第一話 青の傭兵
風の匂いがする。
海に近いこの森に吹く風には、潮の匂いが混じっているのがとても好きだった。ブレートにあるすべての記憶の中は、この森のことが大半を占める。動物。森。植物。それから川の魚と、傍らに生えていたカスミソウ。どれも甘く、やわらかい思考回路で、大きなこの身に似合わないのは承知の上だ。
カラフルな世界に急に差し込む白い色にも、三年もかかればもう驚きはしなかった。
「ブレート、おはよう」
眠っているうちに目元まで落ちてきていたらしいバンダナをぐいと押し上げ、ブレートは自分に声をかけたその人を睨んだ。
「仕事ですか?総帥」
傭兵軍団の総帥を務めるにしては、あまりにもふらふらしていて、へらへらしていて、掴みどころがなくて、苦手な人物がそこにいた。長い白髪――銀というにはあまりにも鈍く発色しており、本人もそう言っているからそれでいい――と純白の着流しを揺らして、しかし体格だけはしっかりと傭兵のそれらしい大男。態度は前述の通り。それでもブレートがおとなしく重い上体を起こしたのは確かに相手がこの人であるからで、それにかわる理由はなかった。他の誰でもいけなかったのだ。
「うん。お昼寝中にごめんね」
「別にいいですけれど、いつものことですし」
「さっすがブレート、よくわかってる」
褒められてもまったくもって嬉しくない。白い男は懐からガサガサと何かを漁ったかと思うと、小さな封筒を取り出した。
「これですか?」
「うん、彼女に渡しに行って欲しいんだ。あ、中身は彼女がいいって言うまで見ちゃダメだよ」
『彼女』。思い当たる人物はただひとりで、ブレートはげえと顔を歪めた。
「なんで俺が行かなきゃなんねーんですか」
「だって俺が行っても彼女つまんなそうだもん。お前に懐いてるんでしょ」
「そうかもしれないですけど……」
駄々をこねても男はどうしてもブレートに行かせるつもりらしい。にこにこにこにこ。男は笑みを絶やさないままで、結局封筒を押し付けられ、ブレートは手にとってしまった。見るな、という忠告通り、それ以上触れることもなくそのまま上着にしまいこんだ。
「お仕事ってよりはおつかいですねえ」
「お仕事っていう理由はあるともさ。ちゃんとしたライブラリからの依頼だよ。報酬も出てる」
途端、ブレートの表情が険しさに固まった。封筒の差出人を察した。『彼女』はうちの人材だが、どうにも『ライブラリ』に気に入られており、ブレートはその理由を知っていた。ライブラリとは、世界各国に散らばっている一種の機関であり街でもある――とどのつまり何と言ったらよいのか見当もつかない場所だった。各地から何らかの研究をしたいと志願した者が集い、好き勝手に調べまくっては情報を売りまた買う。そんな変態どもの巣窟、というのが一番しっくりきた。今考えた。これからはそう呼んでやろう。
その巣窟は、しかしありとあらゆる情報が集まるのだから、様々な業種にとって便利だった。情報や仕事を得るためにブレートらも利用したことが何度もある。だが、そうであったとしても今回の件はどうにも奇妙だった。
「おつかい程度で賃金をよこす輩でしたかね」
「まあ確かに、情報が餌みたいなやつらしかいないけど……うーん、言っちゃうと、君が彼女のところに行ってくるっていうのも依頼に含まれててね。俺が行けないわけは、こういうことなんだ」
なるほど。男が同意見だと吐き捨てた内容のおかげで仕事に納得がいく。ライブラリ、と一括りにいってもブレートらに固執する人物はその住人の中のたった一人である。『彼女』だけならまだしも、ブレートまでもをわざわざ動かせるのはその人物以外にありえなかった。
「『色』について何か掴んだんでしょうか」
「さあ」
男は肩を竦めた。この男は『色』であるブレートのことも彼女のことも、さして触れない。珍しい人物だった。化物と呼ばれ恐れられ、一方では英雄と讃えられた自分たちのことを怖がらない。もっともブレートは『色』を怖がる人物を含め、人間に会ったことのほうが少ないから、聞いた話ばかりなのだけれど。
早く行け、とでもいうように流された空気にぽりぽりと頬を掻くと、腰にぶら下げた愛用の短剣を確認。四本の鞘は何変わらずそこにあった。道中で戦闘にあっても切り抜けることは可能だろう。ブレートは小さくため息を吐いた。
