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彩―SAI―  作者: 旦那
第一章 おかえりとさよならの物語
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第二話 図書館の長



第二話 図書館の長





 なにもブレートがライブラリに訪れることは初めてではなかった。

 絶対中立地域。そう呼ばれている場所に入ることを許されている人物はなかなかいないだろう。ブレートがそのひとりに数えられているのは、改めて思えばひどくすごいことのように思えた。大抵の人間はあの門すらくぐることはできないのだから。

 コンクリートと金属だけでできた生気のかけらもない街に、ブレートは靴音を響かせた。来るたびに疑問に思うのだが、ここには住人が居るのだろうか。立ち並ぶキューブ状の家々――というよりは研究所――は常に静かだった。

 ライブラリに入ることを許されている、とはいえど、ブレートが顔を知っているのはシリウスという名の研究者ただひとりだった。以前もこれ以降も別の人物を利用することはないだろう。多くに接触して情報を配る必要性は感じられなかったし、シリウスは異端中の異端の人物で、彼以上の人材をブレートは知らなかったからだ。ニアロフ、リリーらも共にライブラリと関係を持っているが、彼らもまたシリウスとしか繋ぐものは持っていないらしい、というのも今現在、真っ直ぐに歩く理由のひとつだった。

 アセレートが受ける仕事の多くもライブラリに集まったもの。そしてなにより『ライブラリ』の名に恥じぬほどここは情報が集まっていた――いや、情報を集めていた、のほうがいいかも知れない。情報は金銭、武器、またはほかの情報と取引される重要な資産だ。ゆえにここは侵入しようものならばレーザーで一発、おじゃんにされる。普通ならばの話だ。ブレートはもはや普通ではなかった。

 扉からまっすぐ歩き続けたところに目的地はあった。それはほかのコンクリートボックスに比べ大きい。立地と、外観からわかるなんとなしの威圧感。ライブラリ、シェオル支部長宅、兼研究室。扉の前に立つも、無反応だった。


「……もしもーし?」


 あまりの無機質ぶりに思わず声をかけると、扉からカチャリと機械音が鳴り、横へとスライド。奥は無人。これがオートマチックというものか、とブレートは感嘆した。ブレートとて感情のある生き物であり、真新しいものばかりが存在するライブラリに訪れるのはひそかに楽しみだった。門をくぐるよりも幾分か軽い足取りで入室した瞬間、ガン、と足元から金属が打たれた嫌な音がした。しまった、とブレートが力を緩める前に、不機嫌そうな声が飛んできた。


「ここに来るまでと同じように歩かないでくださいと、何度言えば良いのですか」


 床に張られた鉄板。無機質さをより一層強調するそれを一瞬みやってから、ブレートは声の主に苦笑を投げ返した。


「すみません、いや、いつものクセで……」

「ですからそれを気にとめろと言っているのです。あなたといいリリーさんといい、アセレートは役にはたっても、本当に……」


 ちくちくと刺さるような小言を吐くのが、この研究所の主、シリウスだった。シワ一つ無い白衣に黒縁の洒落の欠片もない眼鏡。いかにもな風貌だが、腕は確かであるのをブレートはこの三年で知った。


「……それで、本日は何を?」


 パソコン、とかいう機械から目をそらしもしないシリウスに、そろりと音を立てないように歩み寄った。しかし足の裏では振動する音がやまなかった。


「しらばっくれないでくださいよ。あなたが先日うちに出した依頼があったでしょうが」

「ああそれですか。返答は?」

「そろそろ別のやり方探しな、とだけ」

「それは残念だ」


 言うわりにシリウスはくすくす笑った。

 ブレート適当にあいていた椅子を引っ張り、シリウスの画面越し向かいにがたんと座った。パソコンを覗いては見たかったが、それはタブーだ。仕事へ干渉は禁物。ブレートは椅子の背を前にして、腕を乗せた。


「リリーから聞いたんですけど、あなた、なにか調べものでもしてるんですか?」

「……彼女は何と」


 シリウスのキーボードを叩く指が一瞬止まったのは珍しいことだ。それは期待か、不安か、それとも。


「別に、なんかユスリにあってるそうで」

「否定はしませんが、言い方が無粋です。まあ……そうですね、今、気になることがいくらかありまして。彼女に手伝って欲しかったのですが……ああ、あなたでも代わりにはなるかもしれませんね」

