437.出産
437.出産
新しい種族の名を、妖精族と決めて既に1ヶ月が過ぎた。
サナリスの周りの異変も、アオに頼んでからはピタリと収まっており、やはり精霊が一連の事件をおこしていたのだろう。
オレはと言うと、この1ヶ月はアシェラのお腹を撫で、オリビアとライラに甘やかされて過ごしている。
こんな時間が永遠に続けば良いのに……ぶっちゃけ、これでもかと言うほど腑抜けた生活を送らせてもらっていたりする。
そんなぬるま湯のオレとは対照的に、ルイスとネロは母さんから回復魔法の基礎を、ラヴィとメロウから他種族の言葉をみっちり叩き込まれていた。
会うたびにやつれていく姿は、見ていて心配になってくるほどだ。
しかし、回復魔法も言葉も、使徒の手伝いを続けるつもりなら必要な技能であるのは間違いない。
2人へ改めて確認したのだが、「大丈夫!」と言ってそれ以上の言葉を遮られてしまった。
本当は2人がここまで頑張る必要なんて無いのに……共に歩こうとしてくれる気持ちにどれだけの感謝をすれば良いのか。
心の中で頭を下げ、2人を見送ったのだった。
そんな充実した日々を過ごしていた、ある日の夜。オリビアと夜のプロレスを終え、眠っている際に事件は起きたのである。
微睡の中で声が聞こえる……徐々に覚醒し薄っすらと目を開けると、アシェラの泣きそうな顔が飛び込んできた。
「んん?……アシェラか? どうした?」
「あ、アルド、ど、どうしよ……これ……」
寝ぼけながら答えるオレに対して、オロオロと狼狽えるアシェラの足元には、今現在ボタボタと水が滴り落ちている……
は? 何だ、これ……尋常じゃない水の量にオレは飛び起きた。
「た、たぶん、破水だと思う……でもこんな量……赤ちゃんが……」
「お、オリビア! 起きてくれ! あ、アシェラが破水した!」
破水した場合の対処も聞いてはいたが、何だこの量は……コップの水を零し続けるような……ボタボタと鳴り続ける音にオレは完全にパニックになっていた。
「お、オリビア、アシェラをベッドに寝かせてくれ。それとありったけの布を。お、オレは領主館に待機させてる医者を呼んでくる!」
「は、はい! アシェラ、ここに寝てください。ライラ! ライラも起きて下さい!! アシェラが破水しました! 手伝って下さい! 早く!」
そこからは家族総出でアシェラの出産に突入していったのである。
真冬だと言うのに、寝間着のまま裸足で領主館に向かったオレを、見張りの騎士は驚いた顔で見つめていた。
そんな騎士へオレは、一息に言い放つ。
「ローランド、ローランドを呼んでくれ! アシェラが、オレの妻が破水した! 直ぐに医者を!」
「は、はい!」
徐々に領主館の灯りが増えていく中、焦りだけが募っていく。
眠っていただろう医者がやってくるのに、幾ばくかの時間がかかるのは当然の事だ。
しかし、遅い、遅すぎる。焦れた心で時計を見ると、オレが領主館に着いてから5分も経ってはいなかった。
こんなに時間が経つのが遅いなんて……早く……あの羊水の量は……あのまま続くようなら、ほんの数分で枯れてしまう気がする……
1秒が何倍にも感じられる中、15分ほどでやっと医者を連れたローランドが現れた。
「は、早く! アシェラが破水して! 凄い量で! 子供が!」
狼狽するオレの姿を見て医者が最初に行った事は、オレに優しく話しかけてくる事だった。
「アルド様、落ち着いて下さい。大丈夫です。破水をして羊水が無くなるなんて事はありませんから。最初は驚くほどの量が出る事もありますが、直ぐに収まります。それより夫が不安そうな顔をする方が問題です。アルド様の仕事は、ドッシリと構えて優しい言葉で奥様を安心させる事ですよ」
「そ、そうなのか? オレはてっきり……」
「それより陣痛より先に破水した事は問題です。直ぐに向かいましょう」
「た、頼みます……付いて来てください」
医者は数人の看護婦を連れて、オレの後を付いて来る。
相変わらず気は急くが、「破水で羊水が無くなる事は無い」と言う言葉で、幾らか冷静になれた。
アシェラと子供の無事を思いながら、自宅までの僅かな道を急いだのである。
自宅に帰ってからは正に戦争だった。オリビアとライラは看護婦の指示により、お湯を沸かし家中の布をかき集めている。
元々準備をしてはあったが、細かな物から果てはロープまで運んでいく。
ロープなんて何に使うのかと思ったら、いきむ際に捕まるために使うのだとか。
そうして全員が忙しそうに動き回る中、ポツンと立ち尽くすだけのオレがいる。
え? オレ、何すれば良いの? え? え?
「お、オリビア、何か手伝う事は……」
「アルドはドシンと構えていてください。私はこれを運ばないといけないので……」
「ライラ、代わりに運ぶよ」
「大丈夫。アルド君は座っててほしい」
オレにも何かやる事は無いのか? そうは思うが、忙しそうな姿に声をかける事すら躊躇われてしまう。
どうしよ……1人ボケーっとしてるのは地味にクルんですが。
かと言って、オレの寝室は急遽 分娩室へと変わっているわけで……
結果、自室の前でウロウロと、腹を空かせたクマのように歩き回るしかできなかった。
(神様……あ、この世界では精霊様か……ってそれはアオの事だ……あー! 今はそんな事どうでも良いだろ! バカか、オレは! 誰でも良い、アシェラと子供を守ってください! お願いします!)
