ピアノは、君のドラムを待っている
朝の教室で、黒板消しクリーナーが変な音を立てていた。
ぶおん、ぶおん、と吸っているのか吐いているのかわからない音。誰かが昨日の放課後、掃除当番をサボったのだろう。窓際の床には、消し残しのチョークの粉がうっすら積もっていて、陽が当たると白く浮いた。
瀬川湊は、自分の机の上に置いた楽譜の端を、親指で何度もこすっていた。
角が少し丸くなっている。去年の文化祭で使った譜面だ。もう使う予定はない。なのに捨てていない。楽譜ファイルの一番うしろに、折れたまま挟んである。
「またそれ見てんの」
声だけで、誰かわかった。
湊は顔を上げずに、楽譜を閉じた。
「見てない」
「いや、見てたじゃん。俺が来た瞬間、閉じたじゃん」
「うるさい」
椅子の背に片膝をぶつけながら、桐生蓮が前の席に座った。明るい茶色に染めた髪は、校則ぎりぎりというより、もう少し向こう側にある。ピアス穴は塞いだと言っているが、耳たぶにはまだ小さな跡がある。
見た目だけなら、吹奏楽部より軽音部にいそうだった。
でも、蓮がドラムセットの前に座ると、部室の空気が一段だけ整う。
どれだけ金管が走っても、木管がもつれても、蓮のスティックだけは拍の真ん中に落ちる。派手な見た目のくせに、音はぜんぜん派手じゃない。必要なところで鳴って、必要のないところでは黙る。
湊はそれが少し嫌だった。
少し、だけだ。
「今日、朝練来なかったろ」
「行った」
「来てねえよ。俺、最初からいたし」
「……音楽室には行った」
「ピアノ弾かずに?」
湊は答えなかった。
蓮は机の横にかけていたコンビニ袋から、菓子パンを出した。潰れている。たぶん鞄の中でスティックケースに押されたのだろう。
「食う?」
「いらない」
「昼まで持たない顔してる」
「顔で決めるな」
「決めてない。幼稚園の頃から、湊は腹減ると鍵盤見る目が怖くなる」
湊はシャープペンの先を出したり戻したりした。
カチ、カチ、と小さい音がした。
幼稚園の頃、と蓮が言うたびに、湊は少しだけ返事が遅れる。昔を持ち出されるのが嫌なわけではない。ただ、その頃の蓮は、湊のことを何でも知っているような顔をしなかった。
何でも知っているくせに、知らないふりをするのが上手くなかった。
「部長、朝から怒ってたよ」
「また?」
「また。コンクールの話」
湊はシャープペンを止めた。
吹奏楽部は、今年のコンクールで県大会金賞以上を取れなければ、来年度から活動縮小。事実上の廃部。
理由はわかりやすい。部員数が減った。成績が出ない。顧問の異動もある。学校としては、実績のない部に予算を回せない。
言い方だけがやわらかい。
活動縮小。
湊には、その言葉がどうしても嫌だった。音が細くなる感じがする。最後まで鳴らしきる前に、誰かが勝手にフェーダーを下げるみたいで。
「湊、今日の合奏、ちょっと抑えろって」
「誰が」
「部長」
「俺、昨日なにも言われてない」
「言えなかったんじゃね。おまえ、ピアノのとこだけ顔が別人だから」
「別人ってなに」
「褒めてる」
「嘘」
蓮は菓子パンの袋を破りながら、笑った。笑い方が軽い。だけど目は、机に伏せた湊の楽譜のほうを見ていた。
「ほんと。怖いくらい、いい」
湊は返事をしなかった。
昔、同じことを言われた。
小学校の体育館。卒業式の伴奏練習。蛍光灯が一本だけちらついていて、先生が「そこ、もう少しやさしく」と何度も言った。湊はやさしく弾けなかった。蓮はその時、後ろで卒業式用の小太鼓を叩いていた。
練習が終わって、蓮が言った。
怖いくらい、いい。
その言葉だけ、なぜか残っている。言った本人は、たぶん忘れている。
「……食べかす、落ちてる」
「え、どこ」
「膝」
「あー」
蓮は制服のズボンを払った。パンくずが床に落ちた。
「落とすなよ」
「あとで拾う」
「絶対拾わない」
「拾うって」
「昨日もスティックの先、部室に落として帰った」
「見つけてくれたんだ」
