05 再びの悪夢
二年の歳月が過ぎ去って、ジバ=ルウは二十六歳となった。
兄たる家長は三十二歳、その子は十五歳、ラック=ルウは二十八歳――そして、長姉は男女の別が分けられる十歳、次姉は八歳、長兄ドグラン=ルウは五歳、次兄モーティ=ルウは四歳、末妹ルミア=ルウは二歳になる年であった。
ルウの血族は苦しい時代の影響でずいぶん家人が減ってしまったものの、次代を担う幼子たちは順調に育っている。現在は、十七歳から二十六歳までの家人が数えるぐらいしか存在せず、十六歳から下の若衆が続々と育っているという時代であった。
これから十数年後には、また極端に幼子が少ない時代がやってくるのだろう。
そしてそれから十数年後にも、また苦しい時代がやってくる。十年にわたって幼子のほとんどが死に絶えたという苦しい時代は、そうして何度となくルウの血族に試練をもたらすはずであった。
それでもジバ=ルウたちは、懸命に生きるのみである。
ルウはまだしも、豊かな氏族であるのだ。ダビラの薬草と数多くの野菜を使った食事によって大きな力を得たルウの血族は、他の氏族よりも遥かに大きな希望を抱いているはずであった。
(今でも氏を捨てる氏族は後を絶たないっていう話だもんな。ルウは早い段階から、多くの眷族を家人に迎えることになったけど……それも正しい判断だったのかもしれない)
家長いわく、族長筋たるスンの次に豊かな暮らしを送っているのはルウではないかという話であった。
レイやルティムもルウに匹敵するぐらいの豊かさであるようだが、あちらはルウよりも家人が少なく、すでにすべての眷族が絶えているのだ。それではどれだけ豊かであっても、先行きに大きな不安が残されるはずであった。
(こっちはシュティファもそこまで力を落としていないから、まだしばらくは大丈夫だろう。ただ、次の苦しい時代を乗り越えられるかどうかだな)
そうしてジバ=ルウが本家の広間で末妹ルミア=ルウをあやしていると、ラック=ルウがやってきた。
「それじゃあ、そろそろ森に入るよ。ジバも無理をしないようにね」
「もう手がかかるのはこの子だけだから、どうってことないさ。他の女衆に申し訳ないぐらいだよ」
「幼子をあやすのは、母親にとって一番の仕事だろう? ジバは一番立派に仕事を果たしているっていうことだよ」
すっかり逞しくなったラック=ルウは、幼い頃から変わらない無邪気な眼差しを向けてくる。ジバ=ルウも、心からの笑顔を返すことになった。
「無事な帰りを、森に祈ってるよ。くれぐれも気をつけてね」
「うん。子供たちのためにも、無茶はしないよ」
ラック=ルウが寝所を出ていき、ジバ=ルウはまた幼子と二人きりである。
四歳の次兄は表で元気に遊んでいるし、五歳以上の兄姉たちは家の仕事を手伝っているのだ。とりわけドグラン=ルウはすくすくと育ったので、年齢以上の働きを見せているはずであった。
また、つい先日には末妹ルミア=ルウも『アムスホルンの息吹』に見舞われたが、ダビラの薬草のおかげもあって一命を取りとめることができた。そうしてその後は、兄や姉たちに負けない健やかな姿を見せていた。
ジバ=ルウは五名もの子を生して、そのすべてが『アムスホルンの息吹』を克服したのである。
ルウの血族においても、それだけの数の子供が無事に生き残った例はなかった。もちろんこの先も油断は許されないが、ジバ=ルウは心からの喜びを噛みしめることができた。
(この十年、あたしはずっと幼子の面倒を見るばかりだったけど……今はこれが、あたしの役割ってことだ)
家長の子も十五歳となって、順当に力をつけている。もう身の力は十分に育っているので、あとは機会に恵まれればすぐに狩人の衣を授かることができるだろう。この子を立派な狩人に育てあげてみせると宣言した家長の言葉は、実現が目前に迫っていた。
「母さん! ドグランがケガをしちゃった!」
長姉がそのようにわめきながら家の中に飛び込んできたのは、そろそろ夕刻が近くなったあたりであった。
ジバ=ルウは一瞬で血の気がひいてしまったが、他の女衆に支えられたドグラン=ルウがすぐに姿を現したので、ほっと息をつく。ドグラン=ルウは、膝小僧からひと筋の血を流しているばかりであった。
「おやおや、大変だ。すぐに薬の準備をするから、あがっておいで」
「大丈夫だよ。ぜんぜん痛くない」
だんだん利かん気になってきた五歳のドグラン=ルウは、怒っているような顔で言いたてる。しかしジバ=ルウは身を起こしながら、「駄目だよ」と応じた。
「そんな小さな怪我でも、悪い風が入ったら生命にかかわるんだからね。まずは、水で清めてもらえるかい?」
