元直さんは新しい生活を始めるようです。※
元直はお金を稼ぐ為に、昔からあれこれ仕事をしていた。
その為、阿斗の世話も、さほど苦もなく手早く褓の取り替えや何かを済ませる。
そして、馬に乗れる元直には苦痛に近かった馬車での移動は終わりを告げ、昔の襄陽にも勝るとも劣らない許昌に到着した。
曹孟徳の温情か、投降を決めた潔さのお陰か、手枷等はなく、そのまま馬車で移動し、役所のような場所に連れていかれる。
いや、普通、広間のような場所に送られる筈だが、連れてこられたのは個人の執務室……。
目の前で、一心不乱に書簡を読みふけっているのは、年齢不詳の男。
昔は、元直も白髪頭は年寄りと偏見を持っていたが、孔明が16の時には半分白髪、最近に至っては全て白髪となったのを間近に目にしてしまっては、見方を換えざるを得なくなった。
しかし、この目の前の人は何を先から悩んでいるのだと、そっと書簡を覗き呟く。
「……それは、荊州で流行している恋歌と言うより……遊び歌をもじった暗号文ですね」
「何!? 」
顔をあげると理知的な鋭い眼差しが元直を射る。
「これのどこが、そうなるのだ!? ただの……」
「そう見せかけているだけで、これは右から横に読んでみて下さい。『荊州は磐石だった基盤を失い、江東か、もしくは中原か選ぶことになった。曹孟徳のいない間に、我等、涼州の豪族が皇帝を奪い取り、長安を都とするのは、如何か? 』と読めます」
「……むっ。で、では、これは!! 」
差し出された書簡をざっと読み、そして再び広げ示す。
「これは、左からですね。これはそんなに重要なものではなくて、仕事の進度を確認のものです。あぁ、これは一文字開けて、読みますね。どうしたんですか? こんな暗号文ばかり集めて……? あ、すみません……捕虜が勝手を言いました……」
頭を下げる。
「捕虜?では、貴方が『臥竜』? 『鳳雛』? 」
「いえ、徐元直と申します。一応、『臥竜』の敬兄ではあるのですが……敬弟には敵わず」
深々と礼儀にのっとった拝礼をした後に、困ったと言いたげに苦笑する。
「劉玄徳様の参謀として采配を振るっておりましたが、戦場に立つことが苦痛になり、逃げ出した臆病者です。と……友人の子供を連れていて……どうして、ここに連れてこられたのでしょう? 」
困惑する元直に、目の前の男は溜め息をつき立ち上がると拝礼を返す。
「私は荀公達。参謀ではなく内政担当の官吏として、漢王朝に仕えている。で、申し訳ないが、殿……曹孟徳様から何かを預かってないかな? 」
「あ、はい。これですか? 」
懐に押し込んでいた書簡を差し出す。
それに目を通した公達は、一気に眉間にシワが寄る。
「そ、そんなこと出来る訳がないでしょうが!! あの殿はぁぁぁ!! 」
部屋どころか官舎じゅうに響き渡るような怒鳴り声に、ピョコンと顔を覗かせるのは、文官の衣が似合わない童顔で大きな丸い瞳の少年……!?
