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 あの後、何かがどうにかなって椎子は帰っていった。きっと怒ってはいないはず。

 椎子が帰ると、みとも大人しくなった。要求もしてこないし、いつもの冷たい視線だ。

 もしかしたら、みとは椎子と仲良くなろうとしていて、それが不器用に空回りしたのかもしれない。みとは良い子だからきっとそうだ。

 やがて夜になり、風呂でも入ろうとしたら、みとがついてきた。

「一緒に入る」

 という。

 ふむむ。

 前に誘った時は断られ蹴られたものだ。それがどういう心境の変化だろう。いやあの時とはそれこそがらりと変化しているか。表と裏のごとく。

 真面目に考えよう。小学六年生だ。銭湯の場合は何歳までなら異性の風呂に入れたんだったか。

 まあでも、兄妹がこの歳でも一緒に風呂に入るのは普通だよな。父親と入る小学六年生もいるとどこかで聞いたし。

 ん、しかし今のみとの脳内では俺と兄妹ではないんだっけ。つまり、うーんと。

 なんでもいっか。

 妹からの風呂の誘いを断る兄なんていない。お姫様抱っこで攫うようにみとを風呂場へ連れて行き、テーブルクロス引きのように素早く服をひっぺがし、俺も当然数秒で脱ぎ捨て、浴室へと入った。

 みとをピンクのお風呂椅子に座らせてやる。備え付けの鏡がみとの全身を映していた。しかし曇っている。淡い輪郭しか見えない。しかも風呂の温度が高いのか湯気が濃く、実物もそんなかんじだった。

 まあ、妹の裸なんていまさらだ。悔しくなんて無い。決して。

 さあて何処をどう洗ってやろう。片方が湯につかってる間に片方が身体を洗う、なんて分断作業は起こらない。仲のいい兄妹が一緒の風呂にはいるということは、つまり背中の流しっこをするということだ。

 これこそジャパニーズ裸の付き合い。

「帯人くん」

「ん?」

「優しくしてね」

 下から見上げるように、振り返り気味にそんなお願いをされた。もはやみとはまな板の上の鯉だった。スポンジにボディソープを垂らし、泡立てる。さすがに手で洗いはしない。そんな変態はこの家にいない。

 湯気が濃いせいで、伸ばさなくてもいい所まで手が伸びてしまうかもしれないが、それは不可抗力だ。変態は今この家にいなく、外で仕事している。

 スポンジをそっと肩甲骨のあたりにあてがう。強くこするなんて事はしない。みとの美肌に傷はつけられない。触れるか触れないかくらいの優しさで、撫でるように洗っていく。もはや産毛だけを洗うつもりといってもいい。肩甲骨、小さい。肩、小さい。腕も細く、子供らしかった。腋、ちいさくくぼんでいる。ぴくぴくとしてきた。腋の下、肉が少ないせいか、肋骨の一つ一つを感じる。背中をつたって反対側へ。

 それにしてもこいつ、ちゃんと二次性徴しているんだろうか。こうしてみとの全裸と向き合ってみると、そんな事が気になってくる。

 反対側の腋の下を洗う辺りで、もうなんかぴくぴくがビクビクになっていた。そんなに足をもじもじさせてどうしたというのか。

「ま、まえは、じぶ、んで、洗うから」

「ああ」

 言われなくとも、ちゃんとスポンジを渡すつもりだった。ちょっとだけ行き過ぎたが、背中流しっこはあくまで手の届かない所を洗いあうためのものだし。

 その後くるりと反転し、椅子を受け取り、俺も洗ってもらった。

「これ、傷?」

「あー気にしなくていいぞ。もう治ってるから。強めにごしごししてくれ」

 みとの力ならそれくらいでちょうどいい。傷跡を見て何か思い出してくれるかと思ったが、そう簡単にはいくはずもない。寧ろそれで思い出しても、症状が悪化するかもしれない。

