03 招待
「あすたちゃんが、女の子を連れて戻ってきた!」
俺とアイリスが足を踏み入れるなり、『つるみ屋』にそんな声が響きわたった。
すでに夜の部の営業が開始されて、アルバイトの玲奈が働き始めていたのだ。そして、半分ほど埋まっていた客席からはやんやと喝采があげられた。
「明日太ちゃんも、ついにお年頃かい? こいつは、隅におけないねぇ」
「しかも、ずいぶんな別嬪さんじゃねえか! 明日太ちゃんも、やるもんだな!」
「さあさあ、遠慮なく入ってくれ! って、俺もただの客だけどよ!」
間の悪いことに、席を埋めているのはおおよそ常連客であった。中には、俺が生まれる前からのごひいきさんも存在するのだ。それで俺が溜息をついていると、意外に冷静なアイリスが横目でにらみつけてきた。
「あんた、ずいぶん人気者じゃん」
「いや、人気者というか何というか……と、とにかく入ってくれ。何も気にする必要はないからさ」
俺は店中から好奇の視線を向けられつつ、アイリスをもっとも奥まったテーブル席に案内した。
アイリスはすました顔で人々の視線を跳ね返し、木造りの椅子にふわりと腰を下ろす。彼女の挙動はしなやかな躍動感を漂わせつつ、空気を乱さないなめらかさをも兼ね備えていた。
「はーい、おひやでーす!」
と、エプロンをつけた玲奈が満面の笑みで接近してくる。
そのリスやウサギを思わせる大きな目こそ、誰よりも強烈な好奇心をたたえていた。
「はじめまして! あたしはあすたちゃんの幼馴染で、生方玲奈っていいます! あすたちゃんとは姉弟みたいなもんなんで、なーんにも気にしないでくださいねー!」
「お、おい。いいから、お前はひっこんでろって」
「あたしも余計なお世話は焼かないつもりだけど、これだけは最初に伝えておかなきゃでしょ! それじゃあ、ごゆっくりー!」
玲奈はエプロンの裾をひるがえして、立ち去っていく。
そして厨房からは、親父が「おい」と呼びかけてきた。
「色気を出す前に、まずはきりきり働きやがれ。カイワレとタマネギは買ってきたんだろうな?」
「あ、ああ。すぐに持っていくよ。……ごめん、少しだけ待っててもらえるかい?」
「いーよ。客や仕事を優先すんのは、当たり前だろ」
テーブルに頬杖をついたアイリスは、そっぽを向きながらおひやのグラスを持ち上げる。そんな所作のひとつひとつが、いちいち格好よかった。
しかし俺も、アイリスに見とれている場合ではない。どうしても彼女の存在を捨て置くことはできなかったが、さりとて仕事を二の次にすることもできなかった。
俺はひとまず居間にひっこみ、外出用の一式を座椅子に放り出してから、レジ袋を手に厨房へと踏み入る。さらに両手を入念に消毒して、白い前掛けを着用し、頭に白いタオルを巻いたのち、フライパンを扱っている親父に頭を下げた。
「遅刻してごめん。遅れた分は、給料からさっぴいてくれ」
「当たり前のことを、いちいち抜かすな。お次はニラレバと揚げ餃子だ」
「了解」と応じて、俺はすぐさま業務に参加した。
カウンター越しに、アイリスの姿がちらちらとうかがえる。それでも心を乱さないようにと自分を戒めながら、俺は必要な品を作業台に並べた。
「他のお客さんには、あのコにかまわないように言っておいたからね。あすたちゃんも、憂うことなく仕事に励みたまえ」
と、カウンターの向こうから首を突っ込んできた玲奈が、笑顔でそんな言葉を告げてくる。
どんなにテンションを上げても、俺の嫌がることをするどころか周囲のことにまで配慮してくれるのだ。俺には、過ぎた幼馴染であった。
「でもあのコ、すっごい美人さんだねー。あとできちんと、事情を説明してよー?」
