著者
最初に違和感を覚えたのは、鍵が開いていたことだった。
僕の部屋は、古いながらもオートロック付きのマンションで、玄関の鍵を閉め忘れた記憶はここ一年、ただの一度もない。几帳面というより、閉めないと落ち着かない性分なのだ。
それなのに、仕事を終えて帰宅した僕は、鍵を差し込む前にドアがわずかに開いていることに気づいた。
――風、か?
そう思ったが、このマンションの廊下に風が吹き抜けることはない。
嫌な予感を振り払うように、ドアを押し開ける。
部屋の中は、いつも通りだった。
玄関に脱ぎ捨てられたスニーカー。
シンクに残った、朝のコーヒーカップ。
ソファの背に掛けたままの上着。
荒らされた形跡は、どこにもない。
僕は胸の奥に溜まった息を、ゆっくり吐き出した。
考えすぎだ。きっと。
だが、その安心感は、机の上を見た瞬間に粉々に砕けた。
ノートが、開かれていた。
黒い表紙の、どこにでもある大学ノート。
それは、昨日の夜、確かに僕が閉じたまま、引き出しにしまったはずのものだった。
ページの中央に、見覚えのない文字がある。
「――思ったより、静かなんだね」
思わず、喉が鳴った。
ペンの種類は、僕が普段使っているものと同じだ。
癖のある字も、どこか似ている。
だが、この文を書いた記憶は、断じてない。
背後で、カタン、と小さな音がした。
反射的に振り向く。
そこには誰もいない。
ただ、リビングの窓が、ほんの少しだけ開いていた。
僕はその場に立ち尽くしたまま、頭の中で必死に説明を探す。
鍵のかけ忘れ。
記憶違い。
疲労。
そう、疲れているんだ。最近、睡眠時間も削っていたし。
そのとき、スマートフォンが震えた。
画面に表示された名前を見て、僕は少しだけ安堵する。
「……ああ、今帰ったところ」
電話の相手は、同じ大学の同期――高瀬 恒一だった。
ゼミも、サークルも同じで、気心の知れた友人だ。
『声、変じゃないか?』
「ちょっとな。……変なことがあって」
僕は、鍵のことと、ノートのことを簡単に話した。
受話器の向こうで、高瀬が短く息を吸う音がした。
『それ、誰か入った可能性、あるだろ』
「でも、何も盗られてない」
『盗む目的じゃない侵入もある』
その言葉が、妙に耳に残った。
『今日、俺、そっち行こうか?』
「いや……大丈夫だと思う。たぶん」
そう答えながら、僕はノートから目を離せずにいた。
あの一文が、まるでこちらを観察しているような気がして。
『じゃあさ』
高瀬は、少し間を置いて言った。
『そのノート、他にも何か書いてないか、ちゃんと見ろよ』
電話を切ったあと、僕は意を決してページをめくった。
次のページには、何もない。
その次も、その次も。
最後のページに辿り着いたとき、僕は初めて気づいた。
ノートの裏表紙の内側に、鉛筆で薄く書かれた文字。
「――君は、もう半分、こっち側だ」
心臓が、嫌な跳ね方をした。
その夜、僕は電気をつけたまま眠った。
夢の中で、誰かがずっと、僕の部屋を歩き回っていた。
足音だけが、やけに現実的だった。
翌朝、目を覚ましたとき、僕は自分がどんな夢を見ていたのか思い出せなかった。
ただ、胸の奥に、重たい何かが沈んでいる感覚だけが残っていた。
カーテンの隙間から差し込む光は、いつもと変わらない。
それなのに、部屋の空気が、どこかよそよそしい。
僕はベッドを降り、リビングへ向かった。
机の上のノートは、昨日と同じ位置に置かれている。
開かれてもいない。
――少なくとも、見た目上は。
ページをめくる。
例の一文は、まだそこにあった。
「思ったより、静かなんだね」
自分の字に似ている、と思う。
だが、似ているだけで、どこか決定的に違う。
たとえば、文字の間隔。
無意識に書いたにしては、整いすぎている。
講義が始まるまでの時間、僕は大学の図書館にいた。
集中しようとしても、頭はノートのことばかり考えている。
「お前、今日、顔色悪いな」
声をかけてきたのは、高瀬だった。
彼は僕の向かいの椅子に腰を下ろし、紙コップのコーヒーを机に置く。
「昨日、ちゃんと寝た?」
「……あんまり」
ノートの話をすると、高瀬は黙って聞いていた。
途中で茶化すことも、軽く流すこともない。
「なあ」
話し終えたあと、高瀬が言った。
「お前さ、最近、自分で書いた文章、読み返してるか?」
「え?」
「レポートとか、メモとか。後から見て、“こんなこと書いたっけ”って思うこと、ないか?」
図星だった。
僕は、言葉を探す。
確かに、ある。
特にここ一ヶ月ほど、ノートを見返して違和感を覚えることが増えた。
「それ、普通じゃないか?」と僕は言った。
「誰だって、忘れるだろ」
「忘れるのと、覚えてないのは違う」
高瀬の声は低かった。
「お前、去年の夏のこと、どこまで覚えてる?」
突然の質問に、思考が止まる。
去年の夏。
ゼミ合宿。
……それから?