「は?」


 唐突にシリウスと視線がかち合った。彼自身も機械のような顔をしていたのに、いつのまにか瞳はやけに輝いた色を持っていた。薄暗い部屋の中でモニターの人工の光を反射しているが、それだけではない。

 なんで俺?ブレートは内心首をかしげたが、すぐに察した。


「『色』?」

「はい、ここ何年か研究対象にしていますが、いや、なかなかに面白い。未だ集まっている情報が少ないのですよ。構造、構成物質、影響範囲の算出式、転生のタイムラグ、起源……」


 あっさりと肯定したシリウスは、それどころか完全に手を止めてしまった。ライブラリの言う『少ない』がどれほどの量なのかはしれなかったが、ブレートもやや興味の惹かれる内容だった。なにせ相手の気にするものというのは自分も含まれている範囲であって、自分はそれを嬉しくないと思う性格でもなかった。

 ブレートはちらりと己の手のひらを見た。軽く念じれば、そこに冷気が集う。空調のせいなのかやけに湿気が少ない部屋だ。十分に冷えたところを見計らって空気を握りこむと、再度開いた時には小さな雪の塊があった。シリウスはそれでも嬉々とした。


「そう、そうです。あなたの持つ『色』……『青』のことも情報がなくてですね。せいぜいあるとしたら司る能力が温度操作だというくらいしか……」

「それくらいしかねーですよ、実際」


 すぐに溶けた雪を適当にズボンで拭いた。いつもならここで礼儀がなってない、などの罵声がとんでくるがシリウスは恍惚として頷くだけだ。情報を与えれば餌のようにとらえ、食らっていく。ブレートは気色悪さを歯噛みした。純粋に好まれるならまだしも、こいつらの興味はとてもではないが純粋とは呼べない。では何故こんなものを見せたのか。きらきらと輝くくまの残った眼差しは、存外悪いものではない。それがたとえ一般人とはかけ離れた異端であったとしてもだ。


「ふむ、そうですか。しかしあなたが当然と思っているものも、案外私たちには新鮮なんですよ」

「……ふうん」

「ですから、なんとなくと思っているものでも構いませんから、教えて下されば……」

「それがお手伝い、ですか?」


 先の話を持ち出して、ブレートは声音を下げる。これが常にリリーに言い寄ってくるというものか、なるほど。身を揺らしてキィ、と椅子の背を鳴らすと、シリウスは「耐久性が落ちますのでやめてください」と言う。おとなしく寄りかかるだけにし、かわりに足をぶらつかせた。問への返答は待ってみてもなかった。無言の笑みだけがそこにあった。無言は肯定だ。ならばとブレートは舌をべ、と出した。


「遠慮します。俺の情報がそんなに重要というのなら、金なりなんなりと交換できるのでしょう。なら、今この場でぺっぺと言うつもりはありませんね」


 シリウスはいつのまにか、またパソコンと似た表情をしていた。ブレートはひとしきり吐いてしまえばもう満足だった。おそらくライブラリ――というよりシリウス個人の魂胆としては、まずリリーにとっての重要人物であるブレートと関係を持ち、リリー本人を揺さぶりたかったのだろう。そしてそれから、ついでの青色からも情報をいただく。なんせこの青色はまだまだ早熟である、と。きっとそう思っていたのだろう。だがライブラリは情報を買うには絶好の場。いくらブレートとて情報の価値は理解している。そこが知り得ないものを自分が持っているのは悪い気分ではなかった。


