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ピアノは、君のドラムを待っている

朝の教室で、黒板消しクリーナーが変な音を立てていた。


 ぶおん、ぶおん、と吸っているのか吐いているのかわからない音。誰かが昨日の放課後、掃除当番をサボったのだろう。窓際の床には、消し残しのチョークの粉がうっすら積もっていて、陽が当たると白く浮いた。


 瀬川湊は、自分の机の上に置いた楽譜の端を、親指で何度もこすっていた。


 角が少し丸くなっている。去年の文化祭で使った譜面だ。もう使う予定はない。なのに捨てていない。楽譜ファイルの一番うしろに、折れたまま挟んである。


「またそれ見てんの」


 声だけで、誰かわかった。


 湊は顔を上げずに、楽譜を閉じた。


「見てない」

「いや、見てたじゃん。俺が来た瞬間、閉じたじゃん」

「うるさい」


 椅子の背に片膝をぶつけながら、桐生蓮が前の席に座った。明るい茶色に染めた髪は、校則ぎりぎりというより、もう少し向こう側にある。ピアス穴は塞いだと言っているが、耳たぶにはまだ小さな跡がある。


 見た目だけなら、吹奏楽部より軽音部にいそうだった。


 でも、蓮がドラムセットの前に座ると、部室の空気が一段だけ整う。


 どれだけ金管が走っても、木管がもつれても、蓮のスティックだけは拍の真ん中に落ちる。派手な見た目のくせに、音はぜんぜん派手じゃない。必要なところで鳴って、必要のないところでは黙る。


 湊はそれが少し嫌だった。


 少し、だけだ。


「今日、朝練来なかったろ」

「行った」

「来てねえよ。俺、最初からいたし」

「……音楽室には行った」

「ピアノ弾かずに?」


 湊は答えなかった。


 蓮は机の横にかけていたコンビニ袋から、菓子パンを出した。潰れている。たぶん鞄の中でスティックケースに押されたのだろう。


「食う?」

「いらない」

「昼まで持たない顔してる」

「顔で決めるな」

「決めてない。幼稚園の頃から、湊は腹減ると鍵盤見る目が怖くなる」


 湊はシャープペンの先を出したり戻したりした。


 カチ、カチ、と小さい音がした。


 幼稚園の頃、と蓮が言うたびに、湊は少しだけ返事が遅れる。昔を持ち出されるのが嫌なわけではない。ただ、その頃の蓮は、湊のことを何でも知っているような顔をしなかった。


 何でも知っているくせに、知らないふりをするのが上手くなかった。


「部長、朝から怒ってたよ」

「また?」

「また。コンクールの話」


 湊はシャープペンを止めた。


 吹奏楽部は、今年のコンクールで県大会金賞以上を取れなければ、来年度から活動縮小。事実上の廃部。


 理由はわかりやすい。部員数が減った。成績が出ない。顧問の異動もある。学校としては、実績のない部に予算を回せない。


 言い方だけがやわらかい。


 活動縮小。


 湊には、その言葉がどうしても嫌だった。音が細くなる感じがする。最後まで鳴らしきる前に、誰かが勝手にフェーダーを下げるみたいで。


「湊、今日の合奏、ちょっと抑えろって」

「誰が」

「部長」

「俺、昨日なにも言われてない」

「言えなかったんじゃね。おまえ、ピアノのとこだけ顔が別人だから」

「別人ってなに」

「褒めてる」

「嘘」


 蓮は菓子パンの袋を破りながら、笑った。笑い方が軽い。だけど目は、机に伏せた湊の楽譜のほうを見ていた。


「ほんと。怖いくらい、いい」


 湊は返事をしなかった。


 昔、同じことを言われた。


 小学校の体育館。卒業式の伴奏練習。蛍光灯が一本だけちらついていて、先生が「そこ、もう少しやさしく」と何度も言った。湊はやさしく弾けなかった。蓮はその時、後ろで卒業式用の小太鼓を叩いていた。


 練習が終わって、蓮が言った。


 怖いくらい、いい。


 その言葉だけ、なぜか残っている。言った本人は、たぶん忘れている。


「……食べかす、落ちてる」

「え、どこ」

「膝」

「あー」


 蓮は制服のズボンを払った。パンくずが床に落ちた。


「落とすなよ」

「あとで拾う」

「絶対拾わない」

「拾うって」

「昨日もスティックの先、部室に落として帰った」

「見つけてくれたんだ」


 湊はまた黙った。


 拾った。しかも、捨てずに蓮のロッカーの上に置いた。名前のシールが剥がれかけている、古いスティックだった。蓮は新しいのを何本も持っているのに、なぜかあれだけいつも持ち歩いている。


