第一章:光の記憶
意識が戻った瞬間、紀子の鼻腔をヨードチンキの強烈な匂いが襲った。
「Ou suis-je...?(私はどこに?)」
思わず漏れた言葉がフランス語だったことに、紀子は我に返る。白く剥げかかった天井。古びたカーテンの向こうから漏れる柔らかな光。そして、どこか懐かしい消毒薬の香り。
「1945年8月15日です」
白衣を着た年配の医師が、静かに告げた。その声音には、どこか哀しみが混じっていた。
「え?」
紀子は起き上がろうとしたが、激しい目眩に襲われた。
「ゆっくりと……。あなたは気を失っていたのです」
医師の仏語は明瞭で、古典的な響きを持っていた。
「でも、私は確か……上野の……」
記憶が断片的に蘇る。国立西洋美術館の一室。謎めいた署名の絵画。そして、突然の眩暈。
窓の外には見知らぬ街並みが広がっていた。石畳の道。馬車が行き交う音。古びた建物群が、夏の陽光を優しく反射している。
「ここは……ベルン?」
紀子は呟いた。かつて留学していた街の景色を、彼女は確かに覚えていた。しかし、今目の前に広がる光景は、まるで古い写真のように色褪せている。
「その通りです。ベルン総合病院の第三病棟」
医師のルイ・ヴェルネル博士は、紀子の様子を注意深く観察しながら続けた。
「あなたは昨日、病院の中庭で倒れていました。身分証も持ち物も何もない。ただ、美術についての専門的な知識をお持ちのようだ……」
紀子は自分の服装に目を落とした。シンプルな白いブラウスに紺のスカート。しかし、これは確かに昨日まで着ていた服ではない。生地の質感も、デザインも、明らかに古い時代のものだった。
「8月15日……」
その日付が意味するものを、紀子は瞬時に理解した。太平洋戦争が終結する日。世界の歴史が大きく動く瞬間。そして、アウトサイダーアートの歴史においても、重要な転換点となる日。
「博士、アドルフ・ヴェルフリは……」
思わず口をついて出た言葉に、ヴェルネル博士の表情が変化した。
「あなたは彼をご存じなのですか?」
「はい。私は……美術研究者です」
紀子は慎重に言葉を選んだ。2024年からタイムスリップしてきた美術評論家だとは、とても言えない。
「興味深い……。実は、ヴェルフリ氏の容態が重篤化しているのです。彼は今、最後の作品に取り組んでいます」
ヴェルネル博士の声には、深い敬意が込められていた。
「会えますか? 彼に」
「ええ、もちろん。しかし、その前に……」
博士は机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
「これを見ていただけますか?」
それは鉛筆で描かれたスケッチだった。複雑な幾何学模様の中に、見覚えのある署名が。紀子は息を呑んだ。
「この署名は!」
上野の美術館で見た絵画と同じ署名。しかし、このスケッチの方が明らかに古い。
「これは昨日、あなたが倒れていた場所で見つかったものです。誰かがあなたのポケットに入れたのでしょう」
紀子は静かに頷いた。全ては偶然ではない。彼女はある目的のために、この時代に呼び寄せられたのだ。
「ヴェルフリ氏に会わせていただけますか?」
「ええ。しかし、その前に一つ約束してください」
ヴェルネル博士は真剣な表情で紀子を見つめた。
「彼の作品は、決して『狂気の産物』として扱わないでください。私たちは長年、彼の才能を理解しようと努めてきました。しかし、世間は……」
「分かっています」
紀子は静かに答えた。
「芸術に『内』も『外』もありません。あるのは、表現者の真摯な魂だけです」
その言葉に、博士は安堵の表情を浮かべた。
「では、案内しましょう。彼の部屋へ」
紀子はゆっくりとベッドから降りた。窓の外では、夏の陽光が石畳を温めている。時代を超えた芸術との対話が、今始まろうとしていた。