「……先ほどの『色』は、ずいぶんおいしい飴だったのですが」

「勝手にお前が拾って食っただけですよ、俺にとってはただの石っころです」

「交渉がお上手ですね」

「最近は対人の仕事も増えてきたので」

「では、私も見習いましょうか。『青』のお礼をしましょう」


 心なしか表情をやわらげたようにも見えるシリウスは、キーボードを忘れて薄い唇を開いた。感情の起伏が激しい奴だと思った。


「ローマス王国のお話は、なにか伺っていらっしゃいますか?」


 突然耳に入った単語にブレートは顔をしかめる。


「ローマス?そもそも、あそこには近づくなと言われているんです」

「ふむ……あなた自身も特にご存知ないと?」

「むしろ興味もないです」

「それが『色』の情報であったとしても?」


 ブレートの心臓が嫌に跳ねたのを、シリウスに聞かれていないだろうか。普段よりも深く意識した呼吸を繰り返し、高揚とも不安ともとれない感情を遠ざけた。


「……どんなお話か、聞いてもよいです?」

「ええ、お礼の範囲は。私の持っている情報の限りでは、『赤』と……それから、そうです、『黒』が新しく確認できました」

「新しく、というと赤子かなにかですか」

「いいえ、立派な軍人です。先月、ローマスはある国に進軍しているのですけれども、その際にとらえました。今まで能力を潜めていたものだと思われます」


 『赤』と『黒』。そこでブレートはふと思い出した。フードの男。あいつがそのどちらかだという可能性はあるだろうか。いや、彼がローマス国民だとしたら、サンガルタンにのこのことひとりでやってきては倒れているだろうか。フードの男に軍人などという気配は感じなかった。

 ブレートの持つ『青』が温度を操作するように、『色』と能力の印象はそうかけ離れない。カルテは恐らく、あったとしても『黒』。しかしその仮定も恐らく外れ。つまり、どうやらカルテの件もまだライブラリには『売れる情報』の可能性があった。


「どんな能力か、というところは内緒ですか?」

「別料金です」


 知ってはいるということか。教わらずとも対策するには十二分だった。


「まあ、極力ローマスには近づかないようにしておきますよ。よい情報をありがとうございました」


 ブレートは椅子から立ち上がった。利益は上々。足音を消す配慮など面倒の極み。後後にも売れる情報が見つかったのなら尚更足取りは軽かった。

 足早に去ろうとしたブレートを、カタリ、という物音が引き止めさせた。

 振り向いた。だがその根源はシリウスとは違う方向からしたように感じた。記憶を再生する。機械音の中に混じった異質な音。

 まるでそれは、、何かが自ら動いたような。


「……勝手に動くな、と言っておいたのですが」


 隠せる音量ではなかったためか、またはそもそも隠す気もなかったのか。シリウスのつぶやきに、ブレートは彼を見据えた。


「ペットかなにかでもいるんですか?」

「ペット?」


 なぜかシリウスはきょとんとしてから、珍しく笑みをこぼした。


「嫌ですね、アレがペット?あれは機械ですよ、維持費はほかよりかさみますが」

「はあ」

「……知りたくはないのですか?」


 好奇の眼がこちらを捉えていた。やけに突っかかる言い方を勝手にしておいてこの素振りだ。

 ブレートは首筋を掻き、顔を背けて考えるふりをする。どうせまた何かとかこつけて『青』の情報を、またはリリーのことを催促するつもりなのだろう。黙っていると、すぐ近くで鉄の床が擦れる音がした。


「それとも、知りたいのは『三年前』のことですか?」


 幾分か距離を置いていたはずの声がすぐ傍らからした。ブレートが歩けば騒ぐ床も、シリウスの前では――下、のほうが正しいか――ではカーペットのように静かだった。ブレートの驚きが瞳孔に現れた。

 三年前。ブレートが持つ最古の記憶につけられた年号と同等。それ以前の記憶は、ブレートにはない。だがそれを彼に話したことがあっただろうか?無意識のうちに腰にある柄を掴んでいたのに気づいたのは、ブレート自身が早かったか、それともシリウスが早かったか。

 沈黙を破ったのは、少なくとも後者だった。


「……まあ、プライバシーへの干渉は失礼に値しますかね」


 ライブラリがそれを言うか。ブレートは無言で柄から手を離した。苦い思いは積もりに積もって、いつかより力強く踏み出してしまった足は、やはり鉄を叩いた。これでいい。下手なことは考えたくなかった。


「ではブレートさん、最後にまた依頼をさせてください」


 扉まで来たところで、再びブレートは止められる。


「例の二人に――とは言いませんが、もし仮に『色』と接触するようなことがありましたら、その血液を採取してきてはいただけませんでしょうか」

「血?」

「はい、まだ『色』のデータは少ないんです。徹底的に研究し尽くしたいのですが、かと言って私もライブラリですから、流血沙汰は起こせなくてですね。こんなことを頼めるのは『色』本人くらいですから、リリーさんに頼んでも良かったのですが……そうですね、とても高価な情報源ですから、もって来てくださたらあなたの望むものをお渡しします。海外の武器でも、薬でも」