窓から覗く月へ必死に祈っていると、乱暴に我が家のノッカーの音が響き渡る。
一体 こんな夜更けに誰が?
そんな思いで扉を開けると、息を切らせたハルヴァとルーシェさん、グラン家当主のクリスさんが立っていた。
「皆さん、こんな夜更けに……どうして……」
「話は後よ。アルド君、アシェラの下へ案内して」
普段の少し緩い感じのルーシェさんとは違い、出来る女の雰囲気でそう告げてくる。
「は、はい。こっちです」
オレは言われるがまま、アシェラの下へルーシェさん一行を案内したのであった。
ルーシェさんとクリスさんが来て、既に3時間が過ぎている。
どうやら医者は別れたグラン家の分家らしく、クリスさん、ルーシェさん共に顔見知りであった。
まぁ、後から聞いた話では、開拓で忙しいクリスさんが、分家の方々へアシェラの事を頼んでくれたらしい。
3人は直ぐに状況を確かめ合って、これからの治療を相談していた。
皆が忙しそうに動き回る中、オレとハルヴァだけが手持無沙汰で立ち尽くしている。
「……アルド様、邪魔にならないよう、我々は隅に寄りましょうか」
「……そ、そうだな」
しかし、何故ハルヴァ達がここにいるのか……軽く話した所、開拓村まで知らせに行ってくれたのは、驚いた事にエルなのだそうだ。
殆ど着の身着のままで向かって、アシェラの破水を伝えてくれたらしい。
それからは一緒にブルーリングの街へ飛んできたのだが、「今は僕が行っても邪魔になりますから」と言って、同行を辞退したそうだ。
ハルヴァからは、「エルファス様のような方に導かれるブルーリングの民は幸せ者です」との言葉を貰った。
オレの自慢の弟だ。全くその通りだと思うので、しっかり頷いて返しておいた。
しかし、アシェラが破水して、そろそろ4時間近く経つ……空も白み始めており、一体いつ生まれるのか。
オリビアとライラも、当面やる事が無いのでリビングで休憩している。仮眠だけでも取るように言ったのだが、2人共「心配で眠れない」との事だ。
確かにこの空気の中、ノンビリ熟睡など出来るわけも無い。
オレとハルヴァはと言うと、部屋の外に椅子を置き言葉も無くジッと待ち続けるだけだ。
部屋からは徐々にアシェラの苦しそうな声が多くなってくる……何かをしたいのに、何も出来ない……無力感だけが募っていく。
それはハルヴァも同じなようで、祈るように両手を握りしめたまま微動だにしない。
そんな時間がどれほど経ったのだろう。外は完全に明るくなり、オリビアとライラも椅子を運んできてオレの隣に座っている。
そろそろ朝食の時間に差し掛かろうという頃、部屋の中から元気な赤ちゃんの泣き声が響き渡った。
一斉に立ち上がり、全員が扉を凝視している。
生まれたのか? アシェラは? 子供は無事なのか? 色々な事が浮かんでは消えていくが、この場には赤ちゃんが泣く声が聞こえてくるだけで、誰も口を開く者はいない。
そんな緊迫した空気を破るかのように、唐突に扉が開かれる。
オレの寝室から現れたのはルーシェさんであった。
疲れた様子ではあるものの、嬉しそうな顔で口を開く。
「アルド君、元気な女の子よ。入って」
「は、はい!」
「オリビアさんとライラさんもどうぞ」
「あ、は、はい!」
「はい!」
オレとオリビア、ライラが部屋に入ろうとした所で、ハルヴァの声が響く。
「る、ルーシェ、わ、私は……」
ルーシェさんはハルヴァを見て、少し困った顔をしながら口を開いた。
「ハルヴァ、まだ色々とやる事があるの。アナタはもう少し後ね」
「そ、そうか……分かった……」
ハルヴァは肩を落として項垂れるように椅子へ崩れていく。
「さぁ、アルド君、我が子との初めての対面よ。しっかりと見てあげて。それに、元気な子を産んだアシェラを褒めてあげてね」
「は、はい!」
ルーシェさんに促されるまま部屋に入ると、疲れ果てたアシェラの隣に赤ちゃんを抱いた看護婦が立っていた。
「どうぞ、アルド様。まだ首が座っていないので、首を腕で支えながら抱いてあげてください」
「あ、あぁ……」
赤ちゃんなら、日本でアニキの子供を何度か抱いた事がある。
そっと左腕を赤ちゃんの首の下へ滑り込ませ、右腕全体で抱き上げる……オレの子供……あぁ、何て小さくて儚いんだ……
せり上がってくる感情で、言葉がうまく出て来ない……こんな幸せを感じる事が出来るなんて……
感情が溢れるように、オレの視界がぼやけていく。
「ぐすっ……アシェラ、ありがとう……オレ、何て言ったら良いか……言葉が出て来ないや……」
「くすっ……名前、考えないと……」
改めて腕の中の赤ちゃんを見つめると、思わず言葉が沸き上がってくる。
「ああ、そうだ、そうだな……ありがとう、オレの下に生まれて来てくれて……ありがとう、元気で生まれてきてくれて……ありがとう、オレを父親にしてくれて……」
そう話すオレの目からは止めどなく涙が零れていく。
赤ちゃんを抱きながら泣き始めたオレを、全員が困った顔で眺めていたのだった。