「……」

 静かにだが、しっかり擦ってくれた。しゅしゅという音だけが響く。

 そして髪も洗い、泡を流し湯船に浸かる。みとの後頭部とうなじと肩がみえる体勢。

 さすがに百まで数えるような歳でもない。

「ねえ、帯人くん」

「なんだ」

「帯人くんはどうしてうちに住んでいるの?」

 唐突に、ショッキングというか妙に納得するというか、答えづらい質問がやってきた。兄妹だから、は駄目だろうな。親戚だから、親戚だからってそうなる理由にはならない。

 ここはもう、赴くままに答えるか。

「みとのため」

 五文字で済んでしまった。案外簡単な質問だったのかもしれない。

 尽くすためとか、治すためとか、付け加えてもいい。

「そう」

 呟き俯いた。切り返しがないということは、一緒に住む許しは出たのかもしれない。内心どきどきしていたのだ。巳巳巳が言っていたように通報とかされちゃったりしないかと。

「先、あがる」

「ああ」

「帯人くん」

「ん」

「ありがと」

 にこりと、こちら側のみとでは珍しいような笑顔だった。服も髪飾りもないので、それがどっちのみとなのか、一瞬わからないくらいのいい笑顔だったのだ。


 そんな風に、一ヶ月がたった。

 長いような短いような、そんな一ヶ月だったと思う。みとは相変わらず冷たくて、椎子との関係もほとんど進んでいない。

 これならむしろ、元気みとに邪魔されてたほうがまだ発展したように思う。しかしまあ、ままならないのが人生というものだ。

 さて。

 本日は休み。晴天だ。これから明るくなるみとを祝福するような空。今のみとが月でこれからのみとが太陽という感じである。

 みとは相変わらず本を読んでいる。この一ヶ月で随分読んだはずだ。今読んでいるのは、文庫本で瓶詰地獄と書かれている。文学を嗜むとは偉いなあ。

 普段と変わらないが、これから何をされるかわかっているんだろうか。

 まあいい。作業を開始しよう。

 作ろうとしているのは、シュークリームだった。太陽をイメージなんてことはしていない。

 バターやら砂糖やらを溶かし、薄力粉を加える。

 別に今のみとでも、何も悪いことはないんだよな。ただ違うというだけで。

 一緒に風呂に入ってくれた。ご褒美にちゅうしてくれそうだった。パンツは頑なに見せてくれなかった。という細かいことは関係なく。

 卵も加え、ほんのり堅くなるまで練っていく。

 明るいみと、大人しいみと、二重人格のように違うが、根っこの所では変わらない気がする。

 みと本人は、どちらの自分が好きなのだろう。

 しかしそれを答えられるみとは何処にいるのか。

 練った生地を小さくたらし、オーブンへ。

 周りよりも本人が決めた方がいいに決まっている。当然今までに聞いたことはあるが、要領をえなかった。自覚しているのか、していないのか、それすらあやふや。

 何かの漫画みたいに、第三のみとが統括してくれてたりはしないんだろうか。

 そんなみとがいたらどんなんなんだろうなあ。事故当時のちびみととか、今の二人の年齢を足した大人みととか。

 ちびみとだったら、うーん。いろいろ教えてあげたりして。おままごととかしたりして。

 大人みとだったら、うーん。年上ぶる小学生か。何を知ってるんだろうなあ。いけないこととか知ってたりして。

 おっとつい楽しげな妄想をしてしまった。

 先ほどの生地の前段階のものに牛乳やらリキュールやらを加え、カスタードクリームに。

 市販の生クリームに砂糖を加えハンドミキサーで泡立てて、角が立つようにする。

 膨らみ焼きあがった生地に、それらを適当に注入していく。

 そして完成だ。

 月初めに手作りお菓子を食わせないと妹じゃなくなる。まあ、そういう子もいるよな。世の中広いからさ。

 うちの子にも、妹に戻ってもらうとしよう。勝手に消してくれちゃった脳内のたい兄を、しっかり元に戻してもらおう。

「みと、おやつの時間だ」

 できたてのシュークリームを持ってじりじりと近づいていく。何かを察知したのか、みとは本を閉じて警戒する。怖がらなくてもいいんだぜ。その小さいお口につっこみたいだけなんだから。お菓子を。

「帯人くん」

「ん?」

 緊張した面持ちでそう呼ばれた。ソファから見上げるようにして。

「何をしようとしているのか、全部はわからないけど、最後に言っておきたいことがあるの」

「なんだ」

 最後って……。別に何も終わりはしない。何を覚悟しているというのだ。

「あたしは」

 ゆっくりと言葉を発する。気のせいだろうか、薄い唇が震えている。

「あなたの」

 ふむ。なんというか椎子が転校してきた日、学校でこんな雰囲気があったような。

 学校というか教室、教室というか巳巳巳の席の周り。

「――が好きなの」

 プァーーと甲高い音がして、一部が聞こえなかった。車が二台ほど動く音が続く。たまにあるんだよな。道をゆずるとかどうとかで。

「……」

 じっとみとが見つめてくる。俺に穴があきそうだ。穴があいたのはみとの台詞なのだが。

 穴は埋めねばならない。現役の学生として。

 ――が好きなの。よし。すぐにわかったぞ。

 お菓子が好きなの。と言いたかったに違いない。なんだそういうことか。そりゃあ、こんなにいい匂いのお菓子をじりじりと近づかされたら、早く食わせろと言いたくなるに決まってる。

「そーか、そんなに俺の手作りお菓子が好きなのか」

「えっ、ちが」

 言いながら生地を小さくちぎりクリームをすくい取ると、ちょうどよく口が開いたのでつっこんであげた。別に開いた口をみるとつっこみたくなる性癖とかではない。今日もこの家には変態はいないのだ。

「ふも、もご、ゆ」

 巳巳巳より体温が高い。巳巳巳より容量が少ない。巳巳巳より頬の肉が薄い。巳巳巳より歯が小さくてなんか可愛い。巳巳巳より……あれ、なんか目が怖い。

「ゆびいいい」

「ぐふお」

 腹をアッパーのように殴りあげられた。背が低いゆえ、随分突き上げやすかったことだろう。

「アホッ。変態っ。シスコンッ。たい兄の馬鹿っ。指なんかつっこまないでよっ。口の中はデリケートなんだから」

 デリケート? ただ食べ物を含んで噛み砕くだけの場所だろう。巳巳巳は怒らずに口の中をまさぐらせてくれたのに。巳巳巳の優しさはやはり目に見えるほど大きいのだ。厚い上着の上からでもわかるくらいに。