 昔、湊が「その音、好き」と言った一本だ。


 それも、たぶん蓮は忘れている。


     *


 放課後の音楽室は、湿ったリードの匂いと、古い木の床のワックスの匂いが混ざっていた。


 譜面台が並んでいる。椅子の脚が床を擦る音。チューナーの電子音。誰かの水筒が倒れて、部長の相沢が「ちょっと、ほんとにさ」と低く言った。


 湊はピアノの前に座っていた。


 合奏曲は、吹奏楽用に編曲されたラテン調の曲だった。打楽器が多く、ピアノもただの伴奏ではない。中盤でピアノが前に出て、そこへドラムが拍を固定し、全体が一気に走り出す。


 走り出す、はずだった。


「またそこ、ピアノが強い」


 相沢の声が飛んだ。


 湊は鍵盤から手を離した。


「強くない」

「強いよ。木管、聞こえない」

「木管が遅れてるから」


 言った瞬間、クラリネットの一年が顔を下げた。


 相沢の眉が動いた。


「そういう言い方やめて」

「事実だろ」

「事実でも、言い方あるじゃん」

「じゃあどう言えばいいの」

「だから、それがさ」


 空気が、リズムを失ったまま床に落ちた。


 蓮がスティックを軽く鳴らした。カン、カン。二拍だけ。


「一回、俺らだけで合わせよ。ピアノとドラム。そこが噛まないと全体無理だし」

「噛んでる」


 湊が言うと、蓮は顔を傾けた。


「噛んでない」

「おまえが後ろで抑えすぎるから」

「湊が前に出すぎ」

「出なきゃ曲にならない」

「出方の話」

「わかったようなこと言うなよ」


 蓮のスティックが止まった。


 誰かが譜面を落とした。薄い紙が床で滑って、チューナーのコードに引っかかった。


「……わかってないように見える?」


 蓮の声は大きくなかった。だから余計に、音楽室の後ろまで届いた。


 湊は鍵盤のふたの端に指を置いた。爪の横が、ささくれていた。昨日から気になっていたのに、切るのを忘れている。


「見える」


 蓮は笑った。いつもの軽い笑い方ではなかった。


「そっか」


 それだけ言って、蓮は立ち上がった。


「どこ行くの」


 相沢が訊いた。


「水飲んでくる」

「今?」

「今」


 蓮はスティックを持ったまま音楽室を出ていった。


 ドアが閉まる音が、合奏の失敗より大きく聞こえた。


 湊はピアノの前に座ったまま、譜面の上の書き込みを見ていた。


 rit.を、誰かが赤ペンで囲っている。たぶん蓮だ。蓮は自分のパート譜だけではなく、湊の譜面にもたまに書き込みをする。いつも「見やすくしといた」と言う。勝手に触るな、と湊は毎回言う。