「彼女はサンガルタンにいますかね」
「今は仕事は頼んでないから、ほかのことしてなければいると思うよ。あ、ローマスには気をつけて」
了解しました。了承を口に出す前に踵を返すと、ブレートは森の中を歩き出していった。ひらりと手を振る総帥――ニアロフは、その背が見えなくなるまで視線を向け続けていた。
一端の傭兵に向けるにはそれはまるで、親しい友に向けるものであるかのように。
第一話 青の傭兵
シェオル島南部に位置するサンガルタンは、世界各国からありとあらゆる物資が集まってくる、商人の町だ。森林に囲まれた静けさをなど忘れて、いくつもの人種、民族が行き交う町は、今日も今日とて騒がしかった。
ブレートは調整された道に出ると、ようこそ、とだけ書かれた、まさしくウエルカムボードが掲げられているのを見上げた。門をくぐれば、派手な声がすぐに出迎えてくれた。
「青色のあんちゃんじゃねえか、久しいな!」
並ぶ市場に目をくれると、色とりどりの果物から魚類、中には虫と思われる焦げ茶色の山までが売られていた。誰が買うんだこんなの、とブレートが睨む横で主婦と思しき女性がひとカゴ分、虫を購入し去っていった。
出し抜けに声をかけてきたのは、満面の笑みで肉を捌いていた男だ。がっしりとした体躯の彼は、名すら覚えていないが、なかなかにいい人柄の肉屋の店主だった。ブレートは自分の持つ『色』のせいで大袈裟なまでに消耗する体力をカバーするために、たびたびサンガルタンを訪れたことがある。相当量食べた記憶はあるが、そのせいか覚えられていたらしかった。
「どうも。そんなに目立ちますか?」
「目立つだろうよ、この色男!今日も腹、すかせてんのかい?」
「いえ、今日は別件で」
さばきたての鹿肉をこちらに振って見せる店主を、笑ってかわした。まだ腹もさほど減っていないし、今はそれよりも仕事なのだ。そのまま歩く最中にも数人に声をかけられたが、どれも笑みを返すだけにしておいた。
愛想をよくするのは楽で、どうにも自分の質にあっているらしい。自分についてのことはよくわからないブレートだが、食欲に加え、自分は青い髪の容姿も相まって無駄に印象強いことを知った。
彼女の店はサンガルタンのちょうど中央ほどにある。山も平野も牧場も畑も川もあるサンガルタンは広かった。歩かなければならなかった。
しばらく歩いているうち、ふと裏路地に人影を感じ、ブレートは立ち止まった。人影はふたつあった。小さな娘と、サンガルタンに見合わない異質な男だった。男は座り込んでおり、立った娘と身長の差は大きくはない。しかし目深までフードに覆われた表情は、少女が覗き込んでも見えないようであった。
少女はその男に小さな問いかけを繰り返していた。
「おにいさん、どうしたの?」
ブレートは少女に見覚えがあった。ブレートが目指す店によく集まる子供の一人で、名は確か、なんといったか。
「ロル?」
長身のブレートが傍らにまで寄っても、恐れることなくロルはぱっと顔を上げた。子供というのは随分賢い。かわいらしい少女も自分を呼んだ人物を覚えてくれてたらしく、かがみ込んだブレートの方に駆け寄ってきた。
「あおいひと!」
「おう、どうしました」
「なんか、おにいさんがね、くるしいーって」
青い人。素直な表現が愛らしくロルの頭を撫でてやっていたが、浮浪者かなにかだろうとたかをくくっていたフード男はどうも様子がおかしいらしい。自分の胸をきゅうと掴むロルの仕草は、男がコートを掴むそれを真似したもののようだった。病持ちの浮浪者か、どこかの国からの移民か。ブレートには関係のない人間には違いなかったが、少女の手前、仮に少女がいなかったとしても放置していくのは後味が悪い。そう思ってしまうのは、やはり自分の性であった。記憶がない状態でもそれを無意識のうちに『彼女』に行ったというのだから、それは自分からどうしても抜けないもの。そういうことらしい。
溜息を洩らして、先のことはどうであれ病院にでも連れて行こうと立ち上がった時だった。
男の足元からごぽりと、影が膨らんだ。ブレートは目を見張る。ロルを腕に抱え込む。短剣を一本引き抜いた。ロルの二つに結われた栗色の髪が揺れた。
――『色』か!