 床に伏せっていたら、蹴られた。脇腹を二度三度。恐ろしい。しかしシュークリームだけは落ちないように守りぬいた。食べ物を粗末にしてはいけない。

「あ、シュークリーム、ちょうだい」

 感情豊かに、表情豊かに残りのシュークリームを食べているのだった。この笑顔のために守りぬいたのかもしれない。

「っていうか暑い。なんであたしは今までこんなの着れたのよ。夏にこれはありえないっ」

 スポーンと脱いでしまった。ああ、黒いパンツだ。ピンクのリボンが両サイドについている。

 なるほどね。

 そしてちゃんと覚えているようだった。この雨の多い六月のことを。

 足音を響かせて、自室に戻ってしまう。着替えにいったんだろう。戻ってくると、短パンにタンクトップという出で立ちになっていた。ちらりとみえているパンツも白くなっている。

 わざわざ履き替えたのか。あの黒い服一式はもうお蔵入りなのだろう。使わないのなら渡してくれればいいのに。大事に保管するのだ。

 手にはスマホを持っていて、本は持ってはいない。しばらくは居間で読む姿をみることもないだろう。

「あーもう、一ヶ月やらなかったから順位かなり落ちてる。どーしてほったらかしにしてたんだろ」

 よくわからないが、みとの中でいろいろとあるんだろう。俺だって今まで好きだった食べ物が急にまずく感じたり、ハマっていた遊びに飽きることもある。それまでどうしてハマっていたのかわからなくなったり。

 スマホを注視して操作していたが、こちらを向いた。はっきりとではなく照れているような、ちらちらという感じで。

「たい兄さっきあたしが言ったこと、変な勘違いしないでよね」

「さっき?」

 シスコン、変態といわれたことか。

「あたしがす、すきとかいったことよっ」

「ああ、それか。手作りお菓子な」

「そ、そう。甘いものよ」

 わかってる。ちゃんとお菓子が好きな事は伝わっている。それともそれが勘違いだとでも言うのだろうか。いや、食べた時のふにゃけた顔は勘違いではない、はず。

「もう、あっ。夏のキャンペーン? だって。たい兄」

 画面の中に何かを発見したようで、今度ははっきりしっかりと俺の目を見てきた。嫌な予感がする。

「というわけで、課金するからお金貸してっ」

 やっぱり?


 すっかりみとは元通りになった。明るくて元気がよくて、ちょっと打撃系で小生意気で。

 黒くて読書家で素直で肌の露出が少なくて口数の少ないみとは見る影もないが、その間のことをちゃんと記憶しているはずだ。

 試しにお風呂に誘ったら、また蹴られてしまった。あの時は一緒に入ってくれたのにと言うと、

「たまには一緒に入るでしょ。兄妹なんだから。でも、今は嫌っ。たい兄変態だから」

 とにべもなく断られてしまったのだ。俺か。俺がどこかおかしいのか。あんなに熱心に丁寧に洗ってあげたのに。

 いつかこの元気みとと一緒に入って、お湯や泡をかけあう熱い風呂バトルをしたいものだ。

 結局一ヶ月頑張ってもこれまでと変わらずみとは二重のままだが、まあ焦ることはない。まだ小学六年生だ。さらに歳を重ねることによって、成長していくことだろう。

 みとは今も、可愛い妹なのだった。

 

 妹が元にもどったところで、俺は次の日普通に学校へ行くのだった。みとは白パン清楚ちゃんで起こしにはこなかったが、露出度の高い服で元気に小学校へ向かった。

 一ヶ月をへて何かを発散し落ち着いたのか、それとも別の企みでもあるのか。

 まあこれで俺は椎子に集中できるだろう。

 はあ。椎子……。はじめて手を繋いだ時のことを思い出す。細いのに柔らかくて、温かくて、すべすべしていて。あれだけの少ない範囲で肌が触れ合うだけなのに、心臓が高まり溢れ出しそうだった。椎子だって頬を染め緊張していたように思う。たかが手を繋ぐという行為は、実は人類の始まりなのかもしれない。その時の周りの風景は記憶に無い。

 そろそろこの一ヶ月で溜まりに溜まったものを、なんとかした方がいい気がしてきた。ほとんどデートもせず血も出さす。健全な高校生としては溜まってしまうのも無理は無いのだ。

 血が。

 はやく限界まで絞り出して、椎子の口の中から胃へ、つまり俺の体液を椎子の一部にしたい。 血だ。

 椎子だって欲しくてたまらないはず。いけない身体をしているから、つい欲しくなっちゃうはずなのだ。たとえ何を要求されたとしても。

 血を。

 もんもん気分で教室につくと、巳巳巳がいた。椎子はいなかった。何故だ。

「やあ。都斗裏くん。なんだかいつもより息がはあはあしてないかい?」

「ちょっとな。早歩きしちゃっただけだ。それより椎子、椎子はどこだ」

 はあはあの所をもう一度聞きたかったがそんな場合ではないのだ。

「ああ、師原くんね……。それよりそれよりさ。先に妹さんのことを聞かせてくれないかい」

 思わせぶりに、何か知っているのに隠してますよという風に、そんな事を聞いてきた。気になるが、巳巳巳はみとのことを気にしているだろうし、伝えておこう。うっかり丸呑みにされたら、巳巳巳の身体を内側から撫で回すことしかできなくなるし。

