第四話 黒の指揮官
自分は、どうして指揮官になったのだろう。
ノワールはよく悩むことがあった。それも、決まって夢の中で悩むのだ。自分の慣れ親しんだ黒い闇とは違う空間で、『誰か』に出会う。彼――彼女というにしては大きなぼんやりとした影だった――に何かを言われ、どうしてか悩むにいたる夢をもう何度も見ては、内容を忘れて起きた。今日も同じだった。恐らく男性である『誰か』がいて、ああ背が高いんだなあと思うくらいで、ぼんやりと意識は浮上した。
あれは、誰だったのだろう。
彼は、何といったのだろう。
自分は、どうして今こうしているのだろう。
目を開いたノワールの目前に、ぱっちりと丸い目をした女が映った。その瞬間にはもう、夢のことを忘れていた。
「よう」
「……」
「オハヨ」
「……」
「おっはよー!」
「うるさい、なんで俺の部屋にいるんだ」
こいつは誰だ、などとは思いやしない。十年近くも連れ添った馴染みの顔を忘れるものか。ノワールは首を振って、にっと笑うアルヴァネッサ=ケイオス=スチュワート――彼女はその名で呼ばれるのは嫌いであるそうなので、仲間は“アルヴィー”とだけ呼ぶが、それはまた別の話だ――を見上げた。
「だって鍵あいてたしな」
「そうだったか?……いや、だからと言って上官の部屋にのこのこ入る馬鹿がいるか」
「あんたケガしたんだろ。もう丸一日は寝てたんだぜ、心配だったんだよ」
「はあ」
「それに王様ももうご帰宅されたみたいだぜ」
「本当か」
「マジ」
アルヴィーは軽い調子でベッドに腰掛け足を揺らしていたが、その言葉が虚偽だとは思えなかった。事実か、それはそれでありがとうと言いたい。いやそれよりも彼女は何といった。ノワールは目を丸くし、慌てて時計をみやると、現時刻は午後の七時。訓練を終えた兵士が酒と飯を求め、国内をひしめく時間だ。自分は確か、国王を探して昼過ぎに家を出て、そして。
「ブレート」
「ん?アセレートの奴がどうかしたのか……って、そいつにやられたのかよ、もしかして」
「そうだ、あいつ、あの野郎、銃もいくつか壊しやがって……い、っつ」
「動くなって、傷口が開くぞ」
次第に意識は覚醒。記憶が鮮明になっていく。ついで募るいらだちに身を起こせば、ピシッと割れるような激痛が首元に走った。アルヴィーにたしなめられたのに、自分の体に丁寧に巻かれていた包帯に気づいた。そろりとずらしてみると、膜の張った切り傷から赤が滲み出すところだった。
なるほど、怪我の状況から確かに時間の経過を悟った。『自分の能力』があるにしても、ものの数時間でここまで治癒するとも思えなかった。
そう考えていると腹が減ってきた。丸一日は何も食べていないのか。
「お前はこれから飯か?」
包帯を締め直し、傷をかばいながらベッドから降りると、ノワールは壁にかけられていた軍服を羽織った。指揮官専用の特殊な軍服であったが、刺された穴はない。新品だった。自分が寝ている間に働いた部下がいると思うと、ノワールは苦い顔をする。
ベッドに座っていたアルヴィーは、その床にまで届きそうな、血よりも炎よりも深く綺麗な赤い髪を揺らして、とんと立ち上がった。元来女性にしては高身長で中性的な彼女は、ブーツのせいもあってひどく大人びて見えた。まだノワールと同じ齢なのだが。
「おう、ジオの旦那が隊員集めて酒飲むんだってよ。ノワールも来るか?」
なんとか漆黒の制服を着終えたノワールは、提案にため息を吐いてみせる。
「お前、まだ酒飲める歳じゃないだろ。それに、怪我人を誘うな、ほうっておいてくれ」
「ちぇー、そうかい。飯は?」
「サンガルタンでいい飯でも食ってくる」
「うわーずりー!『黒』ってずりー!土産!ミルクキャンディー!バタークッキー!」
