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~徐々に壊れる精神~ <ロイダン 視点>

【修正版】

 

 美しい満月の下で、ロイダンは不敵な笑みを浮かべる。

 不気味な程に静かで、辺りには血の匂いが漂っていた。


「皇太子殿下、仰せの通り生存者は地下牢に閉じ込めて参りました」

「ああ、ご苦労」


 別荘を襲撃した後。

 オルカを抱えたまま、ロイダンは馬車に乗り込んだ。

 彼は愛しい婚約者の弱った姿を見つめながら、かつて想いを寄せた令嬢に憤りを感じていた。

 厄介な能力を制御も出来ない。

 その上、感覚を狂わす香りまで放つ。

 どこまでも不愉快で目障りな者だと舌打ちをする。

 可愛がってやった恩も忘れて、周囲と同じように手の平を返した挙句、攻撃までするなんてあり得ない。

 

 ” だが、その命を以て彼の者を許そう ”


 自分はなんて心の広い王だと、ロイダンは笑みを浮かべながら婚約者の額に口付けを落とす。

 幸い、オルカが負った傷は深くなかったのか。

 既に血が止まっていることを確認すると、舌に負った傷も気にせず口角を上げた。

 そして獲物を前にした空腹な肉食獣の様に、舌舐めずりをする彼は金色の瞳をギラつかせる。

 ゴクリと口内に溜まった唾液を飲み込み、婚約者に喰らい付きたい衝動を抑えてやせ細った身体を羽織で包む。


「すぅ……」


 ロイダンは前かがみになり、オルカの首元に顔を埋めて肺一杯にその香りを吸い込んだ。

 腕の中で眠る愛しい人の香りに勝るもはない。

 脳が痺れるような芳醇な香りに酔いしれながら、無意味にくつくつと笑い声を零した。

 これだ、これだ。

 何度もそう呟いては、またくつくつと笑う。


「ああ、本当に……なんて旨そうなんだ」



 ***




 

 一目見た瞬間から、ロイダンは一つ年下のオルカを快く思っていなかった。

 周囲の大人が囁くような不吉な理由ではなく、単純に風貌が気に入らないからだ。

 皇族と同じ黒髪に、人目を引く奇抜な眼鏡。

 仕草までもが鼻につく不愉快な存在。

 そんな者は自分に相応しくない。

 あんな者を隣に連れて歩くなんて、恥ずかしい。

 この時、ロイダンは九歳でオルカは八歳。

 子供らしい思考が余計に彼の不快感を煽り、葬式が行われたばかりの家門という事実も相まって、不気味で拒否感を強める判断材料になっていた。

 また、容姿一つで皇太子の座を勝ち取った彼は、物心がつくまでに育った環境が原因で、高慢かつ見た目を重視する性格の持ち主でもあった。

 客観的に良く見られたい願望が強く、同時に誰もが羨む存在であり、皇族としてそうあるべきだとも考えていた。

 幼少期の講師は男尊女卑の考え方を有する人で、ロイダンのその後の考え方の基盤を固めた人物でもある。

 女性は非力で男性に従うもの、美しさが無ければ価値も無いと聞かされて育った為、人目を引く変わった格好の婚約者を受け入れることが出来なかった。

 そんな偏った考え方を持つロイダンが、美しい容姿と美声を持つエイリーンに惹かれるのは必然的だと言えるだろう。 


 ” 時期皇帝の肩書を持つ自分は尊い存在だ ”

 ” 何をしても許される ”

 ” 与えられることが当たり前で、その事実は覆らない ”

 

 そう信じて疑わなかったロイダンでも、当初は人並みの倫理観を持ち合わせていた。

 しかし、彼の感覚を狂わせたのは他でもない。

 婚約者の並外れた忍耐力と、権力に肖ろうとする人間だ。

 そうして行動が激化した。


 ” 肉体関係さえ無ければ何も問題ないだろう ”


 実際に感情のまま想い人に接しても咎める者はいない。

 町中を歩いてもゴシップ誌の餌食にならない。

 やっぱり何をしても許される。

 非難とは無縁で自分は特別だとロイダンは考えていたが、当時は皇室を記事に書くことが暗黙の了解で禁止されているだけで、当然その不誠実な行為は許されるものではない。

 ミルドッド伯爵家のように、彼に不信感を抱く者は少なからず存在した。

 けれど、異種族の血に拘る盲目的な信者によって無意識に守れていた為、彼の立場が脅かされることはなかった。

 そんな重なる幸運に有難みを感じることなく、むしろ当然だと思っていたロイダンだからこそ、唯一ままならなかったオルカとの婚約を心底不快に感じていた。

 そして数年後。

 ロイダンが十七歳の頃になると、人並みだった倫理観は、もはや無いに等しかった。

 オルカを蔑み、エイリーンを優遇する姿勢に後ろめたさなど欠片も無く、あくまで友人と言うていで関係を続けている為、町へ出掛ける時も三人だった。

 理由は勿論、想い人が幼馴染の同行を望んだこと。

 そして何をしても許される存在だと思う反面、良く見られたいが為に浮気ではないと周囲に示す為だ。

 とは言え、二人の令嬢に対する接し方は雲泥の差があり、社交の場に関してもパートナーとして連れて歩くのは決まってエイリーンだけなので、周囲の誰もが友人関係ではなく、公認の上で皇太子が浮気をしていると認識していた。

 その不名誉な事実に気付かないまま、ロイダンはいつしか政略結婚に過ぎない婚約者への態度は妥当で、不細工な女に婚約者という立場を名乗らせているだけ、有難く思うべきだとも考えるようになった。

 そこまで拒否感を示し、自己中心的であるにも関わらず婚約を自分から解消しない理由はただ一つ。

 倫理観が無いに等しいとは言え、流石に国の最高権力者の決定を無視する行為はマズイと判断しているからだ。

 そんな彼なりに我慢をしていたある昼下がり、ロイダンの平穏を脅かす最初の出来事が発生する。

 何でも笑って許していたあのオルカが、別人のように態度を変えた日だ。

 