 饒舌になると有無を言わせなくなるのは、この研究者の悪いクセだった。最後にとびきり甘い罠を敷いたのには、なんとなく自分の中に覚えがあった。

 黙っているうちにシリウスはパソコンの前に戻っていき、見向きもしなくなったので、これ以上この場にいることもないだろうと思ってブレートは帰ることにした。

 挙げられた金髪の女性の顔を思い浮かべ、一度だけ剣の柄を握ると、ブレートは足を踏み出した。





 ブレート=カンパニッシュには記憶がなかった。三年前のある日――現在『空白の日』と呼ばれている日、それ以前の記憶がなかった。しかしなにも記憶を失ったのはブレートだけではない。『空白の日』はシェオル全土に起きた、未だ解明されていない、未だ誰も解明しようとしない、何万もの記憶欠乏者を生んだ事故のことである。

 リリーはそれについて詳しくは知らない。リリーは記憶を失ったという意識は全くないからだ。もっとも、記憶を失ったという記憶さえ失っているのなら別の話だが、記憶が多く抜け落ち、精神疾患を患った者の大半がローマス国民であり、発生源はそこであろうと何人かの研究者は言う。だがそれから三年が経ち、人々はすっかり事故を忘れた。忘れたという事実を忘れた。今もまだ病院で埋まらない記憶の穴に侵された者の親族その他友人以外は、皆、忘れている。それが誰も『空白の日』の原因を突き止めようとしない理由だった。

 しかし、とリリーは手にした古新聞をめくった。

 ぜんぶ記憶がなくなったという事例は、どこにもない。公表されたニュースにも、ライブラリが持つ情報の中にも。

 落胆を跳ね返そうと大きく伸びをした。肩がパキリと鳴る。倦怠感がややとれた。時刻はおやつどきも過ぎ、太陽が傾き始めた頃だ。パンは多く売れ、残ったパンはそろそろ、毎日の恒例である安売りに出さねばならない。まずはそれだ、目の前の小さなことから。大きなことは、ゆっくりやっていけばいい。

 リリーはポケットの中の小さな機械を取り出し、確認した。手のひらに握り込めるほどの小さな鉄の塊。ライブラリから借入れた、文字の伝令が届く機械だ。ランプの色は黄色。流れてくるのは『21:00ヨリ』の文字。この時間までにライブラリに赴かなければならない。ニアロフ総帥とライブラリ以外には内緒の仕事だ。


「店長、今日最後のマフィンが焼けました」


 ガチャ、と調理室からの扉が開いた。出てきたのは店員のソンユンだった。彼を見て機械をポケットにしまいこんだ。そこでつい数時間前にした彼の失態について怒るのを忘れていた事を思い出した。まあ、今更怒ることでもないのだが。

 熱いものは触りたがらないわ引っ込み思案だわ下手したら年下のトリシアのほうが気が強いんじゃないか、と思ったりするほど男にしては軟弱な子供だが、変なところで真面目な彼は、あれからすぐにオーブンを触ること――正確にはオーブンが別に怪我をさせるための機械じゃないのだからある程度は安全だ、ということ――を覚えた。だから怒らなくてもいいだろう。あの時は自分もぼうっとしていたからいけない。

 そんな男が十七という齢にしては幼い顔を煤で汚し、ひょっこり現れたので、リリーは思わず吹き出した。


「あんたねえ、どこをどう触ったら黒化粧するはめになんのよ。オーブンに頭でも突っ込んだ?」

「えっ、そ、そんなについてますか?どこですか?いや、もう最後だからって掃除して、手で触って、そのまま顔も、たぶん……」

「はいはい、ありがとう。真っ黒になってるわけじゃないから、ほら、大丈夫よ」


 新聞を置いてレジ内の椅子から立ち上がり、ソンユンの目尻の小さな汚れを裾で拭ってやれば綺麗になった。ブレートより拳ふたつ小さいくらいか、でっかくなったなあ、と感嘆するうちに、どうしてかソンユンの顔がみるみる染まっていった。今朝仕立てたイチゴジャムのようだ。つい先ほどまでオーブンを触ることすらできなかった人間が、掃除などと、そういう気配りまで出来るようになるのだな、とリリーはやはりおかしくなった。さてそんな彼が焼いてくれたパンはどんなものになっているか。彼の成長は見ていて喜しい。それはもう、とても。