「……ああ。そんなに深い事情はないんだけどな」
そうして俺は、仕事に集中した。
ひとたび気持ちを切り替えると、いつも通りの熱情が全身にあふれかえってくる。まだまだ半人前である俺は、ひとつひとつの作業が勉強であるのだ。自分がわずかずつにでも成長していくのを実感できるのは、俺にとって何よりの喜びであった。
そうしてひと通りのオーダーが片付いたならば、新規のお客がやってくるまで憩いのひとときである。そこで俺は、親父に呼びかけた。
「親父。さっきの娘さんにご馳走するって約束しちまったんだ。その分も、給料からさっぴいておいてくれ」
「おう。じゃ、俺は高みの見物だな」
親父も親父でべつだんアイリスの存在を気にかけている様子もなく、スタンディングチェアにもたれた体勢でふんぞりかえる。そのぎょろりと大きな目に見守られながら、俺はアイリスのための調理を開始した。
俺が手掛けるのは、トマト煮込みのハンバーグである。
俺がレシピを任されているのはいくつかの日替わりメニューのみであり、本日はトマト煮込みのハンバーグを提供する日取りであったのだ。俺は寸胴のトマトソースを一食分だけ小鍋に移して温めなおしつつ、朝方に仕込んだパテをフライパンに投じた。
「……なあ、明日太。ひとつだけ、言っておきたいことがある」
「んー? なんだよ?」
「国際結婚ってのは、なかなかややこしいもんらしいぞ」
俺は危うく、大切なパテをフライパンの外にほっぽり出してしまうところであった。
「あのなあ……いくら何でも、飛躍しすぎだろ」
「だけどお前は、俺に似て面食いだろうからなぁ。あの娘さんだったら、きっと母さんも大満足だ」
そう言って、親父はにっと白い歯をこぼした。
おそらく当人は、大真面目に語っているのである。俺は粗雑な性格を除けば、余すところなく母親似であるはずであった。
(ま、俺は母さんほど美形じゃないけどな)
七歳の頃に失った母親の面影を追い求めつつ、俺は両面を焼きあげたパテをトマトソースの小鍋に投じる。しかるのちに、茹でおきしておいたブロッコリーとニンジンをオリーブオイルで軽く炒めた。
さらに、ざるで保管されていた千切りダイコンをひとつまみ小鉢に移し、買ってきたばかりのカイワレダイコンとともに自家製の白ごまドレッシングで和える。あとはライスを平皿に盛ったのち、熱の通ったパテとつけあわせの野菜を皿に盛りつければ、完成であった。
「待たせてごめん。遠慮なく食べてくれ」
俺が自らトマト煮込みのハンバーグを配膳すると、まずは山猫のような目でにらみつけられた。
しかし、テーブルにお盆が置かれると、その目が驚嘆に見開かれる。サファイアを思わせる青い瞳が、初めて明るい輝きをたたえた。
「……これ、あんたが作ったの?」
「ああ。まだまだ半人前だけど、いくつかの献立は任されてるんだ。こいつは、そのひとつだよ」
どくどくと胸を高鳴らせながら、俺はそのように答えた。
その場の勢いで店に招いてしまったが、果たして俺の料理は彼女を満足させることができるのか――それが心配なあまりに、胃袋がじくじくと疼くほどであったのだ。かえすがえすも、俺は普通の状態ではなかった。
そんな俺の心情も知らずに、アイリスは箸を取り上げる。
そして、意外なほどの礼儀正しさで合掌すると、桜色の唇を「いただきます」という形に動かし――そんな姿が、俺の心臓をいっそう脅かした。
アイリスは綺麗な形で箸を持ち直し、まずはハンバーグへと手をのばす。
たっぷりとトマトソースがからんだパテが箸によって切り分けられて、アイリスの口へと運ばれていく。
そうしてハンバーグを頬張った瞬間、アイリスの瞳がいっそう明るく輝いた。