頭の中に、映像が浮かびかけて、すぐに霧散した。
「……普通に、過ごしてたと思うけど」
「“思う”な」
高瀬は、僕をじっと見た。
その視線が、なぜか怖い。
「なあ、もしさ」
彼は言葉を選ぶように続けた。
「記憶って、ちゃんと一続きだと思うか?」
「どういう意味だよ」
「途切れたり、重なったり、抜け落ちたりしないって、断言できるか?」
僕は答えられなかった。
その日の夕方、ゼミの後輩――森下 真琴に声をかけられた。
彼女は、僕を見るなり、少し困ったように眉を下げた。
「先輩、昨日……来ましたよね?」
「どこに?」
「研究棟です。夜、十一時くらい」
背中を、冷たいものが走る。
「行ってないよ」
即答だった。
昨日のその時間、僕は部屋にいた。
森下は、首をかしげた。
「でも、私、見ました。廊下で、先輩が……誰かと話してるの」
「誰かって?」
「よく見えなかったですけど……背、先輩と同じくらいで」
高瀬の言葉が、脳裏で反響する。
――忘れるのと、覚えてないのは違う。
その夜、僕はノートに、はっきりとした字でこう書いた。
「昨日の夜、僕は部屋にいた」
念のため、日付も入れる。
ペンを置き、数分後にもう一度ノートを開いた。
そこには、見覚えのない一文が、追記されていた。
「――それは、どっちの“僕”?」
ページをめくる手が、震えた。
その日から、僕はノートを持ち歩くようになった。
部屋に置いておくのが、どうしても怖かったからだ。
講義中も、食堂でも、移動中でも。
ページは基本的に白紙のままだったが、時々、気づくと行間に短い文が増えている。
「今日は、人が多い」
「この匂い、嫌いじゃない」
「高瀬は、まだ気づいていない」
最後の一文を見たとき、心臓が嫌な音を立てた。
高瀬には、何も言っていない。
ノートのことも、森下に会ったことも。
それなのに、ノートは彼の名前を知っている。
――誰が、書いている?
自分で書いている可能性を、何度も考えた。
無意識。
夢遊病。
解離。
心理学の用語が、頭に浮かぶ。
だが、どれもしっくりこない。
なぜなら、ノートの文章は、僕の知らない視点を含んでいたからだ。
「今、君は後ろを見た」
そう書かれているのを見て、思わず振り返ったことがある。
誰もいなかった。
だが、書かれた時刻は、確かに“今”だった。
高瀬と会ったのは、その日の夕方だった。
人気の少ない喫煙所。
彼は煙草に火をつけながら、こちらを見ずに言った。
「ノート、まだ続いてるな?」
言葉を失う。
「……なんで分かる」
「お前の目」
高瀬は短く笑った。
「前にも、見たことある。その顔」
「前?」
煙が、ゆっくり吐き出される。
「去年の夏。お前が“自分じゃない誰か”の話をしてたとき」
頭の奥で、何かが軋んだ。
「そんな話、した覚えは――」
「だろうな」
高瀬は遮る。
「でも、俺は聞いた。お前は言ってたよ。"『観測する側が、必ずしも一人とは限らない』"って」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に冷たい理解が落ちた。
観測者。
視点。
ノート。
「なあ」
高瀬は、初めてこちらを見た。
「お前、今、“自分が主人公”だと思ってるだろ」
返事ができない。
「でもさ」
「もし違ったら?」
喫煙所を出たあと、僕は研究棟に向かった。
森下が言っていた場所。
夜の廊下は、昼よりも長く感じる。
蛍光灯の音が、やけに大きい。
ノートを開く。
そこには、すでに一文があった。
「――やっと、ここまで来た」
僕は、廊下の突き当たりの部屋に入った。
鍵は、かかっていなかった。
中には、古い机と、ホワイトボード。
壁一面に、写真とメモが貼られている。
そのすべてに写っていたのは――僕だった。
大学構内。
街。
自室の窓。
写真の端に、手書きの文字。
「観測対象:安定」
「自我分離:進行中」
「主体入替:未完了」
足元が、ぐらりと揺れた。
そのとき、背後から声がした。
「やっぱり、ここに来たか」
振り向くと、高瀬が立っていた。
表情は、ひどく疲れている。
「なあ」
彼は言った。
「お前、いつから“記録する側”だと思ってた?」