 でも消さない。


「瀬川」


 相沢が言った。


「なに」

「湊ってさ、上手いけど、こわい」

「……知ってる」

「知ってるなら、もうちょっと」

「上手くない人に合わせろってこと?」


 言ってから、違うと思った。


 相沢はすぐに怒らなかった。フルートを膝に置いて、マウスピースについた水滴を布で拭いた。


「そうじゃない。たぶん、そうじゃないけど」


 相沢の声は擦れていた。


「私だって、部を残したいよ。だけど、湊と蓮だけの部じゃない」


 湊は、椅子から立てなかった。


 それは正論だった。正論は、ピアノの調律が狂っている時の和音に似ている。間違ってはいないのに、耳のどこかに残る。


     *


 蓮は中庭の自販機の前にいた。


 夕方の校舎の影が伸びて、ベンチの半分だけ暗かった。自販機の取り出し口には、誰かが買い間違えたらしい無糖コーヒーが一本、置きっぱなしになっていた。


 蓮はそれを見ているだけだった。


「飲まないの」


 湊が声をかけると、蓮は振り返らずに言った。


「拾い食いみたいなことしないし」

「飲み物だけど」

「細か」


 湊は隣に立った。


 蓮の髪は、近くで見ると少し色が抜けていた。根元の黒が伸びている。校則のせいで黒に戻すと何度も言っているのに、結局戻していない。


 湊はそれに触れたことがない。


 前に一度だけ、似合ってる、と言ったから。


 それが理由かどうかなんて、知らない。


「さっきの」

「なに」

「……言いすぎた」

「どれ」

「全部」


 蓮はスティックを手の中で回した。いつもより回転が乱れて、指に引っかかった。


「謝るの下手すぎ」

「うるさい」

「そこは否定しないんだ」

「する必要ないだろ」


 蓮はやっと湊を見た。


 目の下に、うっすらクマがあった。派手な髪と、適当に着崩した制服のせいで目立たないだけで、最近ずっと眠れていないのかもしれない。


「なに」

「俺が抑えてるの、手抜きだと思ってた?」


 湊は答えられなかった。


 蓮は自販機のボタンを押した。出てきたのは甘いカフェオレだった。蓮はそれを湊に差し出した。


「いらない」

「おまえ、これしか飲まないじゃん。家の近くのコンビニでもこれ」

「なんで知ってるの」

「前、買ってた」

「いつ」

「知らん。だいぶ前」


 湊は受け取らなかった。


 蓮の手が少し下がった。缶の表面に水滴がついて、指先を濡らしている。


「俺さ、リズム崩さないのだけが取り柄みたいに言われんの、別に嫌じゃないんだけど」


 蓮は笑わなかった。


「それだけって言われると、まあ、ちょっと」


 湊は缶を見た。


 甘いカフェオレ。蓮はブラックしか飲まない。苦くて飲めないくせに、ずっとそう言い張っている。中学の頃、吹き出したことがあるのを湊は覚えている。


「俺は、蓮の音がないと弾けない」


 言ってから、湊は自分の靴先を見た。


 上履きのゴムが少し剥がれている。朝から気づいていた。でも直していない。


「そういうこと、音楽室で言えよ」

「言えるわけないだろ」

「なんで」

「……むかつくから」

「誰に」

「知らない」


 蓮が小さく息を吐いた。


「俺もむかついた」

「うん」

「湊がさ、俺じゃなくてもいいみたいに弾くから」

 湊は顔を上げた。

「そんなふうに弾いてない」

「弾いてた」

「弾いてない」

「じゃあ俺が勝手にそう聞こえただけ」


 蓮はカフェオレの缶をベンチに置いた。置き方が雑で、缶が少し揺れた。


「俺、湊が前出るの嫌なんじゃないよ。むしろ出ろって思ってる。でも、たまにさ、俺の音、置いていく」

「置いてない」

「置いてる」

「置いてない」

「ほら、すぐそれ」


 蓮はスティックの先で、ベンチの脚を軽く叩いた。カン、カン、カン。一定の間隔。ふざけているみたいで、ふざけていない。


「俺、追いつけるよ。だけど追いつけるからって、毎回試されんのは、違うじゃん」


 湊は唇を噛んだ。


 そんなつもりはなかった。


 でも、弾くたびにどこかで確かめていた。蓮なら来る。蓮なら崩れない。蓮なら、自分がどれだけ前へ出ても、必ず後ろにいる。


 それを信じている、という言い方は便利すぎる。


 たぶん、甘えていた。


「……ごめん」


 蓮は目をそらした。


「二回目」

「数えるな」

「貴重だから」

「うるさい」


 湊はカフェオレの缶を取った。


 蓮が少しだけ目を細めた。


「飲むんだ」

「ぬるくなる」

「そこ?」

「そこ」


 缶を開ける音がした。


 ひと口飲むと、甘すぎた。なのに、舌に残る味が少しだけ落ち着かなかった。


     *


 コンクール前の二週間は、部室の時計が壊れたみたいだった。


 朝練、授業、昼の個人練、放課後の合奏。譜面の端は書き込みで埋まり、チューナーの電池は何度も切れた。誰かが忘れた汗拭きシートの匂いが打楽器置き場に残り、空のペットボトルが窓際に並んだ。


