7
暗闇。前方にぼんやりとした光。館内に響く液体と肉体の協奏曲。
画面には肌色と別の肌色が肉をせめぎ合わせている。そして現実の、俺の手の上に手が。
熱い。椎子自身が燃えているように、その手のひらも熱かった。若干湿っているところがむしろ俺の鼓動をはやめる。
スピーカーから女性の強い吐息が聞こえるたびに、その手もぴくりと動く。ああ、椎子の顔が見たい。
こんなどうでもいい画面の中の奴らよりも、椎子の顔だけを眺めていたい。前方にカメラがあって、観客の表情を見られる施設は備えられていないだろうか。
映画は失敗だったのではと一瞬思ったが、しかしこんなふうに手だけで繋がり言葉も視線もなく存在を確かめ合うというのも、またいいものなのかもしれない。
やがて一般映画にしては長い濡れ場がおわり、普通のシーンへ移行する。その頃には俺の手と椎子の手は指を絡め合っていて、ちょっとやそっとじゃ引き剥がせないものになっていた。
しかしこの映画の真骨頂はそんなありきたりな濡れ場ではなかった。
キス。唇と唇を触れ合わせるもの。
ディープキス。さらに舌を絡めるもの。目の前の画面内で行われているもの。
唇を甘咬みしあったり、舌をお互いの舌とこすりあったり、なんどもくっついたり離れたり、ぐちゅぐちゅと音を立てたり、終わって透明な唾液が糸を引いたかと思えばまたお互いを求め合ったり、長い。
そして危ない。何かが危ない。
さっきの濡れ場よりなお長い。なんなんだこれは。
どうして男女が食事をとる器官でこんなに長く触れ合っているんだ。巳巳巳ならより詳しく解説してくれるんだろうな。
しかし、こういうシーンをメインにするのなら、口の中も映すべきじゃないか?
いや技術的に難しいだろうけど。それでもふたりが完全にくっついちゃうと、頬が動くくらいでわかりづらい。中で一体何が行われているんだ。これでは真似できないではないか。いやしないけどさ。
それでもこの知識が必要な時が来るかもしれない。やっと男女の顔が離れた。もうなんか、俺達の手の中で何かが生まれそうだった。
こんなに長く映画の中で二つの顔だけを見たのは初めてである。ちょっと調べれば、問題作として名が上がっていたのかもしれない。
ふう。この映画の肝も終わったようだし、そろそろ幕が下りるかな。この身体のむずむず感も、そうなれば収まってくれるかもしれない。
しかし、男性俳優は人差し指と中指を揃え、女性俳優の口に突っ込んだのだった。
映画館を出たが、いまだ椎子はぼんやりしていてどこか遠くを見ている。ちゃんと歩けているのが不思議なくらいだ。
「椎子?」
「……」
ふむ。一、尻をぽんとする。ニ、肩をぽんとする。三、胸をむにとする。四、頬をむにとする。みとなら一、巳巳巳なら三か。しかし。
むに。
「ひあっ」
頬を指でつついたとたん、椎子の身体が上下に揺れた。地震が起きたかと思った。
そんなにか。指が冷たかったのだろうか。
さらにハッとして、スカートを片手で抑える。別に強風は吹いていないのだが。
「あ、あの! 帯人さん」
「な、なんでしょう」
急に大声を出すものだからびっくりだ。
「今日は、ちょっと、身体の調子が悪いので、お暇してもいいでしょうか」
「あ、ああ。そうだな。なんか赤いし。明日学校だからちゃんと身体を休めるんだぞ」
「はい」
仕方なく手を離す。その手は椎子の熱気と汗でむわりとしていて、鼻を近づけたら昇天してしまいそうだったが、中には特に何も生まれていなかった。
少し離れた所で椎子は右手を上げてさらに回し、その動作によってメイドらしきスーツ姿の女性が現れた。まるで召喚魔法だ。俺も頼めばやらせてもらえるだろうか。できればメイド服で。
そのまま肩を支えられ車に乗せられ、椎子は去っていった。俺は歩きである。
まあ、椎子お嬢様にはすこし刺激が強すぎたかな。
目が覚めると、少し頭痛がした。
血を排出しすぎたのかもしれない。今日はみとのパンツを見るだけじゃなく、足に頬ずりしたほうがいいのかも。そうすればきっと治る。