湊はまた黙った。
拾った。しかも、捨てずに蓮のロッカーの上に置いた。名前のシールが剥がれかけている、古いスティックだった。蓮は新しいのを何本も持っているのに、なぜかあれだけいつも持ち歩いている。
昔、湊が「その音、好き」と言った一本だ。
それも、たぶん蓮は忘れている。
*
放課後の音楽室は、湿ったリードの匂いと、古い木の床のワックスの匂いが混ざっていた。
譜面台が並んでいる。椅子の脚が床を擦る音。チューナーの電子音。誰かの水筒が倒れて、部長の相沢が「ちょっと、ほんとにさ」と低く言った。
湊はピアノの前に座っていた。
合奏曲は、吹奏楽用に編曲されたラテン調の曲だった。打楽器が多く、ピアノもただの伴奏ではない。中盤でピアノが前に出て、そこへドラムが拍を固定し、全体が一気に走り出す。
走り出す、はずだった。
「またそこ、ピアノが強い」
相沢の声が飛んだ。
湊は鍵盤から手を離した。
「強くない」
「強いよ。木管、聞こえない」
「木管が遅れてるから」
言った瞬間、クラリネットの一年が顔を下げた。
相沢の眉が動いた。
「そういう言い方やめて」
「事実だろ」
「事実でも、言い方あるじゃん」
「じゃあどう言えばいいの」
「だから、それがさ」
空気が、リズムを失ったまま床に落ちた。
蓮がスティックを軽く鳴らした。カン、カン。二拍だけ。
「一回、俺らだけで合わせよ。ピアノとドラム。そこが噛まないと全体無理だし」
「噛んでる」
湊が言うと、蓮は顔を傾けた。
「噛んでない」
「おまえが後ろで抑えすぎるから」
「湊が前に出すぎ」
「出なきゃ曲にならない」
「出方の話」
「わかったようなこと言うなよ」
蓮のスティックが止まった。
誰かが譜面を落とした。薄い紙が床で滑って、チューナーのコードに引っかかった。
「……わかってないように見える?」
蓮の声は大きくなかった。だから余計に、音楽室の後ろまで届いた。
湊は鍵盤のふたの端に指を置いた。爪の横が、ささくれていた。昨日から気になっていたのに、切るのを忘れている。
「見える」
蓮は笑った。いつもの軽い笑い方ではなかった。
「そっか」
それだけ言って、蓮は立ち上がった。
「どこ行くの」
相沢が訊いた。
「水飲んでくる」
「今?」
「今」
蓮はスティックを持ったまま音楽室を出ていった。
ドアが閉まる音が、合奏の失敗より大きく聞こえた。
湊はピアノの前に座ったまま、譜面の上の書き込みを見ていた。
rit.を、誰かが赤ペンで囲っている。たぶん蓮だ。蓮は自分のパート譜だけではなく、湊の譜面にもたまに書き込みをする。いつも「見やすくしといた」と言う。勝手に触るな、と湊は毎回言う。
でも消さない。
「瀬川」
相沢が言った。
「なに」
「湊ってさ、上手いけど、こわい」
「……知ってる」
「知ってるなら、もうちょっと」
「上手くない人に合わせろってこと?」
言ってから、違うと思った。
相沢はすぐに怒らなかった。フルートを膝に置いて、マウスピースについた水滴を布で拭いた。
「そうじゃない。たぶん、そうじゃないけど」
相沢の声は擦れていた。
「私だって、部を残したいよ。だけど、湊と蓮だけの部じゃない」
湊は、椅子から立てなかった。
それは正論だった。正論は、ピアノの調律が狂っている時の和音に似ている。間違ってはいないのに、耳のどこかに残る。
*
蓮は中庭の自販機の前にいた。
夕方の校舎の影が伸びて、ベンチの半分だけ暗かった。自販機の取り出し口には、誰かが買い間違えたらしい無糖コーヒーが一本、置きっぱなしになっていた。
蓮はそれを見ているだけだった。
「飲まないの」
湊が声をかけると、蓮は振り返らずに言った。
「拾い食いみたいなことしないし」
「飲み物だけど」
「細か」
湊は隣に立った。
蓮の髪は、近くで見ると少し色が抜けていた。根元の黒が伸びている。校則のせいで黒に戻すと何度も言っているのに、結局戻していない。
湊はそれに触れたことがない。