路地裏は町から離れすぎていた。少なくとも一歩では明るみには出られないほどに。切り取られた空間の中で、息を飲んだのはブレートだけだった。よく知る者はそのものに敏感である。ブレートは『色』をよく知っていた。
おとぎ話は変化していた。それはもう魔法などと悠長に呼べるものではなかった。
膨らんだ異質は、しかし殺気はなかった。影の色をしているとは言えど、それは泡であり結局は儚げに浮かんで消えていった。ブレートはそれをよく知っていた。
わずかに見える唇の形は噛まれて変形していた。
男はどこまでも、苦しそうだ。
苦しそうだった。
ブレートはこの光景に覚えがあった。
ブレートは瞬きを繰り返した後、短剣を静かにしまいこんだ。ロルは未だに何をしているか、何が起こっているのかわからないようだった。何も知らないのだ。
いや、世界は広い。この男のおかしな現象は本当に魔法なのかもしれない。『色』ではないのかもしれない。しかし、この異質につけるべき仮定は自分と同じそれしかしっくりこなかったのだ。
ロルを背後に置いて、動かないようにと小さく自分の唇に人差し指を添えた。少女は暗示を悟ってか否か動かない。ただひとつ、ブレートの動作を真似て、唇で「い」の形をつくった。それでいい。ブレートは静かにフード男の傍らに歩み寄り、腰をおろした。座ってもなお少女とは比べ物にならないほど場所をとるが、まあ、立ったままよりは怖くはないだろう。
「お名前は?」
フード男は目を見開いた。そこで初めてブレートは彼の顔を見た。随分と幼かった。
汗の滲んだ顔は――そもそも彼の身は全身ローブで覆われており、肌が見えるのが顔しかなかった――、今は震える呼吸しか紡がない。まだ。まだだ。
己の膝に肘を付いて頬杖をつくる。ブレートは黙って男と視線を重ねた。
またデジャヴを感じた。忘れもできない既視感だ。男の震える瞳は、とある金髪の女性の絶望した顔と重なった。
言葉は返ってこない。
ブレートは小さく息を吐いた。
手のひらを掲げ、力を込める。筋肉への力ではない。空気を積み、削るような異質な感覚。透明は形になって、マイナスの温度を持ってブレートの掌上に現れた。小さなうさぎのかたちに削られた氷がすぐに水を滴らせ始め、ブレートはそれを男に差し出した。空気は物理的に凍った。自分以外の二つ分の呼吸が一瞬詰まった。
「お名前」
もう一度問いかけた。掌が冷たい。冷たいという感覚を温度を上げてなくすことはブレートには可能だったが、そうするとうさぎはぐっしょりと溶けて消えてしまう。それではいけなかった。原始の動物ですら行う仲間としての掲示は目に見えるものでなければならない。言語を使い、目で話すことも、音波を出すことも少し発達したことだから難しかった。
フード男の唇が小さく動いた。
「……カ、ルテ」
「カルテさんですか」
復唱すれば男――カルテの肩が跳ねた。本物か。
「カルテさん。了解しました、俺はブレートと申します」
氷のうさぎはもう耳が随分と短くなってしまった。受け取るまでにはいたらないと見てブレートは『掌の温度を上げた』。氷はすっかりとカルテとブレートの間を濡らした。その変化さえも、ブレートの読みさえ正しければ、カルテにとっては大切な証だ。仲間の証拠だ。
「……ブレート」
反応を見ると、まるで幼稚な子供を相手にしているようだった。ブレートはにっこりと笑みを作った。背後の本物の子供の気配はずっと動かないままだ。
「はい、気分はどうでしょうか?」
「……落ち着く、した。問題ない」
「どうかなされたんです?」
「……慣れる、しないから。ここに来ること、初めて、人多いことも、驚く、した」
