第三章:色彩の預言者
スイス・ジュラ地方の古びた療養所。1951年の初夏、その一室で紀子はアロイーズ・コルバスと向き合っていた。
「見えるのです。未来が……」
コルバスは大きなキャンバスに向かいながら呟いた。その手には古びたクレヨンが握られている。鮮やかな色彩が、まるで生き物のように踊っていた。
紀子は息を呑んだ。目の前で展開される光景は、これまでの芸術の常識を覆すものだった。コルバスの描く人物たちは、現実の形を超えて自由に変容し、時には動物や植物のような姿を見せる。そして何より、その色使いの斬新さ。深い赤が青と溶け合い、黄色が緑へと変容していく。それは既存の芸術の枠を軽々と超えていた。
「コルバスさん、この絵に描かれているのは……」
「見えないのですか? これは来たるべき世界の姿です」
コルバスの声には確信が満ちていた。
紀子は彼女の作品群をじっくりと観察した。そこには不思議な一貫性があった。まるで何かのメッセージを伝えようとしているかのように、特定のモチーフが繰り返し現れる。
部屋の隅には、積み重ねられた絵画の山があった。紀子は丁寧にそれらを一枚ずつ確認していく。そして、ある一枚の絵の裏に、驚くべき記述を見つけた。
「この数字の羅列は……」
紀子の目が輝いた。それは明らかに暗号だった。数字の間隔、その配置の仕方。すべてが意図的なものに見える。
「ハンス・プリンツホルンのコレクション……」
コルバスが突然、はっきりとした口調で言った。
「彼が隠したものは、まだ見つかっていない」
紀子は急いでメモを取り出した。プリンツホルンと言えば、20世紀初頭に精神科医として活動し、膨大な量の患者の作品を収集した人物。しかし、その一部は第二次世界大戦中に行方不明になったとされている。
コルバスの絵画に描かれた暗号は、その在り処を示していたのだろうか?
「時は近づいています」
コルバスは再び絵筆を取り、新しいキャンバスに向かい始めた。
「色彩が語りかけてくる。私たちの魂の記憶を」
紀子は彼女の作品をさらに詳しく調べ始めた。キャンバスの端々に記された小さな記号、特異な色の組み合わせ、そして反復されるパターン。それらは単なる偶然ではないはずだ。
数日かけて紀子は暗号を解読していった。それは座標のようだった。スイスのある地点を指し示している。しかも、その場所は……。
「ここです!」
紀子は地図を広げた。指し示された場所は、かつてプリンツホルンが働いていた病院の近くだった。
その日の午後、紀子はコルバスの元を去る準備をしていた。最後に彼女が描いた絵には、燃えるような赤と青が渦を巻いていた。その中心には、小さな光の粒が無数に散りばめられている。
「これは……」
「未来からのメッセージです」
コルバスは静かに微笑んだ。
「あなたならきっと見つけられる。私たちの魂の記録を」
紀子は深く頷いた。彼女の旅はまだ始まったばかり。プリンツホルンの失われたコレクション。それは単なる芸術作品の集まりではない。人々の魂の記録、そして未来への預言なのかもしれない。
療養所を後にする紀子の背中に、夕陽が長い影を落としていた。コルバスの最後の絵が、彼女の網膜に焼き付いて離れない。それは警告なのか、それとも希望の印なのか。
答えは、まだ見つかっていない。しかし紀子は確信していた。この出会いが、彼女の探求に新たな次元を開くことを。時を超えた芸術の真実に、一歩近づいたような気がしていた。