「あの……きっとオルカは、今ちょっと気が立っているだけで他意はないと思います」

「事情は何であれ、あの態度は無礼に変わりない」

「オルカに変わって謝ります。そうだ! 花はどちらで購入したのですか? 」


 ロイダンがマゼラン邸を訪問中に、初めてオルカが途中で退席をした後、エイリーンは幼馴染の行動をフォローしつつ、笑顔で彼に話しかける。

 美しい容姿と美声、それに心優しい性格。

 婚約者とは大違いだと、ロイダンは不満を募らせていた反面、想い人と二人でお茶の時間を楽しめることに気分を良くしていた。

 目障りで不快な邪魔者が居ないだけで、いつものお茶が格段に美味しく感じる。

 ロイダンは、オルカの言葉を真に受けていなかった。

 その次の訪問では、婚約者は出迎えることさえせず、生意気だと憤慨した。

 一方で、二人の婚約は皇帝が取り決めたものであり、自身の行動が理由で破断するわけにはいかない。

 オルカの言葉を相変わらず真に受けていなかったが、面倒事を避けたかったロイダンは仕方なく自身からアプローチを試みた。




 ”『財力だけが取り柄のマゼランが、生意気に皇族の気分を害するな。淑女が聞いて呆れる。直ちに謝罪しろ』”




 婚約解消を仄めかした忌々しい婚約者へ、フォローのつもりで初めて送ったメッセージカードの内容はこんなものだ。 

 ロイダンにとってはいつも通りの言葉で、高慢で我儘な彼からすれば、最大限に譲歩したつもりだった。

 その結果、恵まれた環境が徐々に崩れる。

 彼にとって、長い長い悪夢の始まりだ。

 手始めに起きたのは、今まで信じて疑わなかった時期皇帝としての立場が脅かされること。

 次に帝国中を巻き込む不名誉な騒動に発展したこと。

 挙句には政務に関しても、決定権を剥奪されたこと。

 どれもこれも自尊心を傷つけたことで彼は当初、益々オルカを不愉快に思っていた。

 また、貴族が皇族を門前払いをしたと抗議して初めて知らぬ間に交わされた誓約書の存在を知り、何故両親が自分の邪魔をするのか理解出来なかった。

 今まで何をしても咎められることはなかったのに、今更なんだというのだ。

 話し合いの場を設けてもらえず、不服を訴えても聞き入れてもらえない以上、ロイダンはマゼラン邸に通う他ない。


 ” 忌々しい……この私が、あんな女に会う為に足繫く通うなんて、まるで縋っているようではないか ”


 一度門前払いを受けて以降、通うのは無駄だと悟ったロイダンは、護衛として連れ回す数人の王宮騎士を見張りとして待機させた。

 問題が生じた以上、マゼラン侯爵との接触を避けたい。

 皇帝とは違った意味で、侯爵に対してもロイダンは強気な態度を取ることができなかった。

 理由は単純に、奇抜な眼鏡に不愛想な表情が不気味で怖気づいているからだ。

 加えてマゼラン邸ではともかく、外出時に接触すればオルカも自分に従わざる負えないと高を括っていた。

 何よりオルカが自分に想いを寄せていると勘違いをしていたことで、騒動後もロイダンは事の重大さを理解していなかった。


 “ 面倒な女だ。今後の為にも、次に顔を合わせた時に立場をしっかり分からせる必要があるな…… “


 ロイダンの心境が大きく変化したのは、伯爵邸のテラスで婚約者を見た時だ。

 相変わらず奇抜な眼鏡を掛けていたが、普段の真っ黒な服とは違った可愛らしい装い。

 綺麗に結わかれた黒髪と明るい表情。

 彼の知る、オルカ・マゼランとは別人のような姿に、不覚にも暫く目を逸らすことができなかった。

 婚約者を見て感じたものは ” 可愛い、愛でたい ” なんて綺麗なものではなく、獣染みた汚らわしくも美しい本能。


 ” なんて旨そうなんだ ”


 ロイダンは好物の料理が目の前に置かれた時や、匂いを嗅いだ時に似た、強い空腹感に襲われた。

 唾液を飲み込む音でも聞こえたのか。

 オルカが一瞬、ロイダンの方へ視線を向けた。

 しかし、頭を下げるでもなく、喜ぶでもなく。

 ただ、後ずさってそのまま部屋に引っ込む。

 普段なら生意気な態度に腹を立て、即刻抗議を申し立てているところだが、ロイダンは大人しく引き下がった。

 酷く喉が渇く。

 空腹で早く何かを腹に入れたい。

 そう思いながら、皇太子宮に戻ってすぐに食事の用意をさせると、大好物の肉料理が次々に運ばれる。

 けど、この日に限って満足できる物が一つも無い。


 ” これじゃない。あれがいい。あれを喰らいたい ”


 いつもは喜んで食べていた料理が味気ない。

 食感も味も悪くないが、気に入らない。

 喉の渇きを潤そうと水を飲んでも満たされず。

 どんなに香りの良い紅茶も満足できなかった。


 その日から、ロイダンは満たされない飢えと喉の渇きに苛まれるようになった。











 敵意とは無縁の生活を送っていたロイダンにとって、婚約騒動が情報誌に掲載され、非難される日々は耐え難い大きなストレスになっていた。

 何故、今までは良くて、今回が駄目なのか。

 倫理観も無いに等しい彼には、周囲の感じる怒りや軽蔑を理解することが難しく、また時期皇帝である自分が非難される事態がにわかに信じられなかった。

 与えられることが当たり前で、自分が何をしても許される存在だと信じて疑わなかったロイダンは、情報誌に掲載されても尚、事の重大さを理解していなかった。

 この頃の彼は、長年侮っていた婚約者の機嫌取りをすることに不満を抱き、何故自分が下手に出なければならないのかと憤慨していた。

 格好が悪い。

 面子を潰したオルカを許せない。

 しかし、そんな理性や感情は始めの内だけで、伯爵邸のテラスで婚約者の姿を一目見てから、喉の渇きと空腹で、体裁は次第に二の次になった。

 それだけロイダンを襲う謎の症状が酷かったからだ。

 何を口にしても味気ない。

 寝付きも悪くなり、睡眠不足にも陥っていた。


 ” 会いたい、傍に居たい、触れたい ”


