第三話 絶対色との邂逅
第三話 絶対色との邂逅
「はーらへったー……」
ブレートはアセレートの森を自宅――となんとか呼べる程度の小屋の方面へだらだらと歩いていた。傭兵とは思えない気だるさを全開にして、ブレートはただ足を無意識のうちに進めるだけ。フードの男と図書館長に対して、おまけのつもりで見せた『色』だけでも体力と栄養の消耗が激しかった。
左手の上には大きな城が頭だけ見える。現在地は恐らくぎりぎりローマスか、アセレートかといったところ。もとより三年前以前、アセレートがここを拠点だと宣言する前まで、この森は誰の私有地でもなかった。ただの土地であって、なにかの資源があるわけでもなく、元来めぐまれた山々から鉄鋼資源、海から水産資源を得ており、サンガルタンから農産資源を輸入しているローマスの注目の的にもならなかったのだ。しかしアセレートが開拓をするでも何かを建築するでもなく、ただただ所有の宣言をしただけで、ローマスは森に軍兵を送り込むまでになった。
『ローマスには絶対に近づかないように。いいね?』
普段は自由主義のニアロフ総帥が唯一といていいほどの決まりとして挙げたのがそれだった。
『どうしてですか』
『ローマスがアセレートのこと嫌ってるの知ってるでしょ』
『まあ、あれだけ兵隊ぶっ倒してりゃ、まあ』
ブレートにはわからなかった。軍兵はアセレートの傭兵を殺すよう命令され、ブレートらを襲う。本来から所有する土地でなく、アセレートがローマスに何かをしたわけでもなく、それなのにローマス人はアセレートを憎んで殺そうとするのだ。
『海外で働いてる奴らはいいんだけど』
『リリーとか、ですか?』
『それからシェイドだね。あいつらと違って、ブレートやペコラには軍をよく追っ払ってもらってるから、多分顔を覚えられてるんだ』
それはアセレートが出現してほぼ同時刻からだった。どうして、なぜ、などという問いかけをライブラリにするのも無意味。そういった感情所以の情報はライブラリにとって餌の価値もなかった。
『……極力、善処します』
三年が経ち、ブレートは自分がローマスではいつの間にかお尋ね者になっていることを知った。ちなみにそれはライブラリの情報である。なるほど、これでは昔より近づけば身の危険が高いのは明らかだった。襲ってくる軍人、最近増えた賞金目当ての狩人を気絶もしくは仕様がない場合にのみ殺して、ローマスに体を返してやるのはブレートには慣れたものになっていた。
まあ、『色』のおかげでそうそう殺されるまでにはいたらないのだが。
ブレートは森と城とを見渡してから、踵を返した。
だが、瞬間、ブレートの背後でチャキ、と金属音が鳴った。
「アセレートのブレート=カンパニッシュだな」
重く押し付けられた鉄か、鉛かは恐らく銃口。
いや、驚くべきはそこじゃない。その凶器ではない。
静かに両手を上げ、見張った目をそろりと向ける。確かにそこには、髪も瞳も軍服も、すべてが黒に染まった男がいた。無人だったはずの空間。起こった気配は紛れもなく人のかたちをして、そこにあった。
黙ったままでいるのを肯定ととったのか、軍人らしき男はあくまでも淡々とした表情のまま口を開いた。
「上から殺すよう命じられている。下手な抵抗をしたら殺す、そのまま腕を上げていろ」
どのみち殺すんじゃねえか。
ブレートは自分のフルネームを久々に聞いたな、などとも思いながら、とりあえずへらりと笑ってみることにした。
「あれ、こういうのって連行していって処刑するとかのパターンじゃないんですか?」
「黙れ」
さらに押し付けられた重い塊が骨までゴリ、と擦る。遠慮の欠片もない。思わず身を捩らせてから、思考をこちらに集中させることにした。
おそらくローマスの軍兵。今まで何人だって相手をしてきたことがある。だが急に何もない森にどうやって現れた。隠れてでもいたのか。流石に密着した銃が発砲されたとして避けられるわけもない。こんな経験は初めてだった。
ならば。
ブレートは小さく息を吐く。上げた掌にゆっくりと、だが深くから力を込め――青い雷撃を背面に放った。
「っ?!」
いくら数瞬、雷がまたたく間があったとはいえど、黒の男は上体を弾かせた勢いのまま地を蹴り上げ、数メートルの距離を瞬時に置いた。
ただの猫だましだが、御見事。ただの軍人にしてはそこそこ上手い。
隙に短剣を二本引き抜いて、ブレートは体制を整えた。
「ローマスの方ですよね」
返事が来るなど期待していなかったとおり、男は答えなかった。アセレートは殺す信念のもと動くのはローマスくらいしかないので、ブレートはそれでも笑う。正直男の素性はどうでもよかった。
「……『色』か」
言ったのは彼の方だった。牽制のための雷を見留め、若干苦々しそうに頬を引きつらせて。
「アセレートに『色』がいるなんて聞いてないぞ、まったく……」
「おやご存知ですか、ローマスも詳しくなったものですね」
「……バカにしてるのか」
齢はブレートの少し下と見えるほどの男の顔は常に怒ったような、仏頂面。軍人はもうローマス国民であることを否定もせずに、先程も向けたリボルバーを起こした。
「お前のへらへらしたツラと口ぶりも気に入らん。殺す。アセレートだから尚更殺してやる」
なんとも理不尽な、とブレートが反発するよりも早く軍人は発砲。
何言ったって殺すしかねえのかよ!