「まあ、元には戻ったよ。いまだお菓子を振舞い忘れたら、また俺が消されるのは変わってないけどな。元気で声が大きくて太ももが剥き出しなままだ」

「そうかい。それはそれは。ぼくも一度会ってみたいね」

「それよりよりより、椎子は?」

「師原くんは登校はしてきているようだね。しかし見る限り、教室にはいない。何処に行ったんだろうねえ。ところで、最近師腹くんとの仲はどうだい?」

「何?」

 何故そんなことを聞く。

「勿論円滑な関係だ。清く正しく、欲にまみれない良好なものだ。この間なんてついに手を繋いだんだぜ」

「ふうん。健康的な若い男女が付き合って二ヶ月で手を繋いだだけ、ねえ」

「な、なんだというのだ」

 じとりと半眼を向けてくる。二ヶ月くらいじゃ、皆そんなもんじゃないのか。世の中には付き合ってすぐにアレコレな人もいるようだが、そんなのは変態だけだろう。

「ふふ。しかしどうかな。師原くんのほうも、そう思ってくれているのかな。君を見ていればわかるが、六月の間ほとんど師原くんに構っていないんじゃないのかい。『短い不在は恋を活気づけるが、長い不在は恋をほろぼす』これは事実かどうか定かではないが、さきほど師原くんが男と歩いているのを見たという者が」

 最後まで聞かず、俺は教室を飛び出した。短い不在、長い不在。そんなに長く会わなかったわけではないはずだが、そのあたりの感覚はわからない。なにせ恋愛素人なのだ。しかしみとにつきっきりだったのも事実。

 一階を走り回り、二階、三階へ。椎子は見当たらない。男、か。一体誰が目撃したのかは知らないが、これだけ男があふれているんだから、見間違いだってしてもおかしくはないよな。

 ないはずだ。

 しかし結局、見つからなかった。ふらふらと教室に戻ってみると、椎子がいたのだがすぐにチャイムが鳴り話をすることができない。昼食時も姿を消してしまう。こちらからも何と声をかけていいかわからないまま、下校時刻へ。

「し、椎子」

「すみません。今日は用事があるので、お先に失礼します」

 そのまま黒く長い車に乗り、何処かへ行ってしまった。なんだこれは。いったい何が起きているというのか。とぼとぼと一人で帰り道を歩く。こんなに静かな道だったか。


「みとよ。相談にのってくれ。恋愛相談だ」

「いーやー。たい兄の恋愛相談なんて聞きたくないー」

 帰るなり妹に泣きついたわけだが、寧ろ妹が泣き出しそうだった。両手で耳を塞ぎ、いやいやと首を振る。

「頼むみと。一大事なんだ」

「知らないもん。高校生の恋愛事情なんて知らないもん」

 ソファに膝とおでこをつけ、かたつむりみたいに丸くなってしまう。何がみとをここまで追い詰めるのだろう。小学生のうちから高校生の楽しみを先に知りたくないということだろうか。ネタバレ禁止、みたいな。

「聞いてくれないとパンツ見ちゃうぞ」

 ちょうどお尻と話しているような立ち位置なことだし。ちょっと手を伸ばして、ちょっとずり下げるくらいわけはない。お尻さんだって、布を二重に纏っていては喋りにくいだろう。

「いーよ。パンツでもお尻でも勝手に見れば。でも聞かせないで」

 許可がおりてしまった。

「ほら見てくれよ。この悲惨な顔を。こんな顔してちゃ会えないんだ。なんとかしてくれ」

「たい兄の顔が悲惨なのはいつものことでしょ。それなら、友達にでも相談すればいいじゃない。ぼっちじゃないんでしょ」

 友達。そうだ。俺には唯一無二絶対の友がいたんだった。こんな人生経験の浅いかたつむりに相談している場合じゃないのだった。

 たったひとつの冴えたやりかたを思いつくとなんだか気持ちが軽くなったので、ソファに腰掛けた。そして手を伸ばす。お礼に頭を撫でようと思ったのだが、その位置にはお尻しかなかった。割れ目の背中側の部分。こりこりとした尾骨。皮膚がスライドしつつも確かに骨の感触が。

「変態っ」

 蹴られた。そりゃあ蹴られるか。だって後ろ足側に座ったんだから。馬だって後ろに立ってたら蹴られるよ。

 蹴られてふっ飛ばされついでに電話へ向かう。家に置いてある奴だ。友人の番号くらい、登録されたのを見なくてもわかる。たった十一桁だ。ピポパっと。しかし電話するのは初めてだな。

『こちら巳巳巳、だ。は、あ』

「よー巳巳巳。ん? なんか息荒くないか」

『ふう。別に。薄い本なんて読んではいないよ』

「なんだ読書してたのか。さすがいろいろな言葉を知ってるだけあるぜ。それよりさ、俺達友達だよな?」

『……うん。そうだね』

 いま悩んでたか? 

