表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

4/9

第三章:色彩の預言者

 スイス・ジュラ地方の古びた療養所。1951年の初夏、その一室で紀子はアロイーズ・コルバスと向き合っていた。


「見えるのです。未来が……」


 コルバスは大きなキャンバスに向かいながら呟いた。その手には古びたクレヨンが握られている。鮮やかな色彩が、まるで生き物のように踊っていた。


 紀子は息を呑んだ。目の前で展開される光景は、これまでの芸術の常識を覆すものだった。コルバスの描く人物たちは、現実の形を超えて自由に変容し、時には動物や植物のような姿を見せる。そして何より、その色使いの斬新さ。深い赤が青と溶け合い、黄色が緑へと変容していく。それは既存の芸術の枠を軽々と超えていた。


「コルバスさん、この絵に描かれているのは……」


「見えないのですか? これは来たるべき世界の姿です」


 コルバスの声には確信が満ちていた。


 紀子は彼女の作品群をじっくりと観察した。そこには不思議な一貫性があった。まるで何かのメッセージを伝えようとしているかのように、特定のモチーフが繰り返し現れる。


 部屋の隅には、積み重ねられた絵画の山があった。紀子は丁寧にそれらを一枚ずつ確認していく。そして、ある一枚の絵の裏に、驚くべき記述を見つけた。


「この数字の羅列は……」


 紀子の目が輝いた。それは明らかに暗号だった。数字の間隔、その配置の仕方。すべてが意図的なものに見える。


「ハンス・プリンツホルンのコレクション……」


 コルバスが突然、はっきりとした口調で言った。


「彼が隠したものは、まだ見つかっていない」


 紀子は急いでメモを取り出した。プリンツホルンと言えば、20世紀初頭に精神科医として活動し、膨大な量の患者の作品を収集した人物。しかし、その一部は第二次世界大戦中に行方不明になったとされている。


 コルバスの絵画に描かれた暗号は、その在り処を示していたのだろうか?


「時は近づいています」


 コルバスは再び絵筆を取り、新しいキャンバスに向かい始めた。


「色彩が語りかけてくる。私たちの魂の記憶を」


 紀子は彼女の作品をさらに詳しく調べ始めた。キャンバスの端々に記された小さな記号、特異な色の組み合わせ、そして反復されるパターン。それらは単なる偶然ではないはずだ。


 数日かけて紀子は暗号を解読していった。それは座標のようだった。スイスのある地点を指し示している。しかも、その場所は……。


「ここです!」


 紀子は地図を広げた。指し示された場所は、かつてプリンツホルンが働いていた病院の近くだった。


 その日の午後、紀子はコルバスの元を去る準備をしていた。最後に彼女が描いた絵には、燃えるような赤と青が渦を巻いていた。その中心には、小さな光の粒が無数に散りばめられている。


「これは……」


「未来からのメッセージです」


 コルバスは静かに微笑んだ。


「あなたならきっと見つけられる。私たちの魂の記録を」


 紀子は深く頷いた。彼女の旅はまだ始まったばかり。プリンツホルンの失われたコレクション。それは単なる芸術作品の集まりではない。人々の魂の記録、そして未来への預言なのかもしれない。


 療養所を後にする紀子の背中に、夕陽が長い影を落としていた。コルバスの最後の絵が、彼女の網膜に焼き付いて離れない。それは警告なのか、それとも希望の印なのか。


 答えは、まだ見つかっていない。しかし紀子は確信していた。この出会いが、彼女の探求に新たな次元を開くことを。時を超えた芸術の真実に、一歩近づいたような気がしていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