021話 市場に買い物に行きました(前編)
振り分け試験の翌日、ウォルフは宣言通り市場に買い物にやってきた。
予め参加表明を出していたシルフィーナに、マリアもついてくることになった。
ラナキュリアは前日の体術試験で試験官と死闘を繰り広げた影響で、昼過ぎまで寝ていたいそうで、ユリアンは実家に戻ってすることがあるとの事で今回は3人で出かけることになっていた。
王都の東側にあるフラミティス学術院から歩くこと30分、そこには王都でも1,2を誇る大きな市場があった。
市場と言っても、そこには露店だけではなくしっかりとした造りの店も並び、市場というよりは商店街と呼ぶ方が相応しい。
食材から服飾、日用品など様々な物が揃う市場には、休日ということもあり、市場は人で溢れ返っていた。
また学術院の近くということもあり、立ち並ぶ店の中には明らかに生徒をターゲットにした商品を置いている店も多数ある。
その為、多くの生徒が在学中に訪れる場所でもあった。
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朝から露天に並ぶ食材や日用品を見て回っていたウォルフたちは、商店が並ぶ一角に足を運び、小さな商店の前を通りかかる。
そして、そこに並べられていた商品を見た瞬間、ウォルフの顔色が変わる。
「こ、これは…!」
それは前世であれば見慣れていた物。
丸い体に、それを支える4本の脚。小さな三角形の耳に、円らな瞳。
そして鼻にあたる部分から胴体を貫通する形で大きく穴が空いたそれは、まさしく豚型の蚊取り線香であった。
「ひょっとしなくても蚊取り線香?」
「カトリセンコウ?」
「んーと、蚊っていう虫を寄せ付けない為の道具の事なんだけど…」
「カって?」
何と説明しようかとウォルフが思案していると、奥から店主らしき中年の男が出てきて早速商売を始めてきた。
「お!嬢ちゃん、こいつを知らないってことは、ニャムーク対策をしてないってことだな?ニャムーク・コイルがないと、この先辛い季節が待ってるぞ?」
「…そうなの?」
シルフィーナがウォルフの方を見て訊ねてくるが、ウォルフは店内に置いてある物に気を取られ、その問いに答える事が出来なかった。
ニャムークという名前に聞き覚えはなかったが、ウォルフはその使い方は概ね正しく理解できていた。
小さな物はそれこそ子供でも簡単に持ち運びができる、所謂日本にもあった蚊取り線香のサイズであった。
しかし店内に鎮座するそれは、どう考えても蚊のサイズにはそぐわない、穴の直径が1メートル程もある蚊取り線香?が置いてあった。
その尋常でない大きさにウォルフは気を取られていたのだ。
「ええと、このサイズって必要なの…?」
ウォルフの当然と言えば当然の疑問にマリアが答えてくれる。
「それはね、ニャムークにも色々な種類がいて、それぞれに合ったサイズのコイルを用意する必要があるからよ?」
その答えに、ウォルフは嫌な想像をしてしまい、それが間違いでないことをすぐに思い知らされた。
「人の血を吸うポブル・ニャムークは大きくても精々1センチメートルくらいかな。ただ魔獣の血を吸う種類だと10センチ、20センチは当たり前。ドラゴ・ニャムークになったら体長が2メートルくらいの個体がいるそうよ?」
「おいおい、2メートルって刺されたら即死ぬだろ…」
前世で観た、宇宙人の血を吸って巨大化した蚊に襲われるパニック・ムービーを思い出していたが、それよりも遙かに大きいそのサイズにウォルフは慄いた。
片や隣のシルフィーナはそもそもニャムークがどんな生物かあまり理解していないのか、キョトンとした顔をしている。
「まぁドラゴ・ニャムークは主にドラゴンの血を吸ってるみたいだからね。よっぽど美味しいのか、ドラゴン以外の血ってほとんど吸わないんですって。」