「俺達親友だよな」

『まあ、そう、なのかな』

 言い淀まれた。まあいい。きっと照れているんだ。俺だって友情を確かめ合うなんてちょっと恥ずかしいし。

「巳巳巳。いや、海よ。付き合ってくれ。お前しかいないんだ」

 頼み事なのだ。誠心誠意真面目に、名前を呼び、軽い感じなど一切ないよう気をつけながら、そう言い切る。

『んっ、んん』

 直後妙な声が聞こえてきたが、その後打ち合わせをして、これから会うことになった。巳巳巳と初のお出かけである。


 待ち合わせ場所は椎子の時と同じ、でかい本の置物だ。さて、奴はどんな私服を着てくるだろう。しかしこんなことならもっと早く誘えばよかった。何故だか、学校でしか会うことのできない存在のように思い込んでいた。ここですぐに会うことができる辺り、案外家も近いのかもしれない。

 学校の後なので若干陽が傾いている。夏とはいえ、長く遊んでいたら暗くなってしまうかもしれない。やがて巳巳巳はやってきた。キックボードに乗って。

「やあ。おまたせ。少し準備に手間取ってしまってね」

「それはいいけどさ。そういうのって、小学生とかが使うもんじゃないのか?」

 思いの外ビックリした。結構頭脳派だと思っていたのに、イメージが違う。しかも服装も、チューブトップに上着、スパッツ、上からスカートだ。そしてリュック。なんというかアメリカにでもいそうである。みとと気が合いそうだった。

「ああこれかい。ぼくってちびだからさ。歩くの遅いんだよね。それに恥ずかしながら運動不足でさ、すぐ疲れちゃうんだよ」

「なるほど」

 合理的判断に基づくもののようだった。まあ、人それぞれだ。キックボードに乗っている時揺れたもちや、チューブトップから零れ落ちそうなもちの事が若干気になるのも、人ぞれぞれだ。いい言葉だぜ。人ぞれぞれ。

 

 その後とりあえず歩くことにした。キックボードは折りたたまれリュックにしまわれている。最近の技術は凄いなと感心した。歩きながら、何故突然呼び出したのかということを、ちゃんと説明しておいた。

「ほほう。つまり君を元気づけて欲しいと。案外繊細なんだねえ。ちょっと師原くんに避けられてるような気がしただけで。でも、見る限り元気に見えるけれどねえ」

「いやもっとだ。お前と遊びたい」

 なんかもう普段と違う衣装の巳巳巳を見れただけで、若干回復した気がするがもっともっとだ。俺は巳巳巳を求めている。

「そういうことなら、友として協力してあげようかな。君で遊ぶとしよう」

 何か少し違う気がしたが、巳巳巳が協力してくれるというのだから有難い話だ。獲物を捉えたような目をしたのも、気のせいだろう。

 

 巳巳巳に先導され、バッティングセンターにたどり着いた。ほう、スポーツで汗を流して悩みを吹きとばそうというのだな。

「ああ、君は打つんじゃなくて、そこから中に入って」

「え?」

 ネットの中、つまりボールが射出される部分の側に立たされた。

「係員に怒られるんじゃあ」

「大丈夫だよ。ここは管理が緩いから。ちゃんと調べてある。それより動くとあぶないよ」

 そうかあ。今ってそんな事も調べられるのかあ。情報化社会って怖いな。

 まさか手間取った準備ってそのことなんだろうか。いや、そんなはずはない。きっと読書の余韻が長かっただけ。

 そんな事よりも、これは友達同士の遊びとして正しいのか? みとにまでぼっちと言われてしまう俺なので、あまり良く知らないのだが。

「おーい。これが最近の高校生の遊びなのか?」

「ああそうさ。じゃあ、いくよ」

 何やら操作して、球が機械的に発射された。それをバッターボックスに立つ巳巳巳が打ち返す。

「おおっ?」

 球は俺の顔の側を通りぬけ、壁にあたり跳ね返った。しかしそんなことは些細な問題である。

 一番の問題はやはり、二つのもちだった。フルスイングした時、半円形にもちも動く。あんなにアグレッシブなもちはみたことがない。

「そーれ」

 さらに二球三球。

 全てが俺の側にぶち当たった。バットで打ち返したものをここまでコントロールするなんて、プロでも難しいんじゃないのか。一体あいつは何者なんだ。棒の扱いがうまいのか。まるでもちが棒を操っているかのようにもちの動きに合わせて打ち返してくる。もしかしたらもちと棒は仲のいい夫婦なのかもしれない。

 あのチューブトップに棒を差し込んでやったほうが、より棒ももちも満足するのかもしれない。俺はそれを写真におさめる役を担当しよう。

 ひとしきり打たれたあたりで係員の気配がしたので、俺達は逃げ出した。いい所だったのに。

 