あっさりと断られたのがおもしろくなかったのだろう、アルヴィーはサンガルタンの特産品を叫びながら、ばたばたとブーツを鳴らして扉に向かった。カーペットが鳴るってお前はどれだけ遠慮なしに踏みやがる。ほかの部屋から文句を言われないだろうか、とノワールは呆れた。それでも薄く笑いながら彼女に背を向けて窓際に向かった。夜闇のかかる、暗い窓辺だ。振り向くと、アルヴィーがひらりと手を振ってくれていた。小さく手を挙げ返す。それを合図に、ノワールは影、窓に身を寄せた。
明かりだけが視界の頼りとなるこの時間帯は、ノワールの好きな時間だった。
一歩を影に向かって踏み出すと、ノワールは窓の闇に溶け込み、『消えた』。
第四話 黒の指揮官
『黒』は『世界を繋げる色』だと、ノワールは認識している。
そもそも『色』は能力のみ転生を繰り返す存在。その保有者が死んだ直後、世界のどこかで宿った生命が新しい『色』の保有者となるのだという。そのメカニズムは不明。ライブラリから買った情報にはそこまでしか書いてなかった。おとぎ話とは大抵が根本のはっきりしないそんなものであったので、ノワールはそれ以上考えることはしなかった。
先代の『黒』は海外の兵士だったらしく、その文献がライブラリに残されていたのを知ったのは、『色』について学ぼうと思った去年ほどの話だ。確か、その同時期に海外に『色』がいることを知ったことが行動の起因だったと思う。
代々の『色』の能力は大きくは変わらない。『赤』が炎、『青』が温度を操作し、『緑』には治癒の能力があるのだという。
中でも『黒』は影の世界への入口となる『色』だ。『色』に関与されたその影はもはやただの影ではなかった。
世界に足を踏み入れた瞬間から視界は闇に支配されるにも関わらず、なぜか、ノワールの意識は確かに『元の世界』を見ることができた。だから、どこに何があってだれが居るかもわかるし、例えば今こうして歩いていると、踏みしめた黒は、意識の中ではローマスの城下町のタイルのひとつだとわかった。
そしてこの黒い空間は、ノワールが忘れようが『色』の力を与えなかろうが、絶えずどこかに『存在している』。空間中に一度銃と整備薬と弾丸を持ち込み、『空間に沈めておけ』ばその量に際限はない上――ノワールの人生においての銃備品の所持限界量、だが――、どこにいても『影』の中であったなら取り出すことができた。今だって手をかざせば、浮かび上がる拳銃を握ることができるだろう。
加えて、最後に、ノワールがこの便利な『空間』をただの『空間』とせしめないのにはもうひとつ理由があった。
この世界は『元の世界』とは時間の流れが異なる――正確には影の中は元の世界に比べ二倍の速度で時間が進んだ。ノワールが十秒かけて銃を整備したならば、例えばあの男、ブレートには五秒に感じる。ノワールが六時間影の中で休んだならば、アルヴィーには三時間に感じる。長年この能力を使っているおかげで、他人に比べ実時間での怪我の治癒が早く、体が実時間での年齢に比べ既に大人の体格を成しているのは、今のところでは喜ばしいことだった。
前後上下左右、距離のすべてもある程度はノワールの意のままである世界は、腹の傷のために急ぐことのできない体を、想定していたよりも比較的早く――自分の体感でおおよそ二十分とみるところ、外では十分か――サンガルタンへ運んでくれた。まだまだ夜は長い時間だ。
ノワールは『元の世界』を確認。人気のない森の脇道にゆったりと影から歩み出て、『色』を遮断した。
サンガルタン付近へ出るなり、多種多様なにおいが鼻を付いた。ウエルカムボードのかかった門をくぐると、香りの原因が目に付いた。鳥、魚の丸焼き、大鍋に煮込んだ野菜のスープ。市場は夜の姿である酒場に変わって、きらびやかなイルミネーションをまとっていた。サンガルタンに来たことがないわけではないが、来るたびにめまぐるしく様相が変わるのは、海外の商人が多く交流するこの集落ならではの特徴だろう。