その言葉を聞き、ウォルフはほっと胸を撫で下ろしたが、その安堵を店主が平気でぶち壊してくれる。
「だけど餌としていたドラゴンが倒されたり、何らかの原因で死ぬと、何故か次は人を襲って来るんだよなぁ。」
「ええー…」
「大丈夫よ。その為に北方以外の砦や各街には、10メートルサイズのニャムーク・コイルがいくつも配備されていて、万が一に備えてるのよ。当然王都にもあるわよ?」
げんなりしてしまったウォルフに、笑顔を見せながらマリアがフォローを入れる。
「し、知らなかった…」
「うちの領土じゃ見かけないものねぇ」
ファーナム家の領地は、五大国で最北にあるクレディフ王国の中でも、北の方に位置する。
辛うじて四季は感じられるが、夏は短く、冬は長い。
その気候の為か、ニャムークの生息範囲外になっていたようだ。
「それにしても、ウォルフくんにも苦手な物ってあったのね?」
「そりゃあ、あるよ。虫全部が苦手ってわけじゃないけど、どうしても生理的にダメなものはいるしね。それにそんなデカいのを心の準備もなしに見たら、その瞬間気絶するかキレちゃうかすると思うよ。」
「一応聞いてみるけど、キレるとどうなるの?」
楽しそうに聞いてくるマリアに、ウォルフは真剣に返す。
「んー、たぶん確実に滅殺する為に、塵も残さず周辺全てを焼き尽くすか、確実に息の根を止める為に、動くもの全てを凍結させて粉になるまで粉砕するかのどちらかだろうね。」
「ウォルフくんが巨大な虫と遭遇しないことを祈るわ…」
あまりにも真剣に答えるウォルフに、それを実行するだけの力があると知っているマリアは、そう返すのが精いっぱいだった。
ちなみにウォルフもシルフィーナも1個ずつお買い上げだったのは言うまでもない。
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「あっ!あのお店は…!」
シルフィーナが突然駆け出し、一直線に目標の店の前に出る。
「さすがフィーナ。お目が高いねぇ」
そこは何とも可愛らしい看板を掲げる服屋だった。
「このお店行ってみたかったの!かわいい服が揃ってるってみんな言ってるんだもん!」
「フィーナは今までそんなに服に拘ったことないじゃないか。」
興奮気味のシルフィーナとは対照的に、興味がないといった感じのウォルフだった。
「そんなことないもん!」
「お、ウォルフくんだめだよー?女の子はみんな可愛い格好したいんだよ?」
ダメ出しを受け憮然とするウォルフだったが、正直シルフィーナが服装で我儘を言うところなど見た事がなかった。
「そんなものかねぇ…」
「さぁさぁ!こんなところで無駄話してないでとっとと入りましょう!」
「んじゃ、僕は他の店を見て回…」
「何言ってるの?ウォルフくんも来るのよ?」
「え?」
回れ右をしようとしたウォルフであったが、右腕をしっかりとマリアに抱えられてしまう。
「当然よね。私の服を買うんだもの。ウォルフにも見てもらわなきゃ。」
「えっ?なんでそうなるの?」
今度は左腕をシルフィーナに抱えられてしまう。
「ちょっ、ちょっと!僕の意思は関係ないのおおおお!?」
逃げる暇も与えられず、両腕を抱えられて店内に引きずり込まれるウォルフであった。
「ねぇねぇ、ウォルフ!これはどうかな?」
「んー、いいんじゃない?」
「じゃあこっちは?」
「うん、いいと思うよ。」
「………ウォルフくん、さっきからずっと『いい』としか言ってないんだけど?」
シルフィーナが服を選び始めてもう30着程になっただろうか。その全てにウォルフは「いい」以外の感想を返していない。
流石に見咎めたマリアが苦言を呈したのだ。
「まぁフィーナは余程変な格好しない限りは何着てもかわいいからさ。余程変な格好じゃなきゃ『いい』以外の感想なんて出てこないよ?」
