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掲載日:2026/04/18

最初に違和感を覚えたのは、鍵が開いていたことだった。

僕の部屋は、古いながらもオートロック付きのマンションで、玄関の鍵を閉め忘れた記憶はここ一年、ただの一度もない。几帳面というより、閉めないと落ち着かない性分なのだ。

それなのに、仕事を終えて帰宅した僕は、鍵を差し込む前にドアがわずかに開いていることに気づいた。

――風、か?

そう思ったが、このマンションの廊下に風が吹き抜けることはない。

嫌な予感を振り払うように、ドアを押し開ける。

部屋の中は、いつも通りだった。

玄関に脱ぎ捨てられたスニーカー。

シンクに残った、朝のコーヒーカップ。

ソファの背に掛けたままの上着。

荒らされた形跡は、どこにもない。

僕は胸の奥に溜まった息を、ゆっくり吐き出した。

考えすぎだ。きっと。

だが、その安心感は、机の上を見た瞬間に粉々に砕けた。 

ノートが、開かれていた。

黒い表紙の、どこにでもある大学ノート。

それは、昨日の夜、確かに僕が閉じたまま、引き出しにしまったはずのものだった。

ページの中央に、見覚えのない文字がある。

「――思ったより、静かなんだね」

思わず、喉が鳴った。

ペンの種類は、僕が普段使っているものと同じだ。

癖のある字も、どこか似ている。

だが、この文を書いた記憶は、断じてない。

背後で、カタン、と小さな音がした。

反射的に振り向く。

そこには誰もいない。

ただ、リビングの窓が、ほんの少しだけ開いていた。

僕はその場に立ち尽くしたまま、頭の中で必死に説明を探す。

鍵のかけ忘れ。

記憶違い。

疲労。

そう、疲れているんだ。最近、睡眠時間も削っていたし。

そのとき、スマートフォンが震えた。

画面に表示された名前を見て、僕は少しだけ安堵する。

「……ああ、今帰ったところ」

電話の相手は、同じ大学の同期――高瀬 恒一だった。

ゼミも、サークルも同じで、気心の知れた友人だ。

『声、変じゃないか?』

「ちょっとな。……変なことがあって」

僕は、鍵のことと、ノートのことを簡単に話した。

受話器の向こうで、高瀬が短く息を吸う音がした。

『それ、誰か入った可能性、あるだろ』

「でも、何も盗られてない」

『盗む目的じゃない侵入もある』

その言葉が、妙に耳に残った。

『今日、俺、そっち行こうか?』

「いや……大丈夫だと思う。たぶん」

そう答えながら、僕はノートから目を離せずにいた。

あの一文が、まるでこちらを観察しているような気がして。

『じゃあさ』

高瀬は、少し間を置いて言った。

『そのノート、他にも何か書いてないか、ちゃんと見ろよ』

電話を切ったあと、僕は意を決してページをめくった。

次のページには、何もない。

その次も、その次も。

最後のページに辿り着いたとき、僕は初めて気づいた。

ノートの裏表紙の内側に、鉛筆で薄く書かれた文字。

「――君は、もう半分、こっち側だ」

心臓が、嫌な跳ね方をした。

その夜、僕は電気をつけたまま眠った。

夢の中で、誰かがずっと、僕の部屋を歩き回っていた。

足音だけが、やけに現実的だった。



翌朝、目を覚ましたとき、僕は自分がどんな夢を見ていたのか思い出せなかった。

ただ、胸の奥に、重たい何かが沈んでいる感覚だけが残っていた。

カーテンの隙間から差し込む光は、いつもと変わらない。

それなのに、部屋の空気が、どこかよそよそしい。

僕はベッドを降り、リビングへ向かった。

机の上のノートは、昨日と同じ位置に置かれている。

開かれてもいない。

――少なくとも、見た目上は。

ページをめくる。

例の一文は、まだそこにあった。

「思ったより、静かなんだね」

自分の字に似ている、と思う。

だが、似ているだけで、どこか決定的に違う。

たとえば、文字の間隔。

無意識に書いたにしては、整いすぎている。

講義が始まるまでの時間、僕は大学の図書館にいた。

集中しようとしても、頭はノートのことばかり考えている。

「お前、今日、顔色悪いな」

声をかけてきたのは、高瀬だった。

彼は僕の向かいの椅子に腰を下ろし、紙コップのコーヒーを机に置く。

「昨日、ちゃんと寝た?」

「……あんまり」

ノートの話をすると、高瀬は黙って聞いていた。

 途中で茶化すことも、軽く流すこともない。

「なあ」

話し終えたあと、高瀬が言った。

「お前さ、最近、自分で書いた文章、読み返してるか?」

「え?」

「レポートとか、メモとか。後から見て、“こんなこと書いたっけ”って思うこと、ないか?」

図星だった。

僕は、言葉を探す。

確かに、ある。

特にここ一ヶ月ほど、ノートを見返して違和感を覚えることが増えた。

「それ、普通じゃないか?」と僕は言った。

「誰だって、忘れるだろ」

「忘れるのと、覚えてないのは違う」

高瀬の声は低かった。

「お前、去年の夏のこと、どこまで覚えてる?」

突然の質問に、思考が止まる。

去年の夏。

ゼミ合宿。

……それから?