「じゃあそうね、マフィンに挟む具材は覚えてる?冷蔵庫にしまってあるから一応教えたげるわ」


 リリーはローファーを鳴らしてドアを開けようとしたとき、軽く腕を掴まれた。


「なあに」


 掴んだのはもちろん、ソンユンだ。この空間には自分と彼しかいない。振り向くとびくりとして掴む手の力が弱まり、すぐに手が離された。このヘタレめ。


「……えっと、あの、最近店長、なんかおかしくないですか」

「はあん?」

「い、いや、なんか、いろいろ今まで以上に教えてくれるようになったり!」


 ああ、そういえば新聞を出したままだった。それで彼は何を言っているのだろう、と瞬きとともにリリーは首をかしげた。


「呆れたからに決まってんでしょ、こんなこともできないのかって」

「でも最近になって急に多くなりましたよ。材料の細かいこと、小麦は必ずアイーシャおばさんのところのを使うこと、チキンパイのソースにはハーブをいつも混ぜること、トリシアだって知らなかったってさっき聞きました」


 ソンユンの表情が真面目なのを、どこか遠いところから無理やりピントを寄せてこの景色を見ているかのように、リリーはなかばぼうっとして聞いていた。


「そりゃあんたのが年上だからで……」

「俺!」


 突然高ぶった声にリリーが目を見張ると、ソンユンもはっとしたようにやや身を引く。しかし勢いを殺す前にと深く息を吸い込んで、


「……俺もトリシアも、まだまだ何も覚えれてないんですから、店長がいないとダメですからね」


 と言い切った。

 怖がっているくせに、このガキは。ソンユンはリリーから刺さる視線にか沈黙にか、耐えられないといったようにレジ内から大きなバスケットを取り出した。いつもなら小さなお菓子が詰め込んであるそれはほとんど空っぽだった。


「お菓子、買ってきます。明日も子供たちが来るでしょうから」


 リリーは応えなかったが、ソンユンは否定されなかっただけでいいというように、ベルを鳴らして店を出ていった。

 応えなかったのではない、何も、返せなかった。

 あまりの脱力感に手身近の扉に頭をごんと預ける。少し痛かった。ものの三年で子供とは本当に大きくなるものだ。

 では自分は?

 答えなどわかりきっていたから、リリーはそれ以上考えなかった。ベルの音がやみかけたとき、再びがらんと鳴り出した。振り向くと、綺麗な花と文字と絵で飾られたブラックボードを持ってトリシアが帰ってきた。外に飾るブラックボードの飾り付けを頼んでいたのだが。


「ソンユンさん、買い物ですか?」

「あー、そうらしいわね」


 ソンユンも落ち着いてはいられなかったのだろうか、といまさらに思う。自分から働かない人間では決してないが、体が動くほうかといえばそうでもない。今朝に寝坊していたのが良い例だった。

 彼に掴まれた腕はまだあたたかく、心地よく痺れている。それなのにどこまでも重くすがりついてくるものだから、振り切るようにリリーはトリシアの傍らまで足を進めた。


「あら、上手じゃない」

「えへへ……明日はベリーワッフルの初めての発売日なんですもん。ソンユンさんと二人だけで考えた商品がお店に並ぶなんて……うう、ロルちゃんとかメイくん喜んでくれるかなあ」


 ブラックボードにはリリーと思しき小さなパペットの絵が宣伝文句をうたっていた。甘酸っぱいベリー類を三種類と、隠し味にはちみつと刻んだレンゲの花。それを内包してこんがりと焼いたワッフルはおやつどきに子供たちに売るものとして、店員二人が考えたものだ。ちなみにこんな経験は初めてである。頼んだのはリリーであるが、思いのほか二人は緊張を重ねて考案。生地とベリーの種類を試行錯誤の末で決定したワッフルは、リリーも満足の出来。