的確に胸を狙ってくる弾道を剣で逸らし、もう一方の刃を男へと投擲。空間を割いて飛んだ鋼は咄嗟に防ごうとした拳銃のグリップに刺さり、勢いのまま男の手から銃を弾き飛ばした。ブレートは弾丸を受けた短剣を宙で握り直し、弾丸の反動に足を踏み込みながら、もう一度それを飛ばした。
刃が刺さった。しかし、鈍い音を立てて、木に。
ブレートは息を忘れた。即座に振り向いても、やはりもう一度前も見ても、まばたきをしたかどうかの合間に軍人の姿は完全に消えていた。それどころか、痛いほどの殺気までも。
これだ。先ほどの違和感はこれの逆だった。瞬間的に現れた狂気と姿。
違和感。まさか、姿を消す『色』?ブレートは残りの二本の剣も引き抜いて森を見回した。小さな交戦が起こっていたはずなのに、晒された刃はあてもなく彷徨うだけだ。
さっきは唐突に背後に現れた気配だ。油断はできないが――
カチリ。発火音。
それに気づいて顔を『上げた』時には既に、右腿に熱が広がっていた。
「つ、――っ!!」
撃ち抜きやがった。数十センチの肉を貫通する威力。
「下手に動いても構わないが、次は首を狙うぞ。『色』なら殺すのは惜しいが、仕方ないな」
木の上に、あの軍人はいた、しかし構えているのはリボルバーなどではない、ライフルだ。
どこから出した?男の体にはガンホルダーなどない上に、そもそもライフルなどというもの、整備するならば音で気づかないはずがない。いや、待て、お前はいつそこにのぼったんだ。
戸惑いながらも体を向けようとすると、中で血管がぶちりと切れた。顔が歪む。手をかざして冷やすと血と痛みは止まったが、治るのには相当な時間がかかりそうだ。
このやろう、遠慮もなしにでかいの撃ちやがって。
青筋を立て、だがブレートはやわらかく声を上げた。
「お前さ、見たところひとりで動いてるわけですけども、そこそこのお偉いさんですか?」
「知るか、そんなの」
「いいじゃねえですか、どうせ俺を殺すなら、どーんと宣言しといても」
スコープから瞳が離れる。訝しむようにブレートを数秒睨みおろしてから、まさしく男は捨てるように言った。
「……指揮官」
待っても言葉はそれだけだった。まさか役職名のみが落とされるとは思わなかった。
いかんせんローマスの内状などちっぽけも知らないブレートだが、位を持っていることの重要さは理解した。多少なりは強い。それから大事なことはもうひとつ。自分がそうであることに人間は敏感、である。重ねて彼の数々の不可解な現象を考えれば、おそらくは。
ブレートは目を細めて笑った。
「指揮官さんですか、お強いんですねえ」
「まだ喋るのか」
「まあそりゃあもったいないので――」
砂が舞う。跳んだブレートはとん、と軍人の肩に手を置くと、その耳元で笑った。
「なにせ『色』と戦えるんですから、ねえ?」
見開いた男の視線がブレートの足に落ちた。
これくらい動けるんだよ、バーカ。
内心で舌を出し、肩に置いた手に握った短剣を首めがけて捻ると、男は舌打ち混じりに背面に向かって回転。ライフルを手放しながらも地に降りると、屈んだままジャケットないから自動拳銃を抜いて発砲。それはそこか。だが安全装置は無し。連射を別の大木に跳んで避けるも、弾は止んだ途端に手早く装填される。カラムも内ポケットに、だがそれにも限界があるだろう。最中に短剣を飛ばす。男は中から落としかけた空の弾倉で受け止めるとすぐにリロードを完了した。
扱いが上手いのか、ガンマニアなのか。呆れる捌きだった。
さすがに動いていれば当たることはブレートならないのだが、腿が少々痛み始めた。穴があいているのだから、本来ならばその程度ではそまないのだろうが。
「っと」
続いた弾は顔を掠めかけた。弾丸を防いだ刃から、腕に細かく大きな振動が伝わる。ブレートは戦闘の高揚を覚える性格ではないが、一種の仲間と呼ぶことのできる人物と交戦には初体験ゆえの緊張が走った。