頭の中に、映像が浮かびかけて、すぐに霧散した。

「……普通に、過ごしてたと思うけど」

「“思う”な」

高瀬は、僕をじっと見た。

その視線が、なぜか怖い。

「なあ、もしさ」

彼は言葉を選ぶように続けた。

「記憶って、ちゃんと一続きだと思うか?」

「どういう意味だよ」

「途切れたり、重なったり、抜け落ちたりしないって、断言できるか?」

僕は答えられなかった。

その日の夕方、ゼミの後輩――森下 真琴に声をかけられた。

彼女は、僕を見るなり、少し困ったように眉を下げた。

「先輩、昨日……来ましたよね?」

「どこに?」

「研究棟です。夜、十一時くらい」

背中を、冷たいものが走る。

「行ってないよ」

即答だった。

昨日のその時間、僕は部屋にいた。

森下は、首をかしげた。

「でも、私、見ました。廊下で、先輩が……誰かと話してるの」

「誰かって?」

「よく見えなかったですけど……背、先輩と同じくらいで」

高瀬の言葉が、脳裏で反響する。

――忘れるのと、覚えてないのは違う。

その夜、僕はノートに、はっきりとした字でこう書いた。

「昨日の夜、僕は部屋にいた」

念のため、日付も入れる。

ペンを置き、数分後にもう一度ノートを開いた。

そこには、見覚えのない一文が、追記されていた。

「――それは、どっちの“僕”?」

ページをめくる手が、震えた。



その日から、僕はノートを持ち歩くようになった。

部屋に置いておくのが、どうしても怖かったからだ。

講義中も、食堂でも、移動中でも。

 ページは基本的に白紙のままだったが、時々、気づくと行間に短い文が増えている。

「今日は、人が多い」

「この匂い、嫌いじゃない」

「高瀬は、まだ気づいていない」

最後の一文を見たとき、心臓が嫌な音を立てた。

高瀬には、何も言っていない。

ノートのことも、森下に会ったことも。

それなのに、ノートは彼の名前を知っている。

――誰が、書いている?