 思い返していると自然と頬がゆるんだが、そうこうしているうちに時間もそろそろだ。

 

「うん、あれなら大丈夫よ。きちんと売れる味だから」

「て、店長が言ってくれるとほっとします……」

「だから二人でちょっと頑張ってて、出かけなきゃなの」


 トリシアの笑みが固まった。見てしまった自分が嫌になる、いや、気にするところはそこじゃないでしょーに。心中で罵倒を吐いた。彼女の心配を一番にしてあげるのが、本来自分の立場であるはずなのに。それがたとえ擬似的なものであったとしても、だ。

 トリシアは美しい、それこそ水晶のような瞳を泳がせてはいたが、小さな唇を開いた。


「……お仕事ですか?」

「ん、そんなとこ」

「いつくらいに戻ってこれますか?」

「んー、早くても明後日かね」

「あ……なんだ、よかった、今度はそんなに長く待たなくても大丈夫ですね」


 ほっとする様は、彼女の心底から心配していたことをあらわす。まるで子供のようだ、とリリーは思う。年齢的な子供、ではない。もっと深いつながりのある子供のようで、リリーは胸に詰まるものを感じた。

 急ぐことは何もないが、この場にいるのがなんとなくためらわれて、玄関のドアノブに手をかけた。


「店長、あの」


 振り向くと、トリシアが指をせわしなく絡めていた。呼び止めたのは彼女だ。しかしまるで戸惑うような、迷うような、はっきりと言い出さないのは何からか。ソンユンが渋るのは常のことだが、彼女がこういう配慮をするのは、よほど何か思いつめることがあった時くらいだった。

 静寂。ひと呼吸をおいて、トリシアが踏み出した。


「あ、アセレートって、悪いところなんですか?」


 彼女が喉の奥につっかえさせていたのは、ひどく幼稚で単純明快な質問だった。

 再び静寂。だがそれは一瞬。続いたのはリリーの爆笑だった。


「な、なんで笑うんですか!」

「い、いや、改まって何言うかと期待してたら、ねえ」

「わたしは真剣なんですよ!」

「わかってる、わかってるけど、ごめんごめん」


 しばらくの間ひいひいと笑ってやると、当然のごとくトリシアは真っ赤になった。


「だって、お金さえあれば泥棒だって、こ、殺すことだってするんですよね!」

「そりゃあ、するわよ」


 冷静な返答はトリシアの抵抗を許さなかった。力んだあまり握った拳ごと、ぐっと少女は詰まって、とうとう俯いてしまった。

 アセレートが悪いところ。あまり考えてもみないことだった。

 いい人材――言ってしまえば、自分やブレートのような『色』がいるとはいえ、アセレートは所詮数人ぽっちの傭兵の集まりに過ぎない。総帥が受け取る仕事はたしかに汚い。軍への投与、暗殺、時には他の『おとぎ話』の英雄もとい化物の駆除。それが自分ではなく、幼い彼彼女らに与えるものを、そしてそれらが隣国の逆鱗にも触れてしまっているという事実を、いまいち理解できないでいる。だが、とリリーはドアノブから手を離した。


「お金が大事だと思ってるのはあたしもだけど、あたしは別にお金のために傭兵やってるわけじゃない。でも、仕事は仕事だから手を抜くのは絶対にしない。でも、あたしは絶対に死なないから、あんたたちがいても傭兵をやってんのよ」


 ドアに背を預け、リリーはなだめるような口調で、しかし断固として言い切る。未熟とも純粋ともとれる青色の瞳は、それでもまだ不安を映してやや滲んでいた。リリーはふっと口元を緩めた。


「アセレートはね、できてまだ三年なの」

「え?」

「あんたたちを拾う一年ぽっち前のことよ」


 子供たちの遊び声が背から聞こえてくる。そろそろ来客がやってくるだろうか、しかしドアは開かない。ここで開いたらすってんころりんと、笑いの種になるのに。静かな空間でリリーは続けることにした。


「できて三年。属してる奴も少ない。そんなやから、普通なら王国に目を付けられた時点でもう終わりなのよ。こんな島国じゃ逃げればライブラリの情報網に絡まる。かといって留まっててもローマスに刺されたらおしまい。だけど終わんないのはね、トリシア。理由があるのよ。なんだと思う?」