 楽園を追い出された俺たちは、仕方なく個室に二人きりになった。防音もしっかりしていて、横になれるソファもある。

 カラオケだ。

「カラオケのマナーを知ってるかい?」

「ふ。いくら俺でもそれくらいは心得ているぜ。相手の知ってる曲、相手のことを考えた曲を歌うことだろう。好き勝手に歌わず」

「良い子だ。じゃあ、これを歌ってくれたまえ」

 ん? だからといって、曲を指定されるわけでもないはずだが。まあ、今日は巳巳巳にお願いする立場なわけだし、好きにさせてあげよう。

「好きで好き好き恋しくてー、友達なのに好きすぎてたまらない、ていうかもう襲いたいー」

「いえーいっ」

 なんだこの曲。ちょっと恥ずかしいぞ。でも巳巳巳はノリノリだ。カラオケではノリが何より大事と聞く。

「もげ、もげもげ、ち、ちを」

「ほらほら、もっと大きい声でっ」

 さっきから俺しか歌っていないのだが、巳巳巳は遠慮しているのだろうか。聞くより歌うほうが何かと発散できるわけだし。歌って元気になれという熱い友情を感じるぜ。

「俺の裸を撮ってくれえー。下から撮ってくれえー」

 全て巳巳巳の選曲である。俺とは違って、いろいろな曲を知ってるものだ。

「ドリンクお持ちしました」

「うぉ」

 綺麗な店員さんが突然入ってきた。慣れた手つきでグラスを置いていく。

「都斗裏くん。ちゃんと歌わないと」

「は、裸をー一眼レフでー」

「くす」

 笑われた。綺麗な店員は小さく、しかし確かに笑った後、去っていった。

「おい巳巳巳さん。笑われてしまいましたがこれは」

「仕方がないよ。君はカラオケにほとんど来たことがないだろう。つまりズブの素人だ。そんな初々しく戸惑う君を見たら、笑ってしまうのも無理はない。しかも店員さんはカラオケのプロだぜ」

 なるほど。言葉も無い。初心者のうちはそういうこともあるか。納得というか、感服である。

「わかったらもっとハキハキと歌うんだ。おろおろしてたら上達しないぜ」

「よーし」


「なあ、巳巳巳」

「なんだい」

「その部分をこするのをやめてくれないか」

「おっと、ついに抵抗する気かい? しかし君にそんな資格があるのかな」

「いや、お前の好きなようにしてくれて構わないんだが、こういうところって監視カメラとかあるんじゃないのか?」

「そりゃああるね。昔はカラオケで如何わしいことをする奴が多かったそうだが、今の時代ではそれも厳しいだろう」

「だったらまずいだろう」

「大丈夫だよ。位置は把握している。僕の手元はおそらく映っていない」

「それともう一つ。なぜマイクを近づけているんだ」

「勿論音を拾うためさ。知らなかったのかい? マイクとはそういうものなんだよ」

「こんな部分の音を拾って何になるというんだ」

「ふふふ。顔が赤くなっているよ。大丈夫かい? こするスピードはちょうどいいかい? もう少し早めようかい? それとも、指に力をいれたほうがいいかな」

「いや、それ以上は痛い。質問に答えてないぞ」

「何になるかって。効果はでているじゃないか。そんなに赤くすると、息を吹きかけて冷ましたくなるが、してもいいかい? さあマイク。そこから出るときの音を拾うんだ。身体から放出される時、こするだけとは違う音がするだろうから」

「何も出さないぞ俺は」

「そんなこと言って、気持ちよくなっているんじゃないのかい。我慢は身体に毒だぜ」

「いや……、そんな」

「もしかして、先ほどの綺麗な店員さんもいないと駄目かい? ぼくだけじゃ不満かな」

「うるさい。尻を撫でられたくらいじゃ、絶対おならなんて出さーん」


 さっきまで歌って踊っていたというのに、いつのまにかそんなことになっていた。個室で二人きりという雰囲気のせいなのか、巳巳巳のせいなのか。

「全く、男の尻なんて触って何が楽しいんだか」

 奴は手をわきわきさせて、じっと見つめている。直前まで俺の尻を触っていた手だ。言うまでもないが、服の上から。

「ぼくはとても楽しいよ。都斗裏くんはわからないのかい?」

「わかってたまるかっ。俺は変態じゃない」

 触られるのは良かったが。巳巳巳みたいになかなか可愛い相手なら、それは普通のことだ。

「じゃあ次は攻守交代といこうか」

「え!? いいの!?」

「冗談だよ」

「………………」

「おいおい、黙るなよ。変態じゃない普通の君は、まさか今の言葉を本気にはしてないよね?こんな変態みたいな遊びには進んで参加しないよね」

 変態か。変態ってなんだっけ。

 もしかしたら、変態じゃない普通の人間なんてのは、ただのチキンでヘタレで臆病者な、チャンスをものすご勢いでのがしていくだけの奴なんじゃないだろうか。

 いや、いやいやいや。

 これは罠だ。うっかり変態に堕ちてしまうところだった。

 危ない危ない。

 

「あー楽しかった。君を遊び尽くしたという感じだ」

「おいおい、君をじゃなくて君とだろう。しかし巳巳巳のおかげで俺も元気になったぜ。獣の本能を思い出した感じだ。これなら椎子にちゃんと接することが出来る」

 命の危機にさらされたり、羞恥プレイをさせられたような、肉体的にも精神的にも責めぬかれた気がするが、巳巳巳がそんなひどいことをするわけがない。

 現に俺は元気百倍になっている。スッポンの生き血やガラナチョコを摂取した気分だ。

「またいつでも呼んでくれたまえ。ではまた明日。学校でね」

「ああ」

 そんな風に別れて、巳巳巳はまたキックボードに乗り去っていった。もちばかりに気をとられていたが、意外と巳巳巳の桃もいいものかもしれない。


 そして次の日。俺は燃えていた。

 考えてみれば、若干距離が離れたくらいは寧ろチャンスなのかもしれない。痛めつけるとより強力になるという筋肉のように、椎子との関係が深まるチャンス。

 そう思うとやる気が溢れすぎて、裸で家を出たくなった。みとに止められたが。

「巳巳巳、椎子はどこだ」

「若いね。ハツラツとしているね。ぼくが小耳に挟んだところによると、どうやら屋上みたいだよ」

「屋上だな」

 待ってろよ椎子。

 

