……いや『青』なんだろう。気味の悪い髪色とは思ったが」
「たしか『青』は温度操作だったかしら」
「ああ」
『色』は持ち主が死ぬごとに能力のみ別の主に『転生』する。その能力が今昔で大きく変わる前例は、ライブラリの情報の中でもない。ブレート=カンパニッシュもその理論に沿った能力を所持しているのだとしたら、違いない、とノワールは吐き気がした。火薬を扱う自分にはなんと不向きな相手か。湿気も冷気も熱も敵であるというのに。
「ふふ、彼はかわいそうね。あなたの『色』なら容姿ではわからないのでしょうに」
ベールの間からこぼれた桃色がかったバイオレット。シアンの『紫』やアルヴィーの『赤』を思えば、ノワールの『黒』はなんとありがたいか。ローマス人は元来髪の色素は黒と金が多く、ノワールがひと目で『色』と理解されることはなかった。
『色』は体の構造から人間とは異なる。この国や島では周知の事実だった。
生まれながらに得た細胞の核には、人間の核とは異なった物質が詰まっている。これこそが『色』の能力の根源であり、ある科学者はこれを『クルール』と呼んだ。『色』はこれの影響で色素が『色』そのものに変換され、髪や瞳が所持する『色』になってしまうそうだった。クルールの影響はそれだけでなく、クルールによって構成された肉体は、ただの細胞のそれよりはるかに優れた身体能力を持ち、クルールを直に消費することによって『色』の能力を使うことができた。そのせいで体力の消耗が激しく、人間が使用する薬品が効かないという事実までは、人間の興味の範疇にはないことだろうが。
そのせいだろうな、『色』が迫害にあうのは。ノワールは小さく息を吐いた。
「俺の話はいい、そのブレートについてだが……手練だった。『色』のことを知っているようだったし、なにより強かった」
「あらそう。あなたのことを何か言っていて?」
「別に何も。深手を負わせたから少なくとも一ヶ月ほどは活動しないと思うが」
「ひどいわね」
シアンに茶化すように言われ、ノワールは顔をしかめる。
「今までの報いだ。アセレートに送った兵の多くは、どうもそいつにやられていたらしい。『色』がいるから、とは思いもしていなかったから……申し訳ないことをした」
亡くなった兵士たちの顔をノワールは覚えていた。思い起こされる顔はどれも笑みに満ちていたが、それを、あの青い男が壊したのだと考えると。ノワールは歯噛みする。あの時自分の血を流しきってでも殺してやるべきだったと、熱が煮え返った。ノワールは低く唸る。
「……だがこれで理解できた。アセレートが『空白の日』と関わっているのも、『色』があるならなんら不思議じゃない」
シアンは狼を見下ろし、ただひたすらに口を紡いでいた。脳内で何かを練っているのか静かに口元に指を添え、シアンはその裏で小さく呟いた。
「そう、なるほど」
それはただの相槌にしてはあまりにも思いがあった。同意ではなく、ノワールと同じ納得。アセレートが『色』を所持していた事実への納得か?ノワールが違和感を口にしようとすると、シアンが遮った。
「それはご苦労だったわね、ノワールさん」
かけられたねぎらいに、焦りにも似た感覚で体が止まる。
「さぞかし痛かったのでしょう」
肩が疼く。血が溢れるような気のせいがした。シアンは、狼は、それを見て薄っぺらく笑った。ふたつの視線は同じ色をしていた。
「せいぜいお気をつけなさい、せめても傷が癒えるまではね」
それは間違いなくいたわる言葉であったのに、あまりにもかっと熱を覚えて。ノワールは蹴り出すように立ち上がると乱暴に扉から出て行った。
「……ドアが壊れちゃうじゃない」
シアンは荒々しく占められた扉に、悲しくも声をかけた。同調するように狼も鳴いた。その顎を撫で、シアンは喉で笑う。あれだけ腕や肩をかばっていれば傷の惨状など想像に易い。黒い指揮官はどうにも傷を隠したかったらしかった。負けたかどうかは知らないが、相当な屈辱だったのだろう。
狼の毛は、瞳は歯は息は、全て美しく輝いていた。しかし、わずかに指先を喰い込ませれば、狼は影に散って消えた。シアンはまぶたを閉じる。やがて開くとふたつぶんの記憶と視界がひとつになって、はっきりと脳に映った。扱いに慣れるには随分と時間のかかった『色』だが、今ではすっかり身にしみた。
「それでもブレートがノワールと闘えるほど元気だったなんて」
青色の髪はもうしばらく見ていない。
ノワールの体からはまだひっそりと血の匂いがのこっていたが、あれはどちらのものか。青い男はどれほどの怪我を負ったのか。一ヶ月。骨が折れただろうか、内臓が欠けただろうか、肉が切れただろうか、それともそれともそれとも――
シィ、と噛んだ歯の隙間から息を吐く。青と、赤い赤い鮮やかな血。なんて美しい、羨ましい。自然と上がる頬を無理やり掴んで押さえ込んだ。
その興奮で、赤で、青が染められていく。
「……素敵な世界ね、ねえシリウスさん」
カチカチと身を昂ぶらせる感情に震えながら。
女はただひとり、儚くも不気味に笑っていた。