酒の匂いに顔をしかめながら市場を横切っていく。ミートパイにローストビーフ、空腹にはどれもが魅力的に見えた。あれこれと眺めているうちに随分と通り過ぎてしまった。結局、店の前で立ち止まることさえしないで。迷って決められないのは自分の癖らしかった。そんな軍人の目に、控えめに置かれたブラックボードが止まった。小さなぬいぐるみの絵だろうか、チョークで描かれた絵と文字はどうにも幼い。ちらりと見上げると『FAMILIA』の文字。ボードと照らし合わせ、この店のものであることに違いなかった。
パン屋か。チョークで描かれたパイ、ベーグル、ラスクの文字にひとり頷いた。サンガルタンは酪農も有名であるからきっと旨いに違いない。
ノワールはしばらく立ち止まったあと、それまで悩んでいたことなどまるでなかったように、ベルを鳴らして扉を開けた。
「いらっしゃいませ!えっと、あの、もうあまり残ってないんですけれど……」
出迎えたのはノワールと年も近そうな男だった。男はエプロン姿のまま、驚いたように「あ」と開けた口の格好をすぐに笑みに変えた。見回してみると確かに、店というには品揃えはがらりとしていた。夜のこの時間なのだから仕方ないだろう。それに、
「構わん、食えればいい。美味そうだしな」
香りはローマスのパンより食欲を駆り立てるものには違いなかった。軍の食堂のものは、とても食えたものではない。サンガルタンから輸入しているものではないな、確実に。食う度に顔をしかめていたのを思い出したが、マイナスの記憶より、今は早く空腹を埋めてしまいたかった。
「この中でどれが一番うまい?」
「えーっと……人気なのはチーズ、ですね」
店員が指したのは、表面に角切りのチーズがとろりと溶けたパン。焼き目も相まって非常によい印象を受けた。
「それがいい。ひとつ頼む」
値札を見て、現在の持ち金でも買えることを確認。ズボンの腰袋に入った貨幣は、アセレートの傭兵との戦闘以前から携帯しているものだ。そこでズボンに血液が付着していないのをなんとなく不思議に思った。
店員は恭しく、しかし嬉しそうに一礼をしてからバスケットからパンをトレーに取り上げる。「少しだけ待っててくださいね」と笑みを残しては、何やら重々しい扉を開いた奥の部屋――ほんのわずかに見えた、調理室?――へと消えていった。てっきりすぐに会計だと思っていたのだが。ノワールは仕方なく、店内にあったテーブルセットに腰を下ろした。
ちらりと、窓を覗いた。冷えてくる季節だが、店内はほんのり暖かい。それが空調のせいなのか、この店の雰囲気のせいなのかは知れないが。
すぐに扉が開く音がしてそちらを向くも、出てきたのはカップを運ぶ、小柄な少女だった。青年はどうした。
「この時間にあなたみたいなお客さんなんて、珍しいんですよ」
ノワールの所までやってくると、先程の男とどこか似た空気をまとう少女は、紅茶をテーブルに置いた。空になった盆を胸に抱え、子の失態を嘆く親のように肩を落とす。
「それで、張り切っちゃってパンを焼き直ししてるんですよ。ソンユンさんったら、この間オーブンを触れるようになったからって、調子に乗ってるんです」
ぷう、とでも音がつきそうなほど唇をとがらせた少女は、なんとなくあどけなさが残っており、大人びた印象の淡い金髪が不似合いにも感じた。ノワールはカップを見下ろしてから、彼女をもう一度見上げた。
「ソンユン、っていうのはさっきの男か?」
「あっ、はい、そうです。失礼しました……わたしはトリシア、と申します」
よろしく、とでも言いたげに笑みを向けられ、ノワールは紅茶を飲んで逃げた。対人は得意じゃない。トリシアは妙にこちらを気にしていたが、恐らくソンユンとかいう男が戻ってこないのが心配になったのだろう、扉に目をやったとき、彼は湯気の立つパンとともに出てきた。
「ソンユンさん!もう、遅いですってば!」
「ご、ごめん……でもほら、きれいに焼けたんだよ、うわ!」
「いいから早くお出ししてください!」