疑問符を重ねることはせず、ゆっくりとカルテの返答を待ち、また問いかける。やはり他国の浮浪者かなにかか。サンガルタンの住人にしては、あまりにもずっしりと重い雰囲気を男から感じていたから、大して驚きもしなかった。ブレートのその反応は、カルテを落ち着かせるのには最適だったのだろう。しばらくして呼吸はカルテの言うとおり次第に落ち着いていき、最後の言葉から十秒も経たないうちに、彼の呼吸は暗闇の中でなら些細に聞こえる程度になった。日照りにはきっと負けてしまうほどか弱かった。
「しかし先ほどの様子では相当疲れたのでしょう。病院でも連れて行きましょうか」
ブレートは濡れていない手を差し出す。ずいぶんと自分は常套句を言えるようになったものだ、と改めて思う。なぜ昔のことをこんなに思うのだろうか、と考えてみると、やはりこの状況が『彼女』の事例とそっくりだからだろう、という結論に至った。何度だって一緒だ。
カルテは手をとらなかった。
「俺は平気。少し、長居する、過ぎた」
そのまま首を緩く振ると、胸を押さえていた手をぱすん、と地面に落とした。それはもう、彼を苦しめるなにかかなくなったような、そんな風に思えるほど軽い動作だった。
しかし瞬間、ブレートの現前でまた黒い泡――今度は黒だけの面だ。水?――が噴出する。飛沫は飛ばない。濡れることもない。だが微かな光を反射するその物質をブレートは反射的に水だと判断してロルの寸前まで飛び退いた。
「……ブレート。覚える、する」
噴水めいてのぼった水が消える最中でも、カルテの言葉は置かれたように淡々としていた。水は落ちることなく闇に溶けて消え、カルテの姿も紛れて消えていった。
幻覚?転移?ブレートは瞬きを繰り返した。『色』には詳しいが、それは結局自分だけの範囲だったらしい。仲間や自分において全く覚えのない経験は鮮明にブレートの記憶に刻まれた。深い海のような色だった。
切り取られた空間はその境目をやわらかく溶かし、ブレートの耳には再び町の喧騒が耳についた。肩から力を抜いてロルを振り向くと、やはり動かないままでそこにいた。まんまるな瞳には恐怖や怯えはなかった。ただ驚いて固まっていたらしい。呼吸だけを繰り返すちさな唇に人差し指を伸ばし、ブレートは噛み締めた歯の隙間から息を吐いた。少女は笑った。しー、と同じように小さな唇を動かした。それでいい。
ブレートはロルを抱え上げ、光の射す町の中に戻った。振り向いても暗闇しか残っていなかった。町の喧騒の中にロルを下ろして、早く帰るようにと念をこめて手を振れば、少女は腕全体を振りながら人ごみの中を慣れたようにぱたぱたと駆けていった。
さて、仕事はまだ残っているわけだが。
ブレートは立ち上がり、もう一度だけ路地裏を振り向いた。浮き上がる泡。影。あれが『色』だったとして、そうでなかったとして、自分はどうするのだろうか。急に胸に入れた封筒の微細な重さと形を思い出して、それ以上を考えることは中断された。
「カルテ、ねえ」
願わくばあいまみえないことを願うのだが――そう思う唇から、ため息が落ちた。
「店長店長!」
可愛らしい足音が、重い扉の奥からこもって聞こえる。まもなく調理場の扉はさびれた音とともに開かれ、長いプラチナブロンドの髪が揺れたのが見えた。
「トリシア……こっちに入るときは髪をまとめとけって言ったじゃないの」
「ご、ごめんなさい」
たしなめると、少女――トリシアはすす、と扉の影に少しだけ身を隠した。髪をこの場で結い始めないということはさして時間を要する用事でもないのだろう。アップルパイの焼き加減を見なければならないのだが、その程度ならいいだろうとオーブンの前でしゃがみこんだまま、トリシアが喋りだすのを待った。少女はほんのりと火照った顔が表す昂ぶりを抑えられないというように、上ずった声で言った。
「ブレートさんがいらっしゃったので、急がなきゃって思って……」
聞こえたのは男の名だ。ぴたりとオーブンの取っ手にかけていた指先が跳ねた。まずは頬を引きつらせ、それからため息。その男が来るなんて、どこが時間を要さないわけがあるか。なんて面倒くさい用事だったんじゃない。