「かわいいだなんて…」
悪びれもなく言い放つウォルフの言葉に頬を染めるシルフィーナを見て、マリアが微妙な顔をする。
「フィーナもそれでいいんだ…?」
「ん?いいのよ?だって結局決めるのは私だし、それにウォルフはしっかり感想を言ってくれてるのよ?」
「へ?」
「もう買うのも大体決まってるのよ。ウォルフが一番いいって言ったのも当然入ってるわ。」
「そんなこと言ってたっけ…?」
「口にした覚えはないけどね。」
問いかけるマリアに、僕に聞くな、と言わんばかりの態度を返すウォルフ。
実際、ウォルフは「一番」と思いはしたが、一言も言ってはいない。
だがその思考が表情に微妙に表れ、シルフィーナはそれを元に判断をしていたのだ。
「さて、服も決まったんでしょ?そろそろ行かないか?」
「そうね、流石にお腹空いちゃったね。」
「それじゃ、買う服取ってくるわ。」
ウォルフの提案に反対する者もなく、シルフィーナは服を取りに行く。
ウォルフは先に店外で待ってると出て行き、マリアがシルフィーナを待っていると、突然店の中に怒声が響く。
「貴様!誰の物を横取りしたと思っている!」
「手に取ったのは私が先よ!」
その声に覚えのあるマリアは慌ててその一角へと向かう。
「ちょっと、フィーナ。周りのお客さんに迷惑よ?」
「だって!あいつが!」
「まったくどうしたのよ…って、リリー様?」
「あら?マリア!よかった!ちょっと助けて…」
言い争っていた二人のうち、一人はシルフィーナ、もう一人はファルバウティ公爵子息、テレンス=ウォルト=ファルバウティであった。
そしてテレンスの背後にはクレディフ王国第三王女、リリー=イルヴァ=シュバルトがいた。
「様付けなんて今はいいから!それよりマリア、助けてちょうだい!」
「落ち着きなさい、リリー。とりあえず何があったのか教えてくれない?」
何にせよ状況把握が先、とマリアはリリーから事情を聴くことにした。
「ええと、私があの服ちょっといいな、と思って見ていた服がありまして…」
「それが今フィーナが持ってる服?」
「ええ。私がそれを見ていたんだけど、それをあの方が持って行こうとしたの。そうしたらテレンスがいきなり怒り始めちゃって…」
「見ていただけで、手に取ってはいなかったのね?」
コクンと頷くリリーの様子に、大体の事情を察して、マリアは未だに睨み合っている二人の方を向く。
「で、テレンス様は何をとち狂…お考えでそんな暴挙に出られたんです?」
「なんだ、マリアか。そんなこと聞くまでもないだろう!こいつがリリー様が目を付けられた物を横取りしたから、身の程を弁えるように言っているのだ!」
「身の程って…ここは先に商品を手に取った者勝ちなんですよ?お店にとっては王女だろうと平民だろうと、等しくお客様なんです。話を聞く限り、リリーは見ていただけなんでしょう?」
「ええい!煩いやつだ!貴様はこいつとリリー様のどちらの肩を持つというのだ!」
「いや、そりゃあ今回はシルフィーナの肩を持ちますよ?悪いのはリリー…というかテレンス様何ですから。」
「何だと!?貴様ァ!」
バチバチと火花が散りそうな勢いで睨み合う二人。
そもそもリリーの幼馴染と、自称リリーの従者一優秀な男は仲が悪かった。
マリアは、リリーの気も知らず公然と「自分がリリーに認められた最高の従者」と言って憚らないこの偉そうな公爵子息が嫌いであったし、対するテレンスは幼馴染というだけで、公爵子息である自分よりも遙かに気安く王女に接する少女が気に食わなかった。
店内にいた人間が固唾を飲んで見守る中、一人の少年が進み出た。
その少年は美しい銀髪を三つ編みにまとめ、背中に伸ばしていた。
「またあなたたちか。妙な縁がありますね。」
そう言って進み出たウォルフの顔を見た瞬間、リリーとテレンスの表情が凍りつく。