しかし、みとは起こしに来なかった。
「あれ?」
昨日も様子がおかしかったし、もしかしてもうゆるゆる誘惑タイムは終了したんだろうか。
だとしたら少しさびしいが、また以前のようなつんつんも悪くない。マゾというわけではないが。
一応様子を伺うため、みとの部屋に向かった。
「みとー、起きてるか?」
「うん。起きてる」
ノックしてみると、そんな答えが帰ってきた。ドア越しにしては声が小さく、普段のみとらしくない。風邪でも引いたのかと思い、中に入ってみた。別にあわよくば足に頬ずりしようだなんて思っていない。
しかしドアを開けてみると、そんなおちゃらけた考えは吹き飛んだ。
――なんか黒い。
パジャマでもなく露出の多い活発な格好でもなく、上下共に黒っぽい服を着ていた。しかも布が多い。あれでは暑そうである。というか一瞬、誰かと思ったくらいだ。一応髪型は変わっていなかった。黒いリボンのような髪留めをつけていたが。
「勝手に入らないで。帯人くん」
雰囲気ががらりと変わったみとを見続けていたら、そんな声をかけられた。言ったのは勿論みとだ。しかし、
「お、おい、帯人くんって」
「いいから出て行って」
そんな風に、普段のころころと変わる活きのいい表情ではなく、寧ろ無表情に近い顔で言われてしまっては、大人しく言うことを聞くしか無いのだった。
というか、こういうみとを俺は知っている。
慌てて自分のスマホを確認すると、やはり。
……今日は六月二日だった。
愕然、である。脳にハンマーが落ちてきた錯覚にとらわれ、何もかも忘れてしまいそうだった。もはや泣き崩れるしかない。妹の部屋の前で。
「ううう」
はあ、廊下は冷たいなあ。もう夏に入るというのに、こんなに冷たい。まあ、今の俺の気分にはちょうどいいか。
ドアが急に開き、脇腹にどすっとぶつかった。
「どいてよ帯人くん。部屋から出られない」
冷たいぜ。この廊下みたいに冷たい目で見下ろしてくるぜ。起き上がる気力もないので、仕方なく反対側に転がった。若干先っぽで俺をこすりながらもドアを開き、みとは一階におりていった。
あのまま学校へ行くんだろうな。クラスメイトはさぞ驚くことだろう。ここ数年あんなふうにはならなかったから。最後にああなったのはいつ以来だろうか。
俺は学校、休もうかな。
しかし帯人くん、かあ。久しぶりだったが、みとにそう呼ばれるとなんだか背徳的な気分になる。あの冷たい視線もあいまって、何かが湧き上がる。これが年上の女性だったらまあ普通なのかもしれないが、みとは小学生だもんなあ。
あえて見下されるために廊下に寝転んだわけでは決して無い。そんな余裕はない。
「ううむ」
やはり学校へは行くべきか。このまま家にいたら今度は俺が引きこもりになってしまいそうだ。学校にいけばちゃんと、彼女と友人が待っているわけだし。
そりゃあ妹の変わりにはならないけど、匹敵はする。愛と勇気と希望、みたいな。
「よし」
頑張って身を起こし、居間に降りた。すでにみとはいない。廊下で腐っている間にもう学校へ向かったようだ。おざなりに飯を食って、俺も高校へ。
母親に忘れていたことをとやかく言われたが、今は生返事しか出来なかった。
高校への道がやたらと長く感じる。
「巳巳巳ー。椎子ー」
「な、なんだね。師原くんは教室にはいないよ。トイレかな?」
教室につき机につっぷしながら助けを求めていたら、巳巳巳がちゃんと応えてくれた。さすが地球最後の親友だ。
「もしかして、妹さんに嫌われたのかい? 君ほどの変態がいまさら嫌われるなんて、いよいよ最後の一線を超えてしまったのかい?」
なんだかひどいことを言われている気がするが、今日のみとに比べれば包み込むようなぬくもりがある。包まれたい。
「いや、嫌われたんじゃなくて、消されたんだ」
「はい?」
さてどこから話したものか。椎子がいない今話しても二度手間になる気もしたが、まあいい。
「俺さ、昔大怪我したんだ。今も背中に傷跡が残ってる。見てもいいぞ」
「……じゃあ、失礼して」