 衝突は、なくならなかった。


 トランペットの二年が「どうせ瀬川と桐生が目立つ曲なんでしょ」と言った日、蓮は笑って「じゃあ目立てば」と返した。言い方が軽すぎて、相手が余計に怒った。


 湊はその場で口を出しそうになったが、蓮が足でピアノ椅子を小さく蹴った。


 黙ってろ、の合図。


 昔からそうだった。蓮は言葉より先に物を鳴らす。机、椅子、スティック、時には湊の靴のつま先。


「目立ちたいなら、そこ、半拍遅れないで」


 蓮はそう言った。


 相手は顔を赤くした。


 湊は、ひやりとした。自分が言ったら刺さる言葉を、蓮が言った。


 でも蓮は続けた。


「俺も合わせる。湊も抑える。だからそっちも来て。誰かが後ろにいると思って吹くの、やめよ」


 音楽室の空気が、少し変な形で止まった。


 湊は鍵盤に置いた指を見ていた。


 抑える。


 その言葉に、前なら反射で噛みついていた。


 でも今は、蓮の右手首に巻かれたテーピングのほうが気になった。昨日より雑に巻かれている。端が剥がれかけていた。


 練習後、湊は黙って救急箱から新しいテープを出した。


「手、出して」

「え、なに。こわ」

「いいから」

「自分でできる」

「できてない」


 蓮は文句を言いながら、手を出した。


 手首は思ったより熱かった。汗の匂いと、制汗スプレーの甘い匂いが混ざっている。


「痛い?」

「別に」

「嘘」

「なんでわかんの」

「指、逃げてる」


 蓮は黙った。


 湊はテープを巻き直した。きつすぎないように。緩すぎないように。ピアノのペダルを踏む時の加減に似ていた。踏めばいいわけじゃない。離せばいいわけでもない。


「おまえ、こういうのだけ丁寧だよな」

「こういうのだけってなに」

「プリントは鞄の底でくしゃくしゃなのに」

「見るな」

「見える」

「見ない努力をしろ」


 蓮は笑った。今度は、いつもの軽さが少し戻っていた。


「湊」

「なに」

「本番、俺見る?」

「見ない」

「見ろよ」

「無理」

「なんで」

「鍵盤見るから」

「じゃあ耳で見て」


 湊はテープを切る手を止めた。


「なにそれ」

「今、俺いいこと言ったかも」

「言ってない」

「照れんなって」

「照れてない」


 蓮は手首を引っ込めた。巻かれたテープを親指で押している。


「俺は見るよ。湊の背中」

「やめろ」

「なんで」

「弾きにくい」

「じゃあ見る」

「性格悪い」

「今さら?」


 湊は救急箱を閉じた。


 蓮のロッカーの上には、古いスティックが置いてあった。湊が前に拾った一本。蓮はまだそれをしまっていない。捨てるでもなく、使うでもなく、そこに置いている。


 たぶん、お互いそういうものばかり増やしている。


     *


 本番の日、ホールの控室は狭かった。


 制服の上から部のブレザーを着て、全員が譜面と楽器と飲み物を抱えていた。床にはコンビニのおにぎりの包装、使い終わったリードケース、誰かの絆創膏の紙が落ちている。


 湊は膝の上で指を動かしていた。


 鍵盤はない。なのに、指だけが勝手に曲をなぞる。


 蓮は少し離れたところで、スティックの先を見ていた。今日は古い一本ではなく、新しいスティックだった。白木がまだ明るい。


「桐生、髪」


 相沢が言った。


 蓮の前髪が目にかかっていた。


「あー、ピンある?」


「持ってない」


 湊は自分のポーチから、黒いヘアピンを一本出した。


 蓮が変な顔をした。


「なんで持ってんの」

「前髪邪魔な時あるから」

「湊が?」

「悪い?」