「ソンユンを叩き起してきて」
「え?」
「あの馬鹿まだ寝てんでしょ。アップルパイそろそろ焼けるから、あいつならタイミングだけはわかるのよ」
「あ、あー……」
「急ぐ!焦げたらどうすんの!」
「はっ、はい!」
ぴしゃりと言い放つと。今度は去っていった足音が上へ上へとのぼっていく。天井の上で少女の何やら叫ぶような声がしてからやっと、女はオーブンの前から立ち上がった。アップルパイのタイムリミットは三分もないだろう、焦がしたらあとで説教だ。愛用するエプロンをつけたまま、調理場から店内に足を踏み入れた。
「おや、あいも変わらずの仏頂面ですねえ」
テーブルにはどうしてか既に、クリームパンを頬張る大男がいた。にたにたにたにた、卑しい笑みを浮かべながら。
「久しぶりだってのに、ほんと変わってないわ。それ買ったんでしょうね」
「ほひほん」
「うっさい」
「ひふひんへふへ」
大男の向かいにがたんと座ると、怖い怖いと両手をあげられた。その男は、ブレートは笑みを絶やさないまま、こくりと喉を上下させてやっと普段通りの声を出した。
「おお怖い」
「用事があるんでしょ、早く本題」
「はいはい、リリー店長はお忙しいですからね」
ブレートはあしらいをあしらいで返し、その懐から封筒を取り出した。その形状は何度も見たことがあるもので、すぐにライブラリからの面倒な贈り物であることは察したが、なぜそれをブレートが持っているのかは不明だった。
リリーは不機嫌もあらわに金髪を掻くと、馴染みの男の言葉の続きを待った。
「総帥から、これをあなたに渡すように頼まれまして」
「あんたが?」
差し出された封筒を受け取り、すぐにゴミを落とさないようにそっと口を破り開く。取り出した資料をめくっていった。期待なんてしてはいなかったが、残念ながら機械の文字で綴られていた。本で機械の文字を使うことはわかるのだが、手紙で誠意も伝わらぬこの文字はどうなのだ、とリリーは毎度のことだが怪訝に思った。
「なんでもライブラリからの正式な依頼だそうで、お金も入るそうですよ」
「へえ」
「ライブラリが行うにしては、あまりにあちらに利益がなさすぎると思いません?」
「んーまあ、そうね」
「何かとかこつけて情報だの金だのを要求するところがですよ?お金をあげるからおつかいに行ってこいなど言いますか」
「ほいほい」
「……聞いてんのかお前」
「ちゃあんと聞いてるわよ。ほら、申し訳ないけど、あんたにはもっかい『おつかい』とやらに行ってもらわなきゃいけないみたいよ」
リリーは相槌を打ちながら話を聞いていたのだが、どうにもブレートには不服だったらしい。低くなった声音が楽しく思えて口元を緩め、手紙を突きつけてやった。
そろそろいい加減に『こちら』に手を貸してはどうだ。そんなちっぽけな店など気にするな。
手紙の内容を要約すると、こうだ。
誰が聞くかバァカ。何もこれが初めてではないライブラリからの要求に、リリーはにんまりと笑顔を浮かべて、今すぐにブレートが睨む手紙を破り捨ててやりたかった。けどそれはできない。町の子供たちの口に入るパンがすぐそばにある。乱雑には扱えなかった。するとばたばたと足音が頭上で二つぶん、鳴った。どうにもかわいい店員たちは調理場の方に降りたらしい。背後で声がした。これでアップルパイはまあ、大丈夫だろう。しかしそろそろ、ブレートが手紙を睨みつけ始めてから、リリーが手紙全文を読んだ時間ほどは経ったのだが。
「何書いてあるかさっぱり読めねえ」
「……簡単に説明してあげると、あたしの『識ってる』ことを教えなさいって」
「そりゃどうも……」
ブレートはバツが悪そうに内頬を噛んだ。三年一緒にいてわかったが、彼の困ったときの癖だった。ブレートに学がないことはリリーにはそう大した問題でもないし、仕方のないことと思っていたが、彼はいたたまれない顔のままぽつりと言った。