廊下を歩きながら、紀子は自分の状況を整理しようとした。2024年から1945年へ。そして、アウトサイダーアートの巨匠との出会い。全ては偶然なのか、それとも必然なのか。
しかし考えを深める暇もなく、彼女たちは一つの部屋の前で立ち止まった。ドアの向こうから、かすかに鉛筆の擦れる音が聞こえてくる。
「準備はよろしいですか?」
ヴェルネル博士の問いかけに、紀子は静かに頷いた。ドアが開く。そこには、紀子の人生を大きく変えることになる出会いが待っていた。
部屋の中は、驚くほど整然としていた。
白い壁に向かって、一人の老人が座っていた。アドルフ・ヴェルフリ。紀子は息を呑んだ。写真でしか見たことのない伝説的なアーティストが、確かにそこにいた。
「ヴェルフリさん、お客様です」
ヴェルネル博士の声に、老人はゆっくりと振り返った。
「私の宇宙に、ようこそ」
ヴェルフリの声は、驚くほど澄んでいた。彼の目は、紀子をまっすぐに見つめている。
机の上には、途中まで描かれた作品が広がっていた。複雑な幾何学模様。音符のような記号。そして、不思議な生き物たち。全てが独特のリズムを持って、紙の上で踊っているようだった。
「これは……『楽園の地図』ですね」
紀子の言葉に、ヴェルフリの目が輝いた。
「あなたには見えるのですか? 私の描く世界が」
「はい。でも、まだ完全には理解できていません」
紀子は正直に答えた。
「理解する必要はありません。感じればいい」
ヴェルフリは再び作品に向かい、鉛筆を走らせ始めた。その動きには、独特のリズムがあった。まるで目に見えない音楽に合わせているかのように。
「彼は毎日、12時間以上描き続けています」
ヴェルネル博士が囁いた。
「時々、歌を口ずさみながら……」
その言葉通り、ヴェルフリは小さな旋律を口ずさみ始めた。それは紀子の知らない、不思議な調べだった。
「この曲は?」
「彼のオリジナルです。絵と音楽は、彼の中では一つなのです」
紀子は静かに観察を続けた。ヴェルフリの手の動きは、驚くほど正確だった。迷いのない線。確信に満ちた構図。それは「狂気の産物」どころか、極めて計算された芸術表現だった。
そして、机の隅に置かれた一枚の紙が、紀子の目を引いた。
「あれは……」
上野の美術館で見た絵画と同じ署名。しかし、この紙には署名だけでなく、何かの図面のようなものが描かれていた。
「見えましたか」
ヴェルフリは振り返ることなく言った。
「あれは私の最後の作品の設計図です。完成させる時間は……もうあまりありません」
その言葉に、部屋の空気が凍りついたように感じた。
「私に手伝えることは……」
「ええ、あります」
ヴェルフリは初めて、鉛筆を置いて紀子の方を向いた。
「あなたには、私の宇宙を理解する目があります。だから、お願いがあります」
彼は机の引き出しから、一冊の手帳を取り出した。
「これを、必要な人に届けてください」
紀子が手帳を受け取ると、表紙に見覚えのある署名があった。そして、その下には小さな文字で日付が記されている。
『1945年8月15日』
上野の美術館で見た絵画と同じ署名。そして、彼女が気を失った日付。全ては繋がっていた。
「約束します」
紀子の答えに、ヴェルフリは穏やかな笑みを浮かべた。
「では、私は作品に戻ります。時間が……あまりないので」
再び鉛筆を握る老人の姿に、紀子は深い敬意を覚えた。芸術とは、こうして最期の瞬間まで真摯に向き合うものなのだ。
部屋を出る時、紀子は確かに感じた。彼女の人生は、この出会いを境に大きく変わろうとしていることを。
そして、この手帳が導く先に、まだ見ぬアーティストたちとの出会いが待っているのだと。