 柔らかな子羊の肉を切り分けている間も、頭は婚約者でいっぱいだった。

 仔牛の肉をレアに焼き上げたステーキを頬張り、噛みしめる瞬間も、瞳を閉じるとオルカの姿が頭に浮かんだ。

 何故今になって気付いたのか。

 今まで惜しいことをしていたと、彼は酷く後悔したが、自身の行動を反省していない。

 不細工なオルカが悪い。

 ついでとはいえ、毎回贈り物も送っていたのだから、決して無視をしていたわけでもない。

 だから非難される覚えはないと、無理のある理由で過ちを肯定し、ロイダンは我慢を強いられている自分を可哀想だと思っていた。

 そんなある日、見張りを命じていた兵からオルカが外出した知らせを受けて、ロイダンもすぐに行動を起こした。


 ” くだらん噂なんぞ、簡単に消せることを証明してやる。泣きながら謝罪する顔を見るのが楽しみだ ”


 心境の変化があったとはいえ、まだまだロイダンはオルカを軽視し、簡単に屈服させられると思っていた。

 愛想よく笑いかければ、修復なんて簡単だ。

 むしろ今まで冷たくあしらっていた分、感激して涙を浮かべながら笑顔で自分の言葉に従うだろう。

 事の重大さに気付いてないロイダンは、そんな風に考えながら偶然を装って町で接触を図った為、無愛想な婚約者の態度を初めは気に留めていなかった。

 ロイダンを拒絶する人間は今までに一人もいない。

 だから自分の気を引く為だと考えていた。

 残念ながら接触は予想に反して失敗した挙句、不愉快な護衛の無礼な態度で公衆の面前で恥を晒し、一層肩身の狭い思いをする羽目になってしまった。

 情けない、恥ずかしい。

 遠ざかる婚約者をただ呆然と見つめることしか出来なかった悔しさと憤りを抱えて、皇太子宮に戻る。

 ただ、何も悪いことばかりではない。

 一時的だったとはいえ、喉の渇きが多少引いた。

 そしてアドバンズ子爵に憤りを感じる一方で、婚約者と再会してから意外にもロイダンの思いは強まっていた。

 理由は、新たな変化が起きたからだ。


 ” あの香りは何だ? 奴等が口にしていた下賤の者の食べ物の香りなのか? ”


 感覚が鋭くなり、今まで識別できなかった妙な香りに気付けるようになったことで、怒りよりも強い感心を引いて益々ロイダンの頭の中はオルカでいっぱいになった。

 

 “ あの香りこそ、私が求めていたものだ……! “


 あの旨そうな匂いの正体を探ろうと、彼は早速オルカが口にしていた食べ物を入手した。

 けれど、求めていたものとは程遠い味と香り。

 舌が肥えたロイダンにとっては、甘辛い味付けは多少なりとも美味と感じる反面、肉が硬く獣臭い。

 口に入っていた物をナプキンに吐き出しつつ、飢えを満たせると期待していた分、落胆も大きかった。

 今まで欲しいものが手に入らず、不自由を強いられることがなかったロイダンは、睡眠不足と飢えも相まって、段々と苛々する時間が増えた。

 更に廃太子の可能性が浮上した瞬間。

 周囲は手の平を返し、機嫌取りをしていた連中は一斉にそっぽを向く始末。

 良く見られたい、誰もが羨む存在でありたいという願望が強いロイダンにとっては耐え難い屈辱だ。

 承認欲求を満たす存在も、いつの間にか姿を消した。

 皇太子宮の使用人でさえ、目つきが以前とは違う。


 “ どいつもこいつも忌々しい “


 会えない日々が余計にロイダンを駆り立たせ、プライドも気にせずオルカに手紙を送り続けた。

 何故、拒絶をするのか。

 自分の近況を綴った手紙まで無視され、味方も居ない状況で突然わけの分からない症状の数々に襲われ、ロイダンの精神的苦痛は日に日に酷くなるばかりだ。


 ”悔しい。 おかしい……腹が減っているのに、どれを食べても満足できない……どうなってるんだ? オルカ嬢に会いたい……何故こんなに落ち着かないんだ? ”


 特別に容姿が美しいわけでも美声というわけでもない。

 以前と違って、無愛想な態度。

 情報誌でどれだけ叩かれようと、皇太子宮の使用人から白い目で見られようと、そんなものを気にする余裕も無い程に、頭の中は婚約者でいっぱいだ。

 同時に、強い苛立ちを覚えた瞬間、目の前の人間を八つ裂きにしてやりたい衝動に駆られる。

 相手がどんな風に絶命するか。

 赤色を目にする度に、血液を連想した。

 行き交う人を呆けたように見つめながら、どいつこいつも不味そうだと思う始末。

 我に返って自分を諌めつつ、今は気軽に顔を合わせられない婚約者を思い浮かべて、また手紙を書き綴る。

 残念ながら高慢な性格と今までの感覚が抜けず、オルカに気持ちが全く伝わることはなかったが、仮にロイダンの感じたままの感想を知ったところで、理解して貰えるかも怪しいところだ。


「今更なんだというんだ……」


 オルカと再会してから数日後。

 自分の力だけではどうにもならないと判断したロイダンは、両親に協力を求めようと謁見の間に足を運んだ。

 皇太子である以前に、息子が父親と顔を合わせることくらい容認してくれるだろう。

 そう思いながら悪びれる様子もなく、約束せずに謁見の間に入れば、丁度マゼラン侯爵が皇帝に謁見を申し立てる場面に出くわした。


 “ 丁度良い機会だ “


 息子であり、皇太子であり、時期皇帝の自分に周囲に立っていた人間は間違いなく味方をするだろうと安心して、ロイダンは怖気づくことなく口の端を上げた。

 だが、真面目ったらしい内容を淡々と読み上げる侯爵に近付いた瞬間、普段警戒する理由とは違った、殴られたような強い衝撃を受けてロイダンはその場で硬直する。


「ですから、エイリーン・ケイプが当主に着任するまでは、マゼラン家で領地をサポートする形で、復興を進める事を検討しております」

「……なるほど。であれば、それまで税金をいくらか減額する事を許可しよう」

「ありがとうございます」

「下がって良い……ああ、侯爵」

「はい」

「……いや、何でもない。無理をし過ぎるなよ」

「勿体ないお言葉です。では、失礼致します」


 マゼラン侯爵が謁見の間を出て行く姿を目で追いかけ、姿が見えなくなっても暫く出入口を呆然と見つめる。


「な……なんだ……あれは……」


 ロイダンはゴクリと喉を鳴らす。

 風貌なんて気にする余裕もない。

 鼻腔をくすぐる芳醇な香りに、軽い立ち眩みを覚えた。

 婚約者と再会した時よりも、格段に感覚が鋭くなってしまったロイダンは、至近距離で嗅いでしまった香りに欲求を刺激された。


 ” もっと嗅いでいたい、なんて良い香りなんだ……!”