「で、おつかいとやらは何をすればいいんですか」
「ああ、それだけど……」
そこで、リリーはもう一度だけ紙に目線を落とした。ライブラリが使う機械で言うコピーアンドペーストされたような定型文との付き合いは、かれこれブレートよりも長い。それほどまでに長く深く強く、ライブラリはあたしの能力を欲していた。あいつらはそれでも、強硬手段には出られないでいる。ライブラリという立場上、武力行使はできないでいた。しかし、まさか、
「……あんたにまで絡んでくるなんてね」
こんな形で。今までこんなことはなかった。深いため息と共にリリーの肩が落ちた。ずっと自分だけだと思っていたが、先々のこと『だけ』は本当にわからないものだ。より一層眉間に深くしわを刻んだのと対象に、ブレートはいつものようにへらりと笑った。
「もしかして、俺がライブラリにあーだこーだされるのに責任とか感じちゃってます?」
「当たり前よ。悔しいけど、あたしにそう思わせるための手段なんだろうし」
「……そうきっぱりと言われると複雑ですね」
曖昧にブレートが答えた直後、がんと打撃音が二人の間を割った。
「茶化すな、あたしはあんたが大切なの。あんただけじゃない、あたしに関わってくれた奴が死ぬほど大事よ。あんたが総帥を思ってるのとおんなじ。いい?」
机に固めた拳を乗せたままリリーがぎろりと睨むと、ブレートは反射的に上げていた両手を冷や汗ながらにゆっくりと下ろした。殴った手の痛みなどどうせすぐに消える、無視だ無視。
「悪かったよ、俺が悪かった。なにも本気で怒らないでも……」
「もー知らないわ、あんたなんかライブラリのヤローに根掘り葉掘り悲鳴と絶叫あげながら調べられちゃいなさい」
「そりゃあひどいですね……」
この男はいつもこうだった。彼の性格ゆえなのか無意識なのかわからないが、真剣になる場面と笑う場面が違う。それがリリーを無性に腹立たせた。
その時、キィと控えめな音がした。リリーとブレート、二人して調理場へ続く扉に向けば、髪をきちんとまとめたトリシアがこちらを覗いていた。リリーの剣幕が見えたのか、そもそも声が聞こえていたのか、それとも別件でか、トリシアの表情はやや怯えていた。
「……どしたのトリシア」
「いや、あの、アップルパイが焼けたんですが、ソンユンさんがオーブン触りたくないって……」
「はあ?」
「火は止めたんですけど、出すところから熱いから怖いって言うので、わたしもオーブンはどこをどう使うのかわからなくって」
「あんのヘタレ、別に熱かないってのに」
口調とは裏腹にリリーは眉を下げて笑い、立ち上がると思い出したように「あ」と口を開けた。
「おつかいのことだけど」
「ん」
唐突に意識の矛先が向けられたので驚いたのであろう、ブレートはきょとんと瞬きを繰り返した。
「ライブラリに行って『そろそろ別のやり方探しな』って言っといて」
「ライブラリまで行けってことですか……」
「好きなだけパン食べていいから」
こんど溜息を吐いたのはブレートだった。彼の体力と脚力なら今日中にライブラリにもつくだろうとみて、リリーは手を振ってトリシアとともに調理場に入った。ブレートを見上げるほどではないが、それなりの身長と体格のある店員の一人、ソンユンは情けなくもこちらを見るなり大慌てしだす。彼もずっと変わらない。怒声を飛ばそうかと息を吸ったところでからりと鐘の音が鳴ったのに、リリーは止まった。玄関の鐘の音だった。
ブレートは行っただろうか。
そう思うとなぜか、どうしてか、どうしようもなく溜息を吐きたくなって、しかしリリーはそれを後悔とも寂しさとも呼べないでいた。パン屋にはもうすぐ、おかしどきを待っていた子供たちがやってくるだろう。包丁を手にしてアップルパイを切ると、さくりと香ばしい音がした。