その姿に、俺は泣きたいぐらい情動を揺さぶられてしまう。
そして――アイリスはいくぶん頬を染めながら、テーブルの脇に突っ立っている俺の顔をにらみあげてきた。
「……おい。そんなじろじろ見られてたら、落ち着かねーだろ」
「あ、ああ。ごめん。この後は、すぐまた忙しくなるだろうから……ちょっとだけ、座らせてもらってもいいかな?」
「……ここは、あんたの店だろ。ただし、じろじろ見るんじゃねーぞ?」
そんな風に言い捨てて、アイリスは食事を再開させた。
俺のせいで不機嫌そうな顔になってしまったが、ただその瞳の輝きに変わりはない。それだけで、俺の胸は深く満たされてしまった。
(まいったな。俺はいったい、どうしたいんだよ? これじゃあナンパ目的って疑われても、言い訳できないぞ)
俺はそっぽを向きながら、横目でこっそりアイリスの姿をうかがう。
ハンバーグのふた口目では内側に仕込んでおいたクリームチーズがとろりとあふれかえり、それでまたアイリスは瞳を輝かせた。
そんなアイリスの姿を盗み見しているだけで、俺はたまらなく幸福な心地である。
しかしどれだけ念入りに確認しても、彼女とは初対面であるはずであったが――俺の胸から懐かしさに似た感覚が消えることはなく、むしろ強まるぐらいであった。
そして俺は、虚無感や喪失感を忘れていたことに気づかされる。
まるでアイリスの存在がその穴をすっぽりと埋めてくれたかのように、あのおかしな感覚が消え去っていたのだ。その代わりに、俺はさまざまな疑問を抱え込むことになったのだった。
「……なあ。食べながらでいいから、聞いてくれ。俺はやっぱり、君のことをすごく懐かしく感じるような気がするんだよ。君のほうに、心当たりはないかなぁ?」
「ねーよ」
「そ、そっか。それじゃあ……君は、何かの有名人だとか? もしかしたら、テレビや雑誌で見かけたのかもしれない」
「そんなもん、出たことねーよ。どうせただの人違いだろ」
「いやぁ、君みたいな美人はそうそういないだろ」
たちまちアイリスが顔を赤くしてにらみつけてきたので、俺は慌てて手を振った。
「ご、ごめん、口がすべった。そんな風に外見をあれこれ言うのは――」
習わしにそぐわない――そんな珍妙な言葉が、俺の頭に浮かんで消えた。
「と、とにかく、俺は何だか混乱しちまってるんだ。あれこれおかしなことばかり聞いて、本当にごめん。おかしな下心とかはないから、信じてくれ」
「……あんたがナンパ目的でいきなり自分の家に連れ込むような人間だったら、見上げたもんだけどな」
アイリスは盆の上に箸を置くと、また手を合わせて「ごちそうさま」という形に唇を動かした。いつの間にやら、料理は綺麗にたいらげられていたのだ。
「まあ、あんたがあたしをつけ回したことは、これでチャラにしてやるけど――」
アイリスがそのように言いかけたとき、玲奈の「いらっしゃいませー!」という元気な声が響きわたった。
反射的に入り口のほうを振り返った俺は、思わず溜息を噛み殺す。珍しくも、団体客がやってきたのだ。会社帰りのサラリーマンという身なりで、いかにも一見さんらしく店内をきょろきょろ見回していた。
「七名様ですかー? 今だと席がバラバラになっちゃいますねー!」
「あ、かまいません。でも、できるだけ固めてもらえますか?」
そんなやりとりが聞こえてくると、アイリスは隣の椅子に置いていたボストンバッグを手に立ち上がった。
「ほら、客だろ。さっさと働けよ」
「あ、いや、だけど、君はどうするんだ? このままひとりで帰すのは――」
「うるせーなー。席を空けるのが先だろ」