 唾液が溢れる、喉が鳴る。

 香水とは違う、年代物のワインを彷彿とさせるような、けれどワインとも違う、もっとずっと素晴らしい香りにロイダンは興奮していた。


 ” あれも喰らいたい。閉じ込めて香りを堪能したい ”


 オルカに感じるものとは違う。

 けれども食欲を刺激する香りに足元がふらつく。

 脈が早まって、無意識に胸元を握りしめる。

 ロイダンは何処かの地方の料理で、肉を熟成させて旨味を閉じ込めて作ったシチューの味を思い出していた。

 独特な風味と他では味わえない、奥深い味がやみつきになる素晴らしい料理だった。


「あの……殿下? 体調が優れないのですか? 」


 不意に、心配した従者に声を掛けられ、浅い息を繰り返しながらロイダンはようやく我に返る。

 何気なく皇帝に視線を向ければ、黄色の瞳が光っているような、普段より更に金に近い色合いに見えた。

 謁見者が一段落したタイミングで、皇帝は皇后を連れて足早に何処かへと姿を消す。

 マゼラン侯爵が放つ、芳醇な香りを嗅いだその日から、ロイダンの飢えと渇きは加速した。













 皇后からも、良い香りが漂い始めた。

 それに気付いたロイダンは、わけも分からずに混乱しながら、限界間近の状態で悪戯に欲求が刺激され、もはや疲労困憊で物理的に母から距離を置いた。

 これ以上、掻き乱されたくない。

 正常な判断が出来なくなる。

 その一心で城内を出歩くことを止めた。

 更に母からは侯爵や婚約者と違って、邪魔するような神経を逆なでる不快な臭いも混じっていた。

 汗や香水といったものではなく、独特な獣臭さだ。

 日によって獣の臭いには強弱があった。

 そして着込んでいる時ほど強い。

 ロイダンはその臭いが気に入らなかった。

 皇帝が皇后を連れ去るように何処かへ姿を消した翌日は特に臭いが強く、まるで追い払われているような気分にさえさせられる。

 けれどロイダンとは対照的に、皇帝は酷くその臭いを気に入っていた。

 皇后と皇帝は昔から同じ執務室を共有していたが、夫婦仲が睦まじいからと言って、以前は政務でも常に共に居る理由が分からなかった。

 しかし、感覚が鋭く敏感な今の彼には、なんとなく察しが付いた。

 恐らく例の臭いが関係しているのだろう。


 “ オルカ嬢も侯爵と同じ香りを放ってるんだろうか。どうすれば今の不安定な状態から脱却できるんだ……? “


 自身に起きている不可解な症状を主治医に説明できず、また敵だらけになってしまった現状で誰にも相談することも出来なかった。

 それでも腹が減る、喉が渇く。

 眠いのに眠れず、欲しいものが手に入らない。

 更にこの頃になると、オルカが態度を変えたばかりの時が嘘のように、ロイダンは安心を求めるようにマゼラン邸に足繁く通っていた。

 以前は機嫌取りの為に、うんざりしながら適当に選んでいた筈の贈り物は、いつしか本気で品定めをするようになり、似合う似合わないに限らず、流行りや人気の高い物を購入してオルカに贈るようになった。

 けれどそのどれもが、意図せずエイリーンが好むものばかりを手に取ってしまい、やっぱり婚約者に思いが届かず仕舞いだ。

 今まで婚約者ではなく、想い人の為に選んでいた所為で無意識に見慣れた物に手が伸びてしまうのだろう。

 そんなある時。

 予期せぬ災難がロイダンを襲う。


「エイリーン嬢、久しいな」

「お久しぶりです」

「今日はど………………」


 偶然町で想いを寄せていたエイリーンと再会し、いつもの調子で笑顔を浮かべながら歩み寄った。

 しかし、一定の距離で不自然に立ち止まる。

 対面して早々、ロイダンは眉間に皺を寄せた。


 ” 変な臭いだな…… ”


