プロローグ:時を超える扉
東京・上野の国立西洋美術館。その特別展示室で、美術評論家の村松紀子は一枚の絵画と向き合っていた。午後の斜光が、不思議な色彩を放つキャンバスを照らしている。
紀子は目を細めた。45年の経験を持つ彼女でさえ、この作品の本質を掴みきれないでいた。幾何学的なパターンが螺旋を描き、その上を鮮やかな色彩が舞う。まるで生命を宿しているかのような躍動感。そして、どこか懐かしい――しかし、それは彼女の記憶にない懐かしさだった。
「まるで……時の標本のよう」
紀子は思わず呟いた。キャンバスの表面には、無数の時間が積層しているように見える。それは単なる絵画ではなく、誰かの魂の記録のようだった。
彼女の指先が、作品の端に記された謎めいた署名に触れる。判読しがたい文字列が、まるで暗号のように連なっていた。その瞬間、紀子の意識に奇妙な浮遊感が忍び寄る。
「村松さん、鑑定の進み具合はいかがですか?」
館長の声が、どこか遠くから聞こえてくる。振り返ろうとした瞬間、世界が歪んだ。
展示室の空気が、まるでガラスの様に結晶化していく。時計の針が逆回転を始め、壁という壁が溶け出していく。紀子の視界が万華鏡のように揺らめいた。
「これは……」
言葉を発した時には、既に遅かった。紀子の意識は、深い霧の中へと吸い込まれていく。
最後に見えたのは、絵画の表面で踊る不思議な光の粒子。それは彼女を導くように、優しく瞬いていた。
「芸術の真実を求めて……」
誰かの声が、紀子の意識の中で響く。それは一人の声であり、同時に無数の声でもあった。
意識が遠のいていく中で、紀子は確かな予感を覚えた。彼女は今、途方もない旅の入り口に立っているのだと。
時計の針が、静かに止まった。
そして――物語は始まる。