何だか迷った様子で、結局そう答え俺の後ろにまわり、制服をめくった。夏服に変わったのでめくりやすいだろう。ん、夏服。
おおう。あたたかい手のひらが背中に触れてきた。タッチしていいとまでは言ってないのだが。
「確かに傷跡があるね。しかも想像よりも大きいよ。案外君の背中って硬いんだね。ふふ。面白い」
さわさわと必要以上に撫でてくる。ぞわぞわするような、どくどくするような、体温が上がってくるような。
「もういいだろう。そんな事よりも夏服だぞ」
身体を翻し、巳巳巳に向き合った。分厚い上着は消え失せ、半袖のシャツになっている。しかしニットベストが邪魔だ。
「む?」
俺の動きを察知して身体の前に腕を持ってくるが、遅かった。しっかりと記憶した。
服が薄くなった分胸部が強調されていて、ボリュームがました気さえする。しかも位置的に俺の目線の前だ。当然胸に留まらない。半袖になったことによって見え隠れしだした二の腕もまた良い物だった。
もちほどではないが柔らかそうである。もちは駄目でも、こっちなら頼めばなんとか。
「いて」
チョップされた。チョップする動作によってさらに奥が見えそうだったが、痛いことに変わりはない。
「そんな事よりとはどういうことだい。早く話の続きをきかせたまえよ。まったく」
全く全くと呟きつつ席に戻る。しかし巳巳巳のおかげで少し回復したぞ。
「えーと、そう、怪我したんだよ。それで病院に運ばれたわけだ。生死なんかもさまよったわけだ。当然、可愛い妹はとても心配してくれたわけだ」
「ふむ」
「その日が丁度1日でな。後から聞いた話なんだが、妹は俺が死んだと勘違いし、そのショックで脳に異常をきたしたらしい。つまり、俺を記憶から無かったことにした」
「ぷっ」
最後の部分で巳巳巳が吹き出した。
「いやいや、笑う所じゃないぞ。それが俺が病院から戻っても回復しなくてな、明るい妹とは違って、クールというか暗い性格になっていたよ。どうにかして元気づけたかったんだが、駄目だった。しかあし」
「お菓子でも作ったのかい? レシピがどうこうとを前に言っていたね」
「先に言うなよ。これだから頭が良い奴は。まあそういうことだ。毎月1日に手作りお菓子を妹に食わせている。それを忘れると、当時の現象がそのまま再発する」
「ははん。つまり師原くんにかまけすぎて、妹さんのことをすっかり忘れていたわけだ。それはもう君が悪いんじゃないか」
「そうだ。俺が悪いんだ」
また机に頬ずりしたくなったので、することにした。はあ。
「あれだけ今まで妹妹言っていたのに」
そうだな。
「新しい女ができたらあっさり忘れてしまうとは」
結果的にはその通りか。
「君の妹への愛はその程度だったんだね。これまで聞かされた妹さんの話は忘れていいかい」
いやいや。
「『女性に立ち向かう武器は思いやりで、最後の一番残酷な手は忘却である』なんて言葉もあるくらいだ」
ああ、巳巳巳の言葉責めは良いなあ。どうせならさっきみたいに背中をさすりながらしてほしい。横からみれば、座っている巳巳巳の身体のラインが夏服のおかげでよく見える。ぽよん、きゅ、ぽよんって。
こいつはこいつで楽しそうに言葉を紡いでいるし。
「でもさ、最近よく邪魔されてよー、それをかいくぐるのに必死だったってのもあるんだよ。昨日は急にそれがなくなって浮かれてたというか」
「はんっ」
と鼻で笑われ一蹴された。
「つまり妹が煩わしかったと。だったらぼくにくれよ。裸エプロンだけじゃなく、猫耳としっぽもつけさせてみせるからさ」
「な、なんだと」
恐ろしいことを考えやがる。裸エプロンでは後ろから見た場合裸体と大差ないが、しっぽがつけば話は別だ。つるりとした裸体にふさふさの獣が付加されることによって、脅威は増すのである。さらに猫耳、半人半猫らしい不器用な料理シーンが容易に想像できる。
「だめだ。それは俺がやる」
「君がやるのかい。兄にそんなことさせられたら、妹さんは兄の記憶だけじゃなく身体も消したくなるだろうね」
背丈も大差ない同性ならば許されるとでもいうのか。くっ。