自分で書いている可能性を、何度も考えた。

無意識。

夢遊病。

解離。

心理学の用語が、頭に浮かぶ。

だが、どれもしっくりこない。

なぜなら、ノートの文章は、僕の知らない視点を含んでいたからだ。

「今、君は後ろを見た」

そう書かれているのを見て、思わず振り返ったことがある。

誰もいなかった。

だが、書かれた時刻は、確かに“今”だった。

高瀬と会ったのは、その日の夕方だった。

人気の少ない喫煙所。

彼は煙草に火をつけながら、こちらを見ずに言った。

「ノート、まだ続いてるな?」

言葉を失う。

「……なんで分かる」

「お前の目」

高瀬は短く笑った。

「前にも、見たことある。その顔」

「前?」

煙が、ゆっくり吐き出される。

「去年の夏。お前が“自分じゃない誰か”の話をしてたとき」

頭の奥で、何かが軋んだ。

「そんな話、した覚えは――」

「だろうな」

高瀬は遮る。

「でも、俺は聞いた。お前は言ってたよ。"『観測する側が、必ずしも一人とは限らない』"って」

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に冷たい理解が落ちた。


 観測者。

 視点。

 ノート。


「なあ」

高瀬は、初めてこちらを見た。

「お前、今、“自分が主人公”だと思ってるだろ」

返事ができない。

「でもさ」

「もし違ったら?」

喫煙所を出たあと、僕は研究棟に向かった。

森下が言っていた場所。

夜の廊下は、昼よりも長く感じる。

蛍光灯の音が、やけに大きい。

ノートを開く。

そこには、すでに一文があった。

「――やっと、ここまで来た」

僕は、廊下の突き当たりの部屋に入った。

鍵は、かかっていなかった。

中には、古い机と、ホワイトボード。

壁一面に、写真とメモが貼られている。

そのすべてに写っていたのは――僕だった。

大学構内。

街。

自室の窓。

写真の端に、手書きの文字。

「観測対象:安定」

「自我分離:進行中」

「主体入替:未完了」

足元が、ぐらりと揺れた。

そのとき、背後から声がした。

「やっぱり、ここに来たか」

振り向くと、高瀬が立っていた。

表情は、ひどく疲れている。

「なあ」

彼は言った。

「お前、いつから“記録する側”だと思ってた?」

高瀬は、部屋の中に足を踏み入れ、静かにドアを閉めた。

鍵をかける音はしなかった。

「……説明してくれ」

喉が、ひりつく。

「説明、か」

高瀬は壁の写真に目を向けた。

そこに写る“僕”は、どれもこちらを見ていない。

「順番が逆なんだよ」

「何の話だ」

「お前は、観測されてる側だと思い込んでる。

でも実際は――」

高瀬は、机の引き出しから、もう一冊のノートを取り出した。

黒い表紙。

僕が使っているものと、まったく同じ。

彼はそれを開き、机に置いた。

「これは、“君”が書いてたノートだ」

ページを覗いた瞬間、息が止まった。

そこに並んでいるのは、僕が読んできた文章と、ほぼ同じ内容。

ただし、主語が違う。

「彼は、まだ気づいていない」

「今日は、こちらが前に出た」

「入れ替わりは、短時間なら可能」

「……こちら?」

高瀬は、少しだけ視線を伏せた。

「去年の夏、お前は事故に遭った」

記憶が、微かに揺れた。

合宿帰りのバス。

急ブレーキ。

――その先が、思い出せない。

「そのあと、お前は変わった。いや、“増えた”って言う方が正しい」

高瀬は続ける。

「人格が分かれた、って言えば簡単だけど……実際はもっと厄介だ。

どっちも、自分が本物だと思ってる」

ノートが、手の中で重くなる。

「じゃあ……」

声が震える。

「今、ここにいる“僕”は?」

「今まで“記録されてた側”」

即答だった。

「ノートを書く方が、観測者。書かれる方が、行動者。で、最近、条件が揃い始めた」

「条件?」

「自覚だ」

高瀬は、僕を見る。

「どっちかが、“自分が二人いる”と理解した瞬間、立場が入れ替わる」

頭の中で、すべてが繋がり始める。


 ノート。

 写真。

 森下が見た“僕”。


「……じゃあ今」

ノートのページに、文字が浮かんでいた。

「――もう、ほとんど終わり」

その字は、僕のものだった。

完璧に。

高瀬が、ゆっくり後ずさる。

「気づくのが、少し早かったな」

その瞬間、理解した。

今、書いているのは――誰だ?

視界が、ふっと遠のく。



目を開けたとき、僕は自分の部屋にいた。

天井の染み。

カーテンの折り目。

全部、見慣れたはずのものだ。

――はず、なのに。

体を起こすと、机の上にノートが置いてある。

黒い表紙。

閉じられている。

嫌な予感がして、ページを開いた。

白紙だった。

最初のページから、最後まで。

あの文章は、どこにもない。

胸が、ざわつく。

「……夢?」

声に出すと、妙に軽かった。

まるで、誰かの声を借りているみたいに。

スマートフォンを見る。

未読の通知はない。

高瀬からの連絡も、森下からのメッセージも。

すべて、なかったことになっている。

大学へ向かう途中、鏡に映る自分を何度も確認した。

目つき。

歩き方。

癖。

――問題ない。

講義も、会話も、何事もなく進んだ。

高瀬は、いつも通り軽口を叩いている。

森下は、普通に後輩として接してくる。

誰も、何も、知らない。

安心すべきなのに、胸の奥に、微かな空白が残っていた。

その夜、僕はノートを開いた。

白紙のままのページに、ペンを走らせる。

「今日は、特に変わったことはなかった」

字は、自然だった。

迷いも、震えもない。

ページを閉じようとして、ふと違和感を覚える。

――今、誰に向けて書いた?

その問いが浮かんだ瞬間、背中に冷たいものが落ちた。

ノートの下のページに、薄く、別の筆圧の跡がある。

消された文字。

いや、読まれた痕跡。

僕は、ゆっくりと理解した。

入れ替わりは、終わったのだ。

観測する側と、される側。

記録する者と、動く者。

今の僕は――

ちゃんと生活している。

普通に考えている。

違和感なく、ここにいる。

だからこそ、気づいてしまった。

このノートは、もう必要ない側のものだ。

ページの余白に、最後の一文を書く。

「――静かだ。とても」

書き終えた瞬間、なぜか笑いが込み上げた。

理由は、分からない。

ノートを閉じ、引き出しにしまう。

電気を消し、布団に入る。

眠りに落ちる直前、どこからか、紙をめくる音がした。

けれど、僕はもう、振り返らなかった。

だって、記録するのは、今の僕じゃない。

そうだろう?



 ――読んでいる、君。

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