第1話
「例えば、エベレストやキリマンジャロなどの険しい、命の危険性があるような秘境の地に行くことを“登山”という名の遊戯に例える事がある」
ここは放課後の教室である。幼馴染みの田村優花は窓辺の机に体重を預け、黒板を拭いている僕に語りかけている。
「だから、どうした」
「いや、何。彼らは命をかけてその遊戯に興じているじゃないか
野球にしたって、バドミントンにしたって一歩間違えれば取り返しのつかない怪我を負うリスクを孕んでいる。違うか?」
「バドミントンにどんな危険があるっていうんだよ……」
僕は肩ごしに幼馴染みを振り返る。教室の前ドアに近いその位置から見ると、太陽がの女生徒のシルエットを照らし、目に入ってくる。
「失明だ。羽根は以外とすっぽり眼球にはまるらしいぞ」
「それはエグいな。まあ、確かに身体が消耗品だと考えれば、スポーツは命を賭して楽しむものかもしれないな
だけど、適度な運動は身体にいいだろ?」
「ああ。そもそも毒だって、人を堕落させる麻薬だって適度に投与すれば薬だろう。
人類史上最初に使われた毒ガス兵器だって今や抗がん剤として扱われている」
「イペリット、だっけ?
ドイツ軍が第一次世界対戦で使用し始めたんだったな」
「ああ。まあ、そのエグい性質は後々語るとして、つまり私が言いたいのはな、な、何事も、て、適度であればど、毒にはならん」
今の三回もどもる台詞だったか?
彼女を見ると頬を赤く染め、何だかプルプルと震えながら近づいてくる。このままだと何かしらの被害が及びそうだったから、用意しておいた鞄を片手に持つ。
「その致死量の見分けが大変なんじゃないか」
「ば、馬鹿者。い、いや、確かに個人差とかあるから、個人検証は大切かも!」
「検証過程で害が出たらどうすんだよ」
「それは……しょの時考える!」
「何だよ、その若者にありがちな結論」
「はうっ」
「で、まわりくどく遠回しに言わないで、ちゃっちゃと言いたいことを言え」
優花は僕との距離を近付ける。後退りしそうになったが、何とか堪える。
身長差22cm。上目遣いに見上げ、彼女は僕に言った。
「きょ、今日は家に誰もいないのだ。だから――」
「オーケー。うちに来い」
「え?」
「今日、うちには両親もいるし、姉さんもいる。だから、変な噂もたたずに済む」
「あ、でも、その――」
まだ、何かを言いたそうな彼女をお姫様抱っこの要領で抱き上げ、笑いかける。
「んじゃ、行きましょうか?お・ひ・め・さ・ま?」
「……~っ!放せっ!いや、放してっ!
学校内で変な噂でもたったらどうするの!」
「いや、結構今更じゃん。これでも恋人として4年は過ごしているわけだし」
今年で5年目。小学校5年の三学期から付き合っている。
今までもそうだったように、これからも僕は彼女に恋をし続ける気だ。地面に降ろした彼女は、涙目になって顔を染め、恨みがましそうに僕を見る。
「恥ずかしかった」
「そっか」
「……恥ずかしかった」
「そっか。じゃあ、帰ろうぜ」
僕は彼女によぎった不安や諦めの色を全て無視する。恋人としては最低の行為かもしれないが、仕方ない。
「……もう、5年も経つのに……」
恐らく、その言葉を僕に聞かせる気はなかったはずだ。けれど、僕はある予感を感じざる負えなかった。
何の区切りかは知らない。
人によってあったり無かったりするだろう。
大火傷をして耐え難い痛みを背負うかもしれない。
そんな、僕達の変化の予兆を。