「いや、かわ……」


 蓮は途中でやめた。


 湊は聞こえなかったふりをして、蓮の前髪を留めた。指が額に触れた。蓮が目を閉じたので、湊は少しだけ手を止めた。


「動くな」

「動いてない」

「目、閉じるな」

「刺さりそうで」

「刺さない」

「信用してる」


 湊はピンを留め終えた。


 蓮は少し間の抜けた顔になった。派手な髪を黒いピンで押さえられて、急に幼く見える。


「笑うなよ」

「笑ってない」

「口」

「元から」

「嘘つけ」


 舞台袖に移動する時間になった。


 金管のベルが照明を拾う。木管のキーが小さく鳴る。打楽器の台車が床の継ぎ目で揺れた。


 湊はピアノの椅子に座った。


 ホールの客席は暗くて、誰がいるかわからない。音が吸われる感じがした。けれど、後ろで蓮がハイハットを一度だけ閉じた音がした。


 チッ。


 それだけで、湊の指は鍵盤の位置を思い出した。


 曲が始まった。


 最初の木管は、少し固かった。だけど昨日より遅れていない。金管が入る。ホールの天井へ音が広がる。湊は出番を待った。


 ピアノの入口。


 いつもなら、ここで前へ出る。


 今日は、半歩だけ待った。


 後ろで蓮のドラムが入る。正確なだけではない音だった。拍の真ん中にいるのに、そこから押してくる。湊はその上に乗った。


 鍵盤が軽かった。


 いや、軽いわけではない。ホールのピアノは学校のより重い。けれど、蓮のリズムが背中側にあると、指が迷わなかった。


 中盤、全体が一瞬だけ揺れた。


 トランペットが走った。クラリネットが飲まれかけた。


 蓮のスネアが、ほんの少しだけ強く鳴った。


 戻れ。


 そう聞こえた。


 湊は左手の刻みを変えた。譜面にはない、ぎりぎりの支え方。出すぎない。沈まない。蓮のバスドラムがそこへ合った。


 音楽室で何度もぶつかった場所だった。


 今日は、噛んだ。


 最後の和音を鳴らし終えた瞬間、湊は手を鍵盤の上に置いたまま動けなかった。


 客席の拍手が遅れて来た。


 湊は振り返らなかった。


 でも、背中のほうで蓮がスティックを膝に落とした音がした。


     *


 結果発表は、ロビーの端で聞いた。


 金賞。

 代表。

 優勝。


 相沢が最初に泣きそうな顔になって、それをごまかすみたいに部員の肩を叩きまくった。トランペットの二年は、何度も「やば」と言った。クラリネットの一年は、楽器ケースを抱いたまま座り込んだ。


 廃部の話は、誰も口にしなかった。


 言うと壊れそうだったからかもしれない。


 湊は壁際に立っていた。


 手には、蓮のヘアピンがあった。本番後、蓮が外して返してきたものだ。少し曲がっている。


「返せよ、それ」


 蓮が隣に来た。


「俺のだけど」

「今日の俺を作ったやつじゃん」

「大げさ」

「記念に」

「だめ」

「けち」


 蓮は笑っていたが、目元だけ疲れていた。打ち上げに行こうと部員たちが騒いでいる。相沢が先生と話している。ホールのロビーには、自販機のモーター音と、他校の笑い声が混ざっていた。


「湊」

「なに」

「屋上、行かね」

「ここホールだけど」

「外階段ある」

「勝手に行っていいの」

「知らん」

「だめだろ」

「じゃあ、非常口の前」

「それもだめ」

「細か」


 結局、二人はホール裏の搬入口に出た。


 夕方の空は、まだ完全に暗くなっていなかった。トラックのタイヤ跡が残ったコンクリートの上に、枯れた葉が数枚貼りついている。どこかの学校のチューバケースが、壁にもたれて置かれていた。