 走ってはいけないと噂の廊下を走りぬけ、階段を駆け上り、気がつけば屋上へついていた。

 階段の先にすぐドアがある作り。しかし一体こんな所でなにを。朝から風に当たりたいのだろうか。誰かと一緒だったら、まるで密会である。まさかそんな。

 しかしなんとなく不安にさいなまれ、ドアを少しだけ開ける。怖いものをゆっくり見るがごとく。

 まず視界に入ったのは、広々とした屋上だ。ベンチや観葉植物があり、綺麗なものである。今度椎子や巳巳巳と一緒にここで弁当を広げるのもいいかもしれない。

 次に椎子がいた。

 ある一点を見つめていて、風で髪がなびいている。美しい。髪の一本一本が輝いているようだ。

 その視線の先には何があるのか。

「な」

 嫌な予感とは当たるもので、その先には男子がいた。椎子よりも背が高く、だらだらとした気配が一切無く、真面目そうな感じだ。夏だというのにシャツが長袖で、ボタンはしっかりと閉じられている。

 さらに二人は接近し、そのまま顔を。


 ああ、廊下って何処も冷たいんだなあ。

 あの後すぐに階段を転げ降り、ゾンビのようにふらふらしていたら精神的エネルギーが切れ、廊下に倒れた。もうなんかやる気もでないのでうつ伏せでいる。

 椎子に男。男に椎子。椎男。……。

 枕を濡らしたい所だがそんなものはないので、仕方なく廊下を濡らす。濡れ濡れだ。

 しかしまあ、二ヶ月、いい夢を見させてもらったのかもしれない。五月の前に戻るだけじゃないか。巳巳巳としょうもない話をして、みとの勉強をみたりして。

 みとのせいとは思わない。俺が好きに行動しただけだ。

 踏まれた。

 女子生徒は踏んだことに気づいていないのか、気づかないふりなのか態度に変化なく歩き去る。白色。

 好きに行動した結果ああなったのだから、それはもう釣り合わなかったということなのだろう。お嬢様。吸血鬼。ただの普通の一般人には荷が勝ちすぎていたのかもしれない。重荷に感じたことはないが、それは単に俺が不感症だったのかもしれない。

 いて。また踏まれた。水玉。

 きっとあの、優等生みたいな金持ちみたいな男子と幸せに暮らしていくのだろう。

 ちゃんとあいつは血を与えられるだろうか。椎子の秘密をしって逃げたり引いたりして、椎子を傷つけたりしないだろうか。

 信じているぞ。見知らぬ男子よ。もし万が一そんなことになったら、血だけでも俺が与えるべきだろう。もう椎子は、継続的に血を摂取しないといけないはず。味を知ってしまったから。ここで俺が変態の外道だったら、要求をたてに付き合ったりするんだろうな。よかった自分が紳士で。自分で自分を誇ろう。でないと折れそうだ。

 いててて。ブルマ。

 ブルマ? 濃い紺色で柔らか系というよりぴっちりとした感じで、肉を包んでいる。それならパンツでいいじゃないかと思うかもしれないが、芸術的にも実用的にも価値があるのだ。

 ブルマが存在することによって、布地は厚くなり尻のボリュームが増すのだ。

 さらに肌との対比はパンツよりもあり、かといってズボンのように全てを覆い隠したりしない。尻の魅力を恐ろしく引き上げるのである。

 またこれがあるおかげで、女子はパンチラを気にしなくても良くなるのである。まあ、今目に入っているようにパンツの端がはみ出る場合もあるが。

 しかしその微妙な端っこだけでは、どんなパンツかまるでわからない。頑なに巳巳巳はパンツを見せないつもりなんだろうか。ブルマを普段着にしているとしたら、そういう考えがあるともいえる。おのれ。

 俺はまだこいつが大人下着を履いているのかどうか、気になってしかたがないというのに。あの時の言葉を根に持っているのだ。パンツの根は深い。

 それはそれとして、ブルマとスパッツを制覇しているとは見上げた友である。

 先程からぐりぐりと踏みつけているのも、きっとにやにや顔でしているのだろう。文字通り見上げてみた。

 二つのもちに若干隠れていたが、その表情はにやにやなどではなかった。寧ろ怒っている。見下している。廊下に寝転んでいた生ゴミを見ている。生ゴミに怒るなんて情緒豊かである。

「巳巳巳ー」

 抱きついた。足に抱きついた。怒っていようがいまいが、目の前にこれだけブルマと太ももを見せつけられては、抱きつかざるをえない。男ならだれでもそうするだろう。変態じゃない俺だってそうする。

 柔らかい。しかし確かに筋肉が備わっている。いい匂いだ。スカートによって蓋をされているおかげで、匂い度が高い。匂いというのは時に視覚情報よりも優先される。特に今のような暗幕が降りている状態では。