「……強いから、ですか?」

「ううん、アセレートはバカばっかってこと」

「はい?」

「みんなバカなのよ。金のためにもなんでもするけど、仲間のためにもなんだってするの。あたしは今、助けてくれた人の言うことを聞いてるだけ。それが悪いことだとはあんまり思わないわ」


 トリシアはもう黙り込んでいる。ただの昔話だってのに、そんな真面目に聞かんでも。


「あたし達は、みんながみんなして誰かに助けられてアセレートに流れ着いた。死に倒れそうになってる時とか、やんちゃしまくってる時とかね。軍にも図書館にも意地でも負けたくないし負けないのは、そういうことよ」


 誰が誰を、とは言わなかった。そもそも他人からしたら疑問符しかないような、かいつまんだ話だった。トリシアが納得してくれるとは思わなかった。しかしトリシアは困ったとも呆れたとも、悲しんだとも取れるように頬を緩めた。


「……店長も、何かがあって、誰かに助けられたんですね」

「そんなとこ」

「それでまた、私たちを助けてくれたんですね」


 少女の顔はいつのまにか、きらきらとした自信――?――に満ちていた。


「じゃあ、店長も、店長を助けてくれた人のこと、すっごく大切なんですね!」


 ――も?

 リリーがぱっと顔を上げると、まあ色がここまでよくもぐるぐると目まぐるしく変わるものだ、トリシアは顔を真っ赤にして、慌ただしく踵を返した。

 それはつまり、


「え、ちょっと」

「あ、わ、私掃除してきますね!」

「いや」

「それじゃあ店長、お仕事がんばってくださいね!」


 呼びかけた声は荒々しい扉の閉まる音にかき消された。

 トリシアってば。

 リリーは扉に完全に寄りかかり、喉を反らした。やや自分には重い荷だった。こんな思いをブレートやニアロフ総帥もしたのだろうか。もとより、トリシアとソンユンは娘、息子というには大きすぎたが、妹、弟というにしては少し幼すぎる。彼彼女らが自分のことをどう思っているかはわからない。わからなかった。でもこれでは、まるで。

 今日はつくづく、子供のカンってのはすごいのかねえ。

 リリーは小さく笑った。こんなことを自分も覚える日が来ようとは。

 意図せず下腹部をなでてから、ロングスカートをふわりとなびかせて階段を上った。通り過ぎるのはソンユン、それからトリシアの部屋。木造の床はところどころ軋んだ。最奥の自しうを開ければ、随分と見慣れた景色だけが広がっていた。

 人は三年で見慣れた、と思えるのか。改めて思い返すと早く過ぎ去ってしまったものだが、この家に住み始めてからというものは楽しくて仕方なかったから、それは致し方ないことだったのだろう。


「大切、か」


 ぼそりとつぶやいたのはトリシアの言葉。脳裏に浮かんできたのはひとりの男。

 うん、確かに大切だ。違いない。本人にも怒ったばっかりなのだけれど、とまた笑う。

 自室の鍵を閉め、仕事用の軽いシャツとサスペンダーのズボンに着替える。重い服はベッドの上に放り込んだ。それから、ポケットから取り出した鍵をラックにさす。カチャリと引き出して、中からライブラリからの書類と、回転拳銃を出す。後者はもしもの時の護身用だが、使うことは、まあないだろう。拳銃は机の上に置いておいた。

 装填された弾丸をひとつ抜き取る。指先で摘む。軽く力を込めると、鉛玉は火薬ごと『ずしりと質量を持ち、金色の光を放つもの』に変わった。伊達に『色』をもっちゃいない。リリーは得意げに弾――であったもの――をポケットに突っ込んだが、すこし重たかった。

 

 ライブラリから舟が出るまであと二時間。ぎりぎり間に合うか。

 一瞬思案するも、その時間すら惜しく感じられ、リリーはそそくさと裏窓を開けた。目の前は屋根の原。少しほかの家より高く建てられたパン屋から見れば、良い通路と等しい。

 窓枠に足をかけ、リリーはふと背後を振り返り見る。

 子供達に変に心配されたことを懐かしく思いながら、女は飛び出した。

 机に鈍く光る銀を残したまま。

 青い空には、黒い雲が浸食を始めていた。






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