プロローグ
「───ミリー。ぼんやりしてどうした?体調悪い?」
声変わり前のまだ幼さの残る高い声に、ハッと意識が覚醒する。
ふかふかとしたベッドに私はいて、横には色とりどりの綺麗な花を花瓶に飾りながら首を傾げる男の子がいた。
………あれ、ここどこだろう。
ワンルームよりも広い室内を見渡して首を傾げる。
おかしいな。"私"は自宅にいたはずなのに。
いつも通りストレスからか体調が悪いのを押し殺して仕事をして帰って缶ビールを片手に寂しく夜を迎えていたはずなのに。
「………まだ具合でも悪いのか?」
へにゃりと眉を下げた男の子の綺麗な顔にそぐわぬ、肉刺と傷だらけの手が伸びてきて私の前髪を上げ、自身の額を近づけた。
伏せ気味の長い睫毛の中から桃色がちらつく。
太陽のような柔らかな金髪が頬を擽って、思わず攀じると「こら。動いちゃだめ」と優しく窘められる。
「うん……良かった。熱はないみたいだな」
至近距離で桃色の瞳が柔らかく細められて、心底安堵したように微笑んだ。
───これは夢なのだろうか。
頬を抓ってみるとヒリヒリとした痛みが襲ってくる。
「あ!ミリー!どうしたんだよ?急に抓るなんて。ほら、赤くなってる」
そう言って痛みを和らげるように両手で頬をさすられ、どこからか取り出した鏡で赤くなった頬を見せられる。
その鏡を覗き込めば、柔らかな栗色の髪が緩やかに波打ち、垂れ目の優しそうな桃色の瞳。まろい頬にふっくらと色付く桜色の唇の少女が映っていた。
…………誰?この美少女。
不意に右手で頬を触れば、目の前の彼女も反転して頬に触れている。
"私"はもう二十歳も過ぎていたのにこんな少女と呼ばれる年齢に戻っているなんてありえない。そう思うのに触れた感覚、仄かに香る花の匂いや僅かに開け放たれた窓からそよぐ風が現実だと肌に訴える。
───夢じゃないのかな。夢じゃないなら、"私"はどうなったのだろう。
「体調が完全に治るまでいい子にしていること。わかった?」
「……うん」
正直、まだ混乱しているからその申し出にありがたく頷く。今はゆっくり考えられる時間が欲しかった。
「いい子だ、ミリー」
そこに慈愛の色を感じて何だか照れくさくなる。
そんな私の心境など知らずに、彼は柔らかく微笑んだまま頬を撫でながら言った。
「何かあったらすぐに兄さんに言うんだ。いいね?」
「う、うん……」
その瞳に抗えないような圧を感じて、言われるがままにこくこくと頷く。
満足したように優しく頭を撫でる手が心地よくて、無意識にその掌に頭を押し付けて擦り寄ると、それに気付いてにこにこと嬉しそうに微笑む。
……そっか。ずっとここにいた彼は兄なのか。そう言われるとしっくりする。
「ありがとう兄さん」
無意識に口が動く。───そうだ、私は彼を兄さんと呼んでいた。お兄ちゃんと呼んで欲しいと駄々を捏ねられてもなんだか照れくさくて兄さんと呼んでいたのだった。
芋ずる式にずるずると記憶が流れ込んでくる。
わたしはミリー。さっきの彼、エイダンの妹。王都から離れた、果てしなく広がる空と大地に囲まれた小さな田舎の村に兄と二人で住んでいた。
わたしが少し身体が弱いこともあって兄はいつも過保護気味だった。
記憶が馴染んでいくにつれて、これが二度目の人生だと自覚する。
───多分あの日、"私"は死んだのだろう。
そしてミリーとしてわたしは誕生した。何故か前世の記憶を持ったまま。だけどこれはきっと幸運だった。
"私"はミリーを知っていた。それも小説の中で。
勇者エイダンの妹として作中に登場し、体の弱いミリーを心配する兄の背を押して魔王討伐に送り出すのだ。それ以降ほとんど出てこないものの、勇者の妹だし多分元気に暮らしていたんだろう。
将来、勇者になるとはいえ選定の儀で選ばれるまではどこにでもいる普通の男の子。きっと貧乏暮らしでまともに栄養もとっていなかったから体を作るのも大変だっただろう。それに加え、妹の面倒も見ていたなんて苦労したはず。
だけど前世の記憶を思い出したからにはもう兄に甘えたがりの妹じゃいられない。
旅の最中の過酷な運命を変えることは出来ないから、せめて今はわたしにできる精一杯で兄さんを支えよう。