前に一度だけ、似合ってる、と言ったから。
それが理由かどうかなんて、知らない。
「さっきの」
「なに」
「……言いすぎた」
「どれ」
「全部」
蓮はスティックを手の中で回した。いつもより回転が乱れて、指に引っかかった。
「謝るの下手すぎ」
「うるさい」
「そこは否定しないんだ」
「する必要ないだろ」
蓮はやっと湊を見た。
目の下に、うっすらクマがあった。派手な髪と、適当に着崩した制服のせいで目立たないだけで、最近ずっと眠れていないのかもしれない。
「なに」
「俺が抑えてるの、手抜きだと思ってた?」
湊は答えられなかった。
蓮は自販機のボタンを押した。出てきたのは甘いカフェオレだった。蓮はそれを湊に差し出した。
「いらない」
「おまえ、これしか飲まないじゃん。家の近くのコンビニでもこれ」
「なんで知ってるの」
「前、買ってた」
「いつ」
「知らん。だいぶ前」
湊は受け取らなかった。
蓮の手が少し下がった。缶の表面に水滴がついて、指先を濡らしている。
「俺さ、リズム崩さないのだけが取り柄みたいに言われんの、別に嫌じゃないんだけど」
蓮は笑わなかった。
「それだけって言われると、まあ、ちょっと」
湊は缶を見た。
甘いカフェオレ。蓮はブラックしか飲まない。苦くて飲めないくせに、ずっとそう言い張っている。中学の頃、吹き出したことがあるのを湊は覚えている。
「俺は、蓮の音がないと弾けない」
言ってから、湊は自分の靴先を見た。
上履きのゴムが少し剥がれている。朝から気づいていた。でも直していない。
「そういうこと、音楽室で言えよ」
「言えるわけないだろ」
「なんで」
「……むかつくから」
「誰に」
「知らない」
蓮が小さく息を吐いた。
「俺もむかついた」
「うん」
「湊がさ、俺じゃなくてもいいみたいに弾くから」
湊は顔を上げた。
「そんなふうに弾いてない」
「弾いてた」
「弾いてない」
「じゃあ俺が勝手にそう聞こえただけ」
蓮はカフェオレの缶をベンチに置いた。置き方が雑で、缶が少し揺れた。
「俺、湊が前出るの嫌なんじゃないよ。むしろ出ろって思ってる。でも、たまにさ、俺の音、置いていく」
「置いてない」
「置いてる」
「置いてない」
「ほら、すぐそれ」
蓮はスティックの先で、ベンチの脚を軽く叩いた。カン、カン、カン。一定の間隔。ふざけているみたいで、ふざけていない。
「俺、追いつけるよ。だけど追いつけるからって、毎回試されんのは、違うじゃん」
湊は唇を噛んだ。
そんなつもりはなかった。
でも、弾くたびにどこかで確かめていた。蓮なら来る。蓮なら崩れない。蓮なら、自分がどれだけ前へ出ても、必ず後ろにいる。
それを信じている、という言い方は便利すぎる。
たぶん、甘えていた。
「……ごめん」
蓮は目をそらした。
「二回目」
「数えるな」
「貴重だから」
「うるさい」
湊はカフェオレの缶を取った。
蓮が少しだけ目を細めた。
「飲むんだ」
「ぬるくなる」
「そこ?」
「そこ」
缶を開ける音がした。
ひと口飲むと、甘すぎた。なのに、舌に残る味が少しだけ落ち着かなかった。
*
コンクール前の二週間は、部室の時計が壊れたみたいだった。
朝練、授業、昼の個人練、放課後の合奏。譜面の端は書き込みで埋まり、チューナーの電池は何度も切れた。誰かが忘れた汗拭きシートの匂いが打楽器置き場に残り、空のペットボトルが窓際に並んだ。
衝突は、なくならなかった。
トランペットの二年が「どうせ瀬川と桐生が目立つ曲なんでしょ」と言った日、蓮は笑って「じゃあ目立てば」と返した。言い方が軽すぎて、相手が余計に怒った。
湊はその場で口を出しそうになったが、蓮が足でピアノ椅子を小さく蹴った。
黙ってろ、の合図。
昔からそうだった。蓮は言葉より先に物を鳴らす。机、椅子、スティック、時には湊の靴のつま先。
「目立ちたいなら、そこ、半拍遅れないで」
蓮はそう言った。
相手は顔を赤くした。