弾切れを待ってもよいが、大型のライフルが唐突に出てくるような能力だとしたら、弾倉のひとつやふたつは容易。希望的観測もおちおちできやしなかった。
ならば、跳び続けることよりも大きな疲労を覚悟で、やるしかない。
ブレートは進路を変更。大樹の枝から逆さに跳び、四肢を地面に擦りながら着地。軍人が銃口を動かすより先に、手を、力を、地に押し込んだ。
一を数えるよりも早く、しかし間一髪は置いてからすぐ、数十本もの氷柱が地を貫き、うち一本は拳銃ごと軍人の手を打ち付けた。
「っ!!」
おお、と転がってきた拳銃に目を見張る。当たるとは思っていなかったが、まあ、これはこれで。手に付着した砂をぱんぱんと叩いて払い、氷柱に囲まれ、身を固めている――目だけは相も変わらず今すぐ食いつかんばかりに殺気立っている――男に歩み寄った。
「……お前、力、雷じゃあなかったのか」
「と、思っていてくださったのですねえ。残念ながら違うようですが」
軍人の吐いた息は白い。動けば頑丈な氷柱が体を打つだろう。軍人の股、脇、打った腕の下を交差して伸びる氷柱は、その体を貫きこそしなかったが、動きを止めるのには十二分だった。
「まあ、体ぶち抜かれなかっただけ感謝してくださいな」
剣をくるりと手首で回し、握りこむ。ブレートにその切っ先を首もとに添えられて、男はあからさま不機嫌そうに全身の力を抜いた。
「……死ぬんですか?」
「まさか」
「ですよね。じゃあどうするんですか?」
「ああ……『バレる』前にどうにかする」
ぷつり、と首の肌を小さく割けば、男はまぶたを落とした。ブレートは身構えた。どこまでも狂犬のような男が諦めるとも思えなかったが、しかしいざこの刃を刺し殺す気にも、どうしてかならなかった。
次は何をするんだろうか。何を出すんだろうか。どう仕掛けてくるのだろうか。
意識の外でそう期待する自分に気づいて、ブレートははっとした。
俺は、楽しんでるのか。
狼狽とまではいかないにせよ、ブレートの刃は小さな感嘆に止まった。隙としてはそれで十二分だった。
軍人が腫れ始めた腕の先に拳を握り、左手に短剣を持つブレートの腕めがけ横殴りに飛ばす。氷柱の間からしなり上げられた足が腿に追撃。衝撃。激痛。止血した肉の穴がきしみ、ブレートは反射的に苦悶の声を絞った。鍛えられているらしい男の体のバネは、ブレートの足を完全に砕いた。よろけながらもなんとか一歩を退く間に、軍人も氷柱を蹴り飛ばして退いた。しかしその右腕はだらりと力なく下がる。どうやらお互いに負傷。だがブレートの方が明らかに劣勢だった。
「ひっどい、ですねえ……銃がなくても闘えるというのは予想していませんでしたよ」
「使えなくさせたのは、お前だろうが……」
右足の痛みは冷やしてもどうにもならないまでに至ったが、イライラも最高潮らしい男が皮肉を返してくるのがたまらなく可笑しくて、笑うことはできた。
戦うのが好きだったわけじゃ、ないはずなんだけどなあ。
「何笑ってるんだ」
またもぎろりと睨まれた。ブレートは今度は正面から両手を挙げてみせた。
「いや、楽しいんですね、これが」
「気味が悪いことを」
「最近はおたくのおつかいもどきか、雑魚のお相手しかしていなかったものですから、なかなかこんなに強い方もローマスにいたとは……」
やれやれ、と息を吐いて行ったそれは、見ずともわかるほどに軍人を刺激した。
「……うちの?」
「ええ、十人くらいでまとめて送っているでしょう?前に森にやって来たのは、先月ほどでしたか」
「……お前だったのか」
もとより掠れた低音であった声が、より重みを増したのがそれを表していた。ブレートは静かに足を引きずり後退し、背面を木に付ける。刺さっていた剣を抜いた。あと二本。