 その後。

 どんな会話を交わしたのか覚えていない。

 覚えていられない程、ロイダンは不快感を覚えた。

 複雑に入り混じる、良いとも悪いとも言えない不思議な臭いに、それまで抱いていた恋心は一瞬にして冷めた。

 人目を惹く美貌と美声は変わらないのに、香り一つでこうまで印象が変わるのかと、ロイダンは首を傾げた。

 女の価値は美しさではなかったのか。

 そもそも以前はこんな不思議な臭いを放っていなかった。

 磯の香りのような、切りたての丸太のような。

 そして腐った果実の香りが入り混じった複雑な臭い。

 気分が悪くなったロイダンは、用事を断念してすぐに皇太子宮に戻った。


「誰か、酔い止めをくれ」


 フラフラとした足取りでソファーに倒れこみ、使用人が持ってきた薬を服用しても、全く効き目がない。

 加えて何故だかすぐに感情的になる。

 些細なことに目くじらを立てて苛々して仕方ない。

 普段なら決してそんな行動を取らないのに、ロイダンは皇后の香りを求めて謁見の間を目指した。


 “ あれを喰らいたい……今すぐ欲しい…… “


 何を喰らうと言うのだろうか。

 何が欲しいと言うのだろう。

 誰に何を求めていると言うのだろうか。

 この時のロイダンは判断力が鈍り、ただ本能のままに身体を突き動かされていた。

 幸い、途中で使用人に呼び止められたおかげで、大きな過ちを犯す前に防げたものの、問題は思考力が著しく低下していたこと。

 ロイダンを呼び止めた使用人は何か懸命に説明していたが、全く以てその内容が理解できなかった。

 そもそも言葉として認識できず、耳障りな雑音にしか聞こえなかった所為で苛立ちを倍増させた。

 否、人の……人間の発する音全てが不愉快だった。


「腹ガ減ってルんだ……邪魔するナ……っ! 」


 抑えきれなかった苛立ちが原因で、ロイダンはつい使用人に暴力を振るってしまい、止めようと兵が集まり謁見者が騒ぎ立て、周囲を巻き込む騒ぎに発展した。

 結果、求めていた香りには辿り着けず。

 そればかりか謁見の間を出入り禁止にされる始末。

 翌日には思考力も回復し感情を制御できたが、事情を知らない周囲からの警戒が解ける事は無かった。


 “ 何を考えていたんだ……クソッ “


 何もかもが不愉快極まりない。

 一体自分はどうしたというのだろうか。

 いつもいつも機嫌取りをしていた従者までが、怯えた表情で部屋の隅で縮こまって微かに震えている。

 その様子にさえロイダンは苛立ち、男の首を掴んだ。

 誰に向かって、そんな目を向けている。

 自分は時期皇帝だぞ、と言わんばかりに相手を睨み付けて煩く喚く従者を殴ろうと腕を振り上げた。

 その瞬間、興味深いものがロイダンの視界に飛び込んで動きを止める。


「……何だそれは? 」

「は、はい? な、なな、何のことでしょうか……? 」


 従者の瞳の奥には、水色やピンク、黄緑と、色鮮やかな球体が浮いていた。

 騒がしい従者に対する嫌がらせとして奪ってやろうか。

 そう思いながら球体を見つめていると、ロイダンの手から金色の糸が無数に現れ、吸い込まれるようにして従者の両目に入っていく。


「なっ!? 」

「ぐぁぁあああぁぁぁっ!? 」

「チッ……騒ぐな」

「あがっ!? がっ!! んぐぐぐっ……っ! ……っ! 」


 叫ぶ従者の口に、その辺にあった布を詰めて黙らせる。

 これは何だ。

 不可思議な現象に驚きはしたものの、怖気づくこともなければ、むしろ誰かを制圧する快感と奇妙な体験にロイダンは胸を躍らせていた。

 一方、従者はくぐもった声を発し、海老のように身体が大きく反ったかと思えば、暫くすると大人しくなって力なくその場に座り込む。

 金色の糸はするすると手の中に戻り、最後には瞳の奥にあった色鮮やかな球が、ロイダンの手の平に置かれた。


「おい……? 」


 従者の口に詰めた布を外しても、言葉を発しない。

 肩を揺らしても、頬を叩いても、反応すらしない。

 しかし、息絶えたわけでもない。

 訳が分からず呆然と従者を眺めた後、そのまま床に放ってソファーに腰掛ける。

 怪我を負ったわけでもないのだ。

 放置しても何ら問題ないだろう。

 すぐに考えを切り替え、久しぶりに感じる好奇心に支配されたロイダンは、薄っすらと笑みを浮かべた。


「これは一体何だ……? どうやって目の中にこんなものを仕舞い込んだんだ……」


 手の中にある球体は、加工された宝石のように美しく、キラキラと輝いていた。

 けれど決して硬いわけではない。

 程よい弾力がある。

 踏んづければ簡単に潰せる程度の脆い球体。

 昨日の騒動について話しがあるという名目で、夕方に珍しく皇帝がロイダンの部屋を訪れた。

 それも約束も無く、突然だ。

 国の最高権力者とはいえ、自分を窮地に追い込んだ人間に礼儀を尽くそうとは思えず、乱れた服装や室内も気にせず皇帝を通した。

 また説教が始まるのだろうか。

 謎の症状で疲労困憊の身体は怠く、睡眠不足で頭がぼんやりとしていて、姿勢を正すことさえしたくない。

 憂鬱な気分で父親とは目も合わせず、ロイダンは球体を見つめたまま手の平で転がす。


「ロイダン……お前……とうとう発現したのか……!? 」

「何のことでしょうか? 」

「は、はは……そうか! 臭いが変わったから今度こそ間違いないと思っていたが、遂に発現したようだな! 」


 しかし、怒号を浴びせられることはなかった。

 皇帝は部屋に入るなり、放置された従者とロイダンの手にある球体を目にすると、満面の笑顔を浮かべた。


「一体何のことを言って……うっ」


 今度は何だと首を傾げながら、質問をするよりも先に、皇后から香った獣臭さが鼻を突いて顔を顰める。

 酷い、獣臭だ。

 そんな行動でさえ嬉しそうに眺める父親に怪訝な表情を向けても、皇帝はロイダンの無礼を咎めなかった。

 むしろ興奮した様子で、持ってきた瓶を息子に押し付けると、必ず食べるよう念を押していた。


「薔薇の砂糖漬けだ。腹が減って仕方ないんじゃないか? 」

「!? 」

「喉が渇いたら水ではなく、ワインを飲め。ああでも、ただのワインではダメだ。ウィンディア家が治めている領地から取り寄せた特別なワインだ」

「何を……? 」

「可哀想に、苦しいだろう? 飢えて仕方ないだろう? よく分かるぞ。だが、キャスティーナはダメだ。あれは余の物だ。どんなに甘美な香りに誘き寄せられても決して手を出そうとするな」