湊は、ひやりとした。自分が言ったら刺さる言葉を、蓮が言った。
でも蓮は続けた。
「俺も合わせる。湊も抑える。だからそっちも来て。誰かが後ろにいると思って吹くの、やめよ」
音楽室の空気が、少し変な形で止まった。
湊は鍵盤に置いた指を見ていた。
抑える。
その言葉に、前なら反射で噛みついていた。
でも今は、蓮の右手首に巻かれたテーピングのほうが気になった。昨日より雑に巻かれている。端が剥がれかけていた。
練習後、湊は黙って救急箱から新しいテープを出した。
「手、出して」
「え、なに。こわ」
「いいから」
「自分でできる」
「できてない」
蓮は文句を言いながら、手を出した。
手首は思ったより熱かった。汗の匂いと、制汗スプレーの甘い匂いが混ざっている。
「痛い?」
「別に」
「嘘」
「なんでわかんの」
「指、逃げてる」
蓮は黙った。
湊はテープを巻き直した。きつすぎないように。緩すぎないように。ピアノのペダルを踏む時の加減に似ていた。踏めばいいわけじゃない。離せばいいわけでもない。
「おまえ、こういうのだけ丁寧だよな」
「こういうのだけってなに」
「プリントは鞄の底でくしゃくしゃなのに」
「見るな」
「見える」
「見ない努力をしろ」
蓮は笑った。今度は、いつもの軽さが少し戻っていた。
「湊」
「なに」
「本番、俺見る?」
「見ない」
「見ろよ」
「無理」
「なんで」
「鍵盤見るから」
「じゃあ耳で見て」
湊はテープを切る手を止めた。
「なにそれ」
「今、俺いいこと言ったかも」
「言ってない」
「照れんなって」
「照れてない」
蓮は手首を引っ込めた。巻かれたテープを親指で押している。
「俺は見るよ。湊の背中」
「やめろ」
「なんで」
「弾きにくい」
「じゃあ見る」
「性格悪い」
「今さら?」
湊は救急箱を閉じた。
蓮のロッカーの上には、古いスティックが置いてあった。湊が前に拾った一本。蓮はまだそれをしまっていない。捨てるでもなく、使うでもなく、そこに置いている。
たぶん、お互いそういうものばかり増やしている。
*
本番の日、ホールの控室は狭かった。
制服の上から部のブレザーを着て、全員が譜面と楽器と飲み物を抱えていた。床にはコンビニのおにぎりの包装、使い終わったリードケース、誰かの絆創膏の紙が落ちている。
湊は膝の上で指を動かしていた。
鍵盤はない。なのに、指だけが勝手に曲をなぞる。
蓮は少し離れたところで、スティックの先を見ていた。今日は古い一本ではなく、新しいスティックだった。白木がまだ明るい。
「桐生、髪」
相沢が言った。
蓮の前髪が目にかかっていた。
「あー、ピンある?」
「持ってない」
湊は自分のポーチから、黒いヘアピンを一本出した。
蓮が変な顔をした。
「なんで持ってんの」
「前髪邪魔な時あるから」
「湊が?」
「悪い?」
「いや、かわ……」
蓮は途中でやめた。
湊は聞こえなかったふりをして、蓮の前髪を留めた。指が額に触れた。蓮が目を閉じたので、湊は少しだけ手を止めた。
「動くな」
「動いてない」
「目、閉じるな」
「刺さりそうで」
「刺さない」
「信用してる」
湊はピンを留め終えた。
蓮は少し間の抜けた顔になった。派手な髪を黒いピンで押さえられて、急に幼く見える。
「笑うなよ」
「笑ってない」
「口」
「元から」
「嘘つけ」
舞台袖に移動する時間になった。
金管のベルが照明を拾う。木管のキーが小さく鳴る。打楽器の台車が床の継ぎ目で揺れた。
湊はピアノの椅子に座った。
ホールの客席は暗くて、誰がいるかわからない。音が吸われる感じがした。けれど、後ろで蓮がハイハットを一度だけ閉じた音がした。
チッ。
それだけで、湊の指は鍵盤の位置を思い出した。
曲が始まった。
最初の木管は、少し固かった。だけど昨日より遅れていない。金管が入る。ホールの天井へ音が広がる。湊は出番を待った。
ピアノの入口。
いつもなら、ここで前へ出る。
今日は、半歩だけ待った。
