9体験入学の生徒がやってきます➁
体験入学の生徒の対応をするのは、上司である車坂の役割だった。車坂は先ほどから、体験入学にやってきた生徒、紅犬史君と、その保護者の女性に簡単な説明をしている。三人は、衝立で仕切られた面談用スペースにいるため、中の様子をうかがうことはできない。
「では、一時間後にまた、犬史君のお迎えに来てください」
「わかりました。犬史、きちんと先生の言うことを聞いて、勉強するのよ」
「……。わかった」
保護者の女性が塾から立ち去ると、車坂が犬史君に優しく話しかける。
「今日は体験入学だから、気楽にやっていきましょう。これがうちで使っているテキストです。この紙を使って、問題を解いていきましょう」
車坂が犬史君を空いている席に案内する。そして、塾に置いてある予備のテキストと、ルーズリーフを机に置いた。犬史君は無言でイスに座り、持ってきた鞄から筆記用具を取り出す。
「おや、ずいぶんと使い込まれた鉛筆ですね。それでは書きにくいでしょう?塾の鉛筆を貸しますよ」
よく見ると、鉛筆は短くて、キャップをつけても書きにくいほどの短さだった。塾に入ってきたときから感じていたが、どうやら彼の家は貧困家庭らしい。犬史君は、学校指定のジャージを着ているが、新一年生だというのに、すでにくたびれて、使い込まれた感が満載のジャージだった。誰かのお下がりだろうか。
犬史君を塾に連れてきた女性も、顔はやつれ、髪も手入れが行き届いておらず、ぱさぱさとしていて、生活が困窮している様子がうかがえた。
「これでも字はかけるから問題はない」
「そうは言っても、書きやすい方が勉強するのに効率がいいですよ。何も、この鉛筆を捨てろと言っているわけではありません」
「朔夜先生、手が止まっていますよ。体験入学の生徒が気になるのはわかりますが、他の生徒のことも見てあげてください」
車坂と犬史君が会話しているのを見ながら、犬史君の生活を想像していた私は、翼君の声に我に返った。彼らに注意を向けるあまり、手が止まっていたらしい。
「す、すみません。ええと」
「朔夜先生って、案外面食いなんだね」
「案外でもないだろ」
「確かに、最初から知っていたよ」
私が犬史君を見ているのに気付いた三つ子も声をかけてきた。彼らはもうすぐ、塾の時間は終わりである。
「何かわからないところは?」
彼らに問いかけると、特にないから大丈夫と言われてしまった。生徒が塾の終わりの時刻になると、家での宿題を出すことになっているので、彼らに宿題を出すことにした。
宿題を三つ子に提示しながらも、ちらりと犬史君が座っている席を確認すると、おとなしく車坂の言うことを聞いて、真剣に課題に取り組んでいる犬史君の姿があった。
「先生、さようなら。翼先生の件は、また今後、詳しく聞くね」
「さよならー。翼先生、ごまかしはなしだよ」
「また次回―。僕も気になってたから、よろしくね」
海威君の別れ際の言葉に、残りの二人、陸玖君と宙良君も同じような言葉を翼君に投げかけた。
「それは……。考えておくよ。宿題を全問正解だったら、話してもいいかな」
翼君が困ったように言うと、三つ子は、全問正解は無理だとワイワイ騒ぎながら、塾から出ていった。彼らは三人仲良く、自転車で塾まで通っている。チャリンと自転車のベルが鳴る音が聞こえた。今日も仲良く自転車で帰宅することだろう。
「翼君、大丈夫で」
「とりあえず、仕事に集中しましょう。僕たちは塾講師としてここに来ているのですから」
私の言葉を遮り、ぱんと手を打ち鳴らし、気合を入れている翼君にかける言葉が見つからず、私も気合を入れて仕事に臨むことにした。
騒がしかった三つ子が塾から帰ると、途端に塾内は静かになった。特に授業中うるさいというわけではないが、彼らの存在感が大きいのだろうか。塾には犬史君を含めて4人の生徒が勉強していた。彼らに勉強を教えているうちに時間は過ぎていく。
「塾に一緒に来てくれた女の人は、犬史君のお母さんだよね。迎え遅いけど、仕事か何かしているのかな」
「……」
体験入学である犬史君が一時間の学習を終えるが、保護者である女性が迎えにくる気配がなかった。時計を見ても、すでに一時間を過ぎている。車坂が一時間後に迎えに来るよう伝えていたはずだ。迎えが来ないのはおかしいが、急用でもできたのだろうか。
「電話番号を聞いているけど、ここにかけてもいい?」
車坂が体験入学の際に記入してもらった連絡先指さして犬史君に尋ねる。塾側としては、時間を大幅に超える塾の滞在は認められていない。決められた時間、塾で学習することが決まりとなっている。電話を掛けるのは当然の判断と言えた。
「かけなくていい。ここから家は遠くないから、歩いて帰る」
犬史君は、まだテキストの問題を解いていた。しかし、車坂の電話をするという言葉に反応して、顔を上げた。電話を掛けられたくない事情があるのか、慌てて筆記用具を鞄に入れて、塾を出ようとした。
もちろん、そんなことを塾が許すはずはなく、車坂が慌てて止めに入った。
「ダメですよ。犬史君の保護者の方は、帰りは迎えにきますと言っていました。先生も迎えを頼みました。なので、一人で帰すことはできません。犬史君は電話をかけて欲しくない。さて、どうしましょうか?」
悩んでいるのは、彼だけではない。私も翼君も頭を抱えていた。一緒に塾にきた女性や犬史君の様子を見れば、普通の家庭よりも苦労を強いられていることはわかる。しかし、それと迎えに来られないことは関係がない。一時間後に迎えに来て欲しいと伝えたのだ。そして、彼女もそれに対して了承した。
「僕が犬史君を家まで送りましょうか?僕なら、問題はないでしょう?今日は塾に来る人は、時間的にこれ以上増えないですし」
打開策として、翼君が犬史君を家まで送り届けると申し出た。本来ならそんなことを許してはいけないのだが、電話してほしくないという犬史君の要望を聞くと、それがよさそうに思えた。
「塾側としては、よろしくない事案ですが、別に私には関係ないことですね。いいでしょう。宇佐美先生、彼を家まで送ってあげてください。塾のことは、私と朔夜先生が見ておきましょう」
「一人でかえれ」
翼君の申し出を車坂が許可したが、犬史君は不満があるようだった。しかし、車坂が無理やり反論を押し込めた。
「迎えに行きますと言っているのに、一人で帰すわけがないでしょう?それに、子どもがこんな夜中に一人で帰っては危険です。夜道には何がいるのかわからない。例えば死神とか、例えば幽霊とか、例えば性悪神様とか」
「それ、人間じゃない!そんなのいるわけがない!」
「本当にそうかな?犬史君が見たことがないだけで、世の中にはいるかもしれないよ」
車坂の話に便乗して、翼君もにやりと笑いながら言葉を続ける。普通の人が聞いたら呆れるような内容で、二人の話を犬史君は大声で否定する。
「まあ、今この場で証明はできないから、帰り道にでも証明してあげるよ」
「できるわけないだろ」
犬史君の注意を惹きながら、翼君は車坂と視線を交わす。翼君の言葉に興奮した犬史君は、一人で帰ることをすっかり忘れているようで、荷物を持って、翼君の方を向いて一緒に来るよう求めた。その間に、車坂はこっそりと受話器を持って、彼の保護者に連絡を入れていた。