こんなちっぽけな店など。
機械の文字が脳内を反芻して、パイを切る感触が指先にこびりついて離れなかった。
ソンユンとトリシアがパイの切り方を見ていたから、リリーはなんとかパイをきれいに八つに切ることができた。ずっと心にはもやがかかっていた。
ブレートは、大丈夫だろうか、と。
ブレートが所属する傭兵部隊、アセレートは、シェオル島の東から北にかけての海沿いを陣取る。部隊といってもブレートはアセレートの傭兵の数を知らなかったし、陣取るといっても何か建物があるわけでもない。ただそのあたりにふらりとときたま総帥や、傭兵のマキシム、そしてブレートが現れる程度だ。ブレートはその地域にあった無人小屋――三年前に見つけた――を拝借して生活している。
アセレートは総帥を筆頭に、ありとあらゆる国から依頼を受け、海外にまで傭兵を飛ばす。いつどこで、といってもたいていライブラリを経由して行っているのだろうが、我らがニアロフ総帥が海外と交流しているのかは知らない。とにもかくにもたった三年で、アセレートは驚く程に好感度を上げた。ひっきりなしに仕事が入る状況だったが、唯一、たった唯一、アセレートに見向きもせずむしろ牙を向ける国があった。
ブレートは大木の枝の上に着地。じんわりと、硬い表皮が足の裏を叩く。軽く足を振ってから、少し遠くにある城を眺めた。
ローマス王国。シェオルにある、ただひとつの国家だ。純白の城壁と賑わう城下町は、何変わらない国家たる姿だ。
総帥から近寄るな、気をつけろと常々忠告されている国が、どうしてこれなのだろう。見た目とは裏腹に、ローマス王国はたびたびアセレートの土地に兵を送り込んでは、傭兵を殺し尽くそうとしてきた。ブレートも今まで交戦したことがある。数人しかいないはずの傭兵軍団が土地を持っているのが腹立たしいのか、その土地が欲しいのかは知らない。まあ確かに、ぽっと出のやからなど腹立たしいに違いないだろうが。
「お国をあげてまですることなんですかねえ……」
残念ながらというか、どれだけ一端の郡兵が束になってこようとも、『色』には勝てるわけもない。だからこそ、こうしてアセレートは残っている。
『色』。
そういえば、あいつも『色』であるかもしれなかったか。浮かんだのはフードの男――少年?だった。
このシェオルの地に根付く、英雄の伝説。『色』の祖先。無意識にか、『色』はシェオルに集まりたがっていた。自分のように。あの男もまたそうであるというならば、できれば海外からやってきた者だと思いたい。
がしがしと掻いた髪は、照る太陽のせいで熱を持っていた。
暇をこきすぎた。青い傭兵は再び地に降りると駆け出した。さすがに疲労を感じてはきたが、用事はさっさと終わらせたい。ライブラリはすぐそこだ。森を抜けるとすぐに、灰色が現れた。
コンクリートの分厚く高い――木の上に立っても中が覗けないほどの――壁に囲まれた機械都市、ライブラリだ。
下手に動くとカメラとかいう機械に探知され、面倒になる。ブレートはただまっすぐ歩くと、無言ながらに重圧を与える大門の前に立った。
あいも変わらずでっけえな、ここは。
ピピ、と僅かに鳴った音を耳が拾う。静かに、しかし重く重く開き始めたコンクリートの扉は、むしろ早く入れと急かすようで。最奥で己を待つ男を心の中で睨み、溜息をひとつ。ブレートはライブラリに足を踏み入れ――扉は案の定、すぐに背後で閉まった。
部屋は変わらず暗かった。あの時は、飛び出した時には転がしたままだった兵士はすっかり無くなっていたが、嫌な静けさは変わらない。マッチを擦り、ランプに放り込んで明かりをつけると浮かび上がった部屋に、かねてから知っている人影があったのにやっと気づいた。
「あなたがこんなことをするのは初めてね?王様」
壁にもたれかかってこちらを見るのは、シアン=タンゼだ。怒鳴られるわけでもないのに、ひどく悪寒がする。
