第四章:物語の守護者
1960年7月、シカゴの灼熱の陽射しが街を覆っていた。紀子はウェブスター通り851番地のアパートの前に立っていた。汗を拭いながら、彼女は古びた建物を見上げた。
「ここが……ヘンリー・ダーガーの住処」
階段を上りながら、紀子は不思議な胸の高鳴りを感じていた。ダーガーについて、彼女は断片的な情報しか持ち合わせていなかった。清掃人として働く孤独な男性。誰にも見せることなく、膨大な物語を書き続けている人物。
三階の廊下。埃っぽい空気の中、紀子は部屋番号を確認した。
「ダーガーさん? お話しできますか?」
ノックの音が虚ろに響く。しばらくして、かすかな物音が聞こえた。
ゆっくりとドアが開く。そこには、やせ細った老人の姿があった。色褪せた作業着を身につけ、疲れた表情を浮かべている。しかし、その目には不思議な輝きがあった。
「どなたですか?」
警戒するような声。紀子は優しく微笑んだ。
「村松紀子と申します。あなたの……作品についてお話を伺えないでしょうか?」
ダーガーの目が微かに見開かれた。
「作品?」
「はい。『非現実の王国で』について」
その言葉を聞いた瞬間、ダーガーの表情が一変した。警戒心は消え、かわりに子供のような好奇心に満ちた表情が浮かぶ。
「どうぞ」
部屋に足を踏み入れた瞬間、紀子は息を呑んだ。
壁という壁に、水彩画が所狭しと貼られている。そこには少女たちが主役の壮大な物語世界が広がっていた。ヴィヴィアン姉妹と呼ばれる少女たちが、邪悪な大人たちと戦う姿。天候や季節の移ろい、戦闘のシーン、日常の一コマ。それらが細密な筆致で描かれ、まるで生きているかのように輝いていた。
机の上には、無数の原稿用紙が積み重ねられている。15,145ページに及ぶ大作『非現実の王国で』の原稿だ。
「これは……すべてあなたが?」
「ええ。でも、まだ完成していません」
ダーガーは静かに答えた。その声には、どこか遠い場所を見つめているような響きがあった。
「私には見えるのです。彼女たちの世界が」
ダーガーは一枚の絵を手に取った。そこには、嵐の中を必死に逃げる少女たちの姿が描かれていた。
「ヴィヴィアン姉妹は、子供たちを救うために戦っています。彼女たちは純粋で、強く、そして……」
言葉が途切れる。紀子は、彼の目に浮かぶ涙を見た。
「私にも姉妹がいたんです。昔……施設で」
ダーガーの告白に、紀子は静かに耳を傾けた。幼い頃に精神病院に入れられた彼。失踪した実の妹。養護施設での辛い日々。それらの記憶が、この壮大な物語世界の源泉となっていたのだ。
紀子は部屋の隅に目をやった。そこには、まだ誰にも見せていない原稿が隠されていた。『さらば、さらば』と題された未完の物語。
「これは……」
「あぁ、それは……私の本当の物語です」
ダーガーの声が震えた。紀子は慎重に原稿を開いた。そこには、施設での日々が克明に記されていた。虐待、孤独、そして希望。すべてが痛々しいほどの詳細さで描かれている。
黄ばんだ原稿用紙の束を、紀子は静かに手に取った。インクの色が薄れ、端が擦り切れた紙からは、長い年月の重みが感じられた。
「これは……私の記憶です」
ダーガーの声が震えていた。その手も、かすかに震えている。
最初のページには、1904年という数字が記されていた。イリノイ州リンカンの少年施設。8歳のヘンリーが収容された年だ。
『今日も逃げ出せなかった。窓の外には雲が流れている。自由な雲が、羨ましい。』
幼い文字で書かれた日記のような記述。紀子は息を飲んだ。
『看守のトンプソンが来た。また鞭を持っている。でも今日は泣かない。泣くと、もっと痛いから。』
ページをめくるたびに、残酷な記憶が浮かび上がる。食事を与えられない日々。真冬の廊下での正座。そして、深い孤独。
『誰も私の絵を見てくれない。でも描かずにはいられない。壁に隠した鉛筆で、こっそりと。天使たちが私を見守ってくれる。』
紀子の目に涙が浮かんだ。少年は絵を描くことで、現実から逃れようとしていた。いや、違う。現実と向き合うために、描いていたのだ。
『妹のメアリーは、どこにいるのだろう。施設に入れられる前、最後に見た笑顔が忘れられない。いつか必ず、また会える。そう信じている。』
失踪した妹への思いが、痛々しいほどの詳細さで綴られていた。その思いが、後の『非現実の王国で』のヴィヴィアン姉妹たちへと昇華されていったのだ。
「もう、十分です」
ダーガーが静かに言った。紀子は慎重に原稿を閉じた。老人の目には、遠い日の痛みが浮かんでいた。
しかし、その瞳の奥には、かすかな光も見えた。それは絶望の中から生まれた希望の光。芸術という救いの光だった。
「この物語は、いつか完成させるつもりです。でも、まだ……」
ダーガーは窓の外を見つめた。そこには、彼が清掃員として働く街並みが広がっていた。
「時には現実の方が、物語よりも残酷ですから」
その言葉に、紀子は深い共感を覚えた。芸術とは、時として現実から逃れる手段ではなく、現実と向き合うための武器となる。ダーガーの作品は、まさにそれを体現していた。
夕暮れが迫っていた。紀子は立ち上がり、感謝の言葉を述べた。
「また来てもいいですか?」
ダーガーはかすかに頷いた。その表情には、久しぶりに誰かと心を通わせた喜びが浮かんでいた。
部屋を出る前、紀子は最後にもう一度振り返った。夕陽に照らされた水彩画たちが、まるで生命を宿したように輝いている。
「さようなら、物語の守護者さん」
紀子の心の中で、その言葉が静かに響いた。ダーガーの作品は、単なるファンタジーではない。それは、失われた魂の記録であり、傷ついた心の癒しであり、そして何より、純粋な魂の証だったのだ。
階段を降りながら、紀子は考えた。芸術とは何か。それは時として、最も深い孤独から生まれる。しかし、その孤独こそが、普遍的な共感を生み出す源泉となる。ダーガーの作品は、まさにそれを証明していた。
通りに出ると、夕暮れの空が赤く染まっていた。それは、どこかダーガーの水彩画に描かれた空を思わせた。紀子は深いため息をつきながら、静かに歩き出した。この出会いが、彼女の芸術観をさらに深めることになるだろう。そう確信していた。