後ろで蓮のドラムが入る。正確なだけではない音だった。拍の真ん中にいるのに、そこから押してくる。湊はその上に乗った。
鍵盤が軽かった。
いや、軽いわけではない。ホールのピアノは学校のより重い。けれど、蓮のリズムが背中側にあると、指が迷わなかった。
中盤、全体が一瞬だけ揺れた。
トランペットが走った。クラリネットが飲まれかけた。
蓮のスネアが、ほんの少しだけ強く鳴った。
戻れ。
そう聞こえた。
湊は左手の刻みを変えた。譜面にはない、ぎりぎりの支え方。出すぎない。沈まない。蓮のバスドラムがそこへ合った。
音楽室で何度もぶつかった場所だった。
今日は、噛んだ。
最後の和音を鳴らし終えた瞬間、湊は手を鍵盤の上に置いたまま動けなかった。
客席の拍手が遅れて来た。
湊は振り返らなかった。
でも、背中のほうで蓮がスティックを膝に落とした音がした。
*
結果発表は、ロビーの端で聞いた。
金賞。
代表。
優勝。
相沢が最初に泣きそうな顔になって、それをごまかすみたいに部員の肩を叩きまくった。トランペットの二年は、何度も「やば」と言った。クラリネットの一年は、楽器ケースを抱いたまま座り込んだ。
廃部の話は、誰も口にしなかった。
言うと壊れそうだったからかもしれない。
湊は壁際に立っていた。
手には、蓮のヘアピンがあった。本番後、蓮が外して返してきたものだ。少し曲がっている。
「返せよ、それ」
蓮が隣に来た。
「俺のだけど」
「今日の俺を作ったやつじゃん」
「大げさ」
「記念に」
「だめ」
「けち」
蓮は笑っていたが、目元だけ疲れていた。打ち上げに行こうと部員たちが騒いでいる。相沢が先生と話している。ホールのロビーには、自販機のモーター音と、他校の笑い声が混ざっていた。
「湊」
「なに」
「屋上、行かね」
「ここホールだけど」
「外階段ある」
「勝手に行っていいの」
「知らん」
「だめだろ」
「じゃあ、非常口の前」
「それもだめ」
「細か」
結局、二人はホール裏の搬入口に出た。
夕方の空は、まだ完全に暗くなっていなかった。トラックのタイヤ跡が残ったコンクリートの上に、枯れた葉が数枚貼りついている。どこかの学校のチューバケースが、壁にもたれて置かれていた。
蓮は制服のポケットから、古いスティックを出した。
湊は目を止めた。
「持ってきてたの」
「予備」
「今日、使ってない」
「予備だから」
「嘘」
「うん」
蓮はあっさり認めた。
湊は言葉を探したが、見つからなかった。
蓮はスティックの先を親指で撫でた。古い傷がいくつもある。中学の頃、音楽室の床に落として欠けた部分もそのままだ。
「これ、捨てようと思ったことあるんだけど」
「うん」
「なんか、捨てる日に限って湊が変なこと言うから」
「俺?」
「この音が好き、とか」
湊は息を止めそうになって、やめた。
蓮は覚えていた。
「……変なことじゃない」
「じゃあ、なんだよ」
「別に」
「出た」
蓮は笑った。
湊はポケットの中で、曲がったヘアピンを握った。
「俺も、去年の楽譜、捨ててない」
「知ってる」
「なんで」
「朝、見てた」
「それは今日」
「前から知ってる。ファイルの一番後ろ。角折れてるやつ」
「見るなって言っただろ」
「見えるんだって」
湊は、蓮のそういうところが嫌だった。
勝手に見つける。勝手に覚える。勝手に、何も言わずそばにいる。
嫌なはずなのに、その勝手さがなくなったら、たぶん弾けない。
「蓮」
「なに」
「今日、弾いてる時」
「うん」
「おまえの音、聞いてた」
「知ってる」
「知ってるって言うな」
「じゃあ、知らなかった」
「それも違う」
「めんどくさ」
蓮はスティックをポケットに戻した。
しばらく、搬入口の向こうを台車が通る音だけがした。ガラガラ、と鳴って、遠ざかる。誰かがケースの留め具を閉める音。金属の小さい音。
湊は、言わなければまた逃げると思った。
でも、言い方がわからなかった。