「ちょ、は、はなしたまえ」

「いいじゃねーか、別に。パンツは隠れてるんだから。いくら見られても文句はないだろう」

「見られたくなくて言ってるんじゃない。足に頬ずりするなと言ってるんだ」

 ぐいっと頭を手で押してくるが、しかし殴りも蹴りもしない。優しい。優しすぎる。泣きそうだ。泣いたら涙で巳巳巳の神聖な太ももを汚してしまう。

 それはまずいので仕方なく離れたのだった。汚してもいいつもりだったら、とっくに舐め回している。

 妹の足には頭痛を治す力があるが、巳巳巳の足には生ゴミを人間に戻す力があるようだった。

「全く、どうしたんだね。もうすぐ授業はじまるよ」

「巳巳巳、みみ、みみうみうみ」

 逆に巳巳巳菌に感染した気がする。ここまでの変態行為もきっとそのせいだ。頑張って事の顛末を話し終えた。

「それで?」

「み?}

「なんでこんな所で廊下と仲良くしていたんだい」

「だ、だって俺はもう。椎子は椎子で」

「とられたら奪い返せよ。こんなにあっさり諦めるのかい? もしかして、告白した時も失敗したらすぐに諦めるつもりだったのかい?」

「……」

 あの時はそんな事どころか何も考えていなかった。

「だとしたら君は友人でもなんでもないよ。人ですらない。丸呑みなんて汚らわしい。しかし、まだ人語を理解できるのなら最後に言っておこう。『過去は変わらないけど自分を変えれば未来は変わる』『成功する秘訣は、成功するまで失敗し続けることだ』『何より強い動力となるのは蒸気や電力原子力よりも、意志である』こんな言葉を紡ぐのは人だけだろうね」

 俺はもう立ち上がり進んでいた。二つの足で、前へ。椎子の元へ。

 全く巳巳巳は。

 巳巳巳がいなければあの日、あんなに威勢よく告白なんてしていなかったかもしれない。根拠はないが。

 巳巳巳のおかげで学校生活がこんなに楽しいものになった気さえする。根拠はないが。

 巳巳巳は史上最高の愛友だ。根拠は、俺。

 椎子は例の男と共に、廊下に降りてきていた。授業が近いからだろう。一歩一歩近づき、二人の間へ。男に向き合う。格好いいぜ。背が高いぜ。だが関係ない。

「帯人さん」

「椎子は俺の彼女だ! 手を出すな! まだキスもしてないし、手だって繋いだばかりだが、一生大事にするんだ。邪魔するな!」

 と。

 これまで溜め込んだ全てを出しきった。校舎中に聞こえていたかもしれない。上等だ。

 男はどうでる?

 しかし俺の意志を聞き、何故か微笑んだ。そして自身の首元に手をかけ、皮膚をはがすようにして、よくできたハリウッドの特殊メイクのようなマスクを脱ぎ捨てた。

 ん?

 頬に柔らかい感触。腕に控えめな感触。

「ん?」

 椎子を見れば、もじもじと俯き、それから顔を上げ、その顔はルビーのように赤く、その目はクォーツの涙液に潤い、

「しちゃいました」

 キスだった。



 エピローグ。

 全く、今日の彼は最高だった。なめくじになったり、かと思えば大声であんな大胆な事を叫んだり。

 ぼくも柄にもなく大声を出しちゃったな。彼っていじめられたり責められたり強気に出られると悦ぶもんだから、加減が難しいね。

 ああ、彼なら保健室でぶっ倒れているよ。例のキスがよほど嬉しかったのか、何かの糸が切れてしまったのか。

 うん。見ていた。といってもあの時あの場面を見たのは、ぼくだけじゃなく割りと沢山いたけどね。

 例の男? 勿論執事だよ。執事の変装技術には驚いた。ぼくでさえ一瞬本物の男子なのかと思って、師原くんが寝取られる所まで妄想したくらいさ。おっと。

 そんなことよりも。

 都斗裏くんがぼくに対し何を思っているのかはしらないが、師原くんが彼に対し何を思っているのかは知っている。直接聞いたから。

 というか相談を受けたんだ。具体的には、帯人さんと妹さんは仲が良すぎて羨ましいです、ってね。

 まあ師原くんだって普通の女子高生だ。あのシスコン具合が心配になるのもわかる。いや、共感しているわけではないが。

 そこでアドバイスしてあげた。恋の駆け引きというやつだ。『恋愛と戦争ではあらゆる戦術が許される』と言うしね。

 押して駄目なら引いてみる。焦らして駄目なら騙してみよう。言っておくが、師原くんが考えた部分は微塵もない。すべてぼくの脚本どおりさ。あのお嬢様にそこまでの悪さはない。

 うん。お嬢様、そして吸血鬼。全て本人から聞いている。都斗裏くんは隠そうとしていたようだが、それは師原くんのためで、師原くんが教えてくれる分には問題ないだろう。

 親友に隠し事をした都斗裏くんには昨日色々と遊ばせて、弄らせて、責めさせてもらったことだし、許そう。大らかな胸で許そう。

 しかしキスくらいでぶっ倒れるなんて、どれだけ純情なんだか。付き合って二ヶ月で手をつないで喜んでいるなんて、どれだけ師原くんを大事にしているんだか。

 ぼくの口の粘膜をこすりあげたりクチュクチュしたり、妹さんとだってマウストゥマウスでキスしようとしていたくせに。

 何がとは言わないが全く羨ましい限りだ。

 ぼくと妹さんにしたことを全て師原くんにしてあげればいいのに。そしてその映像記録を全て見せてほしいね。

 おっとチャイムだ。

 教室に戻らなければいけない。

 こんな彼女でも妹でもないぼくの独り言を聞いてくれて、ありがとう。


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