ぐいぐいとトリシアに押され、ソンユンはよろけながらもしっかりと、ノワールの間に皿を置いた。チーズの良い香りが広がった。さっきまできっちりした男だと思っていたが、どうにもそうではないらしい。終始を見ていたノワールは、何やら言い合いを始めたふたりをよそに、やわらかなパンを手にとった。
「トリシアも使ってみたらわかるよ、オーブンって手間がかかるんだ。時間は、仕方ないだろ」
「それは、調整は難しいでしょうけど……お客様待たせるようなことはダメって店長も言うじゃないですか」
「だからってぬるいのを出すのも失礼じゃないのか?」
「店長ならもっと早くできますもん!」
「なっ……トリシアは何もできないのにそうやって、」
「おい」
ふたりの声音がだんだんと激しくなっていく中に声を挟むのには、そう緊張もなかった。軍人に比べたら可愛いものだ。ノワールにそろりとふたつの視線が集まる。やけどしそうなほどに熱いパンを飲み込んでから、ノワールはまた一口をかじった。
「うまいから、別に言い合うことないだろ」
あっけにとられたふたりは顔を見合わせ、すぐにぷと吹き出した。それでいい、うまいものがまずくなる空気はごめんだ。本当に美味しかったのだ。ノワールは仏頂面のまま食べ進めた。
国家を持たないサンガルタンは、商人が個々に手を取り合って成り立つ場所。できることならローマスとして統治したいほどに恵まれた土地を持つのだが、無理に治めてしまえばサンガルタンはおろか、サンガルタンと交易する他国との関係が危ぶまれた。諦めるしかないだろう。
しかし、とノワールは見上げる。トリシアとソンユンはすでに談笑していた。
「兄妹なのか?」
聞いたあと、無意識のうちに口走っていたことに気づいて自己嫌悪に顔をしかめた。他人を気にする必要がどうしてあるというのか。
ふたりはぱちくりと瞬きを大きくして、トリシアの方が手を横に振った。
「まさか。ただふたりとも、この店に居候してるっていいますか」
「居候?その年でか」
「あー……ええ、まあ」
ノワールはそればかりは気になって自分の意志で問いかけた。それまで笑顔だった少女が、濁し気味に言葉を飲んだ。
貧しいのだろうか。ノワールは黙って納得することにする。しかし、つられて黙ったトリシアの髪を、大きな手がぽんと撫でて、続けた。
「俺たち、孤児なんですよ」
ソンユンの懐かしむような、けれどもひんやりとした表情に反応したのは、この部屋にいるすべての人物だった。よく知る者は鋭い。トリシアは大いに慌て、ソンユンの服を掴んだ。
「そ、ソンユンさん、なにもそんな話しなくても」
「俺の方は戦争孤児で。親は商人で、サンガルタンに来てたんですけど、国が徴兵をして両親ともども、そのまま」
トリシアとて聞いたことがある話だ。言った当の本人よりも悲痛に顔を歪めた彼女は、俯いてしまった。彼女はは何も語らなかった。語ることができなかった。
ノワールは見知らぬ男の独白に、まず言うならば、困っていた。どうして、どうにも、何だそんな話はと笑い飛ばすこともできなかった。知らないうちに力を込め、手のひらの中で形が潰れてしまったパンの残りを口に放った。自暴自棄のような勢いで。
「俺も、親は知らん」
ぱっと少女の顔が上がった。見たのは、軍人というにはやや幼い目の色をした青年――いや、少年。見た目は大人びているのに、よく見ればその表情は自分たちと似てさえいた。トリシアは何かが溢れてしまいそうな気がして、拳をきゅっと握った。
黒い男の、鋭い形だった目が、ぼんやりと店内を捉えた。
「まあ、でも、あんたらもよくわかるだろ。どうにかなる」
それきり沈黙が続いたが、初めに音を立てたのはノワールだった。居難くなって腰を上げると、腰付近にぴしりと嫌な感覚が走った。思わず見下ろす。
傷だ。
傷が、また開いた感覚だ。しかしそこで違和感。
『また』?先ほど開いたのと同じ感覚だった。一日置いたのと同じ感覚。治る過程が違うとは言え、あまりにも酷似しすぎていた。まさかこの短時間で塞がったのか。塞がるかも知れない。塞がるのか?
