06 勤務
俺たちは昼の営業を開始させる前に、三人で食卓を囲むことになった。
ソファベッドに陣取った親父は専用のテーブル、俺とアイリスはその足もとに設置された座卓だ。本日の朝食は、焼きアジと白米と生卵、豚汁と白菜の浅漬けという和風のラインナップであった。
「簡単な内容で悪いけど、普段の食事で凝ったもんを作る流儀じゃないんでな」
「いやいや、十分に豪勢だよ。豚汁も具がどっさりだしさ」
親父とアイリスは、どんどん気安い空気になっていく。俺としては悔しく感じないこともないが、それよりもアイリスが気楽に過ごせていることを喜ぶべきであるのだろう。また、旺盛な食欲を満たしているアイリスの姿を目にしているだけで、俺はとても温かな心地であった。
ちなみにシャワーを浴びたアイリスは、ほんの少しだけ露出の度合いが下がっている。丈の短いタンクトップに、ゆったりとした薄手のスウェットパンツという格好だ。ただし、襟もとからは立派な胸の谷間が覗いているし、タンクトップもへそが見えるぐらい丈が短いため、上半身に関しては大差なかった。
「あとな、給料に関してもあれこれ考えたんだよ。メシが終わったら、そこのボンクラに聞いてくれ」
「誰がボンクラだよ。松葉杖をへし折るぞ」
「そうしたら、店も回らなくて一巻の終わりだな。偉そうな口を叩く前に、ひとりで店を切り盛りできるぐらいの腕を身につけやがれ」
すると、向かいのアイリスがふいに身を乗り出してきた。
「なー。あんたって、家族と幼馴染にだけ威勢がいいの? それとも、あたしにだけ遠慮してんの?」
「え? まあ、いや、どうだろう。別に、相手で態度を変えてるつもりはないんだけど……」
「どの口で言ってんだよ」と口をとがらせたのち、アイリスは食事を再開させる。アイリスの愛くるしさとアイリスに対する申し訳なさで、俺は朝から情緒がしっちゃかめっちゃかであった。
そんな一幕を経て食事を終えたならば、給与および雇用形態の確認作業である。
親父がずぼらであるために、半分がたは俺が取り決めた内容であった。
「えーと、まずは時給に関してだね。とりあえず、基本の時給は1080円ってことにして――」
「待った! いきなりそんなもらって、いいのかよ? こんな風に家まで乗り込んで、あんま偉そうなことは言えねーけど……同情とかされんのは、性に合わねーんだ」
「いやいや。これは、県で決まってる最低賃金だよ。君に関しては正規雇用じゃないけど、それより安く見積もるのは申し訳ないからさ」
「マジか……くそ、あいつら足もとを見やがって」
と、アイリスは口をへの字にする。きっとクラブの厨房やらティッシュ配りやらでは、法令を無視した低賃金で働かされていたのだろう。アイリスに心をひかれてしまっている俺としても、腹立たしい限りであった。
「でね、それ以外も基本的には普通のアルバイトを雇うときの取り決めを参考にしてるんだけど……昼の営業は午前十一時から午後二時まで、夜の営業は午後の六時から十一時までで、それぞれ前後の十五分間に準備と後片付けがあるから、そこまでひっくるめたのが勤務時間になる。そうすると合計で九時間になるから、本当は一時間の休憩をあげなきゃいけなくなるんだけど、昼と夜の間は自由時間だから、原則としては夜の部にだけ三十分間の食事休憩を設定してる。その代わりに、昼の営業の後に遅い昼食を出して、好きにくつろいでもらうって感じだね。……ここまではいいかな?」
「おー。メシさえ食えりゃ、なんでもかまわねーよ」
「ああそう……それじゃあ次は、そのまかないに関してだね。原則として、うちは二百円でまかないを出してる。あと、こうやって朝の食事を出すときも同じ金額でかまわないかな?」
「はあ? こんな上等なメシで二百円は安すぎんだろ! そっちの損になっちまうんじゃねーの?」
「二人前が三人前になるだけだから手間はかからないし、食材の原価率でもこっちの損にはならないはずだよ。それであとは、住居費なんだけど……これは一日三百円でいいかなぁ?」
「三百円! ネカフェだったら、六時間のパックでも二千円だぞ!」
「これは、相場がよくわからなくてさ。親父は無料でいいっていうけど、それじゃあ逆に君のほうが気をつかっちゃうだろうから、月に一万ぐらいの目安で設定したんだ」
アイリスはしかめっ面で頭をかきながら、俺と親父の顔を見比べた。
「なあ、やっぱ条件が甘すぎじゃね? あたし、人様の迷惑にはなりたくねーんだよ」
「何が迷惑なもんかい。こっちは人手不足だったんだから、大助かりさ。明日太なんざ、美人さんと一緒に働けるだけで有頂天だろうしな」
「う、うるせえな。余計なこと言うんじゃねえよ」
俺は羞恥心をこらえながら、さらに言いつのった。
