さんまいめ
範囲攻撃を仕掛けてきた山姥は泥濘に足をとられることなく大股でのっしのっしと迫ってくる。空が白みはじめて、三日月に裂けた口と薄い唇を這う大きな舌が浮かび上がった。
「は、早く逃げなきゃ」
青ざめた顔で震える辰野さんだが、転んでからほんの数歩分しか進めていない。かく言う俺も同じようなもので足を震わせ泥に縫いとめられている。
俺たちは寺にさえ着けば坊さんにバトンタッチして勝利確定なんだ。ここで最後のふだを切るか……?
ふと出発前のおたつの発言を思い出す。
「な、なあ、辰野さん。寺の坊さんってどんな感じだった」
「腰を痛めて座ることもできないって言ってたけど、今? 早くおふだであのババアを追っ払ってよ!」
辰野さんの絶叫に手の中のふだをじっと見る。
主人公の人数からして大幅に物語が変わっているんだ。もしかしたら坊さんは頼りにならないかもしれない。
俺はふだを仕舞って、巾着袋から大量の柴を取り出した。
「主人公はその日暮らしのサボり魔だ。きっと手先が器用で頭も回るはずだ。柴を組み立ててソリを作るのなんてお茶の子さいさいだ!」
自分に言い聞かせて柴を掴むと、俺の手は慣れた手付きで無駄なく動き、瞬く間に小型のボートのようなソリを組みあげた。
よっしゃ!
異変を察知したらしい山姥が早歩きになる。目を丸くする辰野さんを引っ張りあげて後ろに乗せる。
「しっかり掴まって!」
辰野さんがこくこくと頷いてぴったりとくっつく。腹に回された腕を見て、俺は転んだ拍子に拾った長くて太い枝を地面に突き刺した。ぐいっと漕げばソリは斜面を滑りはじめる。
人生初の川下りならぬ泥下りに、二人分の悲鳴が木霊した。
何度も転覆しそうになりながらも景色を置き去りにして進んだソリは、麓に着くなりバラバラに解けた。こんな姿になりながらも役目を全うして、今夜のヒーローはお前だよ。
惜別の涙に頬を濡らしていると、さっさと俺から体を離した辰野さんに腕を引っ張られた。
「ほら、今のうちに上っちゃいましょ」
泥まみれの俺たちは風を受けて冷え切った重い体に鞭を打ち、苦労して寺の塀を乗り越えた。寺の朝は早いというが、面倒臭がりなここの小僧が坊さんの臥せる今日も早朝から門を開けているとは思えない。
懸念通りぴたりと閉じた門を横目に坊さんの寝ているという部屋へ転がりこむ。
豊かに伸びた白眉の下はこの騒々しさにも起きる気配を見せない。
「和尚さん。和尚さんったら!」
小柄な老体を容赦なく揺する辰野さんによって目を覚ました坊さんは、何事かときょろきょろしてただならぬ様相の俺たちにカッと目を見開いた。
「おたつに五郎、一体何事か」
「俺たち山姥に追われてるんです。助けてください」
「なに、山姥だと!」
それは恐ろしい思いをしただろう、と俺たちの肩を抱こうとした坊さんは、ぐきり、という不穏な音と共に倒れ込んだ。
「和尚さん? しっかりしなさい!」
「こ、腰が……」
それでもなお俺たちを守ろうと突いた両腕を震わせる姿は見ていられないほど痛々しい。
さすがの辰野さんも気の毒に思ったとみえて、坊さんを支えて布団に戻してやった。
「俺たちでなんとかしますから、ここでゆっくり寝ててください」
心配する坊さんを置いて本堂へ行く。伽藍堂のこの場所で、早朝の澄んだ空気に晒された木目の曲線が厳かな空気を循環させていた。
道中一言も発さず考え込んでいた辰野さんは、祀られた仏を一瞥して口を開いた。
「元はと言えば私が割り込んだことで起こった変化だし、責任を取らせて。元の話だと主人公が隠れる側で和尚さんが山姥を退治するのよね」
辰野さんにも悪いと思う気持ちはあったのか。
妙な感慨に浸りながら頷くと、彼女は細い腕をぐいと突き出した。
「最後のおふだ。それで私が和尚さんに化けるわ」
「危険な役目ですよ」
「五藤さんにやらせてもし主人公判定に異常が起きたら二人とも永遠に『三枚のおふだ』の中よ。私が和尚役になって、ブレスレットが光ったら飛び込む。これが一番リスクが小さいと思わない?」
なるほど、一理ある。
ふだを託した俺は渡り廊下で物陰に隠れ、和尚に変化した辰野さんは庭に出て七輪で餅を焼きはじめた。
香ばしいかおりが鼻をくすぐったその時、つむじ風と共に山姥が庭へ降り立った。
まさしく悪役の降臨だ。俺もあんな登場をしてみたい。
「おい、坊主。ここに若ェのが二人来ただろう」
「いや、知らんな」
辰野さん扮する坊さんは山姥の恫喝にも顔色を変えず餅を焼きつづけている。
「オレは山姥だ。怒らせねェ方がいい」
「なんと、山姥か。それなら色んな術を使えるのじゃろうな」
「オウ、山にもなれる」
言うなり山姥はぐんぐんと大きくなった。響く誇らしげな声に驚いて山から鳥たちが飛び立つ。
俺は耳を塞いでそっと山姥を見上げた。
「見事なもんだ。だが豆粒ほどに小さくなることはできんだろう」
「できるとも」
山姥はみるみるうちに縮んでしまった。ここからでは見えないが、どうも辰野さんの左手に乗ったらしい。
「ほほう、これはすごい」
辰野さんは適当に誉め言葉を並べながら山姥を摘まみ上げ、餅に包んで食べてしまった。
ごくりと餅を丸呑みにする。大丈夫だろうか。
「五郎、これに懲りたら真面目に働けよ」
「は、はい」
顔を真っ赤にして坊さんが言う。し、心配だ……。
俺たちの会話を聞き届けたブレスレットがピンク色に光った。次第に強さを増していく。
おたつの姿に戻った辰野さんが俺に飛びつき巾着袋に手を入れる。
人が煙のように吸い込まれていく光景も、まもなく白光に掻き消えた。
お読みいただきありがとうございました!
さて、次なる世界は……?
次回は明日夕方の更新となります。
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