それもそのはず、ほんの5日ほど前に恐怖を脳裏に焼き付けられた相手だ。
「こないだといい、今日といい、僕達に難癖をつける趣味でもあるんですか?」
ガクガクと、最早首を振っているのか震えているのかわからない状態のリリーと、冷や汗をダラダラと垂らすテレンスを冷ややかに見つめるウォルフであったが、そこにマリアが割って入る。
「ちょ、ちょっと待った!ウォルフくん、目が怖いよ!?」
「なんだい、マリア?どうもそこの御二方が僕達に用があるみたいだから、お話しようと思うんだけど?」
「絶対お話じゃないよね!?」
慌てふためくマリアを不思議そうに見ながらも、ウォルフは猶も歩を進めようとする。
「待って、ウォルフくん!今回の事はリリーは何も悪くないの!すべてはあっちの公爵子息が原因なのよ!」
「なっ!?」
突然全ての罪を押しつけられたテレンスは目を見開いて声を失う。
「王女殿下に非はないと?」
疑うようなウォルフの視線を真っ直ぐに受け止め、マリアは一歩も退こうとはしなかった。
「ふむ。まぁマリアがそう言うならそうなんだろうね。じゃあお話しなきゃいけないのはあっちのデカいのだけってことでいいのかな?」
「ええ、問題ないわ。」
マリアは躊躇なく答え、ニッコリと微笑んでサムズアップ。
「よし、そこのデカい人。ちょっとお店の裏にでも行きましょうか?」
「ひっ…」
テレンスはあっという間に首根っこを押さえられ、二人は店外へと出て行く。
暫くして店が僅かに揺れ、ウォルフが戻ってくる。
「いやあ、理解が早くて助かるね、彼。」
「あの…大丈夫ですの?まさかk…」
「あー大丈夫ですよ、王女殿下。幸い明日も休みですし、さすがに授業に遅れることはないと思いますよ。」
つまり要約すると、明日までは起きない、ということである。
テレンスの身に何が起きたのか、考えるのも恐ろしくなり、リリーは静かに冥福を祈るのであった。
「んで、結局服はもう買ったの?」
「あ、まだよ。王女様、結局これは…」
「あ、あぁ、すいません。そちらが先に手に取られたんですもの。私にとやかく言う権利はありませんわ。」
「ありがとうございます。それじゃ買ってくるわね!」
会計場まで行く道すがら、迷いなく何着か服を抱え込んでいくシルフィーナを見送りながら、ウォルフはマリアたちに問いかける。
「で、これからどうする?」
「ん?」
「いや、元々僕たちはこれからお昼でもと思ってたけど、王女殿下はどうされるのかなぁと。」
「あー、そういやそうね。いくら王都とはいえ、流石に一人じゃ不安だわ。リリー、他に護衛は付いていないの?」
「ごめんなさい、テレンスが自分一人で十分だって追い払っちゃって…」
「ホント、碌なことしないわね、あいつ。」
姿無きテレンスに毒づくマリアを見て、ここまで人を嫌う彼女は珍しいな、という感想をウォルフは抱いていた。
「リリーはこの後どうするの?まだ買い物を続ける?」
「いえ、私もこれからお昼にしようかと思ってましたの。」
「そしたら一緒に行こう?ねぇ、ウォルフくん、ダメかなぁ?」
手を胸の前で組み、目を潤ませ上目遣いでお願いしてくるマリア。普段とは全く違うその雰囲気に、ウォルフは抵抗することもできず陥落する。
「え、う、うん!いいんじゃないかな!」
「やったあ!ウォルフくん、ありがとう!フィーナにも伝えてくる!」
ウォルフが快諾した瞬間、いつもの雰囲気に戻ったマリアが嬉々としてシルフィーナの下へ走って行く
「え、えぇ。あの、よろしくお願いします。」
「………いえ、こちらこそ。」
呆気に取られたウォルフに、おずおすと挨拶をしてくるリリー。
その眼に幾許かの同情の念を感じ取ったウォルフは疲れたような挨拶を返すのであった。
今回は幕間はありません。
諸事情により前後編に分けます。
読んで下さってありがとうございます。