「母上の香り……? 」

「ヴァネッサもダメだ。伯爵家と争うわけにはいかん」

「伯母上……? 」

「お前が謁見の間に来ようとした理由はそれだろう?ああ、それからケイプ家の令嬢は諦めろ。言うまでもないだろうが、感覚を狂わされるぞ」

「何故それを……!? 初めから知っていたのですか!? 」

「一目見た時から、忌々しい香りを放っていた。化け物共め……特にあの令嬢は酷い。既に瘴気に当てられたなら、尚更この薔薇を食べろ。良いな? 」


 冷静沈着な父親が饒舌に話す姿を初めて見るロイダンは、完全に圧倒されていた。

 返事も出来ず、渡された瓶に視線を落とす。

 帝都内では見ない赤紫色の珍しい薔薇が入っていた。


「ああ、そうだ。このハンカチをやろう。香りが酷い時は鼻や口をこれで押さえろ」

「これは……? 」

「ヴァネッサ手製のハンカチだ。持っているだけでも楽になるぞ。本人に自覚症状はないが、ヴァネッサの作る物は特別で、香りを遮断してくれるんだ」


 皇帝は満足そうに従者を眺めた後、力を使い過ぎるなとだけ注意して、すぐに部屋を後にした。

 久しぶりに父親から向けられた笑顔に、ロイダンは嬉しさと混乱で思考が上手く回らず、言われるがままに薔薇の砂糖漬けを一つ口に放り込む。

 見た目も美しく、甘く、香り高い。

 舌が肥えたロイダンでも、美味だと感じる代物だ。

 しかし、ただの上等な甘菓子ではなかった。

 口に含んだ瞬間、身震いをする程の旨さと衝撃に、ロイダンは目を大きく見開いて歓喜した。


「旨い……! 」


 そこら辺で販売されている代物とは全く比べ物にならない、衝撃的な旨さだった。

 ただ甘いだけではない。

 薔薇に交じった芳醇な香りと、何物にも例え難い素晴らしい味わいに、飢えていた腹が満たされていく。

 婚約騒動の疲労さえ癒してくれるような、そんな不思議な花の砂糖漬けに暫し味に酔いしれて、ソファーに仰向けで倒れこんだ。


 “ 求めていたものはこれだ “

 “ もっと喰らいたい、全然足りない “

 “ やはり父上は素晴らしい王だ “


 嫌悪していた筈の父親を称賛し、ロイダンは歓喜しながら、砂糖漬けをまた一つ口に放り込んだ。

 幾分、精神が安定したロイダンは、翌日以降も安定を求めてオルカに会おうと接触を試みた。

 この頃になると、なりふり構わず気持ちの赴くままに行動していたが、特ダネに目を光らせる記者に付き纏われ情報誌の餌食にされていた。

 時期皇帝の記事とは思えない、酷い内容ばかりだ。

 低俗な言葉で、尊い存在である自分を書くなんて由々しき事態だと、ロイダンは憤慨した。

 誇張され、歪曲した内容に何度抗議を申し立てても取り合ってもらえず、情報誌を避けるようになった。


「忌々しい連中め……必ず後悔させてやるっ」


 餌食にされたくなければ、外出を控えるしかない。

 けれど、飢えと渇きで大人しくなんてできない。

 ロイダンは過去の行いを後悔したが、この期に及んでもやっぱり反省はしていなかった。

 むしろ自分を棚に上げて、婚約者の役割を果たさないオルカを無責任で自分勝手だとも感じていた。


 “ 婚姻後は幽閉してやる……罪をでっち上げてマゼラン家を没落させてやる……! “


 ロイダンはまだ時期皇帝になれると信じていた。

 婚約騒動さえ無事に切り抜ければ、かつての恵まれた環境に戻れると確信していた。

 落ちた評判はすぐに回復する。

 誰もが自分に頭を垂れる。

 生まれた瞬間からその事実は覆らない、と。

 容姿一つで皇太子の座を勝ち取った彼は、その事実は決して変わらないと確信しながら、鏡に映る自身の姿に笑みを浮かべた。













 