「どうしましたか? 公達兄様。あ、だ、旦那様からですの? 元気って書いてますか!? 」
目をキラキラ輝かせる。
「旦那様、旦那様と。元譲どのは毎日そなたに書簡を送ってきているだろうが!! 私の元に、間違ってもそなたへの書簡が届くか!! 」
「……兄様の意地悪……」
くしゅん、としょげる男装の美少女に、おろおろとする元直。
その様子に公達は、
「元直どの。気にするな。これは、私の7才下の叔母に当たる荀文若。これでも孫持ちだ」
「……え、えぇ!! 」
目を見開く。
「ま、孫!? 」
「そうだ。夫は夏侯元譲どの。そして、これの一番仲の良い友人は黄承彦どのの奥方の趙瑠璃どのだ」
「い、一番……孫がいると言うのが驚きました……。いえ、化粧がどうこうではなく……努力されているのだなと……」
ぼそぼそと言い訳めいた発言をする元直に、
「この顔は昔からだ。シワもシミも白髪もない。化け物と呼べる域に達している」
「失礼ですわ。兄様。私を化け物だの孫持ちだの……散々な言いようではありませんこと? 」
「本当のことだ。それのどこが悪い」
叔母甥の言い争いに、ポツリと、
「孔明は……一晩で髪が真っ白になったそうです。元々若白髪だったんですが……琉璃……嫁が行方不明になって一晩で……。私はそれを知らなくて……新谷にいました。あの日、益徳どのに呼ばれて門に出向いて、感情を失った、全てに絶望した琉璃を見ました……。そして、それとほぼ同じ時に、琉璃の別れの便りを読んだ孔明は……」
項垂れる。
「どれ程の衝撃だったのかと、今でも胸が痛みます。そして、敬兄と呼んで慕ってくれた孔明や、琉璃を見捨てて……逃げ出した自分の愚かさに腹が立ちます。それなのに……嫌わないで欲しいと望んでしまう浅ましさに……」
「いいと思いますけど? それのどこが駄目ですの? 」
あっさりと告げる文若こと瓊樹。
「道は一つじゃありませんし、敬兄だからとか絶対と言うのはないですわ。人の生きる道には同じ道を行くこともあるでしょうけれど、生まれも育ちも違うんです。全部一緒なんてあり得ませんのよ? だから、私たちは、明日会えるとしても『再見』といってお別れするんです。元直どのは違うのですか? 敬兄として敬弟の『臥竜』どのに、一緒に道を行くことを強要なんてしてませんよね? 」
「し、していません!! 」
「なら、いいではありませんか。少し離れてしまったけれど、道は違っても、敬兄として敬弟の『臥竜』どのに出来ることをするのが、敬兄としての役目だと思えば良いのですわ。違います? 」
「ち、違いません!! 」
「なら、悩むことなんてありませんし、有意義に生活を満喫して、『臥竜』どのの情報を調べて、何かあった時には、殿にお願いしなくちゃいけないと思いますけど、『臥竜』どのの元に駆けつける。それに、ついでに殿に言うことを聞かせたかったら、有力者と縁続きになっておくべきですわねぇ……」
考え込む瓊樹の横から、公達が書簡を突きつける。
「殿からだ……一応……とは書いているが、多分絶対、元譲どのは知らない」
受け取った瓊樹は書簡を読むと、
「あらぁ!! あらあらあら……まぁまぁ……これはいいかもしれないですわね。所で、元直どのは結婚されてて? 」
「は? ……えと、仕事一筋で、そう言う相手はいません……」
「じゃぁ、読書好きの真面目だけど不器用で口下手な子と、口が達者で器用で華やかなことが大好きな子は? 」
「……? えっと……自分がこういう性格なので……押されると引くと思うので……読書好きの方が……えと、これは仕事ですか? 」
首を傾げ問い返す。
が、瓊樹の口から驚きの一言がぶちかまされ、絶句する。
「いいえ。元直どのを家の婿に来て貰おうと思って」
瓊樹は頬に手を当てる。
「だって家の息子たち、旦那様にも私にも似ずにお馬鹿さんばかりなのよね。でも、旦那様の姓を継ぐのよ。でも、荀家の方を継いでくれる賢い子って言うのは、一人しかいなくて……その子の旦那様になって頂戴な。そうすれば、その赤ん坊も面倒見られるしいいと思うの。どうかしら? 」
「……えっ!? 旦那……様ですか? 旦那様って……」
「旦那様。義理の息子になって頂戴ね!! 嬉しいわ!! 玉樹の婿のことを一番旦那様が気にしていたのよ。これで安心。お家が爆発とかなくなるわぁ。嬉しいわ」
「ば、爆発と言うのは……」
きゃぁきゃぁと喜ぶ瓊樹を前にして、元直は公達に訊ねる。
「……文字通り爆発だ。瓊樹に一番似た性格をしている。不器用で動く度にスッ転び壁に穴を開け、書簡を読み始めると時を忘れ、じっとできないからウロウロ動き回っているので我に返ると迷子。書簡で見つけたと言う変な衣を作ったといっては破り、壊し、で又何か良く解らない物を作っては爆発させる。黄月英どののように何か大それたものを作るのではないのに、爆発の余波で髪はチリチリ焼け焦げ、汚れた衣のまま動き回っている。瓊樹には元譲どのがいるから何とかなっているが、先程の殿からの書簡には『荀家ではこれ以上変わり者の瓊樹の暴走に、玉樹の日々の爆発報告を聞くのも辛いだろう。元直は真面目で正当で真っ当な青年なので、安心して婿に貰うといい。手間賃はただだ』……つまり、元直どのは殿に荀家に売られたんです。可哀想ですが、諦めて下さい」
ポンポンと肩を叩かれ、呆然とする元直なのだった。