ドグラン=ルウを連れてきた分家の女衆が「はい」とうなずきながら、土間の水瓶の蓋を開く。そちらで傷口を清めている間に、ジバ=ルウは薬箱を棚から下ろした。
「あんたたちはもういいから、仕事に戻りな。そろそろ晩餐の支度だろう?」
「うん……ドグラン、大丈夫だよね?」
十歳の長姉は、とても心配げな顔になっている。普段は大人顔負けのしっかりものであるが、不測の事態においてはやわらかな気性が先に立ってしまうのだ。それを安心させるために、ジバ=ルウは「大丈夫だよ」と微笑みかけた。
「しっかり手当すれば、なんてことないさ。ドグランだって、ルウの立派な男衆なんだからね」
「……うん。みんなにも、そう言ってくるね」
長姉と女衆は立ち去って、ドグラン=ルウだけが広間に上がる。二歳の末妹ルミア=ルウは何もわかっていない様子でにこにこと笑いながら、大好きな兄の腕にまとわりついていた。
「ルミアもちょっと大人しくしておくれよ? さ、ドグランはこっちに座りな」
ドグラン=ルウはむすっとした顔で、敷物に座り込む。その父親譲りの青い瞳には、いつも以上に強い光がたたえられていた。
「……母さん、ごめん」
「うん? あんたは何を謝ってるんだい?」
「……薬を、無駄にした。父さんたちが生命がけで手にした富を、無駄にしちゃったんだ」
ドグラン=ルウの膝小僧に血止めと腐り止めの薬を塗り込みながら、ジバ=ルウは「何を言ってるんだい」と笑った。
「薬っていうのは、こういうときのために使うんだよ。何も気にする必要はないさ」
「でも、おれみたいな子供に薬を使うのはもったいない」
「ふうん。それじゃああんたは、どうして怪我をしたのさ?」
「……薪の束を運んでるときに、転んだ。それで、薪のとがった部分が足に刺さったんだ」
「それなら、あんたも立派に仕事を果たしていたんじゃないか。なおさら、気にする必要はないよ」
ドグラン=ルウは「でも」と強情に言い張った。
「薪を運ぶことなんて、誰でもできる。そんな簡単な仕事で怪我をするのは、薬がもったいない」
「確かに、薪を運ぶってのは難しい仕事じゃない。でも、誰かがやらないと終わらない仕事なんだ。簡単でも難しくても、仕事の大切さに変わりはないんだよ」
「でも――」
「薪を運ばないと、晩餐や干し肉を仕上げることもできない。晩餐や干し肉がなかったら、狩人が働くこともできない。狩人が働かなければ、女衆や幼子も生きることができない。女衆や幼子がいなかったら、薪を運ぶこともできない。そうやって、すべての物事は繋がってるんだよ。ギバを狩る男衆も家を守る女衆や幼子も、おんなじぐらい大切ってことさ」
薬を塗った箇所には織布をあてがい、灰色の包帯を巻いていく。その端をきつくなりすぎないように結びながら、ジバ=ルウはドグラン=ルウに笑いかけた。
「あんたは賢いから、つい難しい話をしちまったね。とにかく、仕事に上下なんてないのさ。あんたの父さんだって幼い頃は、そうやって薪の束を運んだりしていたんだからね。十二歳までは家の仕事、十三歳からはギバ狩りの仕事で、どっちもしっかり務めておくれよ」
ドグラン=ルウはきゅっと唇を噛んでから、「わかった」とうなずいた。
「おれもほかの子供が怪我したら、薬がもったいないなんて思わないと思う。ただ、自分が迷惑をかけたことが、くやしかったんだ」
「うん。あんたは立派な子供だよ。きっといずれは、父さんに負けないぐらい立派な狩人になれるさ」
ジバ=ルウがそのように答えたとき――家の外から、女衆の悲鳴が響きわたった。
ルミア=ルウはきょとんと顔を上げ、ドグラン=ルウは幼子らしからぬ眼光をたたえる。そしてジバ=ルウはひと息に気持ちを引き締めて、薬箱を抱え込んだ。
「今度は男衆が怪我をしたのかもしれない。二人は、ここで待っていておくれ」
「やだ。おれもいく」
「ああもう、しかたないね。ルミア、ちょっと待っててね。すぐに誰かに来てもらうからさ」
素直なルミア=ルウは「うん」とうなずき、自分の膝を抱え込む。
そうしてジバ=ルウがドグラン=ルウとともに家を出ると――広場に、人だかりができていた。
どこかの男衆が怒鳴り声をあげ、どこかの女衆が悲嘆の声を振り絞っている。
その光景に、ジバ=ルウは心臓をしめつけられるような思いであった。
ジバ=ルウは十一年前にも、これと同じ光景を見ている。
そしてその日に、ジバ=ルウは父と次兄を、ラック=ルウは父を失ったのだ。さらに、ルウとドグランの分家の男衆も一名ずつ魂を返したのだった。
ジバ=ルウは薬箱をぎゅっと抱きすくめながら、人垣の内へと踏み込んでいく。