 皇帝から薔薇の砂糖漬けを貰った数日後。

 皇室主催のパーティーが開かれることになった。

 様々な理由が掲げられていたが、ロイダンはこれを両親が自分に与えたチャンスなのだと、根拠もなく思い込んでいた。

 薔薇の砂糖漬け以来、父親とは会話を交わしていなかったが彼等は絶対的な味方だと信じていた。

 パーティーの日程が確定すると、すぐにいつも利用するブティックにペアで服の新調を依頼した。

 本来であれば、ドレスを着るオルカのサイズを測る必要があったが、残念ながら当人は呼び出しに応じず。

 また、今まで一着もドレスを贈ったことがなければ、ペアで仕立てたことがない為、当然記録も型もない。

 オルカが普段使用するブティックを調べてサイズを尋ねたところで、この店はマゼラン家がオーナーである為、情報を得ることが出来なかった。


「親子揃って忌々しい……」


 仕方なく、ロイダンはエイリーンの記録を元にドレスの新調を依頼し、オルカにパートナーを申し出る旨の手紙を送り付けた。

 以前、町で再会した時と同じように、彼は婚約者がドレスと手紙に歓喜し、涙を浮かべて大喜びしながら承諾してくれると予想していた。

 エイリーンに似合いそうなエメラルドの宝石を添えた華やかなドレスを、間違いなく受け取るだろう。

 何故なら過去に参加していたパーティーで、婚約者が幼馴染のドレス姿をどんな風に見ていたか、彼は気付いていたからだ。

 きっと今でも切望しているのだろう。

 冷たく突き放していた分、喜ぶだろう。

 泣きながら自分に擦り寄る婚約者を思い浮かべつつ、なんて声を掛けようかとまで考えていた。

 くだらない噂も止み、周囲は華やかな装いで登場する自分達に良い印象を受け、むしろ羨む筈だ。

 皆の前でオルカに謝罪をさせれば、今まで出回った記事がデタラメだと、すぐに理解してもらえるだろう。

 都合の良いことばかり思い浮かべて、ロイダンは鏡の前で柄にもなく鼻歌を歌い自身の容姿を何度も確認する。

 そんな上機嫌な彼に、信じられない手紙が届いた。


「受け取りを……拒否した、だと……? 」


 婚約騒動以降、初めて婚約者から届いた手紙には、嫌味とも取れる内容でパートナーの申し出を拒否し、ドレスや装飾品も一式送り返されていた。

 ロイダンは混乱した。

 誰が誰の誘いを断ったと言うのだ。

 いつも使いを頼んでいた王宮騎士は震えながら俯き、魂が抜けたように立っている従者以外、その場に居る全員が怯えたまま退室のタイミングを伺っていた。

 ロイダンは呆然としながら、けれどすぐにオルカは単に意地を張っているだけで、本心ではないと考えた。


 “ 長いこと拒絶し続けて、気まずいだけだ…… “


 オルカ・マゼランが自分を本気で突き放すわけない。

 ロイダン・ディヴァルガンを愛してやまない筈だ。

 そもそも財力だけが取り柄のマゼランが、皇室に楯突くなんて有り得ないことだと、ロイダンは言い訳をするようにブツブツと呟いて自分を納得させた。


 “ 直接会って命じれば良いだけだ “


 新調したペアの服を身に纏い、マゼラン邸へ婚約者を迎えに行くも、オルカは既に居なかった。

 屋敷で接触して着せ替えるという思惑は散り、ロイダンの焦りは段々と強まる。

 しかし、まだだ。

 本来であれば、最初の登場で印象操作を図ろうとオルカに謝罪をさせたかったが、こうなっては仕方ない。

 会場で婚約者を捕まえてドレスを着せれば良いと、傍に兵を待機させて部屋に連れ込もうと目論んだ。

 この兵というのは、いつもマゼラン邸や伯爵邸に見張りとして置いていた兵であり、皇太子宮に配属されていた王宮騎士団の騎士である。

 オルカの一度目の拉致未遂事件の際、屋敷に不法侵入をしたのも彼等で、昔からマゼラン邸に訪問する時に護衛として連れていたのも彼等だった。

 そして、オルカが池に落とされても助けなかった騎士というのも、彼等だ。

 ロイダンが昔から連れて歩く従者や騎士は、主人の態度を習ってオルカを侮り、蔑んでいる。

 彼等は決してケイプ家に伝わる能力で惑わされたわけではなく、そもそも皇太子宮に配属された騎士の秩序が乱れていることが原因だった。

 さて、ロイダンの絶望はまだまだ終わらない。


「おい……この音楽は何だ? 」

「はい? あ、えっと……」


 会場の入り口に到着して早々、彼は眉間を寄せる。

 メインホールまでの道を進む途中、形式的な挨拶をする貴族の視線は冷ややかで、好奇の目を向けていた。


 “ 時期皇帝を相手に、なんて生意気な連中だ “


 すぐにでも怒号を浴びせてやりたい気持ちを抑えて、ロイダンは足早に廊下を進む。

 苛立ちと同時に、なんだか嫌な胸騒ぎを感じていた。

 そしてそれは、メインホールに入って的中する。


「な……!? 」


 両親が自分の為に用意したと思い込んでいたパーティーは、息子が到着する前に開始されていた。

 そればかりか皆の注目を集めながら、婚約者とアドバンズ子爵が会場の中央で優雅にダンスを披露している。

 そんな馬鹿な。

 これは立派な浮気ではないか。

 そう思い、ロイダンは会場を見渡したが、誰も踊る二人を非難する気配はなく、むしろ笑顔を向けている。

 両親も満足そうに笑みを浮かべながら、息子が到着したことに気付いていない……否、気に留めていない。


 “ どうなってるんだ……? “


 父親は自分の味方ではなかったのか。

 除け者にされているような寂しさと。

 廊下で向けられた視線と。

 皇太子が会場入りしたにも関わらず誰も見向きをしない現状も含めて、ロイダンには受け入れ難かった。

 疎外感を感じながら、何故自分がこんな惨めな思いをしなければならないのか。

 そして勝手な思い込みであったにも関わらず、裏切られたような絶望感に、ロイダンは胸を締め付けられる思いで表情が歪ませた。

 なけなしの理性で喉元まで出かかった暴言を飲み込み、近くの壁に寄りかかって静かに踊る二人を眺める。


 “ 皇室主催のパーティーで迂闊に動けない…… “


 こうなれば仕方ないので、曲が終わるまで待つ他ないと大人しく諦めて項垂れる。

 以前はエイリーンと踊っていた時、いつも壁際でひっそりと立っていたのはオルカの方だった。

 向けられる笑顔も、拍手も、自分が受けていた。

 逆から見える景色はこんなにもつまらないのか。


「……なんだ? 」


 ただ呆然と目の前を眺める内に、見慣れない婚約者の姿に違和感を覚えた。

 なんとなく、何処かが違う。

 初めて見る、オルカの踊る姿の所為だろうか。

 ロイダンは違和感の正体を探ろうと、目を凝らして更にメインホールを見つめる。

 何度か婚約者がターンをした時、ようやくあの奇抜な眼鏡を掛けていないことに気付いて目を見開いた。

 

 “ あんな素顔をしていたのか…… “


 藍色のドレスとよく似合う、アメジストの瞳。

 ダイヤのアクセサリーが会場の光を反射して、まるで踊る二人がかがやいているようだった。

 怒りや絶望が解けていくような、負の感情に勝る温かな何かが彼の中に芽生えて花開いた瞬間、ロイダンは自然と口元を緩ませいた。

 美しい、可愛らしい、そしてやっぱり腹が鳴る。

 露わになった白い二の腕に噛み付きたい。

 きっと仔牛のレアステーキより遥かに味わい深いだろうと思い浮かべながら、口内の唾液を飲み込む。

 睡眠不足も相まって、ロイダンは自分がどれ程までに恐ろしいことを想像しているのか、理解できなかった。


「(マゼラン侯爵令嬢が眼鏡をかけていない姿なんて初めて見ますわ。可愛らしいお顔立ちなのね)」

「(ふむ……やはりアドバンズ子爵との再婚約説が濃厚だと思わないか? 似合いの二人じゃないか)」

「(だけどアレの血が混ざってるんだろ? )」

「(そうね。呪われないかしら? )」


 傍で好き勝手なことを話す貴族の会話を聞き流しながら、ロイダンは子爵と時折笑い合う愛しい婚約者から目が離せなかった。

 エイリーン・ケイプよりは劣る容姿と声。

 それでも顔立ちはそんなに悪くない。

 あれくらいなら隣を歩いても見劣りしないだろう。

 むしろ、あの酔いしれるような香りを放つ令嬢こそが、時期皇后に相応しい。

 過去に抱いた思いと仕打ちを棚に上げて、ロイダンはパーティー会場のメインホールでダンスを披露する婚約者を品定めしながら、大人しく眺めた。

 匂いを遮断するハンカチをポケットに忍ばせている筈なのに、それでもロイダンの心が高鳴る。

 オルカに見惚れる一方で、脳内には絶えず旨そうな肉が過ぎり、味と感触、歯触りを思い出してゴクリと喉を鳴らす。


 “ 早く食べたい、あれが欲しい “


 そう思う反面、ハンカチを嗅いでから、おかしな想像を繰り返す自分にようやく気付く。

 何故、食欲が刺激されるか分からずに、ロイダンは混乱していた。

 曲が終盤に差し掛かる頃。

 想いが強まった分、炎の気を纏うアドバンズ子爵への嫉妬心も生まれて、胸の内がざわつく。

 気安く自分の婚約者に触れる不届き者に憎悪の念を抱き、ギリリと歯を食いしばる。


 “ 何故あんな奴と……! “


 ようやく演奏が終わり、アメジストの瞳と視線が絡む。

 けれど以前のロイダンがそうであるように、すぐに顔を逸らされてしまい、そればかりか親しげに子爵と会話を交わす始末。

 その瞬間、ロイダンの怒りが再熱した。


 “ オルカは子爵に唆されている “

 “ そうに違いない “

 “ なんて浅ましい男だ “


 ロイダンはそんな風に怒りを込めた眼差しで、子爵を遠くから睨み付けた。

 一方的な怒りと高慢さは、その後オルカのハッキリとした拒絶の言葉で撃沈し、更には以前のように公衆の面前で恥を晒す出来事が勃発してしまった結果、印象操作は失敗に終わった。