アイリスは俺の顔をひとにらみすると、お盆を持ち上げてテーブルを離れていく。それで俺も慌てて身を起こすと、また玲奈の声が響きわたった。
「それじゃあ四名様は、あちらのテーブルにどうぞー!」
俺とアイリスが座っていた席に、団体客の四名が案内される。
それを横目に、アイリスがまた俺をにらみつけた。
「これ、どーすんの?」
「あ、ごめん。俺があずかるよ。でも……」
俺がそこで言いよどむと、アイリスは溜息をつきながらお盆を突き出してきた。
「まだ何か話があるってんなら、居残ってやるよ。どこで待ってりゃいいのさ?」
「あ、ありがとう。それじゃあ、そこで休んでてくれ」
俺が指し示したのは、居住エリアへと通じる障子戸の手前である。大きな衣紋かけで申し訳ていどにお客の目から隠されたその場所は上がり框になっており、足が不自由な親父もいつも座って靴を履いていた。
お盆を俺に手渡したアイリスは迷う素振りもなく、その場所に腰を落ち着ける。
彼女は出会った瞬間から険悪な雰囲気であったが、こうして『つるみ屋』までついてきてくれたし、今も渋ることなく居残ってくれている。その事実が、また俺の胸を高鳴らせていた。
(……でも、まずは仕事だ)
空いた食器を水にかけた俺はそのまま手も清めて、作業台のほうに舞い戻る。
そのタイミングで、再び「いらっしゃいませー!」という声が響きわたった。今度は常連客の、三名連れである。その後も続々とお客が入店し、気づけばおおよそ満席になってしまった。
「なんだ、今日はピークが早いみたいだな。美人さんの目を気にしてトチるんじゃねえぞ、半人前」
「うるせえな。わかってるよ」
そうして俺と親父は、フル回転で注文の料理を仕上げていったが――すべての料理が仕上がる前に他のお客が席を立ち、さらに新規のお客がやってくる。まだ夜の部を開始して一時間ていどであるのに、まさしくピークのごとき忙しさであった。
「外にもちょろっとお客さんが並んじゃってるよー! 今日はいつも以上に大盛況だねー!」
玲奈は野ウサギを思わせる軽やかさで客席中を動き回り、申し分ない働きを見せてくれている。
しかしこうまで盛況だと、皿洗いにまでは手が回らない。それに気づいた親父が、「おい」と俺に呼びかけてきた。
「こっちはいいから、洗いもんを片付けろ。小鉢とライス皿を優先な」
俺としては一秒でも長く調理に携わっていたいところであるが、こればかりは致し方がない。俺は「了解」と短く答えて、洗い物が山積みにされたシンクへと足を向けた。
すると、厨房の入り口にアイリスが立ちはだかっている。
これは予想外であったため、俺は思い切り心臓をバウンドさせることになった。
「……おい。忙しいなら、手伝ってやろーか?」
「え? て、手伝うって?」
「皿洗いぐらい、サルでもできんだろ。余計なお世話だってんなら、かまわねーけどさ」
そう言って、アイリスはつんとそっぽを向く。
それで俺がまごまごしていると、後ろから親父の笑い声が聞こえてきた。
「ありがとさん! よかったら、そこに掛かってる前掛けを使ってくれ!」
アイリスは「おう」と勇ましく応じると、やおらデニムのジャケットを脱ぎ捨てた。
その下は、胸もとしか隠していないノースリーブのハーフトップひとつの姿である。アイリスは俺の惑乱など知らん顔でエプロンを装着すると、ずっとかぶりっぱなしであったキャップの前後をひっくり返した。
キャップのつばの影が消えて、アイリスの端麗な面が厨房の照明に照らし出される。
その青い瞳は、戦いに挑む女騎士のように強く光り輝いており――それがまた、俺の心を得も言われぬほど打ち震わせたのだった。




