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昼寝

作者: いせゆも

 彼の眼は真珠を守る貝となった瞼によって閉じられている。

 ちょうどいい。ジジンの真珠なんて美しすぎて、直視することは数秒としてもたない。だから私が見つめることができるのは、僅かにこの時間しかない。でもこの顔を見るためには、ジジンと過ごす、いっそ甘美な一時を代償にする必要がある。悩む。悩むけれど、それでも私は欲求を抑えることが出来ず、ジジンの顔を見てしまう。

 そよめく風に靡く金色の髪を、手でそおっと梳いてみる。

 すっ……と自然に指が通り抜ける、柔らかい肌触り。金箔を細くしたみたいに一本一本が艶やかに揺れている。私はうっかり、ジジンが男性だということすらも忘れて、髪の美しさに嫉妬してしまう。

 鼻孔をつく爽やかな薫風。ジジンの吐息は春風のように爽やかで、夏風のように猛々しい。

 私は変なのかもしれない。

 ジジンの息の匂いが大好き。それだけじゃない。ジジンの体臭だって好き。シトラスの、ふんわりと体を纏う空気。

 はあ、とため息が出る。私の彼氏役ながら、とても格好いい。

 男性にこんな感情を抱くことなんて初めてだ。アイドルを見てキャーキャー騒ぐクラスメイトの気持ちが分かった気がする。胸にわだかまる温かいこの太陽、どこかへ照らしてあげたい。これが惚気というものだろうか。

 ジジンはもっと男性的な肉体になりたいと言っていた。身長は平均的だし、体格だって特別良いわけではない。とは彼の自身への評価。

 冗談じゃない。ジジンは彫像のように余分な筋肉が一切ない。

 去年の夏、不意に見てしまったジジンの半裸は、まさしく西洋の芸術作品そのものの体型だった。逆三角形の胸板、割れた腹筋。しかしいらないものなどそこには存在しなく、また、必要なものまで存在しない。均整のとれた、完璧な体。一瞬しか見ていなくても、瞼の裏に焼き付いて離れない。

 こんな人に、私は額にキスをされたんだ……。

 それを思い出して、私は一人、かぁと顔を熱くする。

 なんて破廉恥な。男性の半裸を想像するなんて。あまつさえキスされたことを思い出すなど。

 ジジンの顔を見られない。整いすぎた顔立ちは、時に私の心を全て曝け出させる。

 ぴくん、と、ジジンの手が動いた。起こしてしまったかなと思っていると、もぞもぞと体を左に九十度回転させ、左腕を枕にして、そのまま静かな寝息を青空へ向かって昇華させる。寝返りをうっただけのようだった。

 私の目の前にある、ジジンの手を観察してみる。

 白くて、木の枝のように細くて長い指。傷一つないけれど、やはり男性だと分からせる武骨さがそこにはある。

 手のひらを私に向けさせて、そっと手と手を合わせてみた。

 ……私よりも指が長かった。大きさこそ男女の差で仕方がないとは言え、まさか、指の長さでもこれとは。このぐらい長ければピアノを弾く時に有利。羨ましい。

 手相を占うみたいに、ジジンの手を観察する。お友達から手相を教わったりしたこともあったけれど、いまいち覚えていない。せいぜい生命線ぐらいだ。ジジンはどのくらいあるのだろう。見てみると、手首に達していた。凄い。さぞかし長生きをするのだろう。

 寝ている証拠として、ジジンの手には汗がかいていない。とてもさらさらしている。むしろすべすべしている。肌の上を、指が氷のように滑る。失礼を承知してジジンの頬を撫でてみると、それこそ女性のような滑らかさ。

 本当、どうしてジジンは女性泣かせなのだろう。全てのパーツが、もともと女性用として作られた上に男性を被せただけなのではないかと思うほど、男性にしておくのはもったいない。

 反則だ。なにもかも。

 端正な顔で見つめられて、恥ずかしくて俯いたところを細い指で顎を持ち上げられ、額にキスをされてしまえば、それだけで私は骨抜きになってしまう。過ちを犯しそうになる。なのにジジンはさらに、私の耳元で「トキアメ」と甘く囁き、ぎゅうと抱きしめる。荒々しく、しかし大切なものを壊さないよう繊細に。ジジンに包まれながら、鼻孔までジジンで満たされる。私の全てが、ジジンのモノになる。

 あんなことをされて、好きにならない女性がいるはずがない。

 ジジンのプライベートを知る人から聴かされた話だと、百人に近い女性と付き合ったことがあるらしい。そのうちで、一体どれほどの女性が同じことをされたのだろう。興味がないと言えば嘘になる。しかし――