軍人は一度きりの深呼吸を置いて、彼の右腕を振り、一歩を踏み出した。得物はない、素手でやるつもりか。
男はブレートの十歩ほど前で止まった。木の葉が風に揺れ、影がちらつく。この距離でなら、殺られる前に殺れる。剣を投げられるよう手の中で回転させ、男の行動を待った。
指揮官はブーツの底で砂を鳴らした。それを合図にしたように、風が止んだ。
「ここで殺すのはやめておく」
嫌に冷たい声音。自分の氷とも雪とも違う、気味の悪い冷たさ。
冷えていた空気の流れが、どこかでぐにゃりと歪んだような気がした。
「引きずって引きずって、国で殺してやる」
恨みのこもった犬歯が剥かれた即時、その足元が『ずぷりと影に沈んだ』。
ブレートは声をのんだ。
水に角砂糖が溶けるかのように軍人の体は沈みきり、同時に気配は完全に消えた。影の能力。やっと合点がいった。おそらく、彼は影の『中』にいる。だが影はどうだ、ブレートは辺りを見回した。森だ。影がひしめく森だ。
唐突に背後に立つことも木の上に出現することも重火器を取り出すことも、現場がこの森であることと彼の能力をふまえればなにも――ブレート『には』―― 違和感がなかった。ブレートは跳ぼうとかがみ込んだ。だが、それは右足の金切るような痛みによって叶わないまま、痛みのする側の遠方からいくつもの銃口が覗くのを見た。ゆっくりと回転しだしたそれは、マシンガン。
マジかよ。
案の定瞬時に連射された鉛玉に、ブレートは大樹の陰に向かって身を翻すも、二発を頬に掠めた。焼けるように熱い。痛みのせいで顔を歪めたいのにそれすら許されない。弾丸の雨に木が揺れるのを背中で感じながら、必ず起こる弾切れの瞬間にブレートは飛び出し、地面に転がったカラムに刺さった短剣を回収。すぐさま向かってくる次の弾丸を、そのまま地面に手を滑らせ氷の壁を乱立させ防ぐ。最初の数弾は壁が間に合わず背面を擦りぬけた。弾倉ひとつ分の弾丸が壁を砕ききる前に壁の陰から歯噛みをして木の枝の上に跳躍。壁が砕けてもブレートの姿がないのに、マシンガンを操っていた軍人は視線だけを動かした。その隙に力を込めた短剣を黒く光る驚異に擲つ。軍人と視線が重なる。キン、と音が起こるのに反して殺気が消えた。続いたのは爆音。熱を込めた短剣はマシンガンに残った火薬に引火した。
軍人はどこに消えたか。ブレートは左足で着地。リボルバーに刺さった剣を拾い、銃本体は振って捨てる。転がったそれはパンと発砲し、木の幹を焦がした。暴発した拳銃と、爆発したマシンガンはもうきっと使い物にならないであろう。
束の間のいとまに抉れた頬を冷やしながら、ぽそりと考えてみる。
どこからでてくるか分からない銃は、最初の一発さえ避けられれば、戦車並みの威力でなければどうにでもなる。だが、腿と頬に受けたように、その一発が面倒極まりない。刃でできれば退けたいが、相当な連射では追いつかない。常に『青』の色を使うには体力がそろそろ辛い上に、反射が間に合うかどうかも怪しい。
肩で息をしながらも、ブレートは二本の短剣を握り締めた。腹もひどく減ってきたが、まだあの軍人に返すものを返していない。せめて一発でも、あの男に当てて、そして帰ってもらおう。その為には、彼の能力を考える。
動きたがらない右足を負けず嫌いの精神で叩き上げ、身構えた。右の刃には冷気を、左の刃には照るほどの熱気を込めて。
集中、集中。
ガシャリと鳴ったのはこの数分で慣れた音。それが発砲音に変わる前に身を翻し、熱を飛ばした。先程より小柄な機関銃に刺さった刃は、金属を溶かし始める。軍人の指はもう引き金を引いていた。だが弾丸は動かない。
軍人は禍々しい一瞥をくれてから、サブマシンガンを放り投げ、その体を再び影に沈め始めた。
ブレートの『青』がそうであるように、『色』の関与には時間がかかる。ほんのコンマ数秒であったとしてもだ。
ならば。