不審に思いつつも、ノワールは袋から適当に銀貨を三枚引き抜いて、机に置くと扉に向かった。
「あ、あの、ちょっと」
少女の制止は届かなかった。軍人は止まることなく、店を出ていった。その扉が閉まり切る前に急いてトリシアは身を外に乗り出したが、数秒もしないうちであるというのに、男の姿はどこにもなかった。
「もうこれでおしまいだよ、トリシア。探さないで」
「どうしてですか……?」
「あの人ローマスの軍人だろ。国旗がついてた」
胸ポケットの、羽と布とが混ざったような紋章。その言葉にトリシアはもう泣きそうになった。服の袖で目をごしごしと擦り、扉を閉めるとソンユンを仰ぎ見た。
「ソンユンさんは、なんで分かったんですか」
「ん?」
「あの人が……あの人も、孤児だって」
ソンユンは空になった皿とカップから視線を移した。見えたトリシアのエメラルドみたいな瞳は、どこまでも綺麗だなあ、と他人事に感じた。ソンユンは本当に困ったように、迷ったように黙った。それからゆっくり息を吸って言った。
「えっと……なんて言えばいいんだろう」
「……」
「ほら、ある職業の人は、同じそれの人のことがよく分かるとか言うじゃないか」
「うん……?」
「なんとなく似てたっていうか、俺にというか、うーん」
似ている。トリシアはどこかどきりとした。
「例えば……?」
「……さみしそうだった、かな」
ソンユンは苦々しく呟いた。
ああ、やっぱりこれなんだ。トリシアは耐えられなくなって、ついに肩を震わせ始めた。
本当は紅茶なんて客に出しはしないのだ。でも、何故かトリシアはあたためた蜂蜜の香る紅茶を運んでいた。さみしい。それは痛いほどわかるのに、自分はそれ以上何もしてあげられなかった。何も言ってあげられなかった自分が悲しくて。その頭に、大きな手が置かれた。
「わ、わたし、あの人がローマスだとしても、もうちょっとだけ……」
ソンユンに撫でられながら、トリシアはこぼれる涙を止められなかった。
何が言いたかったのか、何がしたかったのか、具体的にはわからない。だけど、それでも何か、と心がざわついた。
ソンユンは男の残した銀貨をとった。
「十五ラアンもいらなかったんだけどな」
話を変えた方がいい、とコインをレジにしまいに行こうと足を進めると、ちょいと服が引かれた。ず、ず、と必死に泣きしゃっくりを止めようとしているトリシアが、そのままついてきた。その様はとても十五歳には見えなくて、昔の、それこそ子供のように小さく見えて。そっと目じりを拭ってやってから、少しだけソンユンは腰をかがめた。
「俺たちはローマスと関わっても、どうってことない。だけど、そうじゃない人がいるだろ?」
トリシアは涙を丸い瞳いっぱいにためて、それでも懸命にこくこくと頷いた。
俺たちの大好きな人。厳しくも優しい人をきっと自分も、トリシアも思い浮かべた。ソンユンはめいいっぱいに笑った。
泣くまいと、こっそりこらえながら。
「店長、早く帰ってくるといいな」
励ますつもりだったのに、トリシアはさらに泣き出してしまった。
「ごめ、なさ……っ」
きっとこの子は優しいから、あの軍人のことを考えているに違いない。悟ることはできたのに、それ以上はなにもない。口を開け閉めしては、呼吸だけを繰り返すばかりだ。
弱虫だな、俺って。
ソンユンは唇を噛んだ。もう一度彼女の頭を撫でた手が彼女のためになればいいと願うのは、もしかしたら自分のためだったのかもしれない、と思うと、息が詰まりそうになった。
軍部指揮官室――自室に『現れた』ノワールは、服を着替えることも忘れ、そのままベッドに沈み込んだ。長いため息。
疲れた。今日はまさにその一言に尽きる。こういう時は少しを食べることでさ疲労の種になる。パン一つでちょうど良かった。今日はもう寝てしまえ。
「っつ、」
寝返りを打とうとしたところで痛みが走る。ノワールはそこで思い出した。寝台のランプに灯火石をひとつまみだけ入れ、囁かな光のもとで上体を起こし、軍服の前を開いた。血が滲みた包帯を巻き取ると、傷口は皮が張って塞がっていた。
早すぎる。
自分の持つ色――『黒』の世界にいたせいだとしても、治癒状態が明らかに早かった。深い痛みはもう、ない。短剣に刺されたんだぞ、いくら移動に『黒』を多用したからといって、これはおかしいだろう。
ノワールは考え、結果、思い当たる節は二つほど。
まだ自分が『黒』を把握しきれていないか。
それか、あの店のせいか。
あたたかな雰囲気が思い出されて、ノワールは目を細める。あの店に入ってから――細かな場面までは覚えていない――だろうか、違和感を覚えた。しかし自分が腹の傷のことを思い出した記憶はそう色濃く残っているわけではなく、なぜあの店ばかりが違和感として残るのかがわからなかった。
違和感。
青い髪をした傭兵の顔が浮かぶ。思い当たるのは『色』。苛立ちに舌打ちした。
ノワールはもう考えるのをやめることにした。わからん。明日にはアセレートの傭兵についての報告と、そういえばユーリに請求する書類もあったか。面倒極まりない。
とりあえずは王が戻ってきてくれただけで、いいか。
ノワールは鉛玉の重さにも似た気だるさに抗いもせず、その意識を、ふと落とした。
家族のことも、痛みも自分の弱さも、ひとまとめにして。
ノワールは、もう夢など見なかった。