そして、その先に現れたのは――悪夢のような光景であった。
また五名もの狩人が、地面に横たえられている。
全員が血みどろで、その内の何名かはすでに魂を返しているとしか思えない。
そして――
その五名の内、三名がジバ=ルウの家族であった。
ジバ=ルウは悪夢の中をさまよっているような心地で、家族のもとまで歩を進める。
左の腿に血止めの蔓草を巻きつけられたラック=ルウは、びっくりするぐらい血の気を失った顔色でまぶたを閉ざしていた。
ジバ=ルウの兄たる家長は血みどろの腹部を抱えながら、かすかにうめき声をあげている。
そして、家長の子たる十五歳の若衆は――とても安らかな顔をしながら、首から下が鮮血に染まっていた。彼は、咽喉もとを引き裂かれていたのだ。
「俺は……最後の最後で、約定を守れなかった……」
と――家長が震える声を振り絞る。
その姿も、十一年前に見た父そのままであった。
「そして、目の前で我が子を殺められた俺は、自分を抑えることができず……自分の生命まで粗末に扱ってしまった……これでは、父さんに顔向けできんな……」
ジバ=ルウは言葉を返すこともできないまま、兄たる家長の空いているほうの手を握りしめた。
その腹からは、今もなお滝のように血が噴きこぼれている。そしてラック=ルウに至っては、もはや流れる血さえも残されていないようであった。
「ジバ……お前は、ルウの血に縛られる必要はない……お前は、お前にとっての正しき生を……」
そんな言葉を最後に、家長も動かなくなった。
そして、ラック=ルウのもとにはドグラン=ルウが取りすがっている。しかし、ドグラン=ルウは涙を流すことなく、ただ炎のように青い瞳を光らせていた。
「……父さんは、もう魂を返している」
ドグラン=ルウは幼子らしからぬ低い声で、そう言った。
そして、反対の側からは二つの泣き声が聞こえてくる。残る二名も魂を返して、家族の女衆が泣き伏したのだ。
しかしジバ=ルウは泣くこともできず、ただぼんやりと三人の家族たちを見回した。
森辺の女衆は、狩人がいつ魂を返してもおかしくないという覚悟で見送っているが――三人もの家族を同時に奪われたジバ=ルウは、何をどのように考えればいいのかもわからなくなっていた。
そこでまた、誰かの悲鳴が響きわたる。
何名もの男衆がそれぞれギバを抱えながら、森から戻ってきたのだ。その先頭に立っていたのは、ルウ本家の家人である若い男衆であった。
「すべての収獲を持ち帰った。これらのギバが、俺たちから五名もの血族を奪ったのだ」
五名の血族のかたわらに、ギバの亡骸も並べられていく。その数は、八頭にも及んでいた。
「ギバが群れることは、通常ありえない。しかしこやつらはギバ寄せの実がなっている茂みから出てきたので、いずれも我を失っていたのだろう。同じ場にいて生き残ったのは、俺とこいつだけだった」
家人である男衆が指し示したのは、分家の壮年の男衆である。しかし、そちらの顔は無念に引き歪んでいた。
「しかし、これらのギバのほとんどを仕留めたのは、家長とラックだ。家長とラックは、勇者に相応しい働きを見せた。俺は……俺は、何もできなかった」
と、若い男衆は地面にくずおれる。
その目から、ふいに涙がこぼれ落ちた。
「ジバ……どうか許してくれ……俺にもっと力があれば、家長とラックは救えたかもしれないのに……」
「……家長はいつも、生命を重んじるようにと言いつけていた。あんたは立派に、役目を果たしたんだよ」
半ば無意識の内に、ジバ=ルウはそんな言葉を口にしていた。
そして、悄然と立ち並ぶ血族たちの姿を見回す。
「そして家長たちも狩人としての役目を果たして、母なる森に魂を返した。これからは、先人たちとともにあたしたちを見守ってくれるんだ。これまでの幸福な時間に感謝を捧げて、五人を弔ってあげよう。そしてその後は、このギバたちを喰らって強き力を我がものとするんだよ」
すると――その場に立ち並んだ人間の数多くが、雄叫びめいた声を張り上げた。
その何人かは、ぽろぽろと涙をこぼしている。きっと死力を尽くして、悲嘆の思いをねじ伏せているのだ。その凄まじいばかりの喚声の中、ジバ=ルウはもういっぺん家族たちの姿に視線を落とした。
(これでいいんだよね、兄さん……ラック……これが、あたしの選んだ正しい道だよ……)
最後に言葉を交わすことさえままならなかったラック=ルウは息子のドグラン=ルウに取りすがられながら、ただ静かに横たわっている。
その顔は、どこか安らかに微笑んでいるように見えなくもなかった。