ブレートは地を蹴り、勢いをつけて飛び出した。狙うは軍人。その形が影へと沈む前に。
軍人の目が見開かれた。見開かれるのが見えた。見えた。
見えた。
ブレートが影へと刃を叩き込むと同時。
地面に転がった軽機関銃が、音を立てて爆発した。
マシンガンにサブマシンガン、共に発弾するはずだった薬莢が過度な熱に当てられて爆発でもしたのか。どうやら相性的にはこちらが有利だったか。
ブレートは胸を大きく上下させ、打った右腕を押さえた。爆風の熱は防げても勢いまではどうにもならなかった。火傷も炎症もブレートには無縁だが、今、疲労した状態では、『色』ももうままならない。重く響く痛みを伝え始める腕に、汗がにじんだ。ヒビでも入っちゃいねえだろうな、足はもう使えねえってのに、くそったれ。
ブレートは散った鉄塊を見た。その傍らに砕けた、己の短剣であったものが並ぶ。少し向こうにも、鉄塊がもっと大きなマシンガンであることだけが違う、同じ光景があった。損害も相手の方がでかい。してやったりだ。口角を上げたかったが、痛みにくらりと視界が揺れる。右足に触れてみると、止血はもう効果がないらしい。ねっとりと付着した赤黒い液体もそのままに、木に寄りかかったまま瞼を落とした。
すると、キン、と金属音がした。転がった諸刃の、赤黒に濡れた自分の短剣。あれももう使い物にならないか、仕方ない。そして今までとは違う――影から突然現れるのではなく、ずるりと無理矢理に這い出るような――様子で現れた軍人は息も荒々しく、腹を押さえていた。三つん這いで体を支えるぼろぼろの右腕まで滴るのはブレートよりも鮮やかな血液。
「……大丈夫ですか、指揮官さん」
「う、るさい……ッ」
血の気のない顔でギンと睨まれた。元気なものだ。しかし、
「もうさすがに、やれないでしょう」
軍人はそれに答えなかった。ただ、鋭い犬歯を乾いた唇に立てて。
「……兵士の仇は、絶対にとってやる」
心底恨みがましい、震えた声音をブレートに向けた。
軍人はそれきり黙ると、影にゆっくりと溶け込んでいった。さっきはあっさりと消えたが、血なまぐさい匂いとわだかまりは残った。
アセレートを守るためとはいえ、今まで何人の軍兵を殺したかは確かに分からない。あの指揮官とやらの知り合いだったのだろうか。『色』であろうか、おそろらくそうであろう彼の、仲間だったのだろうか。
――いや、仕方ないことだ。自分にだってアセレートを守る理由がある。あちらの理由は、あちらの理由それだけである。
ブレートはバンダナを下ろし、血のついていない手で長い髪をかき乱した。
アセレートは、ブレートの唯一の場所だった。『ブレート=カンパニッシュ』において、たったひとつの、大切な場所。
左右もわからなかった自分に手を差し伸べてくれた、純白の人がいる場所だ。
「これでよかったんですよね、総帥」
ブレートは金色の瞳を閉じ、意識を影よりも深い場所に静かに落とした。
思い出したのは、三年前のこの森だった。
『覚えてない?……そうか。大丈夫?お腹すいた?』
その人は今と変わらぬ軽い笑顔を浮かべていたと思う。自分の中の最古の記憶だった。
『今ね、俺、ちょっと人集めをしてるんだよ。俺を助けてくれる、強い人』
木の枝で文字をいくつも地面に書きながら、ニアロフはそのひとつに丸をつけた。
『だから、俺を助けてくれないかな、ブレート』
その時は文字などまだ読めなかったけれど、綺麗な文字はおそらく自分の名前だったのだろう。ほかの文字はもう覚えていない。男はそう言って手を伸ばしてくれ、自分はそれを掴んでしまったが、助けられたのは明らかに自分の方だった。
なぜ彼を信用してしまったのか彼がそもそも何者なのか、まず何を言っているのかも全くわからないにも関わらず、ブレートは初めて見たものを親と思ってしまうような、自然な感覚であったのを、小さく思い出した。