「あと、君が仕事に出ない日でも、うちで食事をする場合は一食二百円でかまわない。献立は、簡単な内容になっちゃうけどね。つまり、君がうちに寝泊まりして、毎日三食を食べるなら、日に九百円かかるっていう計算になるんだ。そこまでは、いいかな?」
「ああ。格安すぎて、気が引けるぐらいだよ。……そんで、まだ何かあんの?」
「うん。給与形態はそれでいいとしても、これは正式な手続きを踏まない雇用だから、君と親父の個人的な金銭の受け渡しっていうことになる。その場合、贈与税ってもんが絡んできちゃうみたいなんだよね」
「……なんだ、それ? ややこしそうな話だな」
「内容自体は、簡単だよ。要するに、個人的な金銭の受け渡しが年間で110万円を超えると納税の義務が発生するんだってさ」
「……そんなもん、黙ってたらわかんなくね?」
「だけどそれを見過ごしたら、こっちも脱税の共犯になっちゃうんだよ。それじゃあ君も、気がひけるだろう?」
アイリスだったら、きっと自分のことよりも他者のことを思いやるはずだ。
俺が何の根拠もなくそのように考えていると、アイリスは深々と溜息をついた。
「だったら、それでかまわねーけど……そうすると、あたしはどんだけ働けることになんの?」
「うん。ざっくり計算すると、年間で155日ぐらいの計算になる。ただし今年はもう六月だから、残りの半年でその日数を割り振れることになるんだ。だからまあ、今は働きたいだけ働いてもらって、110万円を突破しそうになったら年末で日数を調整したらいいと思う。とにかく今は、手持ちのお金を増やすことが最優先だろうからさ」
俺の返答に、アイリスはもういっぺん溜息をついた。
「なんか、めっちゃ先のことまで考えてくれてんのな。あんたら、あたしを半年も家に置いとくつもりなの?」
「それは、君しだいだと思ってるけど……帰る場所がないんなら、ずっといてほしいと思ってるよ」
俺が思わず本音をこぼすと、アイリスは小石でも呑み込んだような顔になり、親父は豪快な笑い声を響かせた。
「そんなもん、ほとんどプロポーズにしか聞こえねえな! 昨日顔をあわせたばかりの娘さんに、ずいぶん豪気な話じゃねえか!」
「そ、そんなんじゃねえよ。き、君も誤解しないでくれよな?」
「じゃ、どんな風に理解すりゃいいんだろーな。正直、あんたのことがよくわかんねーよ」
「……俺はただ、君のことが心配なだけだよ」
俺としては、それが掛け値なしの真情であった。そもそも彼女が宿なしの身でなければ、俺もこうまで世話を焼こうとは思わなかったはずであるのだ。
するとアイリスは俺の目の奥を強い眼差しで覗き込んでから、「わかった」とつぶやいた。
「少なくとも、あんたは悪人じゃねーんだろうしな。あたしもちょっと生活の基盤を立てねーとヤバそうだから、しばらくは甘えさせてもらうよ」
「うん。お金が貯まれば、アパートを借りることだってできるかもしれないしね。保険だとか税金だとか、そういう面もきっちりクリアーできたら、俺もひと安心だよ」
「なんだよ、もう。マジでわけわかんねーなー」
そう言って、アイリスは金褐色の髪をわしゃわしゃとかき回す。
その顔には、どこかくすぐったそうな表情が浮かべられており――それがまた、俺の心を温かくしてくれたのだった。
◇
そうしてその日から、アイリスは『つるみ屋』で働くことになった。
タンクトップとスウェットパンツに自前のキャップを後ろ向きにかぶった姿で、『つるみ屋』のロゴが入ったエプロンを装着する。彼女ほど秀麗かつ個性的な容姿をした娘さんがしがない大衆食堂で働くというのは、ずいぶん似合わないように思われたが――こうしてあらためてその姿を拝見すると、意外なぐらいにしっくり馴染んでいた。
「うし。じゃ、今日からよろしくお願いします」
こちらで支給したデッキシューズを履いたアイリスが、颯爽とした足取りで仕事場に乗り込んでくる。意外というか何というか、彼女は俺と靴のサイズが一緒であったので、予備の分を支給することができたのだ。
たとえ背丈に二、三センチの差しかなかろうとも、普通は男のほうが大きいサイズになりそうなところであるが――まあきっと、俺は平均よりも少しだけ足が小さく、アイリスは平均よりも少しだけ足が大きいのだろうと思われた。
そんな彼女が俺のかたわらを通りすぎたとき、ふわりと甘い匂いが香り――俺を陶然とさせると同時に、慌てさせた。
「あ、あのさ、うちは食べ物を扱ってるから、今後はコロンとかを控えてもらえるかな?」
「はあ? あたし、コロンなんざ使ってねーけど?」
「そ、そうかい? でも、すごくいい匂いがするじゃないか」
するとアイリスは、赤くした顔を俺の鼻先に突き出してくる。それでいっそう、俺の鼻腔と心が蹂躙されることになった。
「だったらそいつは、シャンプーか何かの匂いだろ。てか、ヒトサマのニオイを嗅いでんじゃねーよ」