「あなたが相手した人たち、かわいそうよ。死んだほうは楽だったのでしょうけど、もうひとりは足がもう使えないみたいだから。神経壊しちゃあだめよ」
仕方ないだろう、加減の仕方など教わっていない。
黙ったままでいると、シアンはひとりでしゃべり続けてくれた。
「まあ、それ以外教えてないものね。でもいい経験かもしれないわ?そう、アセレートを討つためには王であるあなたも強くならなくちゃあ、この国も強くならないわ」
アセレート。反射のように自分の手が震えたのがわかった。
アセレートは敵だと、憎むべき敵だとずっと教わってきた。国民は、自分は、教わってきた。
ちらりとシアンを見やる。彼女は満足げに笑みを浮かべ、ヒールのピンを鳴らす。重なって、暗い扉の奥からはカーペットを踏む音が近づいてきた。それが扉の前に到着するより一歩早く踏み出したシアンが、こんと扉を叩いた。
「どなた?」
「ローマス王国政部指揮官、ユーリ=ハイエルだが」
「あらユーリさん。なんの用事?」
「貴女がいると聞いてきたんだ。国王は見つかったのか」
そこでシアンと目線がかちあった。黙ったまま下を向く。
「ええ、自ら戻ってきてくだすったわよ」
「それは安心だ。今はどちらに?」
「奥で休んでおられてよ。用件はそれだけ?」
「いや」
ユーリとかいう男の、じぶんはよく知らない男の疲れた声が一旦止まった。
「王を探すと言って、ついさっき軍部の指揮官が出て行った。これだから血の気の多い若造は……」
加えるように舌打ちも聞こえた。彼は怒っている。だが自分は何も思わない、感じてはならない。唇を噛んだ。おそらく様子はしっかりとシアンが見ていることだろうが止めに来る気配もない。黙っていれば咎められることもないだろう。
「彼については私が受け持つわ。あなたは他国との貿易海路の件、なるべく早急にまとめて提出を頼むわね」
「なるべく、な」
隠す気すらないような嫌味を吐くと、姿の見えない足音は再びカーペットを踏んだ。それがだんだん遠ざかるにつれて安堵が沸き起こる。もとより人と接することが苦手だが、中でもああいった高圧的な人間は、特に。
シアンがこちらを見たのがわかったが、顔は伏せたままにした。
「というわけで王様、私は少し仕事に戻るわ。指揮官さん、本当にいつも荒っぽいんだから……ああ、あの人のところにも行かなくっちゃ」
シアンは踊るように手を叩き、ドレスのようなレースを翻す。何が楽しいのだろう。でもそこから感じることはない、感じてはならない。
彼女はそのさまに、黙った自分にかくんと首だけをかしげた。
「……『色』はまだ難しくて?」
「……ああ」
数十分ぶりに発した声はかすれて、思ったよりも低かった。咳払いをしてから、やはり感情を殺す。自分の持っているらしい『色』は感情をそのまま反映する。『外に出たとき』は久しぶりの景色を見ることで頭がいっぱいいっぱいで、『色』は発動しなかった。だがここでは違う。わざと殺さないと、勝手に溢れてしまうほどに、感情が暴れるのだ。怖い。苦しい。さみしい。どれだかは、よくわからないが。
シアンはそれを知ってか知らずか、薄い微笑を君
気味も悪く残し、素直に扉から出て行った。かちゃりと鍵が締められる。
まだ、無駄に広い部屋にランプがひとつでは、大半は暗闇のままだ。まだ、まだ。
警備の人間も、自分が殺したもしくは倒したせいで空いた穴がまだ埋められていないようで、誰もいない。鍵さえ壊してしまえば――そもそも『色』が上手く使える気分でさえあれば転移だって可能だから――ここから出られるというのに。
そんな気力さえ、今の自分にはなかった。
自分のせいでいなくなって、壊れてしまった人間がいた。
「……くそ」
壊すだけの技術しか持っていない自分が、ひどく恨めしかった。
立ちすくんだ足元からは、ごぽりと黒い泡が湧き出した。