ずっと隣にいた。幼馴染で、同じクラスで、同じ部活で。家も近くて、昔から互いの親も知っていて、相手の好きな飲み物も、嘘をつく時の手も、眠い時の目つきも知っている。
知りすぎていて、見ていなかった。
「俺さ」
「うん」
「蓮が、他のやつに合わせてるの見ると」
「うん」
「……むかつく」
蓮の視線が、湊の横顔に刺さった。
「それ、音楽の話?」
「音楽の話」
「ほんとに?」
「……たぶん」
蓮は少し笑った。
でも、からかわなかった。
「俺も」
「なにが」
「湊が、ピアノのことしか見てない時、むかつく」
「それはいつもだろ」
「いつもだから、余計」
蓮は靴の先で、コンクリートの小石を弾いた。
「俺、湊の隣にいるの、当たり前だと思ってたんだけど」
「うん」
「当たり前って、便利すぎるな」
湊は曲がったヘアピンを取り出した。
「これ」
「返してくれんの」
「やる」
「さっきだめって言ったじゃん」
「気が変わった」
「なにそれ」
「記念」
蓮はヘアピンを受け取った。指先が触れた。ほんの少しだけ。
蓮はそれを制服の胸ポケットに入れようとして、やめて、財布の中にしまった。
「そこに入れるの」
「なくすから」
「財布ならなくさない?」
「たぶん」
「蓮の財布、レシートだらけだろ」
「見るなよ」
「見える」
蓮は笑って、すぐに黙った。
湊も黙った。
告白というものは、もっと場所を選ぶのだと思っていた。放課後の教室とか、花火のあととか、駅のホームとか。少なくとも、搬入口の前ではない。近くに台車があり、誰かの忘れた軍手が落ちていて、自販機の横には空き缶用のゴミ袋が括りつけられている。
でも、蓮が財布にヘアピンを入れたのを見たら、もう無理だった。
「蓮」
「うん」
「俺、おまえのこと、たぶん」
言葉が止まった。
蓮は待っていた。急かさず、笑わず、スティックも鳴らさずに。
「たぶん、じゃなくて」
湊は言い直した。
「好き、なんだと思う」
言ったあとで、思う、が余計だった気がした。
蓮が少しだけ顔を伏せた。髪の根元の黒が見えた。ヘアピンで留められていた跡が、前髪に変な癖を残している。
「俺は」
蓮が言った。
「俺は、たぶん、もっと前から」
「前っていつ」
「知らん」
「知らんのかよ」
「だって、湊が隣にいすぎた」
蓮は顔を上げた。
「でも今日、わかった。俺、湊のピアノに置いていかれるのが嫌なんじゃなくて、湊が俺なしで平気そうなのが嫌だった」
湊は何も言えなかった。
蓮は、言ってしまったことを少し後悔している顔をした。すぐに軽口へ逃げるかと思ったが、逃げなかった。
「だから、俺も。好き。たぶんじゃなくて」
搬入口の奥で、誰かが「桐生ー! 瀬川ー!」と呼んだ。
蓮が返事をしようとして、やめた。
湊は、蓮の袖をつかんだ。
強くはない。けれど離すつもりもなかった。
「行く?」
蓮が訊いた。
「行く」
「手」
「なに」
「そのまま?」
湊は袖をつかんだ手を見た。
離す理由はいくつもあった。部員に見られる。からかわれる。説明できない。さっき告白したばかりで、どういう顔をすればいいかわからない。
湊は袖を離した。
蓮の手が、一瞬だけ宙に残った。
それから蓮が、自分から湊の指をつかんだ。
「こっちのほうが、ばれにくい」
「ばれるだろ」
「じゃあ、ばれたら、打ち上げのノリってことにする」
「最低」
「湊も使える言い訳だぞ」
「使わない」
「じゃあ、なんて言うの」
湊は答えなかった。
蓮の指は、テーピングのせいで少し硬かった。湊はその端がまた剥がれかけているのに気づいた。
「あとで巻き直す」
「なにを」
「テープ」
「今それ?」
「気になる」
「ほんと、そういうとこ」
蓮が笑った。
呼び声がもう一度した。
二人は手をつないだまま、搬入口の薄暗い影から出た。蓮の財布の中で、曲がったヘアピンがレシートに挟まれている。湊の鞄の中では、角の折れた楽譜が、まだ一番うしろに入ったままだった。