俺がさまざまな理由から心を乱していると、黙って見守っていた親父が豪快な笑い声を響かせた。
「そいつは、鼻だけは一丁前なんだよ! なんも問題はねえから、そのままでかまわねえさ!」
アイリスは「ふん!」とそっぽを向き、その勢いのままに身をひるがえす。そうしてその後も親父がアイリスの香りに文句をつけることはなかったので、本当に業務には支障のないレベルであるようであった。
(まいったなぁ。なんか、俺ばっかりがこのコを意識してるみたいだ)
そんな一幕を経て、アイリスを交えた本日の仕事が開始された。
のれんを出して『準備中』の札を『営業中』にひっくり返したならば、五分も経たずに最初のお客がやってくる。そしてそれを皮切りとして、昼の部の営業が終わるまで客足が途切れることはない――というのが、ここ最近の『つるみ屋』の実情であった。
実際のところ、『つるみ屋』の人手不足というのはなかなかに深刻であったのだ。
お客の回転が悪くなればすぐに満席となってしまい、商機をのがすことになる。とりわけ平日の昼の部においては昼休みの会社員がターゲットであるため、並んでまで入店しようというお客は少ないのだ。昼の部まで働ける人材というのは、俺たちにとって何よりありがたかった。
その反面、アイリスには大きな負担と責任がのしかかる。昨晩は臨時で皿洗いだけを担当してもらっていたが、玲奈のいない時間にはホールの仕事も受け持ってもらいたいのだ。レジは厨房にあるので、主たる役目は注文取りと料理の配膳であったが――それに関しても、彼女は持ち前の能力としたたかさで乗り越えていた。
彼女は不愛想な人柄であるが物怖じはしないし、ずいぶん頭も回るほうであるのだ。当店は親父の気分ひとつでメニュー表にない献立をばんばか出してしまう面倒なシステムであったが、そこでも彼女が音をあげることはなかった。
むしろ、戸惑っていたのはお客たちのほうであろう。似合う似合わないは別として、彼女はとにかくそこらの芸能人が裸足で逃げ出すほど魅力的な容姿をしているのだ。勤務にあたって露出をおさえてくれたのは幸いであったものの、彼女の美しさは多くのお客の心を惑わせたようであった。
「よう! 昨日の別嬪さんじゃねえか! あんたもここで働き始めたのかよ?」
と、常連客である男性は、満面の笑みでそんな風に言っていた。定年退職をして気ままな年金生活を過ごしている陽気な初老の男性、通称おやっさんである。
「これで『つるみ屋』も安泰だな! ゲンさんも、ひと安心だろ?」
「いやいや。そっちの娘さんはともかく、こっちのボンクラをどうにかしねえと店が回らねえよ」
俺はまぎれもなく半人前であるため、こういう際には文句をつけることもかなわない。最近では食材の発注や帳簿のつけかたなど重要な仕事を任されつつあったが、何より料理の腕では親父に太刀打ちできなかった。
しかしまあ、俺は十九歳の若輩者であるし、毎日フルタイムで働き始めたのは一年前からであるのだ。俺は決して焦ることなく、かといって気を抜くこともなく、じっくり着実に親父の背中を追いかけようという所存であった。
そうして無事に昼の営業をやりとげたならば、午後の二時過ぎに遅めのランチをいただく。本日は定番メニューであるポークカレーと簡単なサラダがまかないに選ばれたが――そこでアイリスが、おずおずと発言した。
「……あのさ、もう二百円払うから、おかわりしてもいいかな?」
「おお、そいつは頼もしいこったな。追加料金なんざいらねえから、好きなだけ食ってくれ」
「マジで? そっちの損になったりしない?」
「なりゃしねえよ。あれだけ働いてくれりゃあ、時給を上げたいぐらいなんだけどな。そうすると働く日数を減らさなきゃいけねえってんだから、めんどくせえ話だよ。そのぶん食って、もとを取ってくんな」
親父は誰に対しても気さくであるが、きっとアイリスに対してはひときわの厚意を抱いているのだろう。そうでなければ、いくら親父でもいきなり居候を許すはずがないのだ。そしてアイリスも親父のそういった心情を感じ取って、素直に気安く振る舞っているのかもしれなかった。
ともあれ――アイリスが幸せそうに食事を進めるさまを見守るのは、俺にとって至福のひとときである。
すると、そんな俺の心情を見透かした様子で、アイリスはまた顔を赤くした。
「んーだよ? 今日はがっつり稽古したから、腹が減ってんだよ」
「そ、そっか。うちの料理をたくさん食べてもらえたら、俺も嬉しいよ」
アイリスは「ふん!」と鼻を鳴らしてから、おかわりのカレーを豪快にかきこむ。
そうすると、俺の心はたちまち温かいものでくるまれてしまうのだった。
2026.5/17
千葉県は2025年に最低賃金の額が変更されましたが、当作はそれよりも古い時代であると設定していますので、過去の法令に合わせた内容になっています。