 ロイダンが着ていた服が、ペアで新調されたものだと知られなかっただけ不幸中の幸いといったところだ。

 逃げ帰るように皇太子宮に戻ってから、手当たり次第に物を破壊し、気に入っていた全身鏡も粉々に砕いた。


「はぁ……はぁ……忌々しい連中めっ」

「で、殿下……どうか落ち着い……」

「ええい! 黙れ黙れ黙れ黙れっ!! 」

「ひぃっ!? 」


 そして、パーティーから数日後。

 各情報誌は、挙ってロイダンの記事を掲載した。

 内容は目も当てられない程に悲惨で、到底外を出歩くことなど出来ない恥ずかしい事実が書き綴られている。

 ロイダンに出来ることと言えば、会場でオルカを見張るよう待機させた兵に八つ当たりをするだけで、それも使用人の冷ややかな視線ですぐに止めた。

 それでもオルカとの関係修復を諦める選択肢はない。

 彼女こそが皇后に相応しい。

 そして広まった悪評を鎮めるには、婚約者との修復された姿を見せ付ける必要があった。

 なのに、揃いも揃って邪魔をするなんて許せない。

 ロイダンの怒りの矛先は両親や子爵、伯爵家へ向いた。


「邪魔ばかりしやがって……っ! 正式に私が皇帝に着いた暁には、まとめて処刑台に送ってやるっ!! 」


 自分から婚約者を取り上げるなんて許せない。

 力が必要だ。

 強力な力があれば、全て思い通りになる。

 以前の日常に戻れる。

 ただ、ロイダンがこう思った矢先にオルカが失踪。

 調査の結果、拉致事件だと判明し捜索隊が出動する。

 そんな最中で、皇帝がマゼラン侯爵に怒りをぶつける事件が重なった。

 謁見の間を出入り禁止にされたロイダンが詳細を知る筈もなく、情報源は全て周囲の噂話だけだ。

 連日、情報誌の餌食されている影響で疑心暗鬼になっていたロイダンは、父親と侯爵が自分を欺く為の茶番をしているに過ぎないと考え、何か企んでいるのだと思い込み警戒する。

 誓約書のタイムリミットまであと残り僅かだ。

 今度はどんな邪魔が入るか分からない。

 ロイダンは焦っていた。

 精神的ストレスが思考力を低下させ、判断力を鈍らせるだけでなく、常に後ろ向きな考えを持つようになった。

 だからこそ余計に警戒心が強く。

 そして攻撃性も高まっていた。


「おい、捜索隊より先にオルカ嬢を必ず探し出せ」

「はっ! 町のギルドに依頼しては如何でしょうか? 」

「何……? 」

「彼等なら、皇室の兵より町に詳しいです。人脈も広い為、何処かに身を潜めていたとしても、必ず探し出してくれるでしょう」

「身を潜めるだと……? 」


 騎士の一人が放った言葉に、ロイダンが反応する。

 言葉の綾というものだろう。

 しかし、神経質になっていたロイダンにとっては聞き捨てならない単語に、表情を歪ませる。


 “ 拉致ではなく、隠れたというのか……? “


 主人の異変に気付いた騎士は、慌てて機嫌取りのつもりで根拠もない憶測をペラペラと並べ立て、周囲に居た兵も怯えた表情で同調した。


「そ、そうです! きっと拉致と見せかけて、ケイプ侯爵令嬢が匿っているんですよ! 」

「そうですよ! 俺達は昔からお二人を間近で見てますから不仲なんて嘘だって分かりますよ! 」

「こ、今回のこの事件が証拠です! それに子爵が関与してないということは、恋仲なのは嘘なんですよ! 」


 昔から傍で見ている、という言葉だけで騎士をあっさりと信じたロイダンは、エイリーンに対して強い憤りを覚えた。


 “ なんて薄情な女だ……! “


 謁見の間を出入り禁止にされた件も相まって、ロイダンは怒りのあまり、手元のグラスを床に投げ付ける。

 砕けた硝子が四方八方に飛び散り、傍に居た従者の腕をかすめて傷つけた。

 それにも関わらず、本人は一点を見つめたまま微動だにせず、滴る血もそのままに大人しく立っている。

 騎士の間でもまた、異種族から受け継がれている能力を信じる者が多く、室内に居た王宮騎士達はロイダンが遂にドラゴンの力を発現したと確信していた。

 その為、悪評が広まっても尚、彼等は主人の傍を離れることはしなかった。

 単に力のある者の傍に居れば安全だという保身と、能力が発現した以上、彼等もまたロイダンが結果的に皇帝になると信じていたからだ。

 そして速やかに町のギルドに調査を依頼し、婚約者を奪還すべく独自で捜索を進めたのは、オルカが拉致されてから4日後のことだった。





 ++




 襲撃した別荘を後にしたロイダンは、腕の中で眠る愛おしい婚約者の顔を静かに眺めた。

 不思議なことにオルカが放つ香りを嗅ぐと、ロイダンの飢えや渇きが落ち着き、気持ちに余裕も生まれる。


「子を成せば、君も婚姻を認めるか? それにしても傷だらけな上に軽すぎる。出産時に死なれても困るな」


 万が一、オルカが命を落とすようなことがあれば、またあの情緒不安定の日々に逆戻りだ。

 それだけはなんとしても避けて腕の良い医者を探そう。

 栄養のあるものを食べさせよう。

 そんなことを考える一方で、食欲を刺激する芳醇な香りに誘われて、喰らい付きたい衝動に駆られる。


「腹が減ッて仕方なイな……」


 人間らしい大事な感性がどんどん壊されていることに気付けずに、ロイダンはただ不敵な笑みを浮かべて美しい満月を見上げた。





<ロイダン視点 おわり>

※修正箇所※

字下げ、誤字脱字、一部言葉の言い換え、記号の変更。

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