「しかし今のみとにそんなことさせるのは至難の技だぞ。夏とは思えないほど着込んじゃってるからな。あいつだけ逆衣替えだ」
お人形さんみたいだったのだ。表情もあいまって。俺の記憶だけじゃなく、魂もどこかへやってしまったみたいに。
「ふうん。そんなに変わってしまったのかい。ぼくは君の妹さんに会ったことはないから、想像するしかないが。元々活発な娘なのだっけ」
「そうだな。見知っていたらかなり驚くだろう」
「君を脳から消したと言ったっけ。どんな対応をされるんだい。君みたいなのが予備知識なしに自宅にいたら、まっさきに妹さんに通報されそうだが」
「俺はそこまでのオーラを備えていたのか」
「うん」
頷かれてしまった。別に巳巳巳には何もしていないのに。一度もパンツを見ていないし、手をつないだわけでも、ましてや裸エプロン姿を見たわけでもないのに。
「まあ、たぶん、親戚の人とでも思ってるんじゃないか。俺みたいな矮小な存在を冷たい口調で、けれど一人の男の子のように帯人くんと呼んでくださるよ」
「ちょっと落ち着きたまえ。欲望がだだ漏れている」
どうどうと、手のひらをこちらにむけあやすポーズだ。何かおかしなことを言ったか。
「それで、その状態は元に戻るのかい?」
「ああ、来月な。1日に手作りお菓子を食わせてやれば、あまりの美味しさと俺のぬくもりに対し、存在を思い出してくれるはずだ。これは経験済み」
「なんだ。随分簡単じゃないか。早くなおしてやれよ、と言っても仕方ないが、一ヶ月の辛抱だね」
「ああ……」
しかし少しだけ思う。
今まで妹を甘やかしすぎたのではないか。
俺も妹に依存しすぎたのではないか。
ほんのちょっぴりだが一般家庭の兄妹よりも仲良くしすぎたのではないか。
椎子の登場はこの問題に関しても、良い事だったのではないか。
来月元に戻ればまた、邪魔をしてきたり泥沼になったりするのではないか。
別にどこかを怪我しているわけでもない。命に関わるわけでもない。どんなに変わってしまっても、みとはみとだ。
兄がいないことだって、別におかしなことではない。兄妹がいない女の子なんて、それこそゴマンといる。
ああいう大人しい子だって世の中には沢山いる。あの状態が続けば、それが自然となり、周りだって受け入れるはず。
そんな事を、一滴だけ、
「都斗裏くん」
骨に氷を直接埋め込まれたかと思うような、そんな声がかけられた。巳巳巳のもののようだが、今までそんな声を聞いたことがない。
「もし、もし仮に、万が一妹さんをそんな不安定な状態で放置したら、ぼくが君を消すよ」
ハンマーで、とは言わなかった。そんな優しい凶器は使わないのだろう。呑み込まれるかと思ったのだ。変な名前だと思っていたが、始めてこいつを蛇か何かなんじゃないかと、そう思わされた。
「いいね?」
「はい」
大人しく頷く。するとすぐに、クラスメイト全員が教室の出口に向かい始めたほどのオーラは消え、いつものにやにや顔に戻ったのだった。
「全く、こんなにちびで柔らかそうな女子をつかまえて、蛇を連想するだなんて」
「え? 俺口に出してたか?」
「ふふ。君を丸呑みか。そんなことしたらお腹が大きくなっちゃうね。ぼくの身体に三座目の山が立つということになるね。女子高生という身分でそれか。これ以上凸凹したくはないのだが」
これから考えようとしていたことまで口に出されてしまった。真似するな。
丸呑みにされてしまったらその巳巳巳が見られなくて残念だよなあ。
その辺りでようやく椎子がやってきた。
「帯人さん。おはようございます。何を話してたんですか?」
「いやなに、君の彼氏がドエムのマゾ野郎だという話をしていたところさ」
「なに」
そんな話は全く微塵もしていないはずだ。
「面白そう。興味があります」
「あるのかー」
いや、いつものただの好奇心によってなはず。そもそもマゾの意味もわかっていないはず。
そんな事実無根の話よりも、妹について話しておこうと思ったら、チャイムが鳴ってしまった。椎子も席に戻っていく。