高瀬は、部屋の中に足を踏み入れ、静かにドアを閉めた。
鍵をかける音はしなかった。
「……説明してくれ」
喉が、ひりつく。
「説明、か」
高瀬は壁の写真に目を向けた。
そこに写る“僕”は、どれもこちらを見ていない。
「順番が逆なんだよ」
「何の話だ」
「お前は、観測されてる側だと思い込んでる。
でも実際は――」
高瀬は、机の引き出しから、もう一冊のノートを取り出した。
黒い表紙。
僕が使っているものと、まったく同じ。
彼はそれを開き、机に置いた。
「これは、“君”が書いてたノートだ」
ページを覗いた瞬間、息が止まった。
そこに並んでいるのは、僕が読んできた文章と、ほぼ同じ内容。
ただし、主語が違う。
「彼は、まだ気づいていない」
「今日は、こちらが前に出た」
「入れ替わりは、短時間なら可能」
「……こちら?」
高瀬は、少しだけ視線を伏せた。
「去年の夏、お前は事故に遭った」
記憶が、微かに揺れた。
合宿帰りのバス。
急ブレーキ。
――その先が、思い出せない。
「そのあと、お前は変わった。いや、“増えた”って言う方が正しい」
高瀬は続ける。
「人格が分かれた、って言えば簡単だけど……実際はもっと厄介だ。
どっちも、自分が本物だと思ってる」
ノートが、手の中で重くなる。
「じゃあ……」
声が震える。
「今、ここにいる“僕”は?」
「今まで“記録されてた側”」
即答だった。
「ノートを書く方が、観測者。書かれる方が、行動者。で、最近、条件が揃い始めた」
「条件?」
「自覚だ」
高瀬は、僕を見る。
「どっちかが、“自分が二人いる”と理解した瞬間、立場が入れ替わる」
頭の中で、すべてが繋がり始める。
ノート。
写真。
森下が見た“僕”。
「……じゃあ今」
ノートのページに、文字が浮かんでいた。
「――もう、ほとんど終わり」
その字は、僕のものだった。
完璧に。
高瀬が、ゆっくり後ずさる。
「気づくのが、少し早かったな」
その瞬間、理解した。
今、書いているのは――誰だ?
視界が、ふっと遠のく。
目を開けたとき、僕は自分の部屋にいた。
天井の染み。
カーテンの折り目。
全部、見慣れたはずのものだ。
――はず、なのに。
体を起こすと、机の上にノートが置いてある。
黒い表紙。
閉じられている。
嫌な予感がして、ページを開いた。
白紙だった。
最初のページから、最後まで。
あの文章は、どこにもない。
胸が、ざわつく。
「……夢?」
声に出すと、妙に軽かった。
まるで、誰かの声を借りているみたいに。
スマートフォンを見る。
未読の通知はない。
高瀬からの連絡も、森下からのメッセージも。
すべて、なかったことになっている。
大学へ向かう途中、鏡に映る自分を何度も確認した。
目つき。
歩き方。
癖。
――問題ない。
講義も、会話も、何事もなく進んだ。
高瀬は、いつも通り軽口を叩いている。
森下は、普通に後輩として接してくる。
誰も、何も、知らない。
安心すべきなのに、胸の奥に、微かな空白が残っていた。
その夜、僕はノートを開いた。
白紙のままのページに、ペンを走らせる。
「今日は、特に変わったことはなかった」
字は、自然だった。
迷いも、震えもない。
ページを閉じようとして、ふと違和感を覚える。
――今、誰に向けて書いた?
その問いが浮かんだ瞬間、背中に冷たいものが落ちた。
ノートの下のページに、薄く、別の筆圧の跡がある。
消された文字。
いや、読まれた痕跡。
僕は、ゆっくりと理解した。
入れ替わりは、終わったのだ。
観測する側と、される側。
記録する者と、動く者。
今の僕は――
ちゃんと生活している。
普通に考えている。
違和感なく、ここにいる。
だからこそ、気づいてしまった。
このノートは、もう必要ない側のものだ。
ページの余白に、最後の一文を書く。
「――静かだ。とても」
書き終えた瞬間、なぜか笑いが込み上げた。
理由は、分からない。
ノートを閉じ、引き出しにしまう。
電気を消し、布団に入る。
眠りに落ちる直前、どこからか、紙をめくる音がした。
けれど、僕はもう、振り返らなかった。
だって、記録するのは、今の僕じゃない。
そうだろう?
――読んでいる、君。