 蓮は制服のポケットから、古いスティックを出した。


 湊は目を止めた。


「持ってきてたの」

「予備」

「今日、使ってない」

「予備だから」

「嘘」

「うん」


 蓮はあっさり認めた。


 湊は言葉を探したが、見つからなかった。


 蓮はスティックの先を親指で撫でた。古い傷がいくつもある。中学の頃、音楽室の床に落として欠けた部分もそのままだ。


「これ、捨てようと思ったことあるんだけど」

「うん」

「なんか、捨てる日に限って湊が変なこと言うから」

「俺?」

「この音が好き、とか」


 湊は息を止めそうになって、やめた。


 蓮は覚えていた。


「……変なことじゃない」

「じゃあ、なんだよ」

「別に」

「出た」


 蓮は笑った。


 湊はポケットの中で、曲がったヘアピンを握った。


「俺も、去年の楽譜、捨ててない」

「知ってる」

「なんで」

「朝、見てた」

「それは今日」

「前から知ってる。ファイルの一番後ろ。角折れてるやつ」

「見るなって言っただろ」

「見えるんだって」


 湊は、蓮のそういうところが嫌だった。


 勝手に見つける。勝手に覚える。勝手に、何も言わずそばにいる。


 嫌なはずなのに、その勝手さがなくなったら、たぶん弾けない。


「蓮」

「なに」

「今日、弾いてる時」

「うん」

「おまえの音、聞いてた」

「知ってる」

「知ってるって言うな」

「じゃあ、知らなかった」

「それも違う」

「めんどくさ」


 蓮はスティックをポケットに戻した。


 しばらく、搬入口の向こうを台車が通る音だけがした。ガラガラ、と鳴って、遠ざかる。誰かがケースの留め具を閉める音。金属の小さい音。


 湊は、言わなければまた逃げると思った。


 でも、言い方がわからなかった。


 ずっと隣にいた。幼馴染で、同じクラスで、同じ部活で。家も近くて、昔から互いの親も知っていて、相手の好きな飲み物も、嘘をつく時の手も、眠い時の目つきも知っている。


 知りすぎていて、見ていなかった。


「俺さ」

「うん」

「蓮が、他のやつに合わせてるの見ると」

「うん」

「……むかつく」


 蓮の視線が、湊の横顔に刺さった。


「それ、音楽の話?」

「音楽の話」

「ほんとに?」

「……たぶん」


 蓮は少し笑った。


 でも、からかわなかった。


「俺も」

「なにが」

「湊が、ピアノのことしか見てない時、むかつく」

「それはいつもだろ」

「いつもだから、余計」


 蓮は靴の先で、コンクリートの小石を弾いた。


「俺、湊の隣にいるの、当たり前だと思ってたんだけど」

「うん」

「当たり前って、便利すぎるな」


 湊は曲がったヘアピンを取り出した。


「これ」

「返してくれんの」

「やる」

「さっきだめって言ったじゃん」

「気が変わった」

「なにそれ」

「記念」


 蓮はヘアピンを受け取った。指先が触れた。ほんの少しだけ。


 蓮はそれを制服の胸ポケットに入れようとして、やめて、財布の中にしまった。


「そこに入れるの」

「なくすから」

「財布ならなくさない?」

「たぶん」

「蓮の財布、レシートだらけだろ」

「見るなよ」

「見える」


 蓮は笑って、すぐに黙った。


 湊も黙った。


 告白というものは、もっと場所を選ぶのだと思っていた。放課後の教室とか、花火のあととか、駅のホームとか。少なくとも、搬入口の前ではない。近くに台車があり、誰かの忘れた軍手が落ちていて、自販機の横には空き缶用のゴミ袋が括りつけられている。


 でも、蓮が財布にヘアピンを入れたのを見たら、もう無理だった。


「蓮」

「うん」

「俺、おまえのこと、たぶん」


 言葉が止まった。


 蓮は待っていた。急かさず、笑わず、スティックも鳴らさずに。


「たぶん、じゃなくて」


 湊は言い直した。


「好き、なんだと思う」


 言ったあとで、思う、が余計だった気がした。


 蓮が少しだけ顔を伏せた。髪の根元の黒が見えた。ヘアピンで留められていた跡が、前髪に変な癖を残している。


「俺は」


 蓮が言った。


「俺は、たぶん、もっと前から」

「前っていつ」

「知らん」

「知らんのかよ」

「だって、湊が隣にいすぎた」


 蓮は顔を上げた。


「でも今日、わかった。俺、湊のピアノに置いていかれるのが嫌なんじゃなくて、湊が俺なしで平気そうなのが嫌だった」


 湊は何も言えなかった。


 蓮は、言ってしまったことを少し後悔している顔をした。すぐに軽口へ逃げるかと思ったが、逃げなかった。


「だから、俺も。好き。たぶんじゃなくて」


 搬入口の奥で、誰かが「桐生ー! 瀬川ー!」と呼んだ。


 蓮が返事をしようとして、やめた。


 湊は、蓮の袖をつかんだ。


 強くはない。けれど離すつもりもなかった。


「行く?」


 蓮が訊いた。


「行く」

「手」

「なに」

「そのまま?」


 湊は袖をつかんだ手を見た。


 離す理由はいくつもあった。部員に見られる。からかわれる。説明できない。さっき告白したばかりで、どういう顔をすればいいかわからない。


 湊は袖を離した。


 蓮の手が、一瞬だけ宙に残った。


 それから蓮が、自分から湊の指をつかんだ。


「こっちのほうが、ばれにくい」

「ばれるだろ」

「じゃあ、ばれたら、打ち上げのノリってことにする」

「最低」

「湊も使える言い訳だぞ」

「使わない」

「じゃあ、なんて言うの」


 湊は答えなかった。


 蓮の指は、テーピングのせいで少し硬かった。湊はその端がまた剥がれかけているのに気づいた。


「あとで巻き直す」

「なにを」

「テープ」

「今それ?」

「気になる」

「ほんと、そういうとこ」


 蓮が笑った。


 呼び声がもう一度した。


 二人は手をつないだまま、搬入口の薄暗い影から出た。蓮の財布の中で、曲がったヘアピンがレシートに挟まれている。湊の鞄の中では、角の折れた楽譜が、まだ一番うしろに入ったままだった。

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