 嫌だ。私だからするのではなく、女性になら誰にでもするのだったら。

 ジジンは、絶対深く私に干渉しようとはしてこない。いつも浅い所しか見させてくれない。だからこそ、美術展に行ったあの日、ジジンの口から弱音を吐きだしたのを聴いた時、私はどこか安心した。あれは私だったから話してくれたという自信がある。ジジンの性格上、気軽に過去を語ることなんてしないはずだ。さり気ないように聴きだそうとしても、絶対に口を割らなかったのだから。

 私はジジンに大切にされている。ジジンは私を大切にしようとしている。

 それは分かる。

 しかし、恋のABCというのを聴いたことがある。恋人同士なら通過するべき儀礼なのだと。Aがキスであることしか私は知らないけれど、少なくとも、あと二段階は男女の仲には先があるということ。なのにジジンは、Aまでしかしてこない。いや、Aですらない。額に唇を触れさす程度なのだから。

 何故なのだろう。

 もしかしたら、ジジンは私を女として見てくれていないのかもしれない。恋人ごっこをする以前、ジジンはよく「あんたみたいな女とは付き合えるか」と言っていた。本気とも解釈できるし、冗談ともとれる、とても曖昧な言い方で。

 まさか恋をしたいと言った私の願いを叶えるため、ジジンを好きになった私に、お情けで冗談に付き合ってくれたのだとしたら……

 不安だ。この上もなく、不安だ。

 ジジンは今でも、私以外の女性と、本気のお付き合いをしているのかもしれない。私みたいに地味な女ではなく、垢抜けた女性なら、ジジンほどの容姿をしていれば簡単に言い寄ってくるだろう。ジジンが拒まない保証はない。

 怖いけれど、私にはそれを確かめるほどの度胸がない。

 もしジジンが私と本気で恋人をしているのではなかったら……なに本気になっているんだと、愛想を尽かれてしまったら。

 去年の二学期終わり、たった一時期喧嘩をしただけで、あれほど胸が苦しかったのに。英語で失恋をハートブレイクとはよく言ったものだ。文字通り私の心が砕けれしまう。

 もう私は、ジジンがいない学校生活を想像すら出来なくなっている。この昼休み、屋上で密会を一日の楽しみにしている。これがなくなってしまったら……。

 私は逃げている。もうすでに一年を切っているというのに。

 つくづく弱い自分が嫌になる。ジジンは辛い現実から例え体が茨の棘に刺さろうとも、なんとか痛みを堪えながら先へ進んでいる。私ときたらジジンの脚を引っ張ろうとしているだけ。未来があるジジンに嫉妬すらしている。

 ――びゅうと、一陣の風が吹いた。

 その風は、私の陰鬱な気持ちを吹き飛ばす旋風となって、木の葉を舞い散らせる。

 ああ私は、一体なにを考えているのだろう。

 もう悩むだけ無駄なのに。遠い昔から、ずっとそう思っていたではないか。

 ジジンの吐息の香りを感じる。

 やさしい寝顔を見る。そこには不良と呼ばれている影などどこにもなく、太陽だけが照らしている。

 艶やかな唇。もしこの唇で私と口づけをしたら……さぞ私は、ジジンに溺れるのだろう。

 自嘲する。小鳥遊時雨という一人の女の存在が許せなくなる。未来を受け入れたはずなのに、たった一人の男性で狂わされようとしている。なんと簡単な女なのだろう、私は。

 私は皆が思っているような優等生では決してない。こんなにも醜い。清廉潔白? 冗談じゃない。どこが白く、清いのだか。本当にその言葉が似合っているのは、今私の目の前で眠っている、この男性のような人を指す。

 せめて、ジジンには、私のことを覚えていて貰いたい。「そういえばこんな女と付き合っていたな、いい奴だった」ぐらいでいいから、少しでもジジンの内側に入り込みたい。

 それには、なにか証を残したい。

 一瞬、寝ているジジンの唇を、私の唇で奪おうと思ったけれど……それでは駄目だ。ジジンが信頼してくれている私自身を、あろうことか私から裏切ることになる。

 じゃあどうしよう。

 ふと、ポケットにあるリップを思い出した。前にジジンから貰ったやつだ。新品なもの。てっきり、ジジンが普通に使用しているものだと思っていたから、塗られた時はとても焦ったけれど、いざ使用されていないと知ると、不思議なぐらい落胆した。

 私はそれを、唇に塗る。なるべく薄く、伸ばすように。唇を何回か開閉して、満遍なくいきわたるようにした。ちゅぱ……という音が私の唇から聞こえる。それがどうしてか、凄く艶めかしく思えた。私が他人になったみたいだ。

 そして、ジジンにも塗る。あまり強くすると起きてしまいそうだから、そっと。

 最後に、もう一回私の唇へ。

 間接キス。

 これが私のできる、精一杯の